夕日がゆっくりと西に沈んでいく。外灯にぽつぽつと明かりが灯っていく。
どちらからともなくベンチから立ち上がった。
「茉優はいつ家に帰るの?」
「とりあえず秋休みの間だけお世話になる予定だったから、ほんとは今日帰らなきゃいけなかったんだけど……」
茉優は口を結んで俯いた。
心に負った傷は、簡単には癒えない。俺自身、それをよく知っている。
どう声をかけるべきか悩んでいると、茉優はぱっと顔を上げて笑った。
「まあ、そのうち帰るよ。ここもなんか居心地よくなってきたし、亜実ちゃんも旦那さんが出張で寂しそうだし──」
「笑わなくていいよ」
下手くそに笑う茉優を見て、その言葉が口を衝いて出た。
ぎこちなく上がっていた茉優の口角が下がる。
「もう、無理して笑わなくていいんだよ」
──いい加減にしなよ。
茉優は俺を助けてくれたのに、俺は茉優の異変を見て見ぬふりをした。
稲田たちといるとき、茉優はずっと薄く微笑んでいたから、べつに大丈夫だろうと軽く考えていた。
あんなの、茉優の本当の笑顔じゃないことを知っていたのに。
俺は、茉優の本当の笑顔を知っているのに。
──お父さん、かっこいいね!
一点の曇りもない、周囲を明るく照らすような、茉優の笑顔を。
「ほんとに楽しくて、ほんとに嬉しいときに笑えばいいんだ。俺は……茉優の本当の笑顔だけを見たい」
俺はヒーローじゃないから、茉優みたいにかっこよく場を収めることはできない。だけど、声をかけることくらいできたはずだった。話を聞くことくらい、そばにいることくらい、簡単にできたはずだった。
俺はもう、逃げたくない。
もう二度と、茉優をひとりにしたくない。
「あのさ、やっぱり連絡先教えてほしい。とりあえずIDだけでも教えといてよ」
顔が真っ赤になっている自覚はあった。幸いずいぶんと薄暗くなっているし、茉優にはばれないだろう。
秋休みが明けても茉優は登校しないかもしれない。きっと実家に帰れば店に来る頻度もぐっと減る。もう来ない可能性だって十分にある。俺はSNSをやっていないし、連絡先を訊いておかなければ茉優との接点がなくなってしまうかもしれない。
「すぐに連絡してってわけじゃなくて。ちょっと誰かと話したいなーとか、ちょっと愚痴聞いてほしいなーとか、……きついこと思い出しちゃったとき、とか。なんでもいいから、俺絶対に聞くから、連絡してくれたら嬉しい。俺もする
し」
茉優は迷うように瞳を揺らして俯いた。
上昇していた血液が、さーっと引いていく。
「あ、でも、嫌だったら──」
「本当は」茉優はポケットからスマホを取り出した。「持ってきてるの。でも……電源すら入れてなくて」
黒い画面に、茉優の沈んだ顔が映った。
なぜ茉優がそうしているのか、俺にはわからない。
気にならないと言えば嘘になる。スマホの電源を入れていない理由も、今まで茉優の身になにが起きていたのかも、あの日の全貌も。
だけど、こればかりは無理に聞き出すわけにいかない。
口に出すことで楽になることもあれば、余計に辛くなることもある。
「交換しよう。私でよければ」
なにも訊けないままIDを交換し、店に戻った。
夜、自室に入ってすぐに茉優とのトーク画面を開いた。とりあえずスタンプだけ送ろうと思ったが、味気ないし返信が来なかったら嫌なので、悩みに悩んだ末ひと言だけ打って送信した。
いつか、茉優に届いてくれますように。