なぜかまた敦志さんにおつかいを頼まれて、朔と並んでマンションとは逆方向に歩いていく。昨日と同じように、つき合わせてごめん、気にしないで、ごめん、ほんとに大丈夫だよ、のやり取りを繰り返した。
 何度も謝るから、つい噴き出してしまった。

「ほんとにいいってば」
「あ……はは。俺しつこいな」

 朔が笑うと、昨日からずっとまとわりついていた気まずい空気が和らいだ。
 くすくすと笑いながらふいに目が合って、どちらからともなく足を止めた。
 すると朔がぐるんと体を反転させて再び歩き出したから、私もあとを追った。
 昨日は謝ることで頭がいっぱいだったけれど、改めて考えれば、今の状況が不思議でしょうがない。

「なんか、不思議だね」
「へっ? なにが?」
「朔とこうして話してるの」

 クラスメイトなのにほとんど話したことがないのは、学校での朔が無表情で無口だからだ。いつもひとりでいるし、笑うところも誰かと親しく喋るところも見たことがない。
 正直ちょっととっつきにくそうな印象を持っていたけれど、全然そんなことなかった。むしろ雰囲気や声色が柔らかくて話しやすい。

「ほほ、ほんとだよね。……ごめん、なんか俺、ちょっと緊張してる」
「実は私も、ちょっと緊張してる。ねえ、隣歩いてもいい?」
「ふぇっ? あ、ああ、うん、どうぞ」

 なぜか朔がうろたえるから、私もつられて「失礼します」と謎の返しをしてしまった。
 歩くスピードをちょっとだけ速めて、昨日からずっと故意に空けていたふたり分のスペースを詰めた。

「そういえば俺、亜実さんに姪がいること知らなかったよ。しかも、ま、茉優だったなんて、すげえ偶然だよね」
「私もびっくりした。敦志さんって朔の……」

 お父さんなのかお兄さんなのか、はたまた親戚なのかわからない。どれを口にするべきか悩んでしまう。口ごもった私の迷いを察してくれたのか、朔が「父さんだよ」と言った。
 亜実ちゃんよりちょっと歳上くらいに見えたけれど、もっと上なのかもしれない。

「そうなんだ。かっこいいね、敦志さん。優しいし」
「でしょ」

 こっちを向いた朔は、嬉しそうに笑った。
 お父さんのことを褒められてこんなに素直に笑えるなんて、よっぽど仲がいいのだろう。ふたりのやり取りを見ていても微笑ましい。
 私は今、お父さんとお母さんのことを誰かに褒めてもらえたとしても、きっとこんな風に笑えない。今思い浮かぶふたりの姿は、泣いているお母さんと困った顔で私に背中を向けるお父さんだ。

「……いいな」

 つい本音がこぼれてしまい、慌てて口に手を当てた。

「ごめん、なんて言った? 聞こえなかった」
「ううん、なんでもない。かっこいいお父さんで羨ましいなって」
「そっか。ありがと」

 今度は照れくさそうに笑って、また前を向いた。
 ごく自然に微笑む朔を見れば見るほど、不思議に思う気持ちが増すばかりだ。
 どうして朔は、学校では笑わず、誰とも接せずに過ごしているんだろう。

「あと、ケーキとラテアート褒めてくれてありがとう。すっげえ嬉しかった」
「私こそありがとう。敦志さんが作ったと思ってたから、びっくりしちゃった」
「あっちゃんがさ、けっこう厳しくて、お客さんに出せるレベルじゃないって言うんだよ。だからまだ亜実さんと旦那さんと、あっちゃんの友達にしか食べてもらったことなくて。だから茉優が食べてくれたとき、実はすっげえ緊張してた。今までで一番おいしかったって言ってくれたときなんか、ちょっと泣きそうだったし」
「そうだったんだ。朔って器用なんだね。私ケーキ作ったことないし、ラテアートなんてもっとできないよ」
「昔からケーキ作りはけっこう得意でさ。調理実習とか張りきっちゃって。まあ男のくせにキモイって言われてたけどね」
「そんなわけないじゃん。私趣味も特技もなんにもないから羨ましい。それに、ほんとにほんとにおいしかったよ」
「ありがと。ほんと嬉しい。自信ついた」

 心からケーキ作りが好きなのだろう。朔は無邪気に笑いながら、その目はしっかりと未来に向けられているように見えた。
 それはつまり、大事な手を傷つけてしまったことになる。
ごめん、と言いかけて止めた。謝ってばかりだと、今度は朔に罪悪感を抱かせてしまうかもしれないし、せっかく和やかにしてくれた空気を壊してしまう。
 代わりの言葉はすぐに見つかった。
 もうひとつ、朔に言わなければいけないことがある。

「あのね、朔」
「ん?」
「あのとき、庇ってくれてありがとう」

 振り向いた朔は、眉を下げた。
 一度俯いて、顔を上げて、穏やかに微笑んだ。

「うん、ごめんよりずっといい」

 何度謝罪をしても足りないけれど、それ以上に、何度感謝を伝えても足りない。
 朔がいなければ、私は停学処分じゃ済まなかったのだから。