まさかの正体に、琴禰は言葉を失った。
 澄八は微笑を浮かべながら、ゆっくりと近付いてくる。
 琴禰と目が合うも、澄八は驚いている様子はなかった。

「止まれ。これ以上の入国は許可していない」

 煉魁に制され、澄八は大人しく従った。

「凄まじい魔力だ。もしやあなた様は……」

「俺は、あやかし王だ」

 煉魁の返事に対しても、澄八は笑みを絶やさない。いっそ、不気味なほどだった。

「やはり。琴禰の側にいるので、そうだろうと思いました」

「お前、琴禰を知っているのか?」

 琴禰は真っ青になりながら、立っているのがやっとの状態で煉魁に掴まっていた。
 小刻みに震え出した琴禰を見て、煉魁は先ほどの会話を思い出す。

「祓魔一族の者だと言っていたな。お前まさか、琴禰を殺しにきたのか?」

 煉魁から荒れ狂う殺気が上がる。
 もしも攻撃されたら、一発で澄八はやられてしまうのは明白だ。

「まさか! 僕は祓魔一族から殺されかけていた琴禰を逃がしてやったのですよ。つまり、琴禰を助けたのです。なあ、琴禰?」

 ふいに話しかけられた琴禰の肩がビクっと上がる。
 確かに祓魔一族が琴禰を殺そうとしてきた時、琴禰に選択肢を与えてくれたのは澄八だった。
 攻撃された最初の方はまだしも、髪がほどけて力が解放された琴禰にとって祓魔一族はもはや敵ではなかった。
 もしもあのまま戦っていたら、どちらが勝っていたかは澄八も分かっているだろう。
 でも、この場で真実を詳しく語る必要はない。
 むしろ、隠さなければならない事柄だ。

「琴禰、本当なのか?」

 青くなったまま俯いている琴禰に、煉魁が訝しそうに問う。

「……はい。私は澄八さんに逃がしてもらいました」

 真実は少し違うけれど、嘘は言っていない。
 琴禰の言葉に、澄八は安堵した表情を見せた。
 ここで琴禰が否定していたら、澄八の命はなかっただろう。

「では、なぜお前はここに来た」

 煉魁はまだ警戒を緩めなかった。
 どことなく邪な気を澄八から感じていたためだ。

「琴禰のことが心配だったからですよ。ちゃんと辿り着き、生きているのかどうか。でも元気そうな姿を見て安心しました。ここで帰りたいところですが、来るまでに力を使い果たしてしまったので、帰る力が残っていません。力が回復するまで、しばらく休ませてもらってもいいでしょうか?」

 澄八は目を細めて言った。澄八は人の良さそうな感じのいい笑顔をする。
 琴禰もずっと、澄八はいい人だと思っていた。
 しかし、腹の中に底知れぬ野望と冷酷さを持っていることを知ってしまっているので、澄八の笑顔を逆に恐ろしいと感じてしまう。

「どうする、琴禰。こいつをここから突き落としてもいいのだぞ」

 煉魁の発言に、澄八はぎょっとする。

「それはいけません! 澄八さんは私の命の恩人です。しばらく休ませてあげてください。私からもお願いします」

 琴禰は煉魁に頭を下げた。
 澄八が本当に、琴禰を心配してあやかしの国に来たのかは分からない。
 けれど、知り合いが目の前で死んでしまうのは耐えられない。
 あまり乗り気ではなかったが仕方ない。

「琴禰のお願いなら仕方ない。しかし、力が回復したらすぐに帰るのだぞ。長居は許さん」

「承知致しました、あやかし王」

 澄八は深々と礼をした。
 琴禰はこのまま何も起きないことを切に願った。


 澄八が宮中に案内されると、あやかし達は不満を露わにした。
 次々とやってくる人間たち。あやかし王は何を考えているのだと呆れていた。

 そして澄八は、以前琴禰が使っていた客間に、しばらくの間住むことになった。
 人の良い笑顔で、腰の低い澄八は、侍女たちから好意的に思われるのも早かった。
 顔立ちも良いせいか、好意的を通り越して、チヤホヤされ始めている。
 そして、不満を露わにしていた男性たちからも、悪い奴ではないようだと受け入れられてきた。
 澄八のコミュニケーション能力の高さに琴禰は圧倒されてしまうのだった。
 すでに宮中内を歩きまわり、あやかし達と親しそうに挨拶を交わす澄八を物陰からこっそり見ていた琴禰は、自分の社交性の低さに人知れずため息を漏らした。

(なんだかすっかり打ち解けている。私が皆に受け入れてもらえないのは、人間だからではなく根暗なのがいけないのかしら)

 琴禰の方が先にあやかしの国に来たのにという嫉妬心で、胸が小さく痛む。
 そんなことよりも危惧しなければいけないことがあるわけで、これまた自分の器の小ささを感じて落ち込むのだった。

「そんなところで何をしているの?」

 突然後ろから話し掛けられたので、琴禰は飛び上がるように驚いた。
 振り向くと、さっきまで渡殿を歩いていたはずの澄八が琴禰の後ろにいた。

「え⁉ あ、えっと……」

 狼狽しながらあたふたしている琴禰に、澄八はぷっと笑いを吹き出す。

「見た目は随分変わったけど、中身は変わっていないようだね」

 人間界にいた時の琴禰は、おっちょこちょいで何をやらせても上手くできない無能だった。
 力が開花したにも関わらず、琴禰は今でも自己肯定感が低いし、煉魁と扶久以外まともに話したこともない。
 相変わらずの凡愚を指摘されたように感じて、気分が沈んでしまう。
 塞ぎ込むように俯く琴禰を見て、澄八は慌てて弁解した。

「悪い意味で言ったわけじゃない。僕は前の琴禰も素朴で好感を持っていたのだよ。不器用だけど真面目で精一杯頑張っている姿を見ていたからね」

「澄八さん……」

 そんな風に琴禰を評価してくれるのは澄八くらいだった。
 無能で役立たずと罵られる琴禰に、唯一優しくしてくれたことを思い出す。

「おい、俺の許可なしに妻に話しかけるとはいい度胸だな」

 どこから現れたのか、煉魁は後ろから琴禰を抱きしめ、まるで胸の中で守るようにして言った。
 これみよがしに体を密着させてくるので、琴禰は恥ずかしくなって少しだけ抵抗したものの、そんなこと煉魁が許すはずもなく、しっかりと琴禰を腕の中に収めている。

「妻?」

 澄八が驚いた表情で二人を見る。
琴禰は血の契約の負い目があるので、気まずそうに目を逸らした。

「そうだ、俺達は結婚したのだ。な、琴禰」

 煉魁は左の薬指にはめられた指輪を自慢気に掲げた。
 琴禰も観念したかのように、そっと左手を見せる。

「こんな短期間のうちに……。そうですか、それはおめでとうございます」

 澄八は不気味な笑みを携えて祝福を述べた。
 琴禰の心臓がドクドクと警戒音を鳴らすように激しく動き出した。

(どうしよう。煉魁様を好きになってしまった事実を知ってしまったら、激怒して血の契約を無理やり発動させるかもしれない)

 必死で考えを巡らす。煉魁を守ることは澄八ないし祓魔一族を裏切ることだ。けれど、琴禰にはもう、煉魁に危害を加えるようなことはしたくない。
 仮に琴禰が力を暴発させて煉魁を襲ったとしても、煉魁の力の方が強いので倒すことはできないことは分かっているが、それでも煉魁を攻撃するなんてことは絶対にしたくない。
 祓魔一族を取るか、煉魁を取るか。
 琴禰の中で、もう答えは決まっていた。

「うん、だからお前はさっさと帰れ」

 煉魁はまるで犬でも追い払うかのように、シッシッと手を払った。
 なぜか分からないけれど煉魁は、澄八を嫌っているらしい。

「そうしたいところなのですが、まだ完全には力が戻っていないので、もうしばらく厄介になるかと思います。良いですよね、琴禰」

 同意を求められた琴禰は、目が泳ぎながらも静かに頷いた。

(澄八さんを騙さなければ)

 琴禰は決意した。かつては初恋の人だったけれど、今ではまったく心が動かされない。

「煉魁様、この方は私の命の恩人であり、幼馴染でもあります。昔から無能で虐げられていた私を気にかけてくださいました。だからどうか、もう少しの間だけ、彼の滞在を許可してください」

「幼馴染か。余計面白くないが、仕方ない。もう少しだけだからな。それに、むやみに俺の嫁に近づくなよ、分かったな!」

「寛大なお心に感謝いたします」

 あからさまに敵対心と嫉妬心を露わにされているのに、澄八は飄々とした顔で礼を述べた。

「さあ、琴禰、行こうか」

 煉魁は琴禰の肩を抱いて、澄八から遠ざけようとした。

「待ってください、煉魁様。少しだけ彼と二人きりで話してもいいでしょうか?」

「二人きり?」

 煉魁は渋面を作って、もの凄く嫌そうな口ぶりで言った。

「故郷のことなど積もる話がありますので」

「俺が一緒にいたらまずいのか?」

「祓魔での出来事は、あまり煉魁様に知られたくないのです」

 琴禰は悲しそうに睫毛を伏せた。
 憂いのある表情は、人間界でどれほど傷つけられてきたのかが窺い知れる。

「……分かった」

 本当は嫌で、嫌で堪らないし、早く話を終わらせろよ、と言ってやりたい気持ちをなんとか抑えて、煉魁は承諾した。
 過去の辛い出来事も全て打ち明けてほしいし、頼られ、慰めてあげる存在となりたい。悔しい気持ちをぐっと堪える。
 代わりに琴禰に気づかれないように、澄八を睨み付けて牽制し、その場を去った。
 煉魁がいなくなり、会話も聞こえない距離になったことを見計らって澄八が口を開いた。

「あやかし王は随分と幼稚だね」

「感情表現が直球で素直な方なのです」

 澄八は煉魁を嘲ったつもりなのに、惚気で返ってきたので気分を害した。

「あのあやかし王をたぶらかすとは、なかなか」

 たぶらかしているつもりはないが、否定できないので曖昧に視線を逸らす。

「結婚ねぇ。確かに最善の策だよ。あやかし王を目の前にして分かったけれど、あれは化け物だね。祓魔一族が束になったところで傷一つ負わせられないだろう。琴禰なら攻撃の一つか二つくらいなら当たるかもしれないけれど、倒せるかというと難しいだろう。でも、妻となれば話は別だよね。例えば奴が寝入っているときなどに心臓を一撃で刺せば勝機はある」

 澄八の目が輝き、嬉しそうに口元を綻ばせた。
 もちろん琴禰はそんなことをするつもりは毛頭ないが、結婚を持ちかけたのは勝機を探るためだ。
 澄八の見解は間違ってはいない。だからこそ、胸が痛い。

「どうして黙っているの? まさか、あやかし王に、本気で惚れたの?」

 胸がドクンと大きく鳴る。

「いえ、そんなわけは……」

「だよね、あんな化け物を好きになるわけがない」

 煉魁を化け物と呼ばれて、怒りを必死で抑える。手をぎゅっと握って屈辱に耐えた。

「琴禰は毎晩、あの男に抱かれているの?」

「な……なんでそんなこと」

 澄八は琴禰の顎を片手で掴んで上に持ち上げた。

「痛っ……」

「僕の質問に答えて」

 澄八の目は冷酷で、有無を言わせない迫力があった。
 目を逸らしながら頷くと、澄八は冷笑しながら手を放した。

「化け物と性交とは、目的のためとはいえ、よくやるよ」

悔しくて、握っていた手の平に爪が食い込む。
 どうしてこんな男を好きだったのだろうかと自分の見る目のなさに嫌気がさす。

「でも、嫌いじゃないよ。昔の間抜けな琴禰よりよっぽどいい」

(素朴なところに好感を持っていたとさっき言っていたのは嘘だったのね)

 澄八の本性に寒気がする。皆、澄八の人の良い笑顔に騙される。あやかしの方々も、かつての自分も。
 見抜けなかった自分の不甲斐なさが悔しくなる。

「もしもあやかし王を討ち取ることができたら、琴禰を妻にしてやってもいいよ」

 澄八は尊大な顔をして言った。

「何を言っているのですか。桃子と結婚するのでしょう?」

「あの子は気が強くて頭が悪い。名家の肩書が欲しかったから許嫁となったけど、あやかし王を滅ぼしたら、琴禰は祓魔で力を認められるだろうし、なにより桃子より美人だ」

 澄八に値踏みするように体を見られ、寒気がした。

「どうして私が、あなたと……」

「僕はずっと気付いていたよ。琴禰が僕のことを好きだったことを」

 琴禰は驚きと羞恥心で顔が真っ赤になった。
 澄八はおかしそうに笑いながら続けた。

「出戻りしても貰い手がいるのだから、琴禰にとってもいい話だろう。それに、相手は初恋の僕。化け物なんかよりよっぽどいい。どう、やる気が出た?」

 琴禰が自分のことを今でも好きだということを疑ってもいないらしい。
 自信過剰な態度や言い方は、煉魁と似ているところがあるが、澄八の場合は嫌悪感が凄かった。
 積極的で愛情表現豊かな煉魁には、相手を思いやる優しさがあるが澄八にはまるでない。
 自分が一番で、驕り高ぶっている。
 けれどここは、澄八の勘違いに乗っておいた方がいいのかもしれない。
 煉魁との平穏な日々を守るために。

「そう……ですね、嬉しいです」

 嘘をつき慣れていない琴禰にとって、これが精一杯だった。
 作り笑いを浮かべるもぎこちないし、言葉も緊張で少し震えている。
 だが、澄八は疑うことなく、満足気な笑みを見せた。

「いい子だ。僕たちの未来のため、そして何より祓魔の永劫の繁栄のために頑張るんだ」

 澄八は琴禰の頭を撫でた。
 寒気がする。正直、殴られた方が気持ち的には楽かもしれないと思った。
 すっかりいい気分になった澄八は、琴禰に背を向けて歩き出した。
 あやかしの国を探索し、弱点はどこなのか探るために動き回っているそうだ。
 あんな人の良い笑顔を浮かべて、あやかしの方々にも好意的に受け入れられているのに、澄八の腹の中は、あやかしを滅亡させることしか考えていない。
 罪悪感は湧かないのだろうかと琴禰は思うが、澄八は祓魔や人間界のために行動しているので、悪いことをしているつもりなどさらさらない。
 琴禰もずっと、あやかしは人間界に厄災を振り落とす邪悪なものだと思っていた。
 それが真実であり、常識であり、疑う余地もないことだと信じてきた。

(何が正しいの? 私こそが、厄災?)

 気が重くなりながら、煉魁の宮殿へと向かう。
 煉魁は仕事に行ったかと思いきや、宮殿の中で琴禰を待っていてくれたようだ。
 ソワソワと落ち着きなく室内を歩いていた煉魁は、琴禰が帰ってくると嬉しそうに顔を綻ばせた。

「おかえり、琴禰。どうした? 顔色が悪いが」

「大丈夫です。ちょっと、昔のことを思い出してしまっただけなので」

「そうか、侍女に茶と菓子を持ってこさせよう。甘い物を食べれば気分も和らぐだろう」

 煉魁の優しさに、胸が苦しくなる。
 嘘ばかりついている。自分はなんて酷い女なのだと自分のことがどんどん嫌いになっていく。
 あやかしの国の方々も、祓魔一族や人間界も、全てに嘘をついている。
 一番の極悪人は自分なのかもしれない。

(忌み子、祓魔を滅亡させる者、生まれてきてはいけなかった存在)

 どうして周りは自分をこんなに虐げるのだろうと思ってきた。
 何も悪いことをしていないのに。どうして殺されなければいけないのか。
 でも、今なら少し分かる。
 琴禰の存在自体が凶事なのだ。

「大丈夫か、琴禰。闇に引きずり込まれるな」

 煉魁は琴禰を強く抱きしめた。
 ハッと我に返る。
 煉魁の温もりに包まれると、気分が和らぎ、息が深く吸える。
 全てが辛い。自分の置かれている環境が苦しくて堪らない。
 今が一番幸せなはずなのに、幸せであればあるほど琴禰を苦しめる。
 まるで、『お前は幸せになってはいけないのだ』と誰かに言われているようで。
 全てを吐き出して、謝りたい。もう嘘なんかつきたくない。

「うっうっ……」

 煉魁の胸の中で嗚咽を漏らしながら泣いた。
 ずっと堪えてきたものを吐き出すように。
 煉魁を強く抱きしめる。

(離したくない。この方とずっと一緒にいたい)

 例えそれが、地獄に落ちる行為だとしても。
 例えそれが、多くの人を裏切る結果になったとしても。

「煉魁さまぁ」

「うん、俺はずっと側にいるよ」

 煉魁の胸にしがみつき、子供のように泣く琴禰の頭を優しく撫で続けた。