通称名ってあれだよな。日本に住む外国人が日本国内で名乗れるもの。役所で登録すれば学校や会社だけじゃなく、住民票や保険証、免許証などでも使える名前だ。俺はこんな見た目だし、通称名を使ったところでメリットもとくになさそうなので登録もしていないが。

 彼女はうつむき加減になり、声を震わせる。

「私には、中国の血が混じっているのよ。ママは中国人で、パパが日本人。私が生まれた場所は上海で、人生の半分以上は向こうで過ごしてきた。高校を卒業してからは、たぶん向こうに帰ると思う」
「……そう、だったのか?」
 
 ──初めて聞いた話だった。
 彼女のルーツに関してとくに驚きはない。国籍がどうとかも大きな問題じゃない。ただ、俺は彼女についてなにひとつ知らなかった。知らなすぎると痛感させられた。

「サエさんは、なにに迷っているんだ?」

 ──教えてほしい。君のことを。俺は君の悩みや苦しみに、目を逸らしてきた。知りたくなかったから。怖かったから。
 だけど、それじゃダメなんだ。俺は君のことが知りたい。話を聞くのは怖いけれど、聞いたら俺自身ももっと心が痛くなるかもしれないけれど……。
 なにも知らないままじゃ、支えられない。助けたくても助けられない。守りたいのに守れない。
 そんなのは、嫌だ。それが一番辛いんだと、やっとわかった。

 俺は彼女の後ろ姿から目を離すことなく、耳を傾ける。
 すると、彼女は静かに口を開くんだ。

「……自分が何者であるべきか、わからないのよ」

 彼女の声は、やはり沈んでいた。

「私は日本に住んでいても、日本人として認めてもらえない」
「いや……そんなことないだろ?」
「単純な話じゃないのよ。私は……日本に住みはじめてから、他人から『中国へ帰れ』と言われたことが何度もあるの」

 なんだよ、それ。酷いことを言う奴がいるもんだな。
 
「私って日本に住んじゃいけないの?と、何度も悩んだわ。でもね、いつの間にか悟ったの。私は完全な日本人じゃない。中国で生まれたとき、日本の国籍は留保状態にされたから。両国とも二重国籍は認めていないのよ。あと数年で、私はどちらの国の人間になるのかを決めなきゃいけなくて──」

 彼女は早口で説明しているが、そんな難しい話をされても正直俺にはあまり理解できない。
 そもそも、彼女は俺に言ってくれたじゃないか。俺が自分自身の存在について悩んでいるとき、彼女は「気にするな」と言ってくれた。国籍なんて関係なく、俺を俺として見てくれた彼女の言葉に救われたのに。

 だけど、今の彼女はどうだ?
「日本人として認めてもらえない」「どちらの国の人間になるかを決めなきゃいけない」「自分が何者であるべきか、わからないの」だって?
 彼女自身が『自らのアイデンティティ』について一番悩み、気にしてしまっているではないか。

 そんなの、おかしい。

 俺は大きく首を横に振った。俺を慰めてくれたあの言葉は、嘘ではないと信じたかった。

「サエさんは、なにをそんなに悲観的になってるんだ? 国籍を選ばなきゃいけないことに悩んでいるのか?」
「……そうよ」
「どうしてだよ。国籍も人種も関係ないって、俺に教えてくれたじゃないか。忘れたのか?」
「忘れてない。忘れてないわよ。でも……どんなに気にしないようにしていても、それは解決にはならないの。だって、周りが許してくれないもの。私が『玉木サエ』であることをやめたとき、一生この国で暮らせなくなる」
「は? なんでそうなる?」   
「だって私は中国人だから。みんなに嫌われるの。友だちもできない。酷いことをしてくる人たちがいる。だから私は、みんなが怖い。本当は、仲良くしたかった。友だちになりたかった。私が本当の中国人になったら、もっと嫌われちゃう……!」

 彼女の悲痛な心の訴えは、俺の胸を苦しめた。
 いつも冷めた顔をして、一人でも平気な振りをしていた彼女が、初めて口にした胸中の叫び。彼女の苦悩を、俺はわかっていなかった。

 でも──だからこそ、今ここで彼女の心を癒したいと強く思った。
 俺の想いを伝えるべきだ。言葉と「心」で伝えたい。行動で示して、伝えたいんだ。

 俺はおもむろに彼女の後ろに立った。震える肩に手を添え、そして、ゆっくりと彼女の体を抱き寄せた──
 いつも寂しさを醸す小さなその背中は、とても冷たい。

「俺は、嫌いにならないよ」

 冷たければ、俺のぬくもりを分ければいいんだ。

「どんな事情があっても、関係ない。俺はサエさんのことが、好きだ」