春の風は、悲しいほどにあたたかい。
 学校の屋上から見下ろす校庭には、人っ子一人いなかった。最終下校時刻を過ぎて、部活をしていた生徒はみんな帰っていった。校内には、残業で身を削る教師が数名残っているだけだろう。
 誰も、私が屋上にいることなんて知らない。
 
 ここからは、学校周囲に佇む桜の木々がよく見える。白色の花びらが静かに舞い、なんとも美しい眺め。
 けれど、あと数秒後には、あの花びらたちは真っ赤に染まる。
 私の、血の色によって。

 学校にも家にも、私の居場所はどこにもない。早く故郷に帰りたいと、幾度となく考えた。
 もう待てない。
 心がボロボロなの。苦しいの。
 だから今日で、全てを終わりにしよう。

 靴を整え、そのすぐ横に便箋を置いた。所謂、遺書ってやつ。
 私を厳しく育ててきた母には、中国語で。母と一緒になって、私の将来を決めつけてきた父には、日本語で。唯一私に「友だち」と言ってくれた彼には、日本語で。
 そして──私を苦しめてきた世間に対しては、中国語と日本語で。
 それぞれ私の本心を綴った。

 風が吹く。桜の、爽やかな香りが私の横を通りすぎた。
 こんなに気持ちがいい日を最期にするなんて、皮肉以外の何物でもない。

「永别了」

 ──永遠に、さようなら。
 この世に別れを告げて。
 屋上の周りは、胸元辺りまで高さがある柵で覆われていた。
 それを乗り越える。すると、風が強く吹き荒れた。
 屋上から見下ろした地は、あまりにも遠い。ここから飛び降りれば、確実に「無」になれる。
 目をギュッと瞑り、覚悟を決めた。
 ……そのときだ。

「なにしてんのっ?」

 背後から、知らない男の声が聞こえた。慌てたような声だった。
 ……最悪。こんなタイミングで、他人に見られてしまうなんて。
 決めたはずの覚悟が、一気に失せる。
 大きくため息を吐き、私は地上を眺めたままとりあえず返事をする。

「邪魔しないで」
「そんなヤバい場所に立ってる人がいて、放っておけると思うか?」

 あなたの気持ちなんて聞いてない。
 私は小さく首を横に振った。
 ゆっくりと、こちらに近づいてくる足音が微かに響く。

「来ないで」
「そう言われても」
「いい加減にしてよっ!」

 思わず叫んだ。声が上ずってしまう。
 声の主は構わずに私のすぐそばに歩み寄ってきた。
 彼の姿が、目の端に映り込む。
 ──赤髪が特徴的の、スラッとした少年だった。柵に手をかけながら、彼は青い瞳で屋上からの眺めを見渡している。

「へえ。初めてここに来たけど、すっごい絶景なんだな」

 この緊迫した空気を壊すように、彼は突然冷静になって呟いた。

「……なに言ってるの?」
「だって屋上って本当は立ち入り禁止で、普通は来られないじゃん。今のうちに堪能しようと思って」

 私の方を一切見ず、彼は「うわーこっから海も見られるんだな」「観覧車があるってことは、あそこがコスモワールドか」「赤レンガ倉庫も見えたぞ!」と、興奮気味に横浜の景色を楽しんでいる。
 なにこれ……。構ってられない。

「感動してるところ悪いんだけど、さっさと帰ってくれない?」
「え。なんで?」
「……あなたがいると集中できないのよ」
「集中できない? なにが?」

 この男。わざととぼけている。
 言えるわけないじゃない。「これから自殺するのに、隣に人がいたらできない」なんて。
 私が返答に困っていると、彼は真顔になった。

「俺がここにいるだけで飛び下りできないってか? だったら最初からやめておけよ」
「……は?」
「本当に死にたいなら俺が来た時点で飛び降りてる。所詮、君の覚悟なんてそんなものだ」

 そう言われた瞬間、私の全身がカッと熱くなった。
 彼を睨みつけ、首を大きく横に振った。

「あなたには関係ない。なにも知らないくせに!」
「ああ。知らないよ。だからって、見て見ぬ振りをする理由にはならないんだよな」

 私が怒りをぶつけても、彼はあっけらかんとしている。

「俺、クラスに宿題忘れちゃってさ。急いで取りに学校戻ってきたんだよ」
「いきなりなんの話?」
「で、帰ろうと思って校門の前でふと空を見上げたら、夕焼けが綺麗で」

 彼は横浜の灯りとは反対方向に体を向けた。
 オレンジ色の温かい光が、西の空を照らしている。

「夕陽ってこんなに綺麗なんだなあ、宿題なんてやりたくねぇなあって感動してたら……屋上に人影が見えたんだ」

 気づかなかった。校庭に人はいなかったけれど、校門の方までは見ていなかった。

「驚いたな。立ち入り禁止のはずの屋上に人が立ってるんだぞ? お化けかと思った。よーく見てみたら普通にこの学校の制服着てる女の人だし、生きてる人だ!って。大慌てでここまで駆け上がってきたってわけ」
「止めに来たのなら無駄よ? 私が死にたい気持ちは変わらないし」
「だったら、力尽くでやめさせる」
「えっ」

 ──油断した。
 気づいたときには、私の左手が彼に強く握られていた。

「こっち戻ってきて」
「……いや。放して」
「無理」

 大きくて白い彼の手は、言葉通り私を手放す気は微塵もないみたい。
 どうしてこの人は、私を止めるんだろう。

「もしかして、同情してるの……?」
「残念ながら、死にたい人の気持ちなんて俺にはわからないんだな」
「だったらどうして止めるの?」
「何回も言ってる。君を放っておけないだけだ」

 そう言って彼は、もう一度空を眺めた。

「こんなに空は広いんだぞ。死ぬなんて、もったいなくないか?」
「は……?」

 意味がわからない。
 なのに──彼の言うとおり、空を見上げると広大だと感じた。
 今、私が死んだところでこの広い世界にはなんの影響もない。
 けれど、名前も知らない彼が必死になって私を止めようとしてくれている。彼の額にうっすらと滲む汗を、私は見逃さなかった。

 私は体を彼の方に向け、深く息を吐いた。

「……しつこい人」
「ああ。よく言われる」
「あなたがいると調子が狂うわ。気が乗らなくなったから……今日は、やめておく」
「おお、それはよかった!」
「もう少し、空を眺めていたいと思っただけよ」
「もう少し、じゃなくて。ずっと、長い時間見てればいいだろ?」

 満面の笑みを浮かべる彼は、本当に嬉しそう。
 変わった人。私なんかのために、なんでこんなに喜べるんだろう。
 よくわからないけれど──
 彼と出会った日の夕陽は、とても輝いていた。