春夏秋冬の草花が描かれている襖仕立ての鏡面から、朝日が差し込んでいた。
 煉魁は目覚めると、頭だけ持ち上げ頬杖をつきながら、隣でしどけない姿で眠っている琴禰に目を落とした。
 長い髪の毛から少しだけ見える、白く艶やかな肌。
 毎夜堪能しているにも関わらず、目に入ると欲情してしまう。
 疲れたのか、ぐっすり眠る琴禰の頭を撫で、こめかみに口付けを落とす。

 琴禰の最近の様子がおかしい。だが、原因は分かっている。
 あやかしの国に入ってきたあの優男のせいだ。
 あいつは一目見た時から気に食わなかった。理由は分からない。強いて言うなら男の勘だ。
 さっさと放り出してやりたいところだが、琴禰にお願いされては無下にはできない。
 琴禰が望むことなら、何でも叶えてやりたい。それが、自分の本意ではなかったとしても。

 それと、もう一つ、気になることがある。琴禰の強すぎる力についてだ。
 出会った当初は文字通り力尽きていたので分からなかったが、琴禰の潜在能力はそんじょそこらのあやかしよりも強い。
 ほとんど力が回復してきた今では分かる。琴禰の力は強すぎる。異常ともいえる。
 力の強い宮中のあやかしでさえ倒せるほどの力を持った人間など聞いたことがない。
 祓魔は人間界でも特別な一族だと知ってはいたが、それにしても強すぎる。

 琴禰は一体、何者だ?

 琴禰から、辛い過去のことは聞いてはいたけれど、もしかしたらもっと深い何かを抱えているのかもしれない。
 それが何か琴禰に聞いてみたいとは思うが、辛そうな琴禰の顔を見ると、かわいそうでとてもそんなことできない。
 となると、聞けるのはただ一人。あやかしに入って来たあの男だ。
 いけ好かない奴だが、琴禰の過去を知る人物だ。何かを知っているに違いない。
 煉魁は眼光を鋭くさせ、起き上がると、鍛え上げられた体に着物を羽織った。


 煉魁は、まずは人間の男がどんな人物なのか遠くから探ってみることにした。
 男はまだ体力が回復していないにも関わらず、積極的に外に出て宮中内を探索しているようだ。
 優しそうな雰囲気と物腰の柔らかさ、そして甘い顔立ちをしているので、侍女たちの人気は高いようだ。
 しかし、男の目が笑っていないことに煉魁は当初から気が付いていた。

(胡散臭そうな男だな。だが、女はこういう腹黒い男に弱い)

 俺の方が何倍もいい男だなと、煉魁は思う。

「そういえば、あの男の名はなんだったか。すら……ちがう、すみか、するめ……」

「澄八ですよ」

「ああ、そうそう、澄八だ!」

 名前を思い出すのに没頭していたら、目の前に観察対象の澄八がいることに気が付かなかった。

「何をさっきから覗き見しているのですか、あやかし王」

「覗き見とは失礼だな。ここは俺の国だ。何を見ようと俺の自由だ」

 煉魁は澄八の前で腰に手を当て背筋を伸ばした。
 煉魁の方が炭八より頭半分くらい大きい。自らの優位性を誇示していた。

「確かに何を見ようと勝手ですが、するめはないでしょう。気になる相手の名前くらい覚えておくものですよ」

 澄八は口の片端を上げ、呆れるように言った。

「気になる? 俺がお前ごときを?」

 ごときと言われたことに、澄八は内心カチンときた。
 物腰は柔らかいが、澄八は矜持がとても高い。

「僕は、琴禰の初恋の人ですから」

「琴禰の初恋?」

 煉魁は眉を顰める。

「おや、聞いていませんでしたか? てっきりそれを聞いていたから僕に嫉妬して、敵情視察にやってきたのかと思ってしまいました」

 これまで下手に出ていた澄八だったが、昨日の琴禰との会話で、自身の方が優位だと分かったので態度が大きくなっていた。

「は? 俺が嫉妬? お前より何もかもが勝っている俺が嫉妬なんてするわけがないだろう」

 これには当然、澄八はカチンときた。
 言い返そうと口を開いた瞬間、煉魁から殺気のような恐ろしい威圧感が放たれていたので、慌てて口を噤む。
 絶対に怒らせてはいけない相手だと判断した澄八は、先ほどまでの高慢な態度は隠し、柔和な笑みを浮かべる。

「確かにあやかし王に勝てる相手はいませんよね。ちょっとした冗談ですよ。人間界では自分より立場が上な方に、わざとこういう冗談を言って相手と親しくなりたいという意思表示をするのです。そして、偉大な方はその冗談を受け流し、器の広さを証明し周りから尊敬されるという流れです。つい癖で申し訳ありませんでした」

 相手が潔く謝ってきたのに、ここでさらに怒ったら己の狭量さが際立つ。
 さらに澄八は遠回しに、軽い冗談で怒るなんて器の小さい人のやることだと非難しているが、こう言われたら大体の人は怒りを鎮めざるを得ないことを計算した上での発言だ。
 しかしながら、煉魁にはまったく効いていなかった。

「うるせぇ馬鹿やろう。琴禰の初恋の人だからって調子に乗るなよ。俺は嫉妬なんてしてないからな! 分かったな!」

 そう言って怒りながら澄八の前から立ち去った。

(あれ思いっきり嫉妬しているだろ。逆に隠す気ないだろ)

 澄八は呆気に取られながら一人残された。

(あやかし王は暗君なのか?)

 愚かで幼稚な王だと判断することもできるが、澄八の勘はそれを否定していた。

(あやかし王は良くも悪くも感情のまま直感で動く性質だ。洗脳や謀られるような失敗はしない。僕の最も苦手とするタイプかもしれない)

 澄八は巧妙に取り入るのが上手い。些細な言動から心を操り、自分の優位な方向に持っていく。
 しかし、あまりに自己が確立していて軸がぶれない人は、澄八の思うように動かせないので苛々する。

(琴禰は僕のことが好きで、あやかし王の命を狙っている。僕に嫉妬し怒りを露わにしているあやかし王を見て、嘲笑ってもいい状況なのに、なんだ、このすっきりしない気持ちは。どうして負けたような気分になる)

 澄八は苛々した表情で、親指の爪を噛んだ。


 一方、琴禰の過去を聞き出そうとしていたはずの煉魁は、澄八が琴禰の初恋の人だという衝撃の事実を知ってしまったので、うっかり本来の趣旨を忘れていた。

(あいつが、琴禰の初恋の人だと⁉ 俺は信じないぞ。だが、もしも本当だったとしたら……めちゃくちゃ羨ましい!)

 思いっきり嫉妬していた。
 これは琴禰に問いたださなければいけない案件だと判断した煉魁は、そのまま真っ直ぐ宮殿へ向かった。

「琴禰!」

 スパァーンと大きな音を立てて妻戸(つまど)を開けた煉魁だったが、室内には誰もいなかった。

「奥様なら調理場へ行かれましたよ?」

 通りかかりの侍女が言った。
 煉魁は振り向き、不機嫌そうな表情で侍女に聞く。

「調理場? なぜ」

「知らなかったのですか? 最近奥様は自分の分は自分で調理し召し上がっているのですよ」

 琴禰は王妃となったのだから、何もせず優雅に過ごしていればいいのに、掃除に庭園の手入れに、今度は料理にと忙しない。
一体どうしてそんなことをしているのだと思って、煉魁は調理場に行ってみることにした。
広い調理場には、何人もの料理人たちが食材の下ごしらえをしていた。
その中に着物の袖を、たすき掛けし、白い割烹着を羽織った琴禰が、扶久と楽しそうに料理を作っていた。
 料理人達が煉魁に気づき、手を止めて頭を下げる。その様子に気が付いた琴禰は入り口の方を見た。
 目が合うと、琴禰は嬉しそうに微笑んで包丁を置いた。
 煉魁は中に入ると、あやかし達を下がらせた。

「料理を作っていたのか?」

「はい。あやかしの食材は面白いですね。人間界の食材と変わらないのもあれば、見たこともない野菜や果物もあって、調理法も独特です。でも、どれもとても美味しいので、皆さんに教えてもらっていたのです」

 琴禰の声が弾んでいた。とても楽しそうだ。

「どうして俺には作ってくれないのだ」

「だってまだ、人前に出せるような腕前じゃありませんし、もっと上手になってから召し上がってもらおうと思ったのです。まだ失敗してしまうことも多いですし」

 あやかしの調理器具は魔力で火をつけ加減を調整するので慣れるまで時間がかかりそうだったのだ。

「琴禰の作った物なら、失敗作でも食べたい」

 煉魁が甘えたように言うので、琴禰は笑って食材に手を伸ばした。

「わかりました、今から作りますね。失敗しても怒らないでくださいよ」

「怒るわけがないだろう。不味くても全部食べる」

 琴禰は困ったように笑いながら食材を選び始めた。

「嫌いな食べ物はありますか?」

「茄子と海鼠(なまこ)と干しぶどうと、(やわ)らかな食感があるものが苦手だ」

「なるほど、けっこうありますね。では、それを使った料理にしましょう」

「え」

 煉魁が嫌そうな顔をしたので、琴禰は笑った。

「冗談ですよ。煉魁様が好きなものは調理人たちから聞いているので、それを作りましょう。でも、好き嫌いは駄目ですよ。私が煉魁様の食事を作るようになったら、苦手なものも出しますからね」

「なかなか容赦ないな」

「煉魁様の健康を思ってのことです」

 琴禰は慣れた手付きで野菜を切り始めた。薄く均等な大きさに小気味よい速さで切っていくので、煉魁は感心した。
 澄八のことを聞きにきたはずなのに、言いだす機会を失ってしまった。
 けれど、琴禰と二人きりでこうしていられるのは何より楽しい。

「出来ましたよ」

 黒椀に青菜と共に美しく盛り付けられた鯛の煮つけと、カラっと揚がった山菜の天ぷら。赤味噌汁に小さな土鍋で炊いた白米が御膳に並べられた。
 どれも手間暇がかかり時間を要しそうなのに、あっという間に出来上がったので煉魁は驚いた。

「凄いな」

「お口に合えば宜しいのですが」

 箸を取り、一口食べると、あまりの美味しさに目を見張った。

「美味い!」

 思わず大きな声が出る。お世辞ではなく、本当にびっくりするくらい美味しかった。

「ああ、良かった。あまりお待たせするのもあれなので、品数は少ないですが、ちゃんとお時間をいただければ、いつも煉魁様が召し上がっているような御膳を準備したいと思います」

「何でもできるのだな、琴禰は」

「いえ、祓魔にいた頃は、目が悪いし体も思うように動かず、鈍くさくていつも怒られてばかりでした」

 琴禰は少しだけ顔を歪ませながら無理をして笑みを作った。
 もう過去のことで、なんでもないことのように振る舞っているが、心に受けた傷はまだ癒えていないことを知り、煉魁は人知れず胸を痛めた。

「琴禰に優しくしてくれる者はいなかったのか?」

「あ~、澄八さんだけは優しかったです」

 食べていた手が止まる。
 意図せず聞き出す形となってしまった琴禰と澄八の関係性。
 初恋の人、という煉魁にとっては不快極まりない言葉を思い出し、味噌汁で流し込む。

「その、澄八という奴はアレか? 琴禰にとって、その、は、は、はつ……」

「はつ?」

 琴禰は、こてんと首をかしげた。

「初恋とか、そういう類の……」

 煉魁の言葉に、琴禰の顔はわかりやすく真っ赤になった。
 煉魁は大きな棍棒で殴られたかのような衝撃を受ける。

「いえ、あの、違うのです。澄八さんは、私の妹の婚約者だったので、そんな関係ではなく……」

「つまり、琴禰の片思い的な?」

 再び琴禰の顔が赤くなる。
 今度は撞木で鐘を鳴らすように思いっきり頭を打ち付けられたかのような衝撃が煉魁を襲う。
 自分で聞いておきながら毎度自爆している。

「あの、でも、その時はあの人のことをよく知らなかったのです。表面的なものしか見てなかったというか、そこまで多く話すこともなかったですし」

 ショックを受けている煉魁に、必死でフォローしてくれているのは分かるものの、初恋やら片思いやらは否定しないので、その優しさが心を抉る。
 煉魁は自らを立て直そうと、琴禰の作ってくれた御膳を勢いよく平らげた。

「あいつには料理を作ってやったことはあるのか?」

「いいえ、家族にだけです」

 煉魁は心の中でよし、と喜んだ。

「では、手を繋いだことは?」

 煉魁は琴禰の手に触れ、指先を絡めた。

「ないです。触れたことすらありません」

 煉魁は甘美な色気を含んだ瞳で琴禰を見据え、手を握っていない方の手で、琴禰の唇を撫でた。

「では、口付けしたことは?」

「あるわけがありません。だから、そのような関係性では……」

 琴禰が最後まで言い終わらないうちに、煉魁は琴禰の唇を奪った。
 情熱的な口付けは、すぐに唇を割って口腔内を蹂躙する。

「んっんっ」

 息継ぎをすることさえ許されないような激しい口付けは、あっという間に二人の温度を高くする。

「お前は俺のものだ。頭のてっぺんから足の爪先まで、全て俺色に染めてやる」

 煉魁は琴禰を自分の膝の上に座らせ、向き合う体勢で舌を絡ませる。
 そして、着物の裾を割って入るように手を侵入させた。

「んっ!」

 太腿に手を這わせられた琴禰は抗議の声を上げようにも、唇が塞がれているので言葉にならない。
 身をよじって抵抗の意思を見せても、煉魁は琴禰をきつく抱きしめているので膝から降りることもできない。

「嫌か?」

 煉魁はようやく唇を離し、欲するような目で問いかける。

「こんな所では……」

「では、場所を変えればいいのだな?」

琴禰は息も絶え絶えにコクリと頷いた。
 煉魁は琴禰を横抱きにして立ち上がると、愉悦の笑みを浮かべた。

「いいだろう。他の男のことなんて忘れさせるくらい、琴禰の体に俺を刻み込んでやる」

 そう言うと煉魁は琴禰を横抱きにしたまま、周りに見せつけるように宮中内を歩き、宮殿へと連れて行った。
 そして寝台に琴禰を横たわらせると、体の上に覆いかぶさり、嫉妬で燃えた目で悪戯な笑みを携えて言った。

「俺なしではいられない体にしてやる。覚悟しろよ?」

 いつも以上に激しく琴禰を求める煉魁。
 それが、琴禰を強烈に想う嫉妬心からきていることは明らかだった。

(私はすでに煉魁様のことしか考えられないのに)

 伝えようにも、煉魁の熱情が激しくて、嬌声しか上げられない。
 その日は日中から部屋に籠りきり、二人が出てくることはなかった。