煉魁が、『俺の部屋』といって紹介した場所は、とんでもなく豪華な御殿だった。
部屋というよりも、家。家というよりも、宮殿。
琴禰の認識では、部屋というのは、家にある一室を指すものだと思っていたが、煉魁の認識は違うらしい。
煉魁と一緒にいると、つい忘れてしまいがちになってしまうが、煉魁は紛れもなく王様なのだ。
「ここは特別な者しか入室を許可されない、王の寝殿だ」
一室に対する広さも驚きだが、部屋数も多い。
宮中の御殿は、純和風の造りが主だったが、王の宮殿は神殿に近い華やかさがあった。
障子建具は美しい面腰組子が使用され、床柱には精巧な彫刻が施されている。天井及び欄間には純金箔、純金砂子で仕上げられ、息を飲むほどの絢爛豪華な造りだ。
「日中、侍女が掃除に入るくらいで、ほとんど出入りはない。気兼ねなく一緒にいられるぞ」
煉魁は琴禰を後ろから抱きしめて匂いを吸い込んだ。
他の者の目がなくなった煉魁は、心置きなく琴禰に触れてくる。
どうやら、人目もはばからずくっついていたが、あれでも煉魁的には遠慮していたようだ。
「私の部屋はどこになるのですか?」
「全てだ」
(す、全て。共有ってことかしら。そうね、そうよね、夫婦ですもの)
煉魁は琴禰を後ろから抱きしめながら、愛おしそうに琴禰の首筋の匂いを堪能しているので、くすぐったくて仕方がない。
「もちろん寝所も一緒だぞ」
「は、はい」
さすがの琴禰も、そこは覚悟している。
夫婦なのだから、寝所が一緒なのは当然だろう。
頭では理解していても、急激に心臓の音が速まる。
「そうだ、一緒に湯殿に入ろうか」
「え⁉ 一緒に入るのですか⁉」
「夫婦なのだから、当然だろう」
そうなのだろうか。夫婦というのは、そういうものなのだろうか。
祓魔の中でも隔離されて育ってきたので、そもそも世間の常識というものをあまり知らない。
「わかりました。お背中お流しいたします」
琴禰は決意に満ちた顔で力強く言った。
「それじゃ侍女と変わらないだろう」
(え、違うの?)
では、一緒に入って何をするのだろう。
よく分かっていない様子の琴禰に、煉魁は言った。
「よし、じゃあ今から教えてやろう。夫婦というものは何かということを」
「今から入るのですか?」
「そうだ。琴禰は何も分からないようだから、俺が手取り足取り教えてやる」
自信満々に言われると、そういうものなのかと思ってくる。
「すみません、不勉強なもので。お願いいたします」
「いや、誰にでも初めてというものがある。これから学んでいけばいいのだ」
「ありがとうございます」
煉魁も初めてだというのに、さも経験者風に言うと、素直で純真な琴禰は疑うことなく、殊勝な様子で頭を下げた。
湯殿の準備を終えると、二人は白い浴衣に着替えて大きな樽桶の中に入った。
煉魁は裸で入りたかったが、琴禰が恥ずかしがったので譲歩した形だ。
琴禰を後ろから抱きしめる体勢で、適温の湯に浸かる。
「私も一緒に入ったら、窮屈ではありませんか?」
「狭いのがいいのだ。むしろ広すぎるくらいだ。もっと小さなものにすれば良かった」
宮殿の中にある湯殿は、確かに一人用とは思えないほど広かった。
以前、琴禰が利用していた湯殿よりも広くて豪華だ。おそらく、全てが宮中にある物の中で一番高級であることが窺える。
湯の中に入ると、浴衣が体に張り付いて、体の輪郭が露わになってしまう。
恥ずかしくて、とてもじゃないけれど振り返ることはできないと思った。
「夫婦はどうして一緒に入るのでしょう」
「ずっと一緒にいたいからだろ。それに、何でも二人一緒の方が楽しい」
楽しい……。その視点は琴禰にはなかった。
いつも一人だった。誰かと一緒に楽しむという経験をしたことがない。
食事もいつも一人だったし、話すこともほとんどない。
これからは、いつも一緒なのだ。何をするのも、何を見るのも、一緒に楽しむ相手がいる。
「夫婦とは、いいものですね」
零れるように呟いた琴禰の言葉に、煉魁の胸がきゅっと締まる。
愛しい気持ちが暴発し、琴禰の体をくるりと反転させ向き合った。
「恥ずかしいです、煉魁様!」
抗議の声を上げる琴禰に、煉魁は強く抱きしめる。
「ほら、こうしていれば見えないだろ」
互いの姿は見えないけれど、体が密着しているので余計に恥ずかしい。
でも、なぜか安心する。
一人じゃないということが、こんなにも心が満たされることだったなんて。
琴禰も、そっと煉魁の背中に手をまわす。煉魁の肩に顎を乗せて、目を瞑る。
(温かい……)
初めて、安らかで穏やかな気持ちに包まれた気がする。いつも気を張っていた。怒られないように、これ以上嫌われないように。
ここにいていいと思える安心感。包み込んでくれる絶対的な愛情。
ずっと求めていたものに出会えた気がした。
湯殿から上がった琴禰は、濡れた浴衣を脱ぎ、体を拭いていた。
すると、屏風の向こう側で着替えていた煉魁が待ちきれずに声を掛けた。
「まだか」
「すみません、今すぐ……ひゃあ!」
琴禰が新しい寝間着用の浴衣に袖を通したばかりだというのに、煉魁は屏風の仕切りを取り払った。
まだ帯も締めていない。さすがにせっかちすぎだろうと思う。
「着なくていい。すぐに脱がすのだから」
「なっ!」
襟の合わせを体に巻き付けるようにして、なんとか体を隠した琴禰を横抱きにする。
「れ、煉魁様⁉」
戸惑う琴禰をよそに、煉魁は琴禰を横抱きにしたまま歩き出す。
そして寝所に着くと、天蓋付きの大きな寝台に琴禰をゆっくりと寝かせた。
煉魁は琴禰に覆いかぶさり、熱情を含んだ瞳で琴禰を見下ろした。
「震えている、怖いのか?」
指摘されて、初めて震えていることに気が付いた。
「怖くないと言ったら、嘘になります」
「ふっ、正直だな」
煉魁が微笑したことによって、張りつめていた空気がいくぶん和らぐ。
琴禰は全身を強張らせ、浴衣がはだけないように手を十字にさせていた。
「無理強いはしない。琴禰のことを大切に思っているからな」
「煉魁様……」
多少強引なところはあるが、煉魁はどこまでも琴禰に優しい。
自分の気持ちを隠すことなく伝えてくれる。
それは、出会った時から一貫していることで、だからこそ出会ってから日が浅いとはいえ、急速に惹かれていった。
決して好きになってはいけない相手だというのに。
煉魁は琴禰の頭を撫でて微笑んだ。
まるで、『大丈夫、俺はこんなことくらいでは琴禰を嫌いにならないよ』と琴禰に伝えるように。
そして、組み敷いていた体を解こうとしたその時。
琴禰は煉魁の手を掴んだ。
「嫌では、ないのです」
潤んだ瞳で真っ直ぐに煉魁を見つめる。
「琴禰……」
戸惑うように瞳を泳がせる煉魁に対して、琴禰は意を決し、固く閉じていた手をよけた。
すると、浴衣がはだけ、琴禰の白く柔らかな体が露わとなる。
「私を煉魁様のものにしてください」
精一杯の勇気を振り絞って言った。恥ずかしくて、死んでしまいそうだ。
「もう抑えられないからな」
煉魁は琴禰の唇を乱暴に塞いだ。ずっと我慢してきたものを解放させるように、荒々しく琴禰を求める。
無我夢中で求める煉魁の熱が伝染し、琴禰の体も熱くなっていく。いつしか煉魁のことしか考えられなくなり、何度も名前を呼んでは体にしがみつく。
時間が蕩けるように過ぎていき、あやかしの夜は更けていった。
◆
部屋の外から、あやかし王を呼ぶ男性の声が聞こえ、琴禰は深い眠りから引き起こされた。格子窓を見ると、太陽が高く昇っていた。
隣には、煉魁が琴禰を抱きしめるようにして眠っている。
「煉魁様! 起きないと!」
体を揺さぶると、煉魁は抱きしめていた力を強め、琴禰の体に頭を埋める。
「いいのだ、放っておけ」
寝ぼけた声で、再び眠りにつこうとしている煉魁を無理やり体から引き離す。
「良くないです! 困っていらっしゃいますよ!」
琴禰には誰かは分からないが、煉魁の臣下なのだろうということは声の若さから感じ取れる。
琴禰に言われて、渋々起き上がる煉魁。逞しい体が目の前にあって、琴禰は顔を赤らめながら目を逸らした。脱ぎ捨てた浴衣に袖を通すと、煉魁は大きく欠伸をした。
「ああ、大儀だな。このまま一生、琴禰と寝台の上で過ごしたいものだ」
冗談とは思えないくらい、やけに念のこもった呟きだった。
「琴禰はゆっくりしているといい。昨晩はだいぶ無理をさせたからな」
「いいえ、煉魁様が働いているというのに、私だけ楽をするわけには!」
「俺と琴禰では体力が違う。それに、今晩も無理させるだろうから、ゆっくり休んでおいた方がいいぞ」
琴禰は途端に顔が赤くなった。
「はは、琴禰はすぐに顔が赤くなる。うぶな反応が可愛いな」
煉魁は琴禰の額に口付けを落とした。
「それでは行ってくる」
そう言った煉魁の顔付きは、すでに王の威厳に溢れていた。
部屋から出て行く背中を見送りながら、無意識に見惚れていた。どんな表情をしていても麗しい。こんな素敵な方が我が夫なんて信じられない。
(ゆっくり休んでおけと言われたけれど、動かなくちゃ)
本当はまだ体が重かったけれど、できることは率先してやりたい。
(さあ、まずは掃除ね。この広さ、やり甲斐があるわね)
琴禰は気合を入れて立ち上がった。
掃除をしている琴禰を見ると、侍女たちはぎょっとしていた。それでも構わずに掃除を続ける。
動けない時ならまだしも、できるのにやらないというのは心苦しい。
それに、眼鏡なしでもよく見えるようになったし、鈍くさかった体も機敏に動けるようになっていた。
楽しくて、ついつい張り切ってしまう。
「はいはい、掃除はそこまでにして、食事と身支度をしてくださいね」
がむしゃらに掃除をする琴禰を遠巻きに怯えながら見ている煉魁付きの侍女たちに対し、扶久は琴禰に容赦がなかった。
「でも、まだあちらの部分が……」
「別に好きで掃除するのは構いませんが、食事も取らず、そんな召使いみたいな恰好をしていたら、私達が王に怒られます」
「そうよね、ごめんなさい」
名家の令嬢として生まれた琴禰だったが、下女以下の扱いを受けてきたので、下働きする者たちの気苦労は知っている。
琴禰は大人しく豪華な御膳を食べ、髪も丁寧に結ってもらい、上質な着物に着替えた。
それでも一段落すると、また掃除を始めたので、扶久は琴禰の好きにさせていた。
(変な女……)
高貴な者は、掃除など身分の低い者がやる仕事だと見下している。好んでやる者などいないし、やること自体彼らの矜持が許さないようだ。
人間とはいえ、あやかし王の伴侶になったということは絶大な権力を有したということだ。それでも下働きがすることを自ら率先してやっている。
侍女たちの琴禰を見る目が徐々に変わってきていた。
一方、勝手に結婚してしまったあやかし王は、幹部たちから小言を言われるもどこ吹く風といった様子で聞き流していた。
もういくら文句を言ったとしても、もはやどうにもならないので、皆が受け入れ始めてもいた。
目下の問題は、あやかしの国民と大王にいつどのような形で伝えるかということ。
王の結婚は、盛大な催しを連日連夜続けるのが一般的だが、あやかし王は二人だけで結婚をしてしまった。
幸福感で満たされ、ご機嫌な様子のあやかし王のことは放っておいて、臣下たちはやるべきことがいっぱいだ。
煉魁が仕事から帰ってくると、寝台でまだ寝ているかと思っていた琴禰が掃除に精を出していた。
「何をやっている」
「煉魁様! おかえりなさいませ」
声を掛けられた琴禰は、振り返ると満面の笑みを見せた。
(俺の嫁は可愛すぎる)
琴禰から後光が放たれているように見えた煉魁は、思わず目を細める。
「休んでなくて大丈夫なのか?」
「はい、なんだか体が軽いのです。少しずつ力が戻ってきているようです」
儚げで憂いを帯びた表情の琴禰だったが、光が差したかのように元気になっていた。
内側から輝くような笑顔は、とびきり可愛い。煉魁は琴禰をぎゅっと抱きしめて耳元で囁いた。
「俺に抱かれたからではないか?」
途端に、琴禰の顔がボッと火がついたように赤くなる。
「俺の力が琴禰に送り込まれたのかもしれない」
「なるほど、そういうこともあるのですね」
「では、毎晩送り込まねば。琴禰の健康のために」
「れ、煉魁様!」
琴禰は顔を赤らめながら、煉魁の胸に頭を押しつけた。あまりの可愛さに、煉魁の頬が緩む。しかしながら、別の懸念も内に秘めていた。
(俺の力だけではないものが、琴禰にはある。人間界では祓魔というあやかしに似た力を持つ一族がいると聞いたことがあるが、琴禰はその出身なのか? でも、そうだとしても琴禰の力は強すぎる。末端のあやかしや妖魔なら祓えるほどの潜在能力を有している。まだ力が戻りきっていないということは、琴禰はどれほどの力があるのか、俺でも探り切れない)
琴禰を抱きしめながら、初めて出会った日のことを思い出す。
初めてあやかしの国に足を踏み入れることができた人間。どう考えても訳ありだ。
(琴禰は、一体……)
一抹の不安を抱きながらも、琴禰を愛する気持ちに変わりはない。
(俺がお前を守るから)
全てに絶望し、死に絶えようとしていた琴禰の瞳を思い出すと、胸が痛くなる。
どれほどの痛みを抱えているのか。
何も知らなくても、あの目を見れば推察できる。
(絶対に、幸せにする)
煉魁は琴禰の顔を上げさせると、唇を重ねた。
煉魁と琴禰の結婚生活は順調そのものだった。互いに愛し愛され、幸せな日々を送っていた。
琴禰はしばらくの間は寝殿(と煉魁が呼ぶ宮殿)から出ずに過ごしていたが、最近では庭園に出るようになった。
何をしているのかといえば、庭の手入れだった。
こうやって徐々に宮中を掃除し始めるのではないかと侍女たちの噂の的になっている。とても良く働くので、ここだけの話、助かっているらしい。
「琴禰はよく働くなぁ」
無心で草むしりをしていると、後ろから甘い低音の声が降ってきた。
驚いて振り返ると、そこには呆れるように微笑む煉魁の姿があった。
「はい、楽しいです!」
泥がついた雑草を片手に満面の笑みで返事をする。鼻と頬には黒い泥がついていた。
煉魁が思わず笑ってしまうと、琴禰はきょとんとした顔になる。その顔がさらに間抜け具合を引きだしている。
「本当にお前は、可愛すぎるだろ」
煉魁は袖で琴禰の顔についた泥を拭いてやった。
「わあ、すみません」
あまりにも可愛すぎて、つい乱暴に拭きたくなる。されるがまま、顔を顰める表情が、さらに愛おしさに拍車がかかる。
「俺を煽らないでくれよ」
琴禰は煉魁の言っている意味がわからない。不思議そうな顔が、煉魁の胸の奥を刺激する。
「ああ、もう駄目だ」
煉魁は琴禰を力強く抱きしめた。
「煉魁様、汚れてしまいます」
泥のついた雑草を片手に持ちながら、あたふたする。
どうして急に煉魁が抱きしめてきたのか分からない琴禰だったが、愛情表現は素直に嬉しい。ただ、周りから見られることが恥ずかしくはあったが。
「お仕事はいいのですか?」
「ああ。別にやることなんてない」
煉魁は琴禰を抱きしめ、髪の毛に顔を埋めながら言った。
もしも今の発言を上層部が聞いたら『やることは山のようにあります!』と激怒しただろうが、誰も指摘してくれる人がいないので、琴禰は『そうなのか』と騙されてしまった。
でも実際、あやかしは平和だった。
煉魁は、やる時はやる男だが、やらない時はやらない。
「煉魁様はいつも何をされていたのですか?」
「公務を放り出し、釣りに行っていた」
「え……」
王がそれでいいのだろうか、と琴禰は真面目に考える。
「そうだ、琴禰も一緒に行こう!」
「今からですか? 仕事は大丈夫なのですか?」
「ああ大丈夫だ。さあ、行こう!」
承諾の返事も聞かずに、琴禰を横抱きにして飛び立った。
自分本位の強引なところが、琴禰にはまったくない部分なので、輝く星のように見えた。
仕事を放り出すことも、それについて悪いとも思っていない闊達さも、琴禰の性格とは正反対だ。
他人からの目を過剰に気にしてしまい、怒られることに怯えていた琴禰にとって、煉魁は眩しいくらい堂々としていた。
そして、やる時は誰にもできない凄い仕事をやってのけるからこそ、多少のことは許されてしまうところも憧れる。
陽の光に引き寄せられるように、恋慕の心に囚われていた。日を増すごとに、煉魁への思いは募っていく。
あやかしの国の端に着いた煉魁は、雲の上に降り立った。
煉魁は琴禰を下ろすと、雲の中に手を入れ、何かを探していた。
「何を探しているのですか?」
「釣り竿だ。ここら辺に置いておいたはずなのだが」
「指輪を出した時のようにはいかないのですか?」
琴禰は不思議そうに尋ねる。
「小さな物ならまだしも、大きな物は時空を歪ませるゆえ、運悪く誰かにぶつかったら危ないだろう」
煉魁は顔を上げて、当然のように言った。
そういえば、『移動させる』と言っていたことを思い出した。あやかしの力の原理は、何でもありというわけではなさそうだ。
「おお、あった、あった」
煉魁は嬉しそうに顔を緩め、隠していた釣竿を取り出した。
「何が釣れるのですか?」
嫌な予感がした。こんなところで釣れるとしたら、妖魔か何か……。
「何も釣れない」
煉魁は事もなげに言い放つ。
嫌な予想は外れたが、それはそれで問題のある発言だった。
「何も釣れないのに、釣りをするのですか?」
「そうだ。無意味なことだから面白いのだ」
煉魁が自信満々に笑顔で言うので、なんだか説得力があるようなないような。
煉魁は、「ここに座るといい」と雲の端を指さして言った。空が見えている。一歩間違えれば真っ逆さまだ。
恐る恐る尻込みしながら座ると、煉魁が後ろから抱きしめるような体勢で腰を下ろした。
「釣り竿は一本しかないからな。一緒にやろう」
釣り糸を空に垂らす。
何も釣れないと分かってはいるが、ここに座っているだけでなかなか刺激的だ。
まるで煉魁の胸の中にすっぽり収まったような体勢なので、恐怖心よりも安心感の方が勝る。
二人で一本の釣り竿を持ち、一面に広がる海のような青空を眺める。
「煉魁様のおっしゃっていたことが、少し分かるような気がします」
「だろ」
時折吹く強い風が、緩慢としていた頭に刺激を与えてくれる。
雄大な自然に溶け込むと、まるで時が止まっているような、はたまたあっという間に過ぎ去ってしまうような不思議な感覚になる。
「寒くないか?」
「煉魁様がいるので温かいです」
背中に感じる温もりに癒される。ずっとこうしていたいと思った。
「一人で釣りをするのが気楽で好きだったが、二人の方が楽しいな」
「煉魁様と一緒だと何でも楽しいです」
柔らかな風が吹く。
夫婦とはいいものだなと改めて思う。
釣り竿を握った二人の左手には指輪がはめられていて、それを見ると幸せな気持ちになった。
「俺はやろうと思えば何でもできてしまうから、つまらなかった。だからずっと、無意味なことをしていた。意味のあることこそが、俺にとっては無意味なことだった」
煉魁はふいに心の内を吐露した。
自慢のようにも思える独白は、煉魁の感情を乗せると悲しい話になった。
「俺は何でも持っていた。富も権力も財力も。女性も選び放題で、だからこそ、何も欲しくなかった」
なぜか聞いているだけで、琴禰の胸の奥が痛くなった。
そんな環境は想像することもできない。琴禰には何もなかったから。望んでも何も手に入らなかったから。
でも、煉魁の辛さは不思議なほど共感することができた。
胸にあいた空虚さは言いようもないほど心を蝕む。
もしかしたら、全てを手に入れることは、全てを手に入れられないことと同義なのかもしれない。
「そんな俺が唯一欲しいと思ったものが、琴禰だった」
後ろから抱きしめる力が強まった。
まるで、もう絶対に離さないと言いたいかのように。
「ようやく、生きている実感がする。ありがとう」
胸がいっぱいになって、しばらく言葉が出てこなかった。
お礼を言いたいのは、琴禰の方なのに。
「私こそ、煉魁様に救われました。私は祓魔の生まれなのですが、無能で虐げられてきたのです」
琴禰の告白に、煉魁は『やはり祓魔の生まれだったか』と納得した。
初めて語られる琴禰の過去に、煉魁はそっと耳を傾ける。
聞きたいけれど、聞いてはいけないような気がして、ずっと謎のままだった。
「家族にも愛されたことはありません。生まれてきてはいけない者として煙たがれていたのです。それがある日、力を開花させたことで一変しました」
琴禰はゆっくりと、一言、一言、言葉を選ぶようにして吐き出した。
辛い記憶だった。
「私は、祓魔を滅ぼす厄災だとのことです。一族たちは私を殺そうとしました」
言葉の重みに煉魁は一驚を喫した。
予想していたとはいえ、琴禰の置かれた環境は、凄絶なものだった。
「そして私は、命からがら逃げだして、ここに辿り着きました」
短い言葉ながらも、一生懸命絞り出して吐き出した心の傷だということが伝わってくる。
たまらない気持ちになって、煉魁は琴禰を後ろから強く抱きしめた。
「最低だな、そいつらは。琴禰を殺そうとするなんて、万死に値する」
煉魁から本気の殺気を感じたので、琴禰は慌てて弁明した。
「仕方ないのです。私は生まれてきてはいけない存在だったのですから」
「そんなわけないだろ!」
煉魁は珍しく怒気を強めた。そして、琴禰の体を半回転させ、正面から向き合うと、琴禰の顔を両手で抑えた。
「二度とそんなことを言うな。お前の存在に俺がどれほど救われているか。祓魔の一族は、俺が滅亡させてやりたいくらいだが、琴禰という存在を生み出した唯一の功績により生かしてやる」
一族を庇ったつもりが、火に油を注いでしまったらしい。
煉魁は怒りながらも、必死で琴禰を励まそうとしているのが伝わってくる。
「煉魁しゃま、ひたいです(煉魁様、痛いです)」
両手で顔を中央に寄せられた琴禰は、まぬけな顔になっていた。
「ははは、すまん、すまん」
煉魁は笑いながら琴禰の頭をなでた。
(もう、子供扱いして)
深刻に重くなっていた空気が和らぐ。煉魁なりの気遣いだろうか。
(私は、煉魁様が思うような尊い存在ではない)
忌むべき存在だと自分でも思う。
生まれてきてはいけなかったのだと本気で思っている。
(こんな優しく素晴らしい方を、私は騙している)
こんなに罪深いことをしていて、自分の存在を許せるわけがない。
でも、もし、嘘を真実に変えることができたなら。
(私が、彼を殺そうとしなければ何も起こらない)
琴禰の胸の中に湧き上がった一つの希望。
血の契約を交わしてしまったけれど、行動を起こさなければ何も変わらない。
今度は祓魔一族を欺く結果になるけれど、それはもう仕方ない。
(私は彼を殺せない)
殺すくらいなら、いっそ自分が死ぬ。
あやかし王は、人間界に厄災をもたらす存在なのかどうかも、今となっては分からない。
例え、それが事実だとしても、人間界よりもあやかしの国を優先する。
琴禰にとって何よりも大事なのは、煉魁になっていた。煉魁の存在が、琴禰の生きる理由だ。
琴禰は、煉魁の胸に頬を寄せて、そっと抱きしめた。
煉魁も琴禰の腰に手をまわし、互いに抱き合う。
「煉魁様はいつも私を子供扱いしますね」
「そりゃ、俺にとっては赤子のようなものだからな」
「赤子って、煉魁様は何歳なのですか?」
琴禰は顔を上げて聞いた。
「う~ん、数えていないが、三百年は生きているのではないか?」
「三百年⁉」
琴禰は驚きのあまり上体を逸らした。
「琴禰からしたら俺は老人か」
豪快な声を上げて煉魁は笑う。
「老人というよりも、神様です」
三百年生きているというのに、この若々しさ。一体何年生きるのだろう。
「私だけあっという間によぼよぼのおばあちゃんになるのですね」
想像するだけで悲しい。介護されてしまうのだろうか。
「いや、あやかしの国にいれば琴禰も同じ時を生きられる。人間界では桜は枯れるが、あやかしの国では枯れない。そういう土地なのだろう」
それを聞いて安心した。
と、同時にそんなに長い時間を生きていけることが不思議でたまらない。
「永遠に一緒にいよう」
煉魁は琴禰を胸に抱いて囁いた。
「……はい」
騙すための嘘を、真実に変えよう。
きっと大丈夫。
あっという間に人間の寿命は尽き、血の契約は失効される。
そうすれば、何もなかったことにできる。
(死にかけの私を煉魁様が救い、そして二人は恋に落ちた。ただそれだけのこと)
永遠に煉魁を愛し抜く。そうすれば、罪は消える。
琴禰はそう願っていた。
しかしながら、現実は甘くなかった。穏やかな日常は、唐突に終わりを告げる。
雲の端で、幸せな気分で抱き合っていた煉魁の顔が急に険しくなった。
「何者かが、あやかし国に入り込んだ」
紺碧の海のように穏やかだった空の色が鉛色に染まっていく。邪なものが、あやかしの国に潜入したからだ。
「琴禰を宮中に帰している時間はない。悪いが少々付き合ってもらう」
何が起きたのか分からないけれど、緊迫した状況だけは察した。琴禰が頷くと、煉魁は琴禰を横抱きにして一足飛びで雲の上を駆け抜けた。
異物が入り込んだ場所に到着すると、煉魁は琴禰を下ろした。
「俺の側から離れるなよ」
煉魁は琴禰の腰を抱き、自らに密着させた。
緊張感が漂う中、薄く灰色がかった雲の上を歩いてくる人影が見えた。
そして靄が晴れ、あやかしの国に入り込んだ異物の正体に、琴禰は言葉を失った。
「お前は何者だ」
あやかし王が問う。
「僕は、祓魔一族の澄八と申します」
部屋というよりも、家。家というよりも、宮殿。
琴禰の認識では、部屋というのは、家にある一室を指すものだと思っていたが、煉魁の認識は違うらしい。
煉魁と一緒にいると、つい忘れてしまいがちになってしまうが、煉魁は紛れもなく王様なのだ。
「ここは特別な者しか入室を許可されない、王の寝殿だ」
一室に対する広さも驚きだが、部屋数も多い。
宮中の御殿は、純和風の造りが主だったが、王の宮殿は神殿に近い華やかさがあった。
障子建具は美しい面腰組子が使用され、床柱には精巧な彫刻が施されている。天井及び欄間には純金箔、純金砂子で仕上げられ、息を飲むほどの絢爛豪華な造りだ。
「日中、侍女が掃除に入るくらいで、ほとんど出入りはない。気兼ねなく一緒にいられるぞ」
煉魁は琴禰を後ろから抱きしめて匂いを吸い込んだ。
他の者の目がなくなった煉魁は、心置きなく琴禰に触れてくる。
どうやら、人目もはばからずくっついていたが、あれでも煉魁的には遠慮していたようだ。
「私の部屋はどこになるのですか?」
「全てだ」
(す、全て。共有ってことかしら。そうね、そうよね、夫婦ですもの)
煉魁は琴禰を後ろから抱きしめながら、愛おしそうに琴禰の首筋の匂いを堪能しているので、くすぐったくて仕方がない。
「もちろん寝所も一緒だぞ」
「は、はい」
さすがの琴禰も、そこは覚悟している。
夫婦なのだから、寝所が一緒なのは当然だろう。
頭では理解していても、急激に心臓の音が速まる。
「そうだ、一緒に湯殿に入ろうか」
「え⁉ 一緒に入るのですか⁉」
「夫婦なのだから、当然だろう」
そうなのだろうか。夫婦というのは、そういうものなのだろうか。
祓魔の中でも隔離されて育ってきたので、そもそも世間の常識というものをあまり知らない。
「わかりました。お背中お流しいたします」
琴禰は決意に満ちた顔で力強く言った。
「それじゃ侍女と変わらないだろう」
(え、違うの?)
では、一緒に入って何をするのだろう。
よく分かっていない様子の琴禰に、煉魁は言った。
「よし、じゃあ今から教えてやろう。夫婦というものは何かということを」
「今から入るのですか?」
「そうだ。琴禰は何も分からないようだから、俺が手取り足取り教えてやる」
自信満々に言われると、そういうものなのかと思ってくる。
「すみません、不勉強なもので。お願いいたします」
「いや、誰にでも初めてというものがある。これから学んでいけばいいのだ」
「ありがとうございます」
煉魁も初めてだというのに、さも経験者風に言うと、素直で純真な琴禰は疑うことなく、殊勝な様子で頭を下げた。
湯殿の準備を終えると、二人は白い浴衣に着替えて大きな樽桶の中に入った。
煉魁は裸で入りたかったが、琴禰が恥ずかしがったので譲歩した形だ。
琴禰を後ろから抱きしめる体勢で、適温の湯に浸かる。
「私も一緒に入ったら、窮屈ではありませんか?」
「狭いのがいいのだ。むしろ広すぎるくらいだ。もっと小さなものにすれば良かった」
宮殿の中にある湯殿は、確かに一人用とは思えないほど広かった。
以前、琴禰が利用していた湯殿よりも広くて豪華だ。おそらく、全てが宮中にある物の中で一番高級であることが窺える。
湯の中に入ると、浴衣が体に張り付いて、体の輪郭が露わになってしまう。
恥ずかしくて、とてもじゃないけれど振り返ることはできないと思った。
「夫婦はどうして一緒に入るのでしょう」
「ずっと一緒にいたいからだろ。それに、何でも二人一緒の方が楽しい」
楽しい……。その視点は琴禰にはなかった。
いつも一人だった。誰かと一緒に楽しむという経験をしたことがない。
食事もいつも一人だったし、話すこともほとんどない。
これからは、いつも一緒なのだ。何をするのも、何を見るのも、一緒に楽しむ相手がいる。
「夫婦とは、いいものですね」
零れるように呟いた琴禰の言葉に、煉魁の胸がきゅっと締まる。
愛しい気持ちが暴発し、琴禰の体をくるりと反転させ向き合った。
「恥ずかしいです、煉魁様!」
抗議の声を上げる琴禰に、煉魁は強く抱きしめる。
「ほら、こうしていれば見えないだろ」
互いの姿は見えないけれど、体が密着しているので余計に恥ずかしい。
でも、なぜか安心する。
一人じゃないということが、こんなにも心が満たされることだったなんて。
琴禰も、そっと煉魁の背中に手をまわす。煉魁の肩に顎を乗せて、目を瞑る。
(温かい……)
初めて、安らかで穏やかな気持ちに包まれた気がする。いつも気を張っていた。怒られないように、これ以上嫌われないように。
ここにいていいと思える安心感。包み込んでくれる絶対的な愛情。
ずっと求めていたものに出会えた気がした。
湯殿から上がった琴禰は、濡れた浴衣を脱ぎ、体を拭いていた。
すると、屏風の向こう側で着替えていた煉魁が待ちきれずに声を掛けた。
「まだか」
「すみません、今すぐ……ひゃあ!」
琴禰が新しい寝間着用の浴衣に袖を通したばかりだというのに、煉魁は屏風の仕切りを取り払った。
まだ帯も締めていない。さすがにせっかちすぎだろうと思う。
「着なくていい。すぐに脱がすのだから」
「なっ!」
襟の合わせを体に巻き付けるようにして、なんとか体を隠した琴禰を横抱きにする。
「れ、煉魁様⁉」
戸惑う琴禰をよそに、煉魁は琴禰を横抱きにしたまま歩き出す。
そして寝所に着くと、天蓋付きの大きな寝台に琴禰をゆっくりと寝かせた。
煉魁は琴禰に覆いかぶさり、熱情を含んだ瞳で琴禰を見下ろした。
「震えている、怖いのか?」
指摘されて、初めて震えていることに気が付いた。
「怖くないと言ったら、嘘になります」
「ふっ、正直だな」
煉魁が微笑したことによって、張りつめていた空気がいくぶん和らぐ。
琴禰は全身を強張らせ、浴衣がはだけないように手を十字にさせていた。
「無理強いはしない。琴禰のことを大切に思っているからな」
「煉魁様……」
多少強引なところはあるが、煉魁はどこまでも琴禰に優しい。
自分の気持ちを隠すことなく伝えてくれる。
それは、出会った時から一貫していることで、だからこそ出会ってから日が浅いとはいえ、急速に惹かれていった。
決して好きになってはいけない相手だというのに。
煉魁は琴禰の頭を撫でて微笑んだ。
まるで、『大丈夫、俺はこんなことくらいでは琴禰を嫌いにならないよ』と琴禰に伝えるように。
そして、組み敷いていた体を解こうとしたその時。
琴禰は煉魁の手を掴んだ。
「嫌では、ないのです」
潤んだ瞳で真っ直ぐに煉魁を見つめる。
「琴禰……」
戸惑うように瞳を泳がせる煉魁に対して、琴禰は意を決し、固く閉じていた手をよけた。
すると、浴衣がはだけ、琴禰の白く柔らかな体が露わとなる。
「私を煉魁様のものにしてください」
精一杯の勇気を振り絞って言った。恥ずかしくて、死んでしまいそうだ。
「もう抑えられないからな」
煉魁は琴禰の唇を乱暴に塞いだ。ずっと我慢してきたものを解放させるように、荒々しく琴禰を求める。
無我夢中で求める煉魁の熱が伝染し、琴禰の体も熱くなっていく。いつしか煉魁のことしか考えられなくなり、何度も名前を呼んでは体にしがみつく。
時間が蕩けるように過ぎていき、あやかしの夜は更けていった。
◆
部屋の外から、あやかし王を呼ぶ男性の声が聞こえ、琴禰は深い眠りから引き起こされた。格子窓を見ると、太陽が高く昇っていた。
隣には、煉魁が琴禰を抱きしめるようにして眠っている。
「煉魁様! 起きないと!」
体を揺さぶると、煉魁は抱きしめていた力を強め、琴禰の体に頭を埋める。
「いいのだ、放っておけ」
寝ぼけた声で、再び眠りにつこうとしている煉魁を無理やり体から引き離す。
「良くないです! 困っていらっしゃいますよ!」
琴禰には誰かは分からないが、煉魁の臣下なのだろうということは声の若さから感じ取れる。
琴禰に言われて、渋々起き上がる煉魁。逞しい体が目の前にあって、琴禰は顔を赤らめながら目を逸らした。脱ぎ捨てた浴衣に袖を通すと、煉魁は大きく欠伸をした。
「ああ、大儀だな。このまま一生、琴禰と寝台の上で過ごしたいものだ」
冗談とは思えないくらい、やけに念のこもった呟きだった。
「琴禰はゆっくりしているといい。昨晩はだいぶ無理をさせたからな」
「いいえ、煉魁様が働いているというのに、私だけ楽をするわけには!」
「俺と琴禰では体力が違う。それに、今晩も無理させるだろうから、ゆっくり休んでおいた方がいいぞ」
琴禰は途端に顔が赤くなった。
「はは、琴禰はすぐに顔が赤くなる。うぶな反応が可愛いな」
煉魁は琴禰の額に口付けを落とした。
「それでは行ってくる」
そう言った煉魁の顔付きは、すでに王の威厳に溢れていた。
部屋から出て行く背中を見送りながら、無意識に見惚れていた。どんな表情をしていても麗しい。こんな素敵な方が我が夫なんて信じられない。
(ゆっくり休んでおけと言われたけれど、動かなくちゃ)
本当はまだ体が重かったけれど、できることは率先してやりたい。
(さあ、まずは掃除ね。この広さ、やり甲斐があるわね)
琴禰は気合を入れて立ち上がった。
掃除をしている琴禰を見ると、侍女たちはぎょっとしていた。それでも構わずに掃除を続ける。
動けない時ならまだしも、できるのにやらないというのは心苦しい。
それに、眼鏡なしでもよく見えるようになったし、鈍くさかった体も機敏に動けるようになっていた。
楽しくて、ついつい張り切ってしまう。
「はいはい、掃除はそこまでにして、食事と身支度をしてくださいね」
がむしゃらに掃除をする琴禰を遠巻きに怯えながら見ている煉魁付きの侍女たちに対し、扶久は琴禰に容赦がなかった。
「でも、まだあちらの部分が……」
「別に好きで掃除するのは構いませんが、食事も取らず、そんな召使いみたいな恰好をしていたら、私達が王に怒られます」
「そうよね、ごめんなさい」
名家の令嬢として生まれた琴禰だったが、下女以下の扱いを受けてきたので、下働きする者たちの気苦労は知っている。
琴禰は大人しく豪華な御膳を食べ、髪も丁寧に結ってもらい、上質な着物に着替えた。
それでも一段落すると、また掃除を始めたので、扶久は琴禰の好きにさせていた。
(変な女……)
高貴な者は、掃除など身分の低い者がやる仕事だと見下している。好んでやる者などいないし、やること自体彼らの矜持が許さないようだ。
人間とはいえ、あやかし王の伴侶になったということは絶大な権力を有したということだ。それでも下働きがすることを自ら率先してやっている。
侍女たちの琴禰を見る目が徐々に変わってきていた。
一方、勝手に結婚してしまったあやかし王は、幹部たちから小言を言われるもどこ吹く風といった様子で聞き流していた。
もういくら文句を言ったとしても、もはやどうにもならないので、皆が受け入れ始めてもいた。
目下の問題は、あやかしの国民と大王にいつどのような形で伝えるかということ。
王の結婚は、盛大な催しを連日連夜続けるのが一般的だが、あやかし王は二人だけで結婚をしてしまった。
幸福感で満たされ、ご機嫌な様子のあやかし王のことは放っておいて、臣下たちはやるべきことがいっぱいだ。
煉魁が仕事から帰ってくると、寝台でまだ寝ているかと思っていた琴禰が掃除に精を出していた。
「何をやっている」
「煉魁様! おかえりなさいませ」
声を掛けられた琴禰は、振り返ると満面の笑みを見せた。
(俺の嫁は可愛すぎる)
琴禰から後光が放たれているように見えた煉魁は、思わず目を細める。
「休んでなくて大丈夫なのか?」
「はい、なんだか体が軽いのです。少しずつ力が戻ってきているようです」
儚げで憂いを帯びた表情の琴禰だったが、光が差したかのように元気になっていた。
内側から輝くような笑顔は、とびきり可愛い。煉魁は琴禰をぎゅっと抱きしめて耳元で囁いた。
「俺に抱かれたからではないか?」
途端に、琴禰の顔がボッと火がついたように赤くなる。
「俺の力が琴禰に送り込まれたのかもしれない」
「なるほど、そういうこともあるのですね」
「では、毎晩送り込まねば。琴禰の健康のために」
「れ、煉魁様!」
琴禰は顔を赤らめながら、煉魁の胸に頭を押しつけた。あまりの可愛さに、煉魁の頬が緩む。しかしながら、別の懸念も内に秘めていた。
(俺の力だけではないものが、琴禰にはある。人間界では祓魔というあやかしに似た力を持つ一族がいると聞いたことがあるが、琴禰はその出身なのか? でも、そうだとしても琴禰の力は強すぎる。末端のあやかしや妖魔なら祓えるほどの潜在能力を有している。まだ力が戻りきっていないということは、琴禰はどれほどの力があるのか、俺でも探り切れない)
琴禰を抱きしめながら、初めて出会った日のことを思い出す。
初めてあやかしの国に足を踏み入れることができた人間。どう考えても訳ありだ。
(琴禰は、一体……)
一抹の不安を抱きながらも、琴禰を愛する気持ちに変わりはない。
(俺がお前を守るから)
全てに絶望し、死に絶えようとしていた琴禰の瞳を思い出すと、胸が痛くなる。
どれほどの痛みを抱えているのか。
何も知らなくても、あの目を見れば推察できる。
(絶対に、幸せにする)
煉魁は琴禰の顔を上げさせると、唇を重ねた。
煉魁と琴禰の結婚生活は順調そのものだった。互いに愛し愛され、幸せな日々を送っていた。
琴禰はしばらくの間は寝殿(と煉魁が呼ぶ宮殿)から出ずに過ごしていたが、最近では庭園に出るようになった。
何をしているのかといえば、庭の手入れだった。
こうやって徐々に宮中を掃除し始めるのではないかと侍女たちの噂の的になっている。とても良く働くので、ここだけの話、助かっているらしい。
「琴禰はよく働くなぁ」
無心で草むしりをしていると、後ろから甘い低音の声が降ってきた。
驚いて振り返ると、そこには呆れるように微笑む煉魁の姿があった。
「はい、楽しいです!」
泥がついた雑草を片手に満面の笑みで返事をする。鼻と頬には黒い泥がついていた。
煉魁が思わず笑ってしまうと、琴禰はきょとんとした顔になる。その顔がさらに間抜け具合を引きだしている。
「本当にお前は、可愛すぎるだろ」
煉魁は袖で琴禰の顔についた泥を拭いてやった。
「わあ、すみません」
あまりにも可愛すぎて、つい乱暴に拭きたくなる。されるがまま、顔を顰める表情が、さらに愛おしさに拍車がかかる。
「俺を煽らないでくれよ」
琴禰は煉魁の言っている意味がわからない。不思議そうな顔が、煉魁の胸の奥を刺激する。
「ああ、もう駄目だ」
煉魁は琴禰を力強く抱きしめた。
「煉魁様、汚れてしまいます」
泥のついた雑草を片手に持ちながら、あたふたする。
どうして急に煉魁が抱きしめてきたのか分からない琴禰だったが、愛情表現は素直に嬉しい。ただ、周りから見られることが恥ずかしくはあったが。
「お仕事はいいのですか?」
「ああ。別にやることなんてない」
煉魁は琴禰を抱きしめ、髪の毛に顔を埋めながら言った。
もしも今の発言を上層部が聞いたら『やることは山のようにあります!』と激怒しただろうが、誰も指摘してくれる人がいないので、琴禰は『そうなのか』と騙されてしまった。
でも実際、あやかしは平和だった。
煉魁は、やる時はやる男だが、やらない時はやらない。
「煉魁様はいつも何をされていたのですか?」
「公務を放り出し、釣りに行っていた」
「え……」
王がそれでいいのだろうか、と琴禰は真面目に考える。
「そうだ、琴禰も一緒に行こう!」
「今からですか? 仕事は大丈夫なのですか?」
「ああ大丈夫だ。さあ、行こう!」
承諾の返事も聞かずに、琴禰を横抱きにして飛び立った。
自分本位の強引なところが、琴禰にはまったくない部分なので、輝く星のように見えた。
仕事を放り出すことも、それについて悪いとも思っていない闊達さも、琴禰の性格とは正反対だ。
他人からの目を過剰に気にしてしまい、怒られることに怯えていた琴禰にとって、煉魁は眩しいくらい堂々としていた。
そして、やる時は誰にもできない凄い仕事をやってのけるからこそ、多少のことは許されてしまうところも憧れる。
陽の光に引き寄せられるように、恋慕の心に囚われていた。日を増すごとに、煉魁への思いは募っていく。
あやかしの国の端に着いた煉魁は、雲の上に降り立った。
煉魁は琴禰を下ろすと、雲の中に手を入れ、何かを探していた。
「何を探しているのですか?」
「釣り竿だ。ここら辺に置いておいたはずなのだが」
「指輪を出した時のようにはいかないのですか?」
琴禰は不思議そうに尋ねる。
「小さな物ならまだしも、大きな物は時空を歪ませるゆえ、運悪く誰かにぶつかったら危ないだろう」
煉魁は顔を上げて、当然のように言った。
そういえば、『移動させる』と言っていたことを思い出した。あやかしの力の原理は、何でもありというわけではなさそうだ。
「おお、あった、あった」
煉魁は嬉しそうに顔を緩め、隠していた釣竿を取り出した。
「何が釣れるのですか?」
嫌な予感がした。こんなところで釣れるとしたら、妖魔か何か……。
「何も釣れない」
煉魁は事もなげに言い放つ。
嫌な予想は外れたが、それはそれで問題のある発言だった。
「何も釣れないのに、釣りをするのですか?」
「そうだ。無意味なことだから面白いのだ」
煉魁が自信満々に笑顔で言うので、なんだか説得力があるようなないような。
煉魁は、「ここに座るといい」と雲の端を指さして言った。空が見えている。一歩間違えれば真っ逆さまだ。
恐る恐る尻込みしながら座ると、煉魁が後ろから抱きしめるような体勢で腰を下ろした。
「釣り竿は一本しかないからな。一緒にやろう」
釣り糸を空に垂らす。
何も釣れないと分かってはいるが、ここに座っているだけでなかなか刺激的だ。
まるで煉魁の胸の中にすっぽり収まったような体勢なので、恐怖心よりも安心感の方が勝る。
二人で一本の釣り竿を持ち、一面に広がる海のような青空を眺める。
「煉魁様のおっしゃっていたことが、少し分かるような気がします」
「だろ」
時折吹く強い風が、緩慢としていた頭に刺激を与えてくれる。
雄大な自然に溶け込むと、まるで時が止まっているような、はたまたあっという間に過ぎ去ってしまうような不思議な感覚になる。
「寒くないか?」
「煉魁様がいるので温かいです」
背中に感じる温もりに癒される。ずっとこうしていたいと思った。
「一人で釣りをするのが気楽で好きだったが、二人の方が楽しいな」
「煉魁様と一緒だと何でも楽しいです」
柔らかな風が吹く。
夫婦とはいいものだなと改めて思う。
釣り竿を握った二人の左手には指輪がはめられていて、それを見ると幸せな気持ちになった。
「俺はやろうと思えば何でもできてしまうから、つまらなかった。だからずっと、無意味なことをしていた。意味のあることこそが、俺にとっては無意味なことだった」
煉魁はふいに心の内を吐露した。
自慢のようにも思える独白は、煉魁の感情を乗せると悲しい話になった。
「俺は何でも持っていた。富も権力も財力も。女性も選び放題で、だからこそ、何も欲しくなかった」
なぜか聞いているだけで、琴禰の胸の奥が痛くなった。
そんな環境は想像することもできない。琴禰には何もなかったから。望んでも何も手に入らなかったから。
でも、煉魁の辛さは不思議なほど共感することができた。
胸にあいた空虚さは言いようもないほど心を蝕む。
もしかしたら、全てを手に入れることは、全てを手に入れられないことと同義なのかもしれない。
「そんな俺が唯一欲しいと思ったものが、琴禰だった」
後ろから抱きしめる力が強まった。
まるで、もう絶対に離さないと言いたいかのように。
「ようやく、生きている実感がする。ありがとう」
胸がいっぱいになって、しばらく言葉が出てこなかった。
お礼を言いたいのは、琴禰の方なのに。
「私こそ、煉魁様に救われました。私は祓魔の生まれなのですが、無能で虐げられてきたのです」
琴禰の告白に、煉魁は『やはり祓魔の生まれだったか』と納得した。
初めて語られる琴禰の過去に、煉魁はそっと耳を傾ける。
聞きたいけれど、聞いてはいけないような気がして、ずっと謎のままだった。
「家族にも愛されたことはありません。生まれてきてはいけない者として煙たがれていたのです。それがある日、力を開花させたことで一変しました」
琴禰はゆっくりと、一言、一言、言葉を選ぶようにして吐き出した。
辛い記憶だった。
「私は、祓魔を滅ぼす厄災だとのことです。一族たちは私を殺そうとしました」
言葉の重みに煉魁は一驚を喫した。
予想していたとはいえ、琴禰の置かれた環境は、凄絶なものだった。
「そして私は、命からがら逃げだして、ここに辿り着きました」
短い言葉ながらも、一生懸命絞り出して吐き出した心の傷だということが伝わってくる。
たまらない気持ちになって、煉魁は琴禰を後ろから強く抱きしめた。
「最低だな、そいつらは。琴禰を殺そうとするなんて、万死に値する」
煉魁から本気の殺気を感じたので、琴禰は慌てて弁明した。
「仕方ないのです。私は生まれてきてはいけない存在だったのですから」
「そんなわけないだろ!」
煉魁は珍しく怒気を強めた。そして、琴禰の体を半回転させ、正面から向き合うと、琴禰の顔を両手で抑えた。
「二度とそんなことを言うな。お前の存在に俺がどれほど救われているか。祓魔の一族は、俺が滅亡させてやりたいくらいだが、琴禰という存在を生み出した唯一の功績により生かしてやる」
一族を庇ったつもりが、火に油を注いでしまったらしい。
煉魁は怒りながらも、必死で琴禰を励まそうとしているのが伝わってくる。
「煉魁しゃま、ひたいです(煉魁様、痛いです)」
両手で顔を中央に寄せられた琴禰は、まぬけな顔になっていた。
「ははは、すまん、すまん」
煉魁は笑いながら琴禰の頭をなでた。
(もう、子供扱いして)
深刻に重くなっていた空気が和らぐ。煉魁なりの気遣いだろうか。
(私は、煉魁様が思うような尊い存在ではない)
忌むべき存在だと自分でも思う。
生まれてきてはいけなかったのだと本気で思っている。
(こんな優しく素晴らしい方を、私は騙している)
こんなに罪深いことをしていて、自分の存在を許せるわけがない。
でも、もし、嘘を真実に変えることができたなら。
(私が、彼を殺そうとしなければ何も起こらない)
琴禰の胸の中に湧き上がった一つの希望。
血の契約を交わしてしまったけれど、行動を起こさなければ何も変わらない。
今度は祓魔一族を欺く結果になるけれど、それはもう仕方ない。
(私は彼を殺せない)
殺すくらいなら、いっそ自分が死ぬ。
あやかし王は、人間界に厄災をもたらす存在なのかどうかも、今となっては分からない。
例え、それが事実だとしても、人間界よりもあやかしの国を優先する。
琴禰にとって何よりも大事なのは、煉魁になっていた。煉魁の存在が、琴禰の生きる理由だ。
琴禰は、煉魁の胸に頬を寄せて、そっと抱きしめた。
煉魁も琴禰の腰に手をまわし、互いに抱き合う。
「煉魁様はいつも私を子供扱いしますね」
「そりゃ、俺にとっては赤子のようなものだからな」
「赤子って、煉魁様は何歳なのですか?」
琴禰は顔を上げて聞いた。
「う~ん、数えていないが、三百年は生きているのではないか?」
「三百年⁉」
琴禰は驚きのあまり上体を逸らした。
「琴禰からしたら俺は老人か」
豪快な声を上げて煉魁は笑う。
「老人というよりも、神様です」
三百年生きているというのに、この若々しさ。一体何年生きるのだろう。
「私だけあっという間によぼよぼのおばあちゃんになるのですね」
想像するだけで悲しい。介護されてしまうのだろうか。
「いや、あやかしの国にいれば琴禰も同じ時を生きられる。人間界では桜は枯れるが、あやかしの国では枯れない。そういう土地なのだろう」
それを聞いて安心した。
と、同時にそんなに長い時間を生きていけることが不思議でたまらない。
「永遠に一緒にいよう」
煉魁は琴禰を胸に抱いて囁いた。
「……はい」
騙すための嘘を、真実に変えよう。
きっと大丈夫。
あっという間に人間の寿命は尽き、血の契約は失効される。
そうすれば、何もなかったことにできる。
(死にかけの私を煉魁様が救い、そして二人は恋に落ちた。ただそれだけのこと)
永遠に煉魁を愛し抜く。そうすれば、罪は消える。
琴禰はそう願っていた。
しかしながら、現実は甘くなかった。穏やかな日常は、唐突に終わりを告げる。
雲の端で、幸せな気分で抱き合っていた煉魁の顔が急に険しくなった。
「何者かが、あやかし国に入り込んだ」
紺碧の海のように穏やかだった空の色が鉛色に染まっていく。邪なものが、あやかしの国に潜入したからだ。
「琴禰を宮中に帰している時間はない。悪いが少々付き合ってもらう」
何が起きたのか分からないけれど、緊迫した状況だけは察した。琴禰が頷くと、煉魁は琴禰を横抱きにして一足飛びで雲の上を駆け抜けた。
異物が入り込んだ場所に到着すると、煉魁は琴禰を下ろした。
「俺の側から離れるなよ」
煉魁は琴禰の腰を抱き、自らに密着させた。
緊張感が漂う中、薄く灰色がかった雲の上を歩いてくる人影が見えた。
そして靄が晴れ、あやかしの国に入り込んだ異物の正体に、琴禰は言葉を失った。
「お前は何者だ」
あやかし王が問う。
「僕は、祓魔一族の澄八と申します」