つい一時間前に彼女と一緒にのぼったこの坂道を、今度は一人きりで下っていく。
 今日のデートを、俺は楽しみにしていたのに。ドキドキしながら彼女と肩を並べて歩いていたのに。今はどうだ。彼女の姿が見当たらず、焦慮に駆られ胸が苦しくて仕方がない。
 陽の光りは消え失せ、地面が雨に濡れ、人々の姿も減っていった。
 本当にここは、彼女と歩いてきた道なのか?
 そう疑ってしまうほど、別世界に感じた。

 坂を下りきったとき、俺は真っ先に駅の方へ向かった。急がなければ、彼女が電車に乗って帰ってしまう。そう思ったのだ。
 息を整える間もなく走っていったが、元町・中華街駅の前にはなぜか多くの人だかりができていた。何事かと思えば、別の駅で事故かなにかが起きた影響で、電車が止まっているらしい。構内からは、再開の目処が立っていないというアナウンス。事故で運転見合わせなんて珍しかった。

 これによって、彼女がまだ電車に乗っていない可能性が高くなった。駅前に群がる人の中に、彼女がいるかもしれない。一人一人顔を確認してみるが──彼女の姿は見当たらなかった。

「どこに行ったんだ……」

 焦った俺は、スマートフォンを手に握る。彼女が電話に出てくれるとは到底思えないが、僅かな希望を乗せて呼び出し音をタップした。
 電話の向こうから響き渡る、無機質なコール音。

 ワンコール、ツーコール、スリーコール。

 十回鳴ったところで、諦めようと思っていた。
 返事のない電話をするくらいなら、別の場所を捜し回った方がいい。だが、どこへ行けばいい? 当てもヒントもなにもないのに、どうしろと言うんだ。

 俺が狼狽えている、そのときだった。

『……イヴァン?』

 電話越しから、彼女の声がした。とても、悲しみに満ちたような声色に聞こえる。

「サエさん。今、どこにいるんだ!」

 思わず大きな声で問いつめるが、彼女はなにも答えてくれなかった。
 だがこの折、電話口の奥から微かに雨の降る音と──波の音が響いてくるのを俺はたしかに聞き取った。
 どうやら彼女は、海の近くにいるらしい。

「待ってて。迎えにいくから」



 突然降った雨は、止むことを知らない。その雨は、彼女の目から溢れるものを隠してくれた。

 俺が思った通り、彼女は山下公園の遊歩道にいた。その視線の先には、灰色に染まった海。波の音がはっきりと聞こえてくる。
 空からの雫に打たれる彼女の後ろ姿は、これまでにないほど悲哀に満ちていた。

「サエさん」

 俺が声をかけてみても、彼女は反応しない。ただひたすら、海の向こう側を眺めているだけ。
 彼女の隣に立ち、俺はそっと囁いた。

「風邪引くよ。駅に戻ろう」

 俺のひとことに、彼女は首を振った。

「電車が止まってた。戻っても意味ないわ」
「そんなことない。駅で雨宿りしながら電車を待とう」

 そう言っても、彼女は頷いてくれない。

「あなたまでびしょ濡れじゃない。私のことは放っておいてよ」
「そんなわけにはいかないだろ」
「どうして? 私は……私たちは、ただの他人よ」

 彼女の声が震えた。

 ──またそうやって、俺を他人呼ばわりする。

 俺は彼女の顔をじっと見つめた。雨で濡れた目元は、赤く腫れてしまっていた。

「酷い言い草だな。デートした相手を他人だと思ってるのか」
「デート? 勘違いしないで。ただ二人で薔薇を見に行っただけでしょ」
「あんなムード最高のスポットで二人きりの時間を過ごしたんだ。デート以外のなにものでもないだろ?」

 独り善がりな俺の持論に対して、彼女はなんともいえない表情をする。ほんの僅かに、頬も緩んだ気がした。

「……まったく。あなたって人は。私と関わらない方がいいって言ってるのに」
「もしかして、さっきの奴らのことか? 関係ないよ。俺がサエさんと仲良くしたいだけなんだからな」
「……そういう問題じゃないの」

 彼女はすぐに神妙な面持ちになった。なにかを考えるように黙り込むが、しばらく経ってこんなことを口にする。

「あなたを巻きこみたくない。また、リュウジの二の舞になってほしくないから……」

 彼女のひとことに、俺は目を見張った。

 ──リュウジ? リュウジって、彼女と同じクラスの柔道部の彼のことか?

 おそらく俺の予想は的中しているだろうが、なぜこのタイミングで彼の名前が出てくるのか理解できない。
 彼の名を口にした彼女はハッとしたように首を振った。

「ごめん。今のは忘れて。あなたにリュウジのことを言ってもわからないわよね」

 それから彼女は、今度こそ口を噤んでしまった。
 
 知ってるよ、リュウジさんのことは。ただのクラスメイトじゃないんだろ? 二人になにがあったのかは知らないが、深い事情があるんだよな──?

 俺が悶々としている間にも、雨はさきほどよりも更に強くなった。いい加減、彼女を屋根のある場所へ連れていかなければ。

「とにかく駅に行こう。店の中でもいい。びしょ濡れの状態じゃ、本当に体調を崩すよ」
「……」
「なあ、聞いてるか?」
「……」

 なぜ返事をしてくれないんだ。
 違和感を覚え、俺はもう一度彼女の顔を覗き込む。

「サエさん?」

 このとき、俺はやっと異変に気がついた。

「大丈夫か……?」

 彼女の顔が、真っ赤になっている。額に手を当てると──とんでもなく熱くなっているではないか。

「嘘だろ。すごい熱だ」

 足もとがフラつく彼女の体を俺は咄嗟に支えた。動転しながらも、これからすべきことを整理する。

「今すぐ帰ろう。電車はいつ動くかわからないから……親御さんに迎えに来てもらうしかない。家の電話番号を教えて」

 スマートフォンを取り出し、俺はそう促すが、彼女は小刻みに首を横に振るんだ。

「……それは、ダメ。親には電話しないで」
「どうして?」
「今日のことは内緒にしてるの。塾の自習室で一日勉強するって誤魔化してきたから。電話したら嘘がバレる。私の親、厳しい人で……」
「そんなこと言ってる場合か? だったらどうするつもりだよ!?」
「夜に帰れば、大丈夫」

 なにが大丈夫だ。全身びしょ濡れなんだぞ。夜まで待っていたら、もっと体調が悪化してしまう。
 弱る彼女を支えたまま、俺は思考を巡らせた。

 電車は止まっている。両親の連絡先も彼女は教えてくれない。日曜日だから病院すらやっていない。
 とにかく、ゆっくり休める場所を──

「そうだ」

 ひとつだけ、方法がある。通常ならありえない選択肢だが、今は緊急事態なんだ。あれこれ悩んでいる暇はない。

 俺は彼女の目をまっすぐ見ながら言った。

「うちに来るか?」

 一瞬、驚いたように眉をひそめる彼女だったが、この状況で断る余裕などなかったのだろう。
 彼女は弱々しく、頷いた。