不意に、彼女の名を呼ぶ声がした。聞き覚えない女性のものだった。
誰だ。彼女との貴重な時間を邪魔する奴は。
思わず顔をしかめ、声の方を振り向いた。
俺たちの前に立っていたのは三人の女子。そのうちの二人はミニスカートや露出が多い服を着ていて、メイクもやたらと濃く、面識がない人たちだった。
だが、残りの一人は、違う。
思わぬ人物を前に、俺は息を呑んだ。
「……アカネ」
呆気に取られるように、アカネが俺を見ていたんだ。
嘘だろ。なんてタイミングだ。
アカネとは、気まずいままだというのに。『サエさんと仲良くならない方がいい』。そんな忠告をしてきたアカネはこの状況を目の当たりにして、よく思わないだろう。
『イヴァンくん、どうしてサエさんを抱きしめてるの?』『結局、仲良くしてるの?』アカネの目が、あからさまにそう問いかけている。
もう完全に手遅れだが、俺は咄嗟に彼女の身から手を放した。
俺の様子をジロジロ見て、女子たちは不適な笑みを浮かべた。
「もしかして君、最近玉木さんと仲良くしてるって噂の一年生?」
「うっそー。ガチでイケメンじゃん!」
「玉木さんってクラスじゃ全然喋んないくせに、イケメンとは仲良くするんだー?」
「やばー! うちらには澄ました顔して避けるのにね! 玉木さんが面食いだったなんてウケる!」
明らかにバカにしたような口ぶりだ。女たちの態度に、はらわたが煮えくり返る。
──なんなんだ、こいつら。なぜそんな風に悪態をつく?
拳を強く握りしめ、俺は二人を睨みつける。
激情に駆られ俺が怒鳴り散らそうとした、正にそのときだった。彼女が、信じられない言葉を口にしたんだ。
「彼とはなんの関係もない。見ず知らずの他人よ」
冷たい声で、はっきりとした口調だった。サッと立ち上がり、彼女は俺に背を向ける。
ちょっと待ってくれ。俺が、見ず知らずの他人だと? 違う、違うよ。そんなはずないだろ……?
全身が痺れるような感覚がした。
俺の顔を一切見ず、彼女は走り去って行ってしまう。高いヒールの音が、瞬く間に遠ざかっていった。
たった今、隣に彼女がいたはずなのに。あっという間に彼女の姿が俺の視界から消えてしまった。
状況がよく把握できない。
思考を停止させてはダメだ。まだ間に合う。狼狽えている暇があるなら、急いで彼女を追え。
瞬時に決断を下し、俺は駆け出そうとした。だが、やかましい邪魔が入ってしまう。
「ねえイケメンくん」
アカネの隣にいた見知らぬ女子二人に前を塞がれた。二人は物珍しいものでも眺めるような目を向けてくる。
「なんであんな子と仲良くしてんの?」
「玉木さんって、無愛想で全然喋らないでしょ。なに考えてるかわかんないよ。怖くないの?」
は? 彼女のどこが無愛想なんだよ。たしかに普段から冷めた目をすることは多いが、笑った顔はすごく綺麗なのをこいつらは知らないのか。
それに、彼女が全然喋らないなんてありえない。俺が声をかければちゃんと返事をしてくれるし、花のことになるとたくさんお喋りをしてくれる。
なにを考えているのかわからないなんて誤解だ。彼女は、将来に関してものすごく真面目に考えているんだぞ。
本当の彼女を知らないだけだ。そんな奴らに、どうこう言われる筋合いはない。
苛立ちが募る一方だった。きっと今の俺の顔は、ありえないほど歪んでいる。
彼女に関してありもしない話をし続ける女たちの横で、アカネは苦笑していた。決して俺と目を合わせてこない。早くこの場からいなくなりたいという感情が、表情だけで伝わってきた。いつも活発なアカネの印象とはまるで違う。
「……あ、あの」
遠慮がちに、アカネは二人に声をかけた。
「せ、先輩! 早くしないと集合時間に遅れちゃいますよ」
「んー? 今、何時よ」
「もうすぐ三時半です。チア部の交流会、始まっちゃいますよ!」
アカネは笑顔を繕うも、声色は明らかに焦燥している。
なるほど、この二人の女はチアリーディング部の先輩か。部活の交流会かなんだか知らないが、さっさと立ち去れ。
時間を確認した女たちはうだうだ言いながらも、慌てた様子で歩き出した。
──しかしこの折。一人の女が、去り際にこんなことを呟いた。
「あんな人と一緒にいたら、君の価値が下がるよ」
ニヤニヤしながら、女は俺の顔も見ずに歩いていく。
「なんだと? ……おい、それどういう意味だよ」
よっぽど、叫んでやりたかった。見知らぬ奴らに、なぜそんな風に言われなきゃならない?
女たちはそれ以上はなにも言わずそそくさと立ち去っていく。俺が無言で女たちの後ろ姿を睨みつけていると、半歩後ろを歩くアカネと視線がぶつかった。その目は、とても複雑な感情が入り交じっていて、見ていられない。
アカネは、視線だけで俺にこう訴えてきたんだ。
『ごめんね、イヴァンくん』
俺は、なんのリアクションも取れずにいた。唖然と、アカネたちが離れていく姿を眺めるだけ。
アカネは、なにに対して謝っているのだろう。この前の件についてか。それとも、チア部の女たちの態度についてか。それとも──
そこで俺は一度、考えるのをやめた。
なにこんなところで突っ立てるんだ、俺は。
彼女がいなくなってしまった。追いかけて、捜しに行って、面と向かって話をしよう。
周りの音や、景色がなくなっていく。華やかな薔薇の色も、歩く人々の姿も、話し声や風の音も、今の俺には無に感じた。
気が付けば、太陽は灰色の雲に隠れ、空は光を失っていた。
ほどなくして、冷たい雨が行く道を濡らしはじめる。今日の天気は、一日晴れの予報だったはずなのに。
誰だ。彼女との貴重な時間を邪魔する奴は。
思わず顔をしかめ、声の方を振り向いた。
俺たちの前に立っていたのは三人の女子。そのうちの二人はミニスカートや露出が多い服を着ていて、メイクもやたらと濃く、面識がない人たちだった。
だが、残りの一人は、違う。
思わぬ人物を前に、俺は息を呑んだ。
「……アカネ」
呆気に取られるように、アカネが俺を見ていたんだ。
嘘だろ。なんてタイミングだ。
アカネとは、気まずいままだというのに。『サエさんと仲良くならない方がいい』。そんな忠告をしてきたアカネはこの状況を目の当たりにして、よく思わないだろう。
『イヴァンくん、どうしてサエさんを抱きしめてるの?』『結局、仲良くしてるの?』アカネの目が、あからさまにそう問いかけている。
もう完全に手遅れだが、俺は咄嗟に彼女の身から手を放した。
俺の様子をジロジロ見て、女子たちは不適な笑みを浮かべた。
「もしかして君、最近玉木さんと仲良くしてるって噂の一年生?」
「うっそー。ガチでイケメンじゃん!」
「玉木さんってクラスじゃ全然喋んないくせに、イケメンとは仲良くするんだー?」
「やばー! うちらには澄ました顔して避けるのにね! 玉木さんが面食いだったなんてウケる!」
明らかにバカにしたような口ぶりだ。女たちの態度に、はらわたが煮えくり返る。
──なんなんだ、こいつら。なぜそんな風に悪態をつく?
拳を強く握りしめ、俺は二人を睨みつける。
激情に駆られ俺が怒鳴り散らそうとした、正にそのときだった。彼女が、信じられない言葉を口にしたんだ。
「彼とはなんの関係もない。見ず知らずの他人よ」
冷たい声で、はっきりとした口調だった。サッと立ち上がり、彼女は俺に背を向ける。
ちょっと待ってくれ。俺が、見ず知らずの他人だと? 違う、違うよ。そんなはずないだろ……?
全身が痺れるような感覚がした。
俺の顔を一切見ず、彼女は走り去って行ってしまう。高いヒールの音が、瞬く間に遠ざかっていった。
たった今、隣に彼女がいたはずなのに。あっという間に彼女の姿が俺の視界から消えてしまった。
状況がよく把握できない。
思考を停止させてはダメだ。まだ間に合う。狼狽えている暇があるなら、急いで彼女を追え。
瞬時に決断を下し、俺は駆け出そうとした。だが、やかましい邪魔が入ってしまう。
「ねえイケメンくん」
アカネの隣にいた見知らぬ女子二人に前を塞がれた。二人は物珍しいものでも眺めるような目を向けてくる。
「なんであんな子と仲良くしてんの?」
「玉木さんって、無愛想で全然喋らないでしょ。なに考えてるかわかんないよ。怖くないの?」
は? 彼女のどこが無愛想なんだよ。たしかに普段から冷めた目をすることは多いが、笑った顔はすごく綺麗なのをこいつらは知らないのか。
それに、彼女が全然喋らないなんてありえない。俺が声をかければちゃんと返事をしてくれるし、花のことになるとたくさんお喋りをしてくれる。
なにを考えているのかわからないなんて誤解だ。彼女は、将来に関してものすごく真面目に考えているんだぞ。
本当の彼女を知らないだけだ。そんな奴らに、どうこう言われる筋合いはない。
苛立ちが募る一方だった。きっと今の俺の顔は、ありえないほど歪んでいる。
彼女に関してありもしない話をし続ける女たちの横で、アカネは苦笑していた。決して俺と目を合わせてこない。早くこの場からいなくなりたいという感情が、表情だけで伝わってきた。いつも活発なアカネの印象とはまるで違う。
「……あ、あの」
遠慮がちに、アカネは二人に声をかけた。
「せ、先輩! 早くしないと集合時間に遅れちゃいますよ」
「んー? 今、何時よ」
「もうすぐ三時半です。チア部の交流会、始まっちゃいますよ!」
アカネは笑顔を繕うも、声色は明らかに焦燥している。
なるほど、この二人の女はチアリーディング部の先輩か。部活の交流会かなんだか知らないが、さっさと立ち去れ。
時間を確認した女たちはうだうだ言いながらも、慌てた様子で歩き出した。
──しかしこの折。一人の女が、去り際にこんなことを呟いた。
「あんな人と一緒にいたら、君の価値が下がるよ」
ニヤニヤしながら、女は俺の顔も見ずに歩いていく。
「なんだと? ……おい、それどういう意味だよ」
よっぽど、叫んでやりたかった。見知らぬ奴らに、なぜそんな風に言われなきゃならない?
女たちはそれ以上はなにも言わずそそくさと立ち去っていく。俺が無言で女たちの後ろ姿を睨みつけていると、半歩後ろを歩くアカネと視線がぶつかった。その目は、とても複雑な感情が入り交じっていて、見ていられない。
アカネは、視線だけで俺にこう訴えてきたんだ。
『ごめんね、イヴァンくん』
俺は、なんのリアクションも取れずにいた。唖然と、アカネたちが離れていく姿を眺めるだけ。
アカネは、なにに対して謝っているのだろう。この前の件についてか。それとも、チア部の女たちの態度についてか。それとも──
そこで俺は一度、考えるのをやめた。
なにこんなところで突っ立てるんだ、俺は。
彼女がいなくなってしまった。追いかけて、捜しに行って、面と向かって話をしよう。
周りの音や、景色がなくなっていく。華やかな薔薇の色も、歩く人々の姿も、話し声や風の音も、今の俺には無に感じた。
気が付けば、太陽は灰色の雲に隠れ、空は光を失っていた。
ほどなくして、冷たい雨が行く道を濡らしはじめる。今日の天気は、一日晴れの予報だったはずなのに。