事件から二週間が過ぎた。あの日以降、俺は休学している。ほとんど外出もできていない。期末テストだって未だに受けていない教科がある。思った以上に心身に疲労が溜まっていて、なんにも手につかないんだ。
 それはアカネも同じで、俺たちはオンライン授業すら参加できない状態だった。
 学校側には事情を説明してあるので、俺たちは後日テストを受けさせてもらえることになった。さらに特別処置として、欠席した分は夏休みを返上して補習授業を受ければ単位を取得できるとのこと。とにかく今は休むよう、学校から言われている。
 けれど、一日中部屋にこもっていると逆に気が滅入ってしまう。かと言って、外出する余裕もない。身なりを整える気力がなく、髭も剃らず眉も整えず、髪はボサボサで赤色が以前よりくすんで見えた。

 こんな俺を心配した母が、せめてベランダに出てみなさいと勧めてきた。外の空気を吸うだけでも気分転換になる、とも付け加えて。
 ボケッとした頭でも母の言うことに納得し、フラフラした足でベランダへ出た。

 俺が引きこもっている間に、外の季節は変わったように思う。青空が広がり、太陽が輝き、近くの公園からはセミの大合唱が聞こえてきた。
 いつの間にか、梅雨が明けたらしい。相変わらず天気予報を見ないから、夏になっていたのを俺は今この瞬間に知った。

 自宅マンションのベランダには、母の育てた色とりどりの花々が飾られている。細かい花びらをたくさん咲かせる赤い花や、ピンクと赤の混じった美しい花など、名前の知らない植物たちが仲良く並んでいた。
 その片隅に──青い薔薇が一輪だけ咲いているのが目についた。
 日陰に隠れるようにポツンと植えられた薔薇は、どこか元気がない。けれど、懸命に花を咲かせているんだ。

「……サエさん」

 サファイアのように美しい花びらを目にして、たちまち彼女の顔を思い出す。

 事件以降、俺は何度か彼女にメッセージを送った。
 返信はこない。パンダの絵文字だけでもいいから送り返してほしかった。
 彼女は今どうしているだろう。傷の具合はどうなったかな。家でゆっくり休めているか? まさか勉強なんてしてないだろうな?
 考え出すと、止まらなくなる。気になって気になって、どうしようもなくなる。
 俺の手は自然とスマートフォンに手が伸びていく。彼女の連絡先を開き、躊躇することなく通話ボタンをタップした。
 彼女は、俺が電話をすればほぼ毎回答えてくれる。声を聞かせてくれる。

 ──ほら、今日も。

 無機質な呼び出し音が数回鳴ったあと、俺の耳に届いたのは透き通った声だった。

『イヴァン』

 電話の向こうで、俺の名を呼ぶ彼女。心臓が、早鐘を打ちはじめる。
 今の今まで生気を失ったように気持ちが沈んでいたのに、まるで光が差すように心が晴れやかになった。

「声が聞けて嬉しいよ、サエさん」
『……私も。ずっと、あなたに電話しようと思っていたの』

 返信できなくてごめんね、と謝罪をする彼女だったが、俺にとっては大した問題じゃない。
 単純に、嬉しかった。彼女の声が聞けただけで、安心できた。でもそれと同時に、心の奥が痛くなった。
 事件発生時になにもしてあげられなかったことを、俺はひどく後悔しているからだ。

「サエさん。体の具合は、どうだ?」
『もう平気。抜糸も済んだし、傷は塞がった。普通に動けるようにもなったの』
「……それならよかった」

 体の傷が塞がっても、彼女の心はきっとまだ傷ついている。俺でさえ立ち直れていないのだから。

「今は、家にいるのか?」
『ええ。ずっと学校に行ってないのよね。行く気になれなくて』
「そっか……それは、そうだよな。実は俺もアカネもまだ登校できてないんだ。早いとこ残りのテストも受けないとヤバいんだけどなー」

 空笑いをしてみせるが、不自然なほど乾いた声が出てしまった。
 こんな状況では、彼女を誘い出すなんてできない。俺のわがままを言うわけにはいかない。
 まだまだ安息が必要だ。
 今から会わないか? という誘い文句を俺は必死に喉の奥にしまいこむ。だが、俺の我慢を打ち破るように、彼女はこんなことを言い出すんだ。

『ねえ、イヴァン。今から学校に行かない?』
「……なんだって?」
『私たち、あの日から三人とも登校できてないでしょう? きっかけがないと、立ち直れないかもしれない。無理やり機会を作って、外に出ないとダメな気がして』

 彼女にしては、ずいぶんと前向きな提案だった。

『あなたのお友だち……アカネだっけ? 彼女も誘ってみて。もちろん、無理にとは言わない。イヴァンもまだ外に出る気がなければ、私の誘いを断ってくれても構わないわ。私なんて一ヶ月も学校に行けてないから、そろそろ区切りをつけたいの。今日学校に行ってみて、自分の気持ちを整理したい』

 彼女は柔らかい口調でありながらも力強くそう言った。
 断る理由なんてない。俺は、オーバーなほど頷き、彼女と学校で会う約束を交わした。

 通話を終えた後、俺は急いで出かける準備をはじめる。善は急げだ。
 支度しながらアカネにメッセージを送った。『今から村高集合。ただし、無理は禁物』とひとことだけ。
 返事を待ちながら顔を洗い、髭を剃り、眉を整え、髪をセットした。二週間ぶりに制服のワイシャツを着て、自転車の鍵を手に持つ。
 彼女は、閉じこもっていた殻から抜け出そうとしている。だったら俺もいつまでもこのままじゃいけない。
 きっかけを作ってくれた彼女に、俺はまた心を救われている。