彼女は赤いシャツを着ていて、学校にいるときと比べて雰囲気が違う。私服だから、というわけじゃない。たぶん、メイクをしているからか。目元がさりげなくキラキラしていて、いつも以上に大人っぽく見える。

「サエさん、来てくれたんだな!」

 業務中にも関わらず、声を弾ませてしまった。校内でばったり会ったような感覚で。
 嬉しくてつい、と言い訳を頭の中で並べる俺は、やっぱりマニーカフェ店員としては失格だ。

「あなたの作った抹茶クリームラテが飲みたくなって」

 彼女は小さく微笑んだ。不意に見る彼女の優しい顔に、思わずドキッとする。
 こんな表情もする人なんだ、と思った。
「俺が奢る」と伝えたのだが「遠慮するわ」と軽くあしらわれてしまった。以前ご馳走してあげるって、俺が一方的に約束したんだけどな。

「あんまりしつこいと、もう店に来ないわよ?」

 そう言われてしまっては、仕方がない。渋々彼女からお金を受け取り、俺は抹茶ラテを作りはじめた。スチームミルクをカップに注ぎ、ホワイトクリームと抹茶パウダーを盛り付けていく。

 出来上がった商品を、このまま彼女に手渡してもいい。だが俺は、諦めが悪い奴なんだ。
 抹茶クリームラテを差し出しながら、俺は彼女に囁いた。

「六時にバイトが終わるから、それまで待っていてくれないかな」

 彼女は一瞬だけ目を見開いた。数秒だけ間を置いてから、ぎこちなく、ゆっくりと頷いた。
 彼女は無言で俺から背を向け、窓際の席に座った。参考書らしきものを開き、耳にイヤホンをつけて勉強をはじめたみたいだ。

 来てくれたのが嬉しくて、つい彼女を誘ってしまった。後悔したって遅いが、迷惑じゃなかったか心配になる。

「おいイヴァン」

 関さんの低い声が真横で聞こえた。俺の心臓が飛び出しそうになる。

「す、すみません」
「まだなんも言ってねぇよ」

 いえ、だいたい想像はつきます。今のやり取りを注意するんですよね?
 俺が身構えていると、関さんは肩をすくめた。

「別に知人が来て喜ぶのは構わねえよ」
「そんなわけには」
「いいから、これだけは覚えておけ。客とは一定の距離を保つよう意識しろ。のちのち面倒なことになりかねないからな」
「え?」

 一定の距離とは……? どういうことだろう。
 これまでにない注意を受け、俺は思わず首を傾げる。
 いや、知人や友人が来店したとしても、業務中は店員としての立場を忘れるなと関さんは言いたいんだろう。
 
「すみません。今後は気をつけます」
「わかりゃいい」

 このときの、関さんの表情がどことなく固くなっている気がした。
 

 ──バイトが終わり、店を出た頃には陽が沈みかけていた。夕焼け空を見上げると、うっすら飛行機雲が描かれているのが目に映る。
 明日はまた雨になるのかな。

 店の裏側から表に出ると、不意にポケットの中のスマートフォンが受信音を鳴らした。

 ……嫌な予感しかしない。

 中身を確認してみると案の定、父親からのメッセージが届いていた。
 
《イヴァン、バイトは終わったか。お前が本気で日本に残りたいなら、将来どうするのかを決めるんだ。お前がやりたいことを優先したい。だが、日本にいるきちんとした理由が見つからないのなら、イギリスで暮らすことも視野に入れるんだぞ》

 その文言を見た瞬間、忘れていたはずのイライラが再び復活してしまう。

 どの口が言っている? 俺がやりたいことをやらせてくれたことなんて、一度たりともないだろうが。

 俺の頭の中に、苦い過去が途端に蘇る。楽しいとは言いがたい、小学生時代の話。
 俺は、親に言われていくつもの習い事に通っていた。学習塾はもちろん、水泳やダンス、フットボールに加えてピアノやその他もろもろ。
 塾のおかげで、苦手教科を少しでも克服できた。水泳教室に通ったことにより、泳げるようになった。ダンスレッスンを受けたから、体幹は強くなったしリズム感もよくなったと思う。ピアノのセンスはいまいちだが、譜面を読めるようになった。フットボールクラブに所属した経験から、体力の向上だけでなくチームワークの大切さも学んだ。
 だがそれらは、どれもこれも俺自身がやりたかったものではない。日曜日以外、毎日なにかしらの習い事で予定が埋まっていた。
 習い事をしている時間は、苦痛以外のなにものでもない。たまに学校行事や体調不良などで休めたときは、この上ないほどの至福だった。最高に怠い日は、仮病を使った。サボりに成功すると、また次もなにか理由を考え、サボりたくなる。
 つまらない習い事なんて、俺にとってはストレスの塊に過ぎなかったんだ。
 だから小学校卒業を機に、通っていた教室は全て辞めさせてもらった。これまで手にしたことがなかった自分の時間。自由が増えた日常は、天国に感じた。

 その反動からか、中学生になってからは部活動など一切入らなかった。友だちと遊んだり、家でゲームをしたり、漫画や小説を読んだり、とにかく好きに過ごしていた。

 これは、俺にとってあまりよくない経験になっているかもしれない。少なくともプラスの方向には転がっていない。
 俺は高校生になった。なにをしたいのか、好きなことはなんなのか。自分でも分からなくなってしまったんだ。

 でも──なにも持っていない俺でも、ひとつだけはっきりと言える。
 俺は日本で生まれ育ってきた。文化も習慣も食の好みも、この国のものに慣れ親しんでいる。
 どんなに混んでいても、列が乱れない日本。食事をする前は、必ず「いただきます」と手を合わせる日本人。旨くてヘルシーな和食料理。その他も全部、日本で生まれ育ったからこそ知れたよさだ。高校を卒業したとしても、この国から離れたくない。可能ならば、いつか帰化したいと思っている。
 頑固で自己中な父親にそう伝えたとしても、簡単には頷いてくれないだろうが。

 メッセージに返信することもなく、俺はスマートフォンの画面を睨みつけながら立ち尽くしていた。

「──なに? 怖い顔して」

 ハッとする。
 呆れたような顔をして、俺の目の前に彼女が立ってた。

「待てって言うからあなたを待ってたのに。ずいぶん遅いのね。店を出たら、あなたが機嫌悪そうな顔して突っ立ってるんだもの。驚いたわ」

 まずい、彼女を待たせてしまった。しかも、無意識のうちに心のイライラが表に出てしまっていたようだ。
 俺はあわてて首を横に振る。

「ごめん……少しだけ、考え事をしてた」

 思わず口ごもってしまった。
 こんな俺を見て、彼女は小首をかしげる。

「らしくない。なにか、あったの?」