「獅堂()()、だろうがよ。てめえ、自分の立場がまだわかってねえのか?」

 忌々しげにこちらを見下ろしながら、獅堂は一歩足を踏み出す。ぎしり、と床板の軋む音がした。
 気づけば、辺りの景色はいつのまにか変わっていた。木造の古い床板に漆喰の壁。遠くに襖が見えるその場所は、本家の屋敷の廊下で間違いない。

「なんだ、その顔は。幽霊でも見たような顔しやがって。おい、何とか言ったらどうだ」

 無遠慮に距離を詰めてくる獅堂は、手持ち無沙汰にしていた右手を振り上げる。
 懐かしい光景だった。子どもの頃に何度も見た、腹違いの兄の恐ろしい顔。汚らわしいモノを見下すようなその目のすぐ下で、にんまりと口元だけが笑っている。

「ひっ……」

 無意識のうちに短い悲鳴が漏れる。半ば条件反射のようなもので、兼嗣は受け身を取ることもできずに全身を強張らせた。
 直後。無慈悲に振り下ろされた右手が、幼い兼嗣の頬を張り飛ばす。乾いた音が廊下に響き、小さな体は反動でいともたやすく床に叩きつけられた。

「帰れ! ここはお前のような人間が来る場所じゃないと、何度言ったらわかる!」

 床に突っ伏したまま、兼嗣はじんじんと熱を帯びる左頬に手を添える。幼心に、理不尽なことを言われているなと思った。本家の人間から呼び出されて、わざわざ神戸から東京まで出向いたというのに、この仕打ちとは。

「なんだよ。何か文句でもあるのか?」

 生理的な涙を目尻に溜めて兼嗣が睨み上げると、獅堂はニヤニヤとした笑みを浮かべて膝を折り、顔を近づけてくる。
 完全に遊ばれている。ストレス発散のサンドバッグもいいところだ。もともと本家の人間からは良い扱いを受けてこなかったが、ここまであからさまな体罰を加えるのはこの男一人だけである。

(こんな奴、いなくなってしまえばええのに)

 心の中で、何度そう願ったことか。いなくなってしまえばいい。それこそ永久家の呪いで身を滅ぼせばいい。どうせこいつ一人がいなくなったところで、長男(跡継ぎ)の代わりはいるのだから。

「気に食わねえ顔してるな。どれ、もう一発お見舞いして……」

「獅堂。そこで何をしている」

 後方から、別の声が届く。凛とした張りのある声。
 そこで獅堂はぴたりと動きを止め、恐る恐るといった様子で顔を上げた。兼嗣も首だけを動かして、肩越しに後ろを振り返る。
 廊下の先にいたのは、すらりとした背の高い女性だった。白地の着物に男物の羽織を肩から掛けた、中性的な顔立ちの美女。

「う、右京」

 獅堂はその名を口にしながら、よろよろとその場に立ち上がって後退りした。

「何をしていると聞いている」

 その場の張り詰めた空気を一閃させる声。わずかな怒気を含んだ彼女の視線に、獅堂はしどろもどろになる。

「な、何もしてねーよ。俺は。こいつが勝手なことするから」

「兼嗣が何かしたのか? 一体何をしたのか、具体的に言ってみろ」

「し、知らねえって!」

 途端に(きびす)を返して逃げ出す獅堂。その背中が完全に見えなくなるのを確認してから、右京は兼嗣のもとへと歩み寄った。

「右京さん……ありがとう」

 兼嗣はほっと息を吐きながら上体を起こし、改めて彼女の美しい顔を見上げた。

「私は何もしていないさ。それより、早く頬を冷やした方がいい。私の部屋においで」

 差し伸べられた彼女の手に、兼嗣は自分のそれを重ねる。大きくて、あたたかな手。その手に力強く引かれて、彼は立ち上がる。
 こうして彼女に助けられることは、今までにも何度もあった。まるでこちらの危機を予測していたかのように、彼女はいつだって助けに来てくれる。

「右京さん、ほんまにありがとう。俺、右京さんのこと……」

 彼女のことが好きだった。
 けれど、それを素直に口に出来るほど、兼嗣は幼い子どもではないつもりだった。
 そのまま黙り込んでしまった彼の心を知ってか知らずか、右京はその先を促そうとはしない。互いの手を繋いだまま、二人は屋敷の奥へと進んでいった。