これは夢なのだろうか、と思う。
 彼女はもう二十年も前に亡くなっている。それに獅堂だって。
 故人であるはずの二人が存在する時点で、ここが現実ではないことはわかっている。けれど、触れた手のひらから伝わってくる彼女の温もりが、あまりにも心地良くて。このまま離したくないと思ってしまう。

「兼嗣」

 彼女の呼ぶ声が聞こえて、顔を上げようとしたそのとき。ひやりと頬に冷たいものが触れて、兼嗣は「ひゃっ」と思わず甲高い声を上げた。

「はは。すまない。驚かせてしまったな」

 見ると、頬に当たったのは氷嚢(ひょうのう)だった。先ほど獅堂に打たれた患部を冷やすため、右京が用意してくれたものだった。

「災難だったな。きっと獅堂も虫の居所が悪かったのだろう」

 いつのまにか、二人は右京の部屋で腰を落ち着けていた。兼嗣は座布団の上で胡座(あぐら)をかいており、すぐ隣にいた彼女に目をやって、小さく唇を尖らせる。

「俺、あいつ嫌いや。いっつもああやって殴ってくるねん。俺、何もしてへんのに」

 そんな彼の頬に氷嚢を当てたまま、右京は空いた方の手でよしよしと頭を撫でた。

「そうだな。兼嗣は何も悪くない。だから獅堂のことを許せとは言わない。ただ……」

「ただ?」

 兼嗣が見ると、彼女はどこか寂しげな微笑を浮かべて言った。

「獅堂にも色々あるんだ。あの子もあの子で、つらい思いをしている。だから、その不安を誰かにぶつけてしまうんだ。そういう弱い面があるんだよ。あの子には」

 まるで獅堂を庇うようなその発言に、兼嗣はムッとした。

「獅堂も悪くないってこと?」

「いいや。そういうわけじゃない。ただ、人には色んな面があって、目に見えていることだけが全てじゃないんだ。獅堂にも、兼嗣の知らない面がある。それだけはわかってやってほしいんだ」

 言いながら、右京は傍らに置いていたバッグを漁り、中から高さ三十センチほどある箱を取り出した。

「何それ」

「土産に買ってきた。『大黒(だいこく)さま』だ」

 箱を開けると、出てきたのは木彫りの人形だった。ふくよかな老人の姿で、肩には大きな袋を担ぎ、手には小槌(こづち)を持っている。

「七福神の大黒天。福を授けるご利益があるんだぞ」

 お前にやる、と彼女はそれを兼嗣の胸へ押し付ける。手に取ってまじまじと見てみると、優しげに細められた老人の目と視線が合う。

「穏やかな顔をしてるだろ。でも、大黒天はもともとは戦の神で、世界を滅ぼす存在でもあったんだ。それが遠い国から日本へ伝わるまでに、色々と形を変えて、今の優しい神様になった。面白いだろ?」

 彼女は土産物に目がない。そして、こうして旅先で得た知識を嬉しそうに語るのはいつものことだった。

「神様にだって、それだけ色んな顔があるんだ。だから人間なんてものはもっと複雑で、周りからは見えない部分がたくさんある。きっと兼嗣も大人になったらわかるさ」

 まるで今は理解できないだろうと決めつけられた気がして、兼嗣は悔しくなる。

「俺だってわかるよ。だって俺、もう子どもじゃないんやから」

 もう子どもじゃない。今はこんな(なり)だけれど、現実ではあれから二十年も経って、彼は二十七歳になった。

「俺はもう大人なんや。だから獅堂のことだって……」

 あいつのこともよく知っている。獅堂は二十年前に黄泉への扉を開いて、そのまま帰らぬ人となった。
 右京を道連れにして。

「……右京さんのことだって」

 彼女は死んだ。その事実を改めて認識した瞬間、それまで目を背けていた不安が一気に押し寄せてくる。

「私がどうしたって?」

 彼女はこちらの顔を覗き込んで聞く。懐かしい微笑み。兼嗣は己の鼓動が早くなっていくのを感じながら、部屋の壁に掛けられたカレンダーに目をやった。
 日めくり式のそれは十月十五日を指している。年は今から二十年前。つまり、彼女が死ぬまであと二ヶ月ほどしかない。

「……い、いやだ。右京さん」

 また、彼女を失うかもしれない。
 その恐怖を自覚した瞬間、辺りの景色がぐにゃりと歪んだ。