待ち合わせ場所である「元町・中華街駅」に時間通りやって来た彼女は、水色のシャツを着用していて、爽やかな印象だった。それに、いつになく楽しそうなんだ。学校では見せない、柔らかい表情で俺に微笑みかけてくる。
「薔薇は『港の見える丘公園』にあるの」
そう言って、彼女はヒールにもかかわらず軽快に歩き出した。途中から傾斜の大きい坂道に差し掛かるが、速度も落とさずに登っていく。
初めてのデートで、多少なりとも俺は緊張しているというのに。どうやら彼女はそうでもないらしい。とにかく一秒でも早く薔薇を見に行きたいようだ。
狭い坂道で今にもスキップをしそうな彼女の姿を眺めていると、俺は安堵する。
坂を登りはじめてから数分。彼女は突然、立ち止まった。こちらを振り向き、目を細めて俺に手招きをしてきた。
「見て、イヴァン」
彼女は前方を指差した。その先を見てみると──正に、彼女の見たかったものが公園全体に広がっていた。
「ここは、イングリッシュローズの庭。一度でいいから来てみたかったの」
朗らかに彼女はそう言った。
俺たちを待ち構えていたのは、辺り一面に咲きこぼれる薔薇の花々。赤や白、ピンクに青など、広大な公園内を華やかにしていた。風が吹くたび花びらを揺らし、上品な香りを運んできてくれる。
小道を挟んだ先に目をやると、赤い屋根を被った西洋館が佇んでいるのが見えた。
「……日本にも、こんなところがあったのか」
たまらず、俺はそう呟く。初めて訪れた場所なのに、なつかしさを感じた。
「異国みたいよね」
彼女が隣で、目を細める。
「ただ花壇に並べただけじゃなくて、脇道や柵にも薔薇を添えて、庭全体を美しく彩っている。よく手入れもされているし、想像していたよりも素敵な場所だわ」
饒舌になる彼女は、目の前に咲く青色の薔薇に歩み寄り、それを愛おしそうに見つめた。
「……イギリス風の庭園みたいなんだけどね。あなたは、喜んでくれてる?」
そこで、彼女の声量がわずかに小さくなる。
俺はふっと微笑み、彼女と共に花壇に咲いた薔薇たちを眺めた。
「俺も、気に入ったよ」
「本当に?」
「もう何年もイギリスには帰っていないが、ここと似たような場所を知ってる。……祖父母の家だ」
俺の話に、彼女は目を見開いた。
「それは……。思い出させてしまったみたいで、ごめんなさい」
「えっ? 謝らなくていいよ。俺は、イギリス自体は嫌いじゃないんだ。むしろ、花を大切に育てる文化は好きだ。祖母がたくさんの花を育てていたのを思い出した。ここと同じように色んな花が庭のあちこちに植えられていて、見てるだけでうっとりしたな」
話をしているうちに、俺は過去を思い出す──六歳のときに参加した、祖父母の家で開かれたパーティーでの出来事を。英語が喋れない俺に「イギリス人のなり損ない」と咎めてきたいとこたちの言葉。いつ振り返ってみても胸が苦しくなる。
あの日、俺は我慢できずに庭へ飛び出した。これでもかというほどに落ち込んだ。身体の震えが止まらず、羞恥心と悔しさに襲われ、庭のベンチで一人蹲っていた。
そんな俺を心配したのか、祖母も庭に出てきて寄り添ってくれた。ゆったりとした口調で「大丈夫だよ」「イヴァンはイヴァンのままでいいんだよ」と、声をかけてくれたんだ。
祖母の声は優しさにあふれている。あたたかみのあるあの話しかたが、俺は今でも大好きだ。
祖母の隣で眺めた景色は、本当に美しかった。こじんまりとした庭だったが、辺り一面に咲き誇る花たちに囲まれていると、自然と心が落ち着いた。
でも、俺は六歳ながらにこう思った。祖母が愛情を込めて育てた花だったからこそ、特別に見えるんだ、と。
これは、俺が長年忘れていた記憶だ。ここに来て、再び思い出せた。
──これらの懐かしいエピソードを、俺は語り紡いでいく。時に相づちを打ちながら、彼女は耳を傾けてくれた。見たこともないほど穏和な眼差しを向けて。
「お祖母さんの優しさが、あなたの心を救ってくれたのね」
「ショックだった記憶が強すぎて、俺は大切なことを忘れかけてた。サエさんと一緒にここへ来て、また思い出せたよ。ありがとう」
俺の言葉に、彼女は目を細める。
陽に反射する青い薔薇の花びらはサファイアのように輝き、見れば見るほど魅了されていく。
「ねぇ、イヴァン。青い薔薇の花言葉を知ってる?」
「花言葉? えーっと……すまん。全然、知らない」
正直に俺が答えると、彼女はくすりと笑う。
「数や色によって、花言葉が変わったりするの。私は青い薔薇も好き。青色には『夢叶う』という意味があるのよ」
「夢、か。意外だな。薔薇ってなんとなく、こう、愛とか恋とかそういう情熱的な花言葉があるイメージがあったのに。本当になんとなくだけど」
「そうね。青い薔薇はある意味特殊なのよ。自然では絶対に咲かない色だから」
「そうなのか?」
「青い薔薇は日本とオーストラリアの企業が合同開発して生まれたものなの。元々薔薇の花びらに青い色素は含まれていなかった。だから、どうしたって自然に咲かせることはできなかったの。不可能だったものを可能にしたのは長年の研究の成果でもあるのよ。そう考えると『夢叶う』という花言葉の重みがわかるわよね」
彼女は愛おしそうに、青い薔薇を見つめている。どれだけ花が好きなのか、伝わってくるほどに。
「でもね、イヴァンの考えも合ってるわ。薔薇って、『愛情』を意味する言葉がたくさんあるから。国によっても変わるし。たとえば、中国での赤い薔薇は『情熱』や『熱愛』という意味があって、ピンクなら『初恋』になるの」
「めちゃくちゃロマンチック」
「でも青い薔薇には『誠実』という花言葉がある」
「はは。急にイメージが変わったな」
「でしょ? 私は、それすらも特別に思うの。中国では、特別な日に愛する人へ薔薇の花束を贈る文化がある。素敵よね」
語り紡ぐ彼女の瞳は澄んでいて、俺は目を離せなくなった。
彼女は、本当に薔薇の花が好きなんだな。
「なあ、サエさん」
「うん?」
「もしもの話。誰かが、サエさんに薔薇の花を贈ってきたら、どう思う?」
「え。どう思うって?」
「相手に薔薇の花を渡されて、愛してますとか言われたら、サエさんは嬉しい?」
流れに任せて、俺はそんな風に訊いてみた。
……なに言ってんだ、俺は。こんな質問したって、彼女を困らせてしまうじゃないか。
口について出たこの疑問を、急いで取り消そうとした。
だけど、彼女の横顔がほんのり赤く染まっていることに気がついた。ガーデンの一部に咲く、赤薔薇のように。
「如果你这样说,我就高兴极了」
……ん? なんだ? いきなり。彼女、今、中国語を喋っていたよな……?
「サエさん。今、なんて?」
「……あっ」
彼女はハッとしたように、こちらを振り向いた。耳まで赤くなっているではないか。
「な、なんでもない。あなたが変なこと訊くから、ちょっと驚いただけ」
だからって、急に中国語が出てくるものなのか?
俺が食い下がっても、結局彼女は言葉の意味を教えてくれなかった。
「薔薇は『港の見える丘公園』にあるの」
そう言って、彼女はヒールにもかかわらず軽快に歩き出した。途中から傾斜の大きい坂道に差し掛かるが、速度も落とさずに登っていく。
初めてのデートで、多少なりとも俺は緊張しているというのに。どうやら彼女はそうでもないらしい。とにかく一秒でも早く薔薇を見に行きたいようだ。
狭い坂道で今にもスキップをしそうな彼女の姿を眺めていると、俺は安堵する。
坂を登りはじめてから数分。彼女は突然、立ち止まった。こちらを振り向き、目を細めて俺に手招きをしてきた。
「見て、イヴァン」
彼女は前方を指差した。その先を見てみると──正に、彼女の見たかったものが公園全体に広がっていた。
「ここは、イングリッシュローズの庭。一度でいいから来てみたかったの」
朗らかに彼女はそう言った。
俺たちを待ち構えていたのは、辺り一面に咲きこぼれる薔薇の花々。赤や白、ピンクに青など、広大な公園内を華やかにしていた。風が吹くたび花びらを揺らし、上品な香りを運んできてくれる。
小道を挟んだ先に目をやると、赤い屋根を被った西洋館が佇んでいるのが見えた。
「……日本にも、こんなところがあったのか」
たまらず、俺はそう呟く。初めて訪れた場所なのに、なつかしさを感じた。
「異国みたいよね」
彼女が隣で、目を細める。
「ただ花壇に並べただけじゃなくて、脇道や柵にも薔薇を添えて、庭全体を美しく彩っている。よく手入れもされているし、想像していたよりも素敵な場所だわ」
饒舌になる彼女は、目の前に咲く青色の薔薇に歩み寄り、それを愛おしそうに見つめた。
「……イギリス風の庭園みたいなんだけどね。あなたは、喜んでくれてる?」
そこで、彼女の声量がわずかに小さくなる。
俺はふっと微笑み、彼女と共に花壇に咲いた薔薇たちを眺めた。
「俺も、気に入ったよ」
「本当に?」
「もう何年もイギリスには帰っていないが、ここと似たような場所を知ってる。……祖父母の家だ」
俺の話に、彼女は目を見開いた。
「それは……。思い出させてしまったみたいで、ごめんなさい」
「えっ? 謝らなくていいよ。俺は、イギリス自体は嫌いじゃないんだ。むしろ、花を大切に育てる文化は好きだ。祖母がたくさんの花を育てていたのを思い出した。ここと同じように色んな花が庭のあちこちに植えられていて、見てるだけでうっとりしたな」
話をしているうちに、俺は過去を思い出す──六歳のときに参加した、祖父母の家で開かれたパーティーでの出来事を。英語が喋れない俺に「イギリス人のなり損ない」と咎めてきたいとこたちの言葉。いつ振り返ってみても胸が苦しくなる。
あの日、俺は我慢できずに庭へ飛び出した。これでもかというほどに落ち込んだ。身体の震えが止まらず、羞恥心と悔しさに襲われ、庭のベンチで一人蹲っていた。
そんな俺を心配したのか、祖母も庭に出てきて寄り添ってくれた。ゆったりとした口調で「大丈夫だよ」「イヴァンはイヴァンのままでいいんだよ」と、声をかけてくれたんだ。
祖母の声は優しさにあふれている。あたたかみのあるあの話しかたが、俺は今でも大好きだ。
祖母の隣で眺めた景色は、本当に美しかった。こじんまりとした庭だったが、辺り一面に咲き誇る花たちに囲まれていると、自然と心が落ち着いた。
でも、俺は六歳ながらにこう思った。祖母が愛情を込めて育てた花だったからこそ、特別に見えるんだ、と。
これは、俺が長年忘れていた記憶だ。ここに来て、再び思い出せた。
──これらの懐かしいエピソードを、俺は語り紡いでいく。時に相づちを打ちながら、彼女は耳を傾けてくれた。見たこともないほど穏和な眼差しを向けて。
「お祖母さんの優しさが、あなたの心を救ってくれたのね」
「ショックだった記憶が強すぎて、俺は大切なことを忘れかけてた。サエさんと一緒にここへ来て、また思い出せたよ。ありがとう」
俺の言葉に、彼女は目を細める。
陽に反射する青い薔薇の花びらはサファイアのように輝き、見れば見るほど魅了されていく。
「ねぇ、イヴァン。青い薔薇の花言葉を知ってる?」
「花言葉? えーっと……すまん。全然、知らない」
正直に俺が答えると、彼女はくすりと笑う。
「数や色によって、花言葉が変わったりするの。私は青い薔薇も好き。青色には『夢叶う』という意味があるのよ」
「夢、か。意外だな。薔薇ってなんとなく、こう、愛とか恋とかそういう情熱的な花言葉があるイメージがあったのに。本当になんとなくだけど」
「そうね。青い薔薇はある意味特殊なのよ。自然では絶対に咲かない色だから」
「そうなのか?」
「青い薔薇は日本とオーストラリアの企業が合同開発して生まれたものなの。元々薔薇の花びらに青い色素は含まれていなかった。だから、どうしたって自然に咲かせることはできなかったの。不可能だったものを可能にしたのは長年の研究の成果でもあるのよ。そう考えると『夢叶う』という花言葉の重みがわかるわよね」
彼女は愛おしそうに、青い薔薇を見つめている。どれだけ花が好きなのか、伝わってくるほどに。
「でもね、イヴァンの考えも合ってるわ。薔薇って、『愛情』を意味する言葉がたくさんあるから。国によっても変わるし。たとえば、中国での赤い薔薇は『情熱』や『熱愛』という意味があって、ピンクなら『初恋』になるの」
「めちゃくちゃロマンチック」
「でも青い薔薇には『誠実』という花言葉がある」
「はは。急にイメージが変わったな」
「でしょ? 私は、それすらも特別に思うの。中国では、特別な日に愛する人へ薔薇の花束を贈る文化がある。素敵よね」
語り紡ぐ彼女の瞳は澄んでいて、俺は目を離せなくなった。
彼女は、本当に薔薇の花が好きなんだな。
「なあ、サエさん」
「うん?」
「もしもの話。誰かが、サエさんに薔薇の花を贈ってきたら、どう思う?」
「え。どう思うって?」
「相手に薔薇の花を渡されて、愛してますとか言われたら、サエさんは嬉しい?」
流れに任せて、俺はそんな風に訊いてみた。
……なに言ってんだ、俺は。こんな質問したって、彼女を困らせてしまうじゃないか。
口について出たこの疑問を、急いで取り消そうとした。
だけど、彼女の横顔がほんのり赤く染まっていることに気がついた。ガーデンの一部に咲く、赤薔薇のように。
「如果你这样说,我就高兴极了」
……ん? なんだ? いきなり。彼女、今、中国語を喋っていたよな……?
「サエさん。今、なんて?」
「……あっ」
彼女はハッとしたように、こちらを振り向いた。耳まで赤くなっているではないか。
「な、なんでもない。あなたが変なこと訊くから、ちょっと驚いただけ」
だからって、急に中国語が出てくるものなのか?
俺が食い下がっても、結局彼女は言葉の意味を教えてくれなかった。