久しぶりに自転車に跨がり、町の中を走った。二週間もまともに動いていなかったから、力が上手く入らない。おまけに本格的な暑さで、家を出てから五分も経たないうちに全身から汗が吹き出てきた。息が上がり、上り坂も途中で漕げなくなって自転車を押した。
こんな坂道、普段の俺なら上りきれるのに……。
体力が落ちたことに、俺は落胆した。
この刹那──ふと、空を見上げた。綿飴のような真っ白な雲が綺麗で、思わず見入ってしまう。
空は、どこまでも広い。この世界をまんべんなく覆っている。日本だけじゃなく、彼女の生まれた国や、俺の両親の故郷まで繋がっているんだ。
普段はただの背景としてしか映らない大空に対して、俺は感動していた。長いこと部屋にこもっていたせいかもな。
坂を上りきったところで、もう一度自転車に乗る。
ペダルを踏み込む前、俺はメッセージを確認してみた。アカネからの返信は……未だに来ていない。
アカネは大丈夫だろうか。事件当日はだいぶショックを受けていたし、その後連絡は何度かしたものの話は弾まなかった。電話の向こうで明るく話しているつもりだろうが、アカネの声はどこか暗く、無理しているのが伝わってきた。
でも俺は、あえて慰めるような言葉をかけることはせず、普段通り喋るよう心がけていた。なるべく、早く事件のことを忘れたいがために。
一生に一度も経験しないような出来事を経験してしまった俺たちは、このショックから立ち直る方法を闇雲に探し続けている。カウンセリングも受けたりしたが、心が癒されることはなかった。
明るくて元気が取り柄だったアカネでも、まだ外へ出る気力も出ないのだろう。俺だって、彼女に誘われなければ学校へ行こうだなんて考えもしなかった。
だから、アカネから返事が来るまではそっとしてあげた方がいいのかもしれない。
夏の生ぬるい風に当たりながら愛車を漕ぎ続けていると、やがて学校が見えてきた。校舎は二週間前となにも変わらずに佇んでいる。当然のことなのに「日常」を見た瞬間に、俺はなんだか不思議な気分になった。
校門を潜ったとき、時刻はすでに四時を回っていた。校庭から運動部のかけ声が聞こえてきて、校舎内からは吹奏楽部の奏でる音色が響いてきた。
あんなことがあった後も、村高の日常はなにも変わっていない。不思議な感覚になると共に、安心感が俺の心を包み込んだ。
自転車を駐輪場に停め、俺は彼女との待ち合わせ場所へと向かう。校内で初めて彼女と会話を交わした、あの食堂前のベンチで会う約束をしているんだ。
校内へ足を踏み入れたとき、思ったよりも緊張はしなかった。でも、まだクラスメイトや担任に会う勇気はない。
あの事件に関しての噂は、すぐに広まったらしい。村高の生徒が被害に遭ったこと。それが誰なのかは公表されていないものの、俺もアカネも彼女もずっと休んでいるから、勘づいている人は少なからずいるだろう。
無論、教師たちの間では情報共有がされている。なんとなく先生たちと会うのは気が引けた。
別に俺たちが悪いわけじゃないんだけどな。話を根掘り葉掘り聞かれることもないだろう。けれど、腫れ物として扱われるかもしれないし、なにを思われるかもわからないし、それはそれで億劫なんだ。
極力誰とも会わないように、人通りが少ない道を選んで歩いていく。遠回りになってしまうが、仕方がない。
その途中に、体育館裏を通りかかった。今日もひと気が全くない場所。
けれど、このときだけは静けさなんて程遠い場所となっていた。男たちの、低い雄叫びのようなものが体育館の中から聞こえてきたからだ。
思わず足を止め、俺は小窓からそっと館内を覗いてみた。
そこには、厳しい顔をして指導するガチ鬼の姿があった。柔道着を纏っていて、帯は紅白色だった。
そういえば、ガチ鬼って柔道部の顧問だったんだっけな。
視線をずらしてみると、その先には──リュウジさんもいた。
今まさに稽古中だったようで、リュウジさんは他の部員たちと一緒に打ち込みの練習をしていた。
その目は真剣そのもの。ときには相手を華麗に投げ、そして投げられるときは綺麗に受け身を取る。
ガチ鬼の指示で何度も同じように技の練習をし、体育館の中は熱気で溢れていた。
俺はその光景に、固唾を呑み込む。
リュウジさんが柔道をはじめたきっかけは、彼女を守るためだ。額に汗を流し、懸命に稽古をする彼の姿に胸を打たれた。
なんて、かっこいいんだろう。
リュウジさんが彼女を守りたいと思う気持ちは本物だ。
なのに、俺ときたら。「思う」だけで、彼のようになにも行動に移せていない。こんなじゃダメなんだよって、思っているのに。
リュウジさんが柔道に打ち込む姿を初めて目にして、俺の中である決意が漲る。
きっかけは、近くにあるものなんだ──
俺が一人立ち尽くしていると、背後から、ふと人の気配がした。足音が、ゆっくりと近づいてくる。
ハッとして振り返ると、俺の心臓はまたもや跳ね上がった。
「イヴァン」
俺の名を呼ぶ、透き通った声。その声の主は、いつも冷たい目をしているのに、今日は、今日だけは違った。温和な眼差しを向けて、俺に微笑んでくれるんだ。
その顔を見ただけで、俺の頬は綻ぶ。
「サエさん」
大好きな人が目の前にいる。会いたかった人に会えた。
俺の心の中に、光が差し込んだ。
こんな坂道、普段の俺なら上りきれるのに……。
体力が落ちたことに、俺は落胆した。
この刹那──ふと、空を見上げた。綿飴のような真っ白な雲が綺麗で、思わず見入ってしまう。
空は、どこまでも広い。この世界をまんべんなく覆っている。日本だけじゃなく、彼女の生まれた国や、俺の両親の故郷まで繋がっているんだ。
普段はただの背景としてしか映らない大空に対して、俺は感動していた。長いこと部屋にこもっていたせいかもな。
坂を上りきったところで、もう一度自転車に乗る。
ペダルを踏み込む前、俺はメッセージを確認してみた。アカネからの返信は……未だに来ていない。
アカネは大丈夫だろうか。事件当日はだいぶショックを受けていたし、その後連絡は何度かしたものの話は弾まなかった。電話の向こうで明るく話しているつもりだろうが、アカネの声はどこか暗く、無理しているのが伝わってきた。
でも俺は、あえて慰めるような言葉をかけることはせず、普段通り喋るよう心がけていた。なるべく、早く事件のことを忘れたいがために。
一生に一度も経験しないような出来事を経験してしまった俺たちは、このショックから立ち直る方法を闇雲に探し続けている。カウンセリングも受けたりしたが、心が癒されることはなかった。
明るくて元気が取り柄だったアカネでも、まだ外へ出る気力も出ないのだろう。俺だって、彼女に誘われなければ学校へ行こうだなんて考えもしなかった。
だから、アカネから返事が来るまではそっとしてあげた方がいいのかもしれない。
夏の生ぬるい風に当たりながら愛車を漕ぎ続けていると、やがて学校が見えてきた。校舎は二週間前となにも変わらずに佇んでいる。当然のことなのに「日常」を見た瞬間に、俺はなんだか不思議な気分になった。
校門を潜ったとき、時刻はすでに四時を回っていた。校庭から運動部のかけ声が聞こえてきて、校舎内からは吹奏楽部の奏でる音色が響いてきた。
あんなことがあった後も、村高の日常はなにも変わっていない。不思議な感覚になると共に、安心感が俺の心を包み込んだ。
自転車を駐輪場に停め、俺は彼女との待ち合わせ場所へと向かう。校内で初めて彼女と会話を交わした、あの食堂前のベンチで会う約束をしているんだ。
校内へ足を踏み入れたとき、思ったよりも緊張はしなかった。でも、まだクラスメイトや担任に会う勇気はない。
あの事件に関しての噂は、すぐに広まったらしい。村高の生徒が被害に遭ったこと。それが誰なのかは公表されていないものの、俺もアカネも彼女もずっと休んでいるから、勘づいている人は少なからずいるだろう。
無論、教師たちの間では情報共有がされている。なんとなく先生たちと会うのは気が引けた。
別に俺たちが悪いわけじゃないんだけどな。話を根掘り葉掘り聞かれることもないだろう。けれど、腫れ物として扱われるかもしれないし、なにを思われるかもわからないし、それはそれで億劫なんだ。
極力誰とも会わないように、人通りが少ない道を選んで歩いていく。遠回りになってしまうが、仕方がない。
その途中に、体育館裏を通りかかった。今日もひと気が全くない場所。
けれど、このときだけは静けさなんて程遠い場所となっていた。男たちの、低い雄叫びのようなものが体育館の中から聞こえてきたからだ。
思わず足を止め、俺は小窓からそっと館内を覗いてみた。
そこには、厳しい顔をして指導するガチ鬼の姿があった。柔道着を纏っていて、帯は紅白色だった。
そういえば、ガチ鬼って柔道部の顧問だったんだっけな。
視線をずらしてみると、その先には──リュウジさんもいた。
今まさに稽古中だったようで、リュウジさんは他の部員たちと一緒に打ち込みの練習をしていた。
その目は真剣そのもの。ときには相手を華麗に投げ、そして投げられるときは綺麗に受け身を取る。
ガチ鬼の指示で何度も同じように技の練習をし、体育館の中は熱気で溢れていた。
俺はその光景に、固唾を呑み込む。
リュウジさんが柔道をはじめたきっかけは、彼女を守るためだ。額に汗を流し、懸命に稽古をする彼の姿に胸を打たれた。
なんて、かっこいいんだろう。
リュウジさんが彼女を守りたいと思う気持ちは本物だ。
なのに、俺ときたら。「思う」だけで、彼のようになにも行動に移せていない。こんなじゃダメなんだよって、思っているのに。
リュウジさんが柔道に打ち込む姿を初めて目にして、俺の中である決意が漲る。
きっかけは、近くにあるものなんだ──
俺が一人立ち尽くしていると、背後から、ふと人の気配がした。足音が、ゆっくりと近づいてくる。
ハッとして振り返ると、俺の心臓はまたもや跳ね上がった。
「イヴァン」
俺の名を呼ぶ、透き通った声。その声の主は、いつも冷たい目をしているのに、今日は、今日だけは違った。温和な眼差しを向けて、俺に微笑んでくれるんだ。
その顔を見ただけで、俺の頬は綻ぶ。
「サエさん」
大好きな人が目の前にいる。会いたかった人に会えた。
俺の心の中に、光が差し込んだ。