桜木町駅から徒歩五分ほどの距離にある細道。ひと気が全くといっていいほどない場所。
 降りしきる雨に濡れた地面が、赤黒色に染まった。
 俺の目の前には、涙目になってなにかを叫ぶアカネ。その叫び声から逃げるように走り去っていく、刃物を持った女。
 そして、胸元から真っ赤な血を流して倒れる彼女の姿。

 ──午後二時三十八分。桜木町駅付近の路上で、通り魔事件が発生した。被害者は、横浜市内の高校に通う十六歳の女性。現場には同じ高校に通う十五歳の男女がいた。
 女性を襲った犯人は、この近辺に住む無職の女。すぐに現場から逃走したが、通行人に通報され、駆けつけた警察によって現行犯逮捕された──
 このニュースは速報として大々的に報じられた。

 犯人は、俺の働くマニーカフェに常連客として訪れていた、あのOL風の女性だったんだ──



 突然すぎる出来事で、頭が混乱している。一体なにが起きたのか。どうしてこんなことになったのか。誰に聞いてもまともな答えなど返ってこない。
 俺は、ただただ茫然とするばかり。

 血まみれになった彼女は、緊急搬送された。現場に居合わせた俺とアカネも一緒に救急車に乗り込み、病院へと向かう。
 搬送中、彼女は意識があったものの、夥しい量の血を流していた。救急隊員の人たちに応急処置をしてもらっても、出血が止まらず苦しんでいた。
 救急隊員の人が彼女の名前や年齢、誕生日などを聞いてきたが、俺は上手く答えることができなかった。
 歯を食いしばり、彼女が震えながら質問に答える。
 俺は唖然と、その様子を眺めることしかできなかった。

 間もなくして病院へ到着すると、彼女はすぐさま止血処置を取るために手術室へと運ばれた。苦しむ彼女に対して、俺はひとことも声を掛けられなかった。
 慌ただしく看護師や医師が室内を出入りしている前で、俺は突っ立っているだけ。なにかしたいのに、なんにもできない。
 なんて、無力なのだろう。

 きっと、悪夢を見ているんだ。
 俺はたったさっきまで、彼女と一緒に肩を並べて帰り道を歩いていたはずだ。胸をときめかせながら電車に乗って、彼女と共に桜木町駅に降りた。幸せな時間を過ごしていたはずなんだ。
 それなのに、なんだよこれ。どうしてこんな事態になっているんだ?

「イヴァンくん。ごめん……あたしのせいで」

 閉ざされた手術室の扉を見つめるアカネは、大粒の涙を流していた。体が大きく震え、ふらついてしまうほど脱力しているようだ。

「謝るなよ。アカネだって怖い思いをしたんだ」
「でも、あたしのせいで、サエさんが……」
「違う。アカネのせいじゃない」

 アカネをソファに座らせて、俺も隣に腰かける。
 正直、俺も気が動転しているが、ここで取り乱してはダメだ。

 アカネの涙を拭いてやろうとポケットからハンカチを取り出す。彼女に返そうと思っていつまでも持っている、パンダの白いハンカチ。それが、いつの間にか赤くなってしまっていた。 
 これは──彼女のものだ。
 もう、使い物にならない。これでは弁償するしかない。
 なんで、こんなことになってしまったんだ。何度も何度も同じ疑問が頭の中で繰り返している。

 気づけば、俺のズボンもどす黒く染まっている。つんと鼻を刺すような鉄の匂いが、先ほど起きた恐怖を煽ってくるみたいだった。

 たちまち俺は「事件」の光景を思い出す──

 桜木町駅を降りて彼女の家に向かう途中、ひと気のない小道から女の絶叫が聞こえてきた。それは汚い言葉ばかりで、聞くに堪えない内容だった。
 驚いた俺たちは、叫び声がする方を反射的に覗き込んだ。
 するとそこには、下品な笑い声を上げながら刃物を振り回す女がいた。誰かに向かって怒号を投げつけていて、見るからに狂気に満ちている。
 女の視線の先を見やると、そこには、真っ青な顔で立ち尽くすアカネがいたんだ。

 ──あの光景を思い出しただけで、俺の体は強張ってしまう。
 襲われていたアカネの気持ちを考えると、いたたまれなくなる。

 ソファに座って俯くアカネは、手で涙を拭っている。けれど、いくら拭っても、溢れるものが止まることはない。俺は、ポケットティッシュをアカネに差し出した。それでも恐怖を抑えることができない。

「あたし……マニーカフェで、勉強してたの」

 声を絞り出すように、アカネは話し出した。
 無理して話さなくてもいい、と俺が言っても、アカネは首を横に振って喋り続けるんだ。

「知らない女の人が、あたしの横に来て……急に『邪魔』って言ってきたの。びっくりして、怖かったから……あたし、勉強をやめて、店を出たんだ。その女の人ね、なぜかあたしのあとを付けてきて……」

 アカネの話を聞いているうちに、俺も動悸がした。
 嗚咽を漏らすアカネの肩をそっと支え、俺は静かに相槌を打つ。

「走って逃げようとしたら、あたし転んじゃって……。そしたら、あの女の人、鞄からいきなり刃物を出してあたしに向けてきたの。ずっと暴言を吐かれて、あのまま殺されるって思った。体が動かなくなって、どうしようもなかったときに、イヴァンくんとサエさんが通りかかったんだよ」

 なんというタイミングなんだ。あの瞬間にあの場所に俺と彼女が通りかかったことによって、アカネは助かった。そして──

「あたし、サエさんがいてくれなかったら、絶対に死んでた。だけど……そのせいで、サエさんが……」

 いち早く判断を下し、行動に移したのは彼女だったんだ。刃物を振り回す女に向かって走り出し、取り押さえようとした。しかし興奮した刃物女は、抵抗してきた。
 その反動で、彼女の胸元に刃先が当たり──

「サエさんが、大怪我しちゃった……。あたしを守ろうとして、サエさんは……!」
「もういいよ。アカネ。なにも言うな。自分を責めるのもやめるんだ」

 アカネが大声で泣き叫ぶ声が、病院内に響き渡った。
 今この場には、俺たち以外誰もいない。存分に、泣いていい。それでアカネの心が晴れることはないだろうけど、我慢することはない。

 ──彼女は、優しすぎた。他人にも手を差し伸べる、思いやりのある人。そして、勇敢すぎる女性だったんだ。
 彼女は、自分の危険をも顧みず刃物女からアカネを守った。
 それなのに俺は、なぜ彼女を止められなかった? どうして刃物女からアカネを守れなかった?
 刃物女を前にしたとき、俺の体は完全に硬直してしまった。頭が真っ白になって、なんにもできなかった。
 悔しい。悔しい。悔しくてたまらない。
 決して泣き叫ぶことはしないが、俺の心は泣き叫んでいる。
 俺は、大切な人を守ることすら出来ないのか。


 ──それから、何分、何十分が経ったのだろう。アカネは次第に落ち着つきを取り戻していった。
 静寂の時間が訪れる。
 一切の会話も交わさず、俺たちは彼女の手術が終わるのを待ち続けた。

「涵涵!」

 静まり返った空間に、突如として焦ったような叫び声が響いた。
 振り向いた先には、息を切らせてこちらを見る中年女性の姿。その隣に、スラッと背の高い男性もいる。二人は困惑した表情を浮かべていた。
 二人とも見知らぬ人たちだが、俺は彼らの雰囲気を見てなんとなく察した。

 この人たちは、彼女のご両親に違いない。