久々に見た。彼女の姿を。
 胸が熱くなる。心が痛くなる。
 最後に会ったときと比べて、明らかに彼女はやつれていた。力なく立ち尽くし、ハッと目を見開いてこちらを振り向くんだ。

「……イヴァン。どうして」

 悲しそうな瞳。
 俺は一歩二歩彼女のそばに歩み寄る。今すぐにでも抱き締めたかった。けれど、それは許されない。してはいけない。
 必死に感情を抑えて、あくまでも冷静に言葉を綴る。

「ずっと会いたかったよ。サエさん、俺の連絡は無視するし、学校でも会えないし、マニーカフェにも来てくれないし」

 わざと明るく振る舞ってみるものの、俺の顔はあり得ないくらい引きつっているだろう。
 彼女は首を横に振って、顔を背けてしまう。その後ろ姿は、これまでにないほど悲しみに支配されていた。

「私と関わらないでって、言ったでしょ……?」
「ごめん。そう言われても、俺はこれからもサエさんと仲良くしたいんだ」
「……迷惑よ。放っておいて」
「嫌だ。放っておけない」
「だから、やめてって言ってるの!」

 唐突に、彼女が叫んだ。誰もいない廊下の向こう側まで、その声が反響する。

「私はみんなに嫌われてる。私と仲良くしていたら、あなたが目をつけられるの。なにをされるかわからないのよ!」

 怒号に近い口調で、彼女はそう訴えてくる。

 ──リュウジさんの言った通りだった。彼女は、他人と関わることに怯えている。
 震える彼女の背中を見ていると、俺まで苦しくなった。

「サエさんは優しすぎるんだよ」
「どこが? 私はみんなを無視する冷たい女なのよ」
「それは違う、違うよ。サエさんの気持ちを考えると、ただの冷たい人だなんて思いたくない」
「なに言うの……」
「サエさんは俺を巻き込みたくなくて、独りになろうとしてるんだろ? だけど、見てて辛いよ。サエさんは、いつも寂しそうだから」
「……そんなことない。私は、独りでも大丈夫」
「大丈夫じゃない。俺が(・・)大丈夫じゃないんだよ」

 強めの口調で、俺は自分の気持ちを伝えていく。
 いい機会だ。どれだけ俺が強情な男なのか、思い知らせてやる。

「さんざん伝えたはずだろ。俺はこれからもサエさんと仲良くしたいって」
「……なんで、あなたはそこまでしつこいの?」
「忘れたか? 俺は諦めの悪い男なんだ。一回フられたくらいでへこたれないぜ」

 わざとふざけたような言いかたをしてみた。今言ったことは、全部俺の正直な気持ちには変わりない。
 更に追い討ちをかけるため、俺は容赦なく続けた。

「俺だけじゃない。他にも、サエさんと仲良くしたいって思ってる人がいる」
「……そんなわけないでしょう」
「そんなわけあるんだな、これが。ずーっと近くにいるのに、遠くでサエさんを見守ってる人がいるんだよ。その人も、サエさんのことをすごく気にかけているんだ」

 俺は、あえて彼の──リュウジさんの名前は出さなかった。リュウジさんから聞いたことは、彼女に言わないと約束したから。俺はなにも聞いていないふりをしないといけないから。
 けれど「遠くで見守ってる人」が誰なのか、彼女はきっとわかっている。うつむき加減になると、小さく呟いた。

「……イヴァンは、彼を知ってるの?」

 俺は無言で頷いた。彼女は後ろを向いたままで、決してこちらを振り向かない。

 束の間、俺たちの間に静寂が流れる。窓の外から雨音が聞こえてきた。
 切なくて、冷たくて、寂しい時間。

 この沈黙を先に破ったのは、彼女の方だった。
  
「私の本当の名前……サエじゃないの」

 ──彼女は突然、そう打ち明けた。
 しかし俺は、言われたことの意味を理解することができなかった。
 
 本当の名前じゃない? なんだそれ。
 首をひねる俺の疑問に答えるように、彼女は早口で説明をはじめた。

「玉木サエは『通称名』よ。日本でしか名乗れない。私の本当の名前は、姜子涵なの」
「え? キョウ シカン……?」

 あまりにも馴染みがない名前に、俺は唖然とした。
 キョウさん? 彼女がキョウさん? それは一体、どういうことだ?