俺の言葉を聞いた彼女は、目を見開く。なぜか、悲しげな声で

「私に、優しくしないで」

 そう言った。

「……どうして?」
「私は、あなたになにもしてあげられてないし」
「そんなことないよ。マニーカフェでも身だしなみチェックの日にも助けてくれたじゃないか」
「あんなの大したことじゃない。私の方が、あなたに救われたのよ」

 俺に救われた……って。
 このひとことが、俺の中に強烈に響く。
 もしかして、それって。

 俺の脳裏に『あの日』のことがよぎる──
 四月。あれは、俺が入学して間もない頃の出来事だ。
 最終下校時刻を過ぎた学校の屋上で、彼女は身を投げ出そうとしていた。
 信じられない光景を前に、俺は内心とても焦っていた。
 彼女が飛び降りてしまったらどうしよう。どうしたら止められるのだろう。
 あの場で俺が狼狽えたら終わりだと思った。だから、表向きは冷静な振る舞いをした。心臓はバクバク言ってうるさかったのに。
 彼女の足もとには、綺麗に並べられた靴と数通の手紙のようなものが置かれていた。風のせいで手紙の一枚がめくれていて、俺はふとその内容の一部を読んでしまった。
 彼女が綴ったであろうあの手紙──おそらく遺書──は日本語と中国語で書かれていた。
 生きていることに対する苦痛。それに悩み。そして戸惑い。
 
『家にも学校にも居場所がない』
『人と関わるのが怖い』
『自分の未来すらも親に決められる』
『私は自分が誰であるかわからない』

 全文を読んだわけじゃないが、それらの文言を俺は今でも忘れられずにいる。
 居場所がない。人と関わるのが怖い──これらに関しては、なんとなく思い当たる節があった。
 彼女の周りにいるクラスメイトたちの反応や、さっきイングリッシュローズの庭で鉢合わせたチア部の女たちの態度。彼女を見下すようなあの言いかたと目つきが忘れられない。
 しかも、アカネまでこんな話をしていた。

『サエさんの方からみんなを避けてるみたい』
『誰かに話しかけられても、大抵は無視して他人と関わろうとしないんだって』

 ……もしかして、他人と関わるのが怖いから? だから周囲の人間を避けているのか?
 どちらにせよ、事情は彼女本人からも聞かなければ。
 
 俺ならば、彼女の苦悩を解消してあげられるかもしれない。
 人間関係に悩んでいるはずの彼女が、俺とは関わりを持ってくれている。俺にだったら全てを打ち明けてくれるに違いない。
 そう思っている俺は、完全に自惚れていた。

「なあ、サエさん」
「なに?」
「悩みがかあるんだろ?」
「……え?」

 彼女の声が、低くなった。
 あくまで俺は、穏やかな口調を心がける。

「俺はまだ、サエさんを完全に救えてないよ。だって、問題は解決してないんだから」
「なに言い出すの、イヴァン」
「わかってるよ。サエさんは寂しそうにしてるから。校内で見かけても、いつも一人でいるだろ。二年生の間でなにがあったか知らないけど……俺はサエさんの支えになりたいんだ。だから、辛いことがあったら抱え込まないで、俺に話してほしい」

 つかの間の沈黙。
 彼女は目を伏せた。拳を握りしめると、小さく首を横に振る。

「あなたには、関係ない」
「そんなこと言うなよ」
「とんだおせっかいね。どうして私があなたに悩みを言わなくちゃいけないの?」
「いや、だから。俺はサエさんの支えになりたいんだよ」
「いらない。そんなの、私は望んでない」

 彼女は声を荒らげた。鋭い目つきでこちらを見て、語尾を強くした。

「やっぱり、同情してるのね」
「してないよ。できないし」
「だったらなんなのよっ?」
「だって、サエさんには二度と同じことしてほしくないから」
「は?」
「初めて会った日……サエさん、屋上でとんでもないことしようとしてただろ? 俺、あのとき見ちゃったんだよ。手紙の内容」
「え……まさか。遺書を……?」

 声を震わせる彼女は、信じられないといった表情に変わる。
 やっぱり。あれは、遺書だったんだ。

「あれには、サエさんの苦しみが綴られてた。全部は読んでないけど……充分、辛さが伝わってきたよ。だから」
「やめて!」

 彼女は顔を真っ赤に染め、俺から体を背けた。
 肩で息をしていて、見るからに冷静じゃない。

「もう、私のことは放っておいてよ」
「そんなの無理だよ。友だちだろ」
「勘違いしないで、イヴァン。私とあなたは、他人よ。あなたがしつこく話しかけてくるから、私はそれに答えてただけ」
「それ、本気で言ってるのか?」
「……ええ。本気よ」

 彼女は冷たい声で、はっきりと言い放った。

「だからもう、私と関わらないで」

 冷淡な言葉の数々を聞いた瞬間、俺は息が止まりそうになった。
 彼女の目は、本気だ。

「邪魔して悪かったわね。もう帰るわ」
「え……? なに言ってるんだ。今は帰れないだろ?」
「風邪を引いたって電話して、親に迎えに来てもらうわ。あなたと出掛けたことを言わなければいいだけだし」
「……そんな。服も濡れたままなのに」
「だから早く迎えに来てもらうの」

 彼女は俺の手を振りほどくと、おもむろに立ち上がった。力なく立つ彼女は、さっきよりも体調が悪そうだ。

「待ってくれ」

 部屋を出ていこうとする彼女のあとを追い、俺もさっと立ち上がる。だけど、彼女はそそくさと玄関まで行ってしまう。

「せめて、休んでから帰らないか」
「お願い。これ以上、私に構わないで。優しくしようとしないで」
「だから、なんでだよ!」

 俺が止めようとしても、彼女は聞く耳を持ってくれない。靴を履き、一度こちらを向いて、こう囁いた。

「あなたのためなの。わかって……イヴァン」

 あまりにも真剣な口調だった。俺はそれ以上、なにも言えなくなってしまった。

 彼女はドアノブに手をかけると、無言で扉を開ける。外はまだ、雨が降っていた。戸惑うこともなく、彼女は外へ出ていってしまう。
 扉が閉められた瞬間、俺は孤独に支配された。

 だだ俺は、彼女の悩みを解消してあげたかっただけなのに。
 どうして俺に、関わるなと言うのか。
 彼女にとって、俺はなんなのか。所詮、他人だったのだろうか。

「俺、間違ってたのか? なあ、サエさん……」

 俺が嘆いたところで、彼女から返事がもらえることはない。
 膝から崩れ落ち、俺はしばらくその場から動けなくなった。