「清一郎はな、こんな店の主のくせに、あやかしのお客さんらが怖いんや」
「えぇ!?」
スズの驚きに対し、寿子は頭を振っていた。
どれほど探し回って見つからなくても、一日の終わりに必ず寿子にその日の成果を報告する。そう言われている。
今日も一日中、店の中も外も、あちこち探し回ったが、いっこうに見つからなかった。お役目を任されてからはや三日、一度も良い報告が出来ておらず、歯がゆいばかりだった。
今も、その報告の最中だ。
「びっくりするわなぁ。あやかし相手の商人が、あやかしが怖いやなんて……主が客から逃げる店やなんて聞いたことないわ」
そう言って、寿子は湯飲みに口をつけた。
「そやからな、あんさん、あのアホ必ず捕まえとくれやす。大事な大事なお役目やて、わかってくれはるな?」
「は、はい……でもうちに、できますやろか……?」
「できます。わてが保証します。あんじょう気張りよし」
寿子はスズの両肩をしっかり掴んで、強くぽんぽんとたたいた。
その痛みが、寿子の期待の証だと伝わってきた。喜んでいいのかどうなのかわからないまま、スズは、頷くほかなかった。
「そうは言うても、こっちが近づくと凧みたいにどこかに行ってしまうんです。どないしたらええか……」
スズが途方にくれていた、その時だった。廊下で何か音がした。
「あれは……!」
間違いない。祝言の日に聞いた、あの綺麗な足音だ。
我知らず、スズは音のする方へ走り出していた。あの足音を奏でる人は、一人しか居ない。
音は、店に向かっている。慌てて店の方まで走って行き、叫んだ。
「旦さん、いてはりますか!?」
だが肝心の姿は見えず、お客と店の者たちに笑われるばかりだった。
「若ご寮さん、こっちには旦さんは来てまへんで?」
スズのことは、皆、『若ご寮さん』と呼んでくれる。祝言が台無しになってしまったので、スズは正式な妻……『ご寮さん』ではない。だが店の者も客たちも、いずれその座に就くだろうと言っている。
期待の籠もったスズの大事なお役目は、店の者も客たちも、誰もが推奨した。スズがいきなり駆け込んできても、こうして温かく見守っていてくれる。
それはありがたいのだが、困ったことに、彼らは清一郎の逃げ足に慣れすぎていた。もはや自分たちでは捕まえることは適わないと諦観の境地にいたのだ。そのため、見過ごすことも多い。
「いえ、こっちに来はりました! あの足音は間違いありません!」
スズの主張に、店の者たちは目を丸くする。
すると一人、そういえば、と声を上げた。寿子に付き従っていた芳郎だ。
「なんや他と感じの違うお客さんが、ついさっき出ていかはりましたわ。あれ、旦さんでしたかいな」
「ホンマですか!? ありがとうございます!」
さっと下駄を履き、暖簾をくぐって外に出る。目抜き通りに面するこの出入り口から出ると、あやかしたちは途端に人の形をとる。
不可思議な者たちなどはじめからいないかのように、人の波だけが流れていく。
スズは辺りを見回した。人がたくさんいても、あの人だけは何かが違うはずだ。あんなに綺麗な人は見たことがないのだから。
だが、どれだけぐるりと周囲を見渡しても『あの人』はいない。
「スズさん? どないしたんです?」
そう、声をかけてきたのは、先ほど店の中にいたはずの芳郎だった。
「芳郎さん、旦さん、見失ってしまいました……」
スズがしょんぼりしてそう言うと、芳郎は首を傾げた。
「旦さんを? 何の話でっか?」
「さっき、こっちの方に行ったって芳郎さんが言わはったんやないですか」
「わてが?……ははぁ、さては担がれましたな」
「……担がれた?」
面の奥で、芳郎が笑っているような気配を感じる。ちょっと珍しい。
「こっちに来たって言うて、スズさんの気を逸らしたんとちゃいますか。わてやったら、その間に反対の方へ逃げますわ」
「……あ! しもた!」
思えば先ほどの芳郎はかなり曖昧な言葉から、ちょっと無理矢理、結論を導き出していた。誘導されていたのだ。
「今戻ったら、まだ間に合うんとちゃいますか」
「ありがとうございます! ほな!」
手を振る芳郎に気付かないほど一生懸命に、スズは駆けていく。出て行った時と同じ勢いで店に駆け込むと、目の前には、またも芳郎がいた。スズは、その腕をしっかりと掴んだ。
「良かった。捕まえましたで、旦さん!」
「……は?」
きょとんとする芳郎を、スズは掴んで離さなかった。もう騙されまいとじっと睨んでいると、周囲の方がざわつきだす。
「あのぅ……若ご寮さん、これは間違いなく芳郎でっせ。朝から見飽きるくらい、ずっとこの帳場におりますさかい」
「…………え? でも、さっき外で……」
外を指さすも、他の者たちも皆、同じ事を言った。芳郎は、朝からずっとここで仕事をしていた、と。そして程なくして、生暖かい空気がスズを包み込むのだった。
「やられましたな。あの旦さんがやりそうなことや」
「つまり……さっきの芳郎さんが、本物の……?」
「まぁ、そういうことでんな」
この勝負、何が一番困ったかというと……清一郎は色々な者に化ける不可思議な術を使えるということだ。人にも、動物にも、モノにも、何にでも。
今更ながら、とんでもなく分の悪い勝負なのではないかと思い、毎日悔しい思いをするスズであった。
「えぇ!?」
スズの驚きに対し、寿子は頭を振っていた。
どれほど探し回って見つからなくても、一日の終わりに必ず寿子にその日の成果を報告する。そう言われている。
今日も一日中、店の中も外も、あちこち探し回ったが、いっこうに見つからなかった。お役目を任されてからはや三日、一度も良い報告が出来ておらず、歯がゆいばかりだった。
今も、その報告の最中だ。
「びっくりするわなぁ。あやかし相手の商人が、あやかしが怖いやなんて……主が客から逃げる店やなんて聞いたことないわ」
そう言って、寿子は湯飲みに口をつけた。
「そやからな、あんさん、あのアホ必ず捕まえとくれやす。大事な大事なお役目やて、わかってくれはるな?」
「は、はい……でもうちに、できますやろか……?」
「できます。わてが保証します。あんじょう気張りよし」
寿子はスズの両肩をしっかり掴んで、強くぽんぽんとたたいた。
その痛みが、寿子の期待の証だと伝わってきた。喜んでいいのかどうなのかわからないまま、スズは、頷くほかなかった。
「そうは言うても、こっちが近づくと凧みたいにどこかに行ってしまうんです。どないしたらええか……」
スズが途方にくれていた、その時だった。廊下で何か音がした。
「あれは……!」
間違いない。祝言の日に聞いた、あの綺麗な足音だ。
我知らず、スズは音のする方へ走り出していた。あの足音を奏でる人は、一人しか居ない。
音は、店に向かっている。慌てて店の方まで走って行き、叫んだ。
「旦さん、いてはりますか!?」
だが肝心の姿は見えず、お客と店の者たちに笑われるばかりだった。
「若ご寮さん、こっちには旦さんは来てまへんで?」
スズのことは、皆、『若ご寮さん』と呼んでくれる。祝言が台無しになってしまったので、スズは正式な妻……『ご寮さん』ではない。だが店の者も客たちも、いずれその座に就くだろうと言っている。
期待の籠もったスズの大事なお役目は、店の者も客たちも、誰もが推奨した。スズがいきなり駆け込んできても、こうして温かく見守っていてくれる。
それはありがたいのだが、困ったことに、彼らは清一郎の逃げ足に慣れすぎていた。もはや自分たちでは捕まえることは適わないと諦観の境地にいたのだ。そのため、見過ごすことも多い。
「いえ、こっちに来はりました! あの足音は間違いありません!」
スズの主張に、店の者たちは目を丸くする。
すると一人、そういえば、と声を上げた。寿子に付き従っていた芳郎だ。
「なんや他と感じの違うお客さんが、ついさっき出ていかはりましたわ。あれ、旦さんでしたかいな」
「ホンマですか!? ありがとうございます!」
さっと下駄を履き、暖簾をくぐって外に出る。目抜き通りに面するこの出入り口から出ると、あやかしたちは途端に人の形をとる。
不可思議な者たちなどはじめからいないかのように、人の波だけが流れていく。
スズは辺りを見回した。人がたくさんいても、あの人だけは何かが違うはずだ。あんなに綺麗な人は見たことがないのだから。
だが、どれだけぐるりと周囲を見渡しても『あの人』はいない。
「スズさん? どないしたんです?」
そう、声をかけてきたのは、先ほど店の中にいたはずの芳郎だった。
「芳郎さん、旦さん、見失ってしまいました……」
スズがしょんぼりしてそう言うと、芳郎は首を傾げた。
「旦さんを? 何の話でっか?」
「さっき、こっちの方に行ったって芳郎さんが言わはったんやないですか」
「わてが?……ははぁ、さては担がれましたな」
「……担がれた?」
面の奥で、芳郎が笑っているような気配を感じる。ちょっと珍しい。
「こっちに来たって言うて、スズさんの気を逸らしたんとちゃいますか。わてやったら、その間に反対の方へ逃げますわ」
「……あ! しもた!」
思えば先ほどの芳郎はかなり曖昧な言葉から、ちょっと無理矢理、結論を導き出していた。誘導されていたのだ。
「今戻ったら、まだ間に合うんとちゃいますか」
「ありがとうございます! ほな!」
手を振る芳郎に気付かないほど一生懸命に、スズは駆けていく。出て行った時と同じ勢いで店に駆け込むと、目の前には、またも芳郎がいた。スズは、その腕をしっかりと掴んだ。
「良かった。捕まえましたで、旦さん!」
「……は?」
きょとんとする芳郎を、スズは掴んで離さなかった。もう騙されまいとじっと睨んでいると、周囲の方がざわつきだす。
「あのぅ……若ご寮さん、これは間違いなく芳郎でっせ。朝から見飽きるくらい、ずっとこの帳場におりますさかい」
「…………え? でも、さっき外で……」
外を指さすも、他の者たちも皆、同じ事を言った。芳郎は、朝からずっとここで仕事をしていた、と。そして程なくして、生暖かい空気がスズを包み込むのだった。
「やられましたな。あの旦さんがやりそうなことや」
「つまり……さっきの芳郎さんが、本物の……?」
「まぁ、そういうことでんな」
この勝負、何が一番困ったかというと……清一郎は色々な者に化ける不可思議な術を使えるということだ。人にも、動物にも、モノにも、何にでも。
今更ながら、とんでもなく分の悪い勝負なのではないかと思い、毎日悔しい思いをするスズであった。