静寂が二人を包み込んだ。
 琴禰は真っ直ぐに煉魁を見つめ、煉魁も目を逸らさずに驚きの目で琴禰を見つめている。
 煉魁の大きな喉仏の鳴る音が、静かな部屋に響いた。

「その意味を分かって言っているのか?」

 煉魁が眼差しを強くして琴禰に問う。

「はい」

 琴禰は強い意思で答えたが、煉魁が問うている意味を本当の意味では分かってはいなかった。
 煉魁は薄く微笑み、魅惑的な眼差しを向けた。

「良かろう。俺の嫁にしてやる」

 ぐいと引き寄せられ、煉魁の胸板に琴禰の頭が当たった。上衣から漂う白檀(びゃくだん)()をかいだ時、ようやく煉魁が言わんとした意味を知る。
 琴禰を抱きしめ、煉魁は満足そうだ。

「あ、あの……」

「なんだ?」

 抱きしめられるのが初めての琴禰は、鼓動が早鐘を鳴らすように強く打ち続けている。
 本能的な恐れに、身を引きそうになる気持ちをぐっと堪えた。

「い、いえ。何でもありません」

 結婚してくれと頼んだのは琴禰だ。
 夫婦が抱き合うのは自然なことだと必死で自分に言い聞かせる。
 顎を指先で持ち上げられ、煉魁と視線が交じり合った琴禰は気まずさに視線を泳がせた。

「お前はもう、俺のものだ。いいな?」

 見下ろす視線に、有無を言わせぬ威圧感がある。獰猛な獣の間合いに入ってしまった小動物のように、琴禰は運命を受け入れた。

「はい」

 すると、唇を奪うような激しい口付けが落とされた。
 全てが初めての連続に、琴禰の頭は真っ白になる。
 拒むことなんてできようもない。煉魁に嫌悪感を抱いているわけでもない。
 ただ、純粋に怖かった。
 全身を強張らせ、瞼を固く閉じて、時が過ぎるのを待つしかないと諦めにも似た覚悟を決めた時だった。
 永遠に続くかのように思われた口付けが離された。

「この先は、結婚してからにしよう」

 煉魁は琴禰を放した。

「お楽しみは、俺が約束をきちんと守る男だと証明してからだ」

 悪戯小僧のような純真な瞳を輝かせながら煉魁は笑った。
 ポッと頬を染める琴禰に、煉魁の大きな手が頭に乗り、優しくなでられた。

「まだ病み上がりだからな。ゆっくり休め」

 そう言って煉魁は部屋から出て行った。
 怒涛のような展開に、気持ちが追い付かない。
『結婚してくれ』と頼んだのは琴禰だ。でも、純粋な気持ちからの言葉ではない。
 結婚して琴禰に気を許すようになれば倒せる機会もやってくるかもしれないという打算からだ。
 煉魁の優しい笑顔を思い出すと胸が痛い。
 騙しているのが心苦しくて、甘い喜びに浸ることもできない。琴禰の心はすでに煉魁に囚われていた。出会った瞬間から惹かれていたことに気付く。

(私は一体、どうしたら……)

 両手で顔を隠し、罪悪感に押しつぶされそうになりながら一夜を過ごした。


 一方、琴禰から思わぬ形で求婚を受けた煉魁は、寝殿へと向かっていた歩を止め、先ほどまで会議が行われていた春秋の間へと向かった。

(あいつらまだいるかな)

 臣下が集まる会議の場で、琴禰の元へ早く行きたかった煉魁は、『うん、もう、それでいいよ』と気もそぞろに丸投げし、まだ会議は続いているにも関わらず出てきてしまっていたのだった。
 会議の進行具合が気になるから戻ったのかと思いきや、零れんばかりの満面の笑みを携えた煉魁は、春秋の間に入るなり議題とは全く関係のないことを声高に叫んだ。

「聞け! 皆の者! 俺がついに結婚するぞ!」

 真面目に会議を行っていた臣下のあやかし達は、突然の王の報告に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔を見せた。
 しんと静まり返ってしまった場の空気を見て、煉魁は不服そうに眉を寄せる。

「おい、もっと喜べよ。俺が結婚するのだぞ? あれだけ結婚しろ、世継ぎはまだかと言っていたのに、その反応はないだろう」

 皆は顔を見合わせて、よく分からないまま拍手が巻き起こり、煉魁はとても満足気だった。

「あの、あやかし王、お相手はどちらの御方でしょう?」

 大臣(おおおみ)がおずおずとした面持ちで聞いた。

「人間だ」

 途端に、ザワリとした嫌な空気が場に漂う。

「あやかし王が先日拾ってきた、あの人間ですか?」

「そうだ」

 顔面蒼白になっている大臣に、煉魁は笑顔で頷く。

「反対です!」

「人間は駄目でしょう」

 周りから次々と異を唱える声が上がる。

「なんだよ、お前ら、誰でもいいから早く結婚しろと言っていただろう!」

 急に猛烈な反対に合ったので、煉魁は皆を指さして声を荒げた。

「人間は種が違うでしょう」

「何を血迷ったことをおっしゃいますか」

 いつもは煉魁の暴君ぶりを受け流している臣下達も、この件に関しては真っ向から反対してくる。

「ああ、うるさ~い!」

 煉魁は止まぬ反対の声を大声で制した。

「俺が結婚するって言ったらするんだよ。わかったな!」

 すっかり機嫌の悪くなった煉魁は、そのまま春秋の間から出て行ってしまった。
 怒り心頭の煉魁に話しかけられる者はいない。
 ドスドスと音を立てながら渡殿を歩く。

(どうして反対する。誰でもいいって言ったじゃないか)

 人間だからという理由で反対されるとは思ってもみなかった。
 あやかしの中に渦巻く差別感情は、煉魁が思っているよりも深いようだった。
 とはいえ、煉魁の中で反対されたからといって結婚を諦めるという選択はまるでない。
 国中のあやかし達から反対されようが、結婚する。約束を守りたいからという律儀な気持ちからではない。煉魁が琴禰と結婚したいからだ。
 琴禰という存在を知ってしまった以上、他の者と結婚する未来なんて考えられない。

(さて、どうするか)

 煉魁は足を止め、園庭に咲く見事な一本桜を見て、ニヤリと笑った。


 あやかし王が人間と結婚するつもりらしいという噂は、あっという間に宮中に広まった。
 あやかし王の異常な執心ぶりから、まさかと思っていた侍女たちは青ざめた。
 しかし、誰もあやかし王を止めることはできない。
 人間を追い出すなんてまねをしたら、怒りに狂った王が何をしでかすか想像しただけでもゾっとする。
 あやかし王の力は強大だった。特に、煉魁の力は歴代あやかし王の中でも特に際立っている。
 あやかし王の決定に逆らえる者などいない。
 しかしながら、これまであやかし王が無茶苦茶な決定を下したことはなかった。
 暴君であったが、それ以上に名君として敬われていた。とても賢く、弱き者にも情が厚い、やる時はやる男なのだ。
 だからこそ、今回の決定は、皆が頭を抱えた。

 そんなことになっているとは露ほども知らない琴禰は、まだ体力が万全ではないため、よく眠っていた。
 扶久も当然、あやかし王の結婚の噂は聞いていたが、一切顔に出さず、献身的に尽くしていた。
 扶久にとっては正直、どうでもいいことなのだ。主人が誰と結婚しようがしまいが、己の仕事を忠実にするだけである。
 そして、煉魁はついに動いた。

 琴禰と結婚の約束をしてから数日後。琴禰を外に連れ出した。
『あやかしの国を案内する』と煉魁から言われた琴禰は、深く考えず喜んで付いていった。

 白地の正絹で作られた着物には、薄桃色の刺繍が織り込まれている。
 こんなに綺麗な着物は見たことがなく、琴禰のお気に入りだった。
 溺愛されていた妹の桃子ですら持っていない上等な着物を与えられ、恐縮する気持ちもあるが、やはり嬉しかった。
 煉魁の隣をしずしずと歩く琴禰を遠巻きに見つめる宮中のあやかし達。
 煉魁の怒りを買ったら大変なので、表立って反対はできない。

『人間なんて』と見下す気持ちもあるが、煉魁の隣に立っている琴禰があまりにも美しかったので、複雑な心境だった。
 二人が並んでいる姿は、あまりにもお似合いすぎて、まるで昔からずっと一緒だったかのような親しい雰囲気が醸し出されている。
 互いに目が合うと嬉しそうに微笑み合う姿は、見ているだけで感嘆のため息が漏れるほど絵になっていた。

 初めて宮中を出る琴禰は、少し不安だった。
 あやかしの方々からよく思われていないことは知っていたし、初めての場所は、やはり少し怖い。
 そんな琴禰の気持ちに気が付いた煉魁は、宮中を出ると琴禰に手を差し出した。

「俺が付いている。何も心配することはない」

 頼もしい煉魁の言葉に、心が和らいでいく。
 緊張しながら煉魁の手にそっと触れると、煉魁は迷いなく手を絡ませた。
 まるで付き合いたての恋人同士のようだと琴禰は思った。
胸の奥がむず痒くなる。煉魁の隣にいられることが嬉しく、自然と笑みが浮かぶ。

「体調は大丈夫か?」

「はい、大分良くなりました」

まだ完全に祓魔の力は復活していないが、半分程度は回復していた。

「このまま手を繋いで、ぶらぶら歩いていたい気もするが、連れていきたい場所は少し遠いから、飛ぶぞ」

「え?」

煉魁は琴禰をひょいと横抱きにすると、文字通り飛んだ。

(ええええ!)

煉魁の首にしっかりと掴まった琴禰は、初めて空を飛んだ。
一足飛びで空を駆け抜けた煉魁は、薄紅梅色に輝く雲海の上に着地した。

「ここは?」

 白い雲の上に、満開の桜が咲き誇る圧巻の光景だった。

「あやかしの国では年中桜が咲いている」

 煉魁は腰に手を当てて、数多に咲き誇る桜を見上げながら言った。

「そうなのですね。とても綺麗です」

 美しいものが、美しいままに、永遠に生き続けるあやかしの国。

(こんなに綺麗な場所だったなんて……)

 祓魔一族の話では、あやかしの国は地獄のようにおどろおどろしい場所だと聞いていた。
 地獄どころか、まるで天国のように平和で美しい場所だった。
 何が真実なのか、だんだん分からなくなってくる。

「気に入ったか?」

「はい、とても」

 煉魁は満足気に笑みを浮かばせた。
 そして、愛おしむような優しい目で、風に吹かれて琴禰の顔にかかったひと房の髪の毛を、指先で耳にかける。

「二人だけで結婚式を挙げよう」

「え、今、ここで、ですか?」

「嫌か?」

「いえ……とても素敵です」

 琴禰は笑顔で煉魁を見上げた。
 こんな綺麗な場所で結婚式が挙げられたら、一生の思い出になるだろう。

「式というよりも、二人しかいないから結婚の誓いだな」

 結婚の誓い。本当に煉魁と結婚することになるのだと思うと緊張してくる。

「あやかしの国では、どうやって結婚するのですか?」

「互いに指輪をつけ合う」

「指輪? それだけですか?」

「だが、その時に術を掛け合う。それが結婚の誓いだ。指輪から力が発生し、夫婦となったことが誰の目から見ても明らかとなる」

「つまり、結婚したら離縁することはできないということですか?」

「嫌なことを聞くな。離縁はできる。どちらかが指輪を外せば誓いは解かれる」

「なんだか、あっさりしていますね」

 琴禰は少しがっかりして言った。血の契約のことは頭にあるけれど、純粋に煉魁と結婚できることが嬉しくもあるのだ。
 いつの間にか、煉魁に惹かれていた。お慕いする相手と結婚できることに浮足だっている。

「いや、指輪をつけてみれば分かる。結婚の誓いがいかに重いものかということが」

 喜べばいいのか、怯んだ方がいいのか分からない。
 もしも血の契約を交わしておらず、今純粋な気持ちで煉魁と結婚の誓いを交わせたらどんなに幸せかと思う。
 色々な感情が雑然となって、もはや自分の気持ちが迷子になっている。

「俺と結婚するのが嫌になったか?」

 琴禰の戸惑っている表情を見て、煉魁が訊ねる。
 琴禰はハッとして、首を振った。

「いいえ。私と結婚してください」

「そういうことは、男が言うものだと思ったが、人間界では違うのだな」

「こんなこと言うのは、私くらいだと思います……」

 途端に恥ずかしくなって俯く。

「そうか、俺の嫁は見た目によらず男前だな」

 煉魁は楽しそうに笑った。
 嫁と言われて、胸の奥がくすぐったくなる。
 誰にも愛されず、誰とも結婚できず生涯を終えるものだと思っていた。
 神様はつくづく琴禰に、最高で最悪の贈り物を寄こされる。

「さあ、琴禰の気が変わらないうちに結婚してしまおう」

 煉魁が手の平を出すと、何もなかった手の平の上に、指輪が二つ出現した。

「これが指輪というものですか。綺麗ですね、初めて見ました」

 煉魁は、大きな方の指輪を琴禰の右手に持たせ、小さな方の指輪を琴禰の左手の薬指にゆっくりとはめていく。

「これからはずっと一緒だ。俺が琴禰を生涯守る」

 指輪がはめられると、体中に強力な結界を張られたような感覚になった。
 まるで愛に包み込まれたかのようだ。もう一人じゃないと指輪が言外に示してくれているようだった。
 ぽとりと涙が零れる。煉魁の強い愛を感じたからだ。
 嬉しいけれど、消えてしまいたいほど苦しい。
 この愛に、応えたかった。

「なぜ泣く?」

 煉魁が心配そうに小首を傾げた。

「嬉し涙です」

 泣き笑いの顔で、煉魁を見上げると、煉魁はほっとしたように微笑んだ。

「さあ、次は琴禰の番だ」

 煉魁が左手を差し出した。
 渡された指輪を指先で摘み、震える手で薬指にはめていく。

(もしも、これをはめたら、私の邪な気持ちに気が付いてしまわないかしら)

 結婚の誓いは、感情までも伝えることができるものだとは思ってもいなかった。
 自分はなんて罪深いことをしようとしているのだろうと怖くなる。

(ただ、煉魁様を好きな気持ちは偽りじゃない)

 心の底から結婚したいと願っている自分がいる。
 愛しく想う気持ちが伝わりますように。
 裏切りの中に、本物の愛があったのだと、それだけは本当だったのだと、いつか伝わりますように。
 願いを込めて、指輪をはめた。すると、煉魁の体にも強力な結界のようなものが付いた。

「温かい。琴禰の真心が伝わる」

 煉魁はとても幸せそうな顔で微笑んだ。
 邪な気持ちは気付かれずに済んだようで、安堵した。

「これで俺達は、正真正銘の夫婦となった」

 琴禰も笑顔で煉魁を見上げる。

「愛している、琴禰」

 煉魁はゆっくりと琴禰の顔に寄せてきた。
 互いに瞼を閉じ、触れるだけの口付けを落とす。
 柔らかな唇の感触に、本当の夫婦となった証を感じた。
 満開の桜が柔らかな風に揺れ、二人を祝福するかのようにさわさわと鳴った。
 
 晴れて夫婦となり、宮中の宮中に戻った二人と遭遇した者達は、口をあんぐりと開き、呆れるような驚きの顔を見せた。

「やりましたな、あやかし王」

 呆れたような目で声を掛けてきた大臣に対し、煉魁は素知らぬ顔で返す。

「なんのことやら」

 しっかりと琴禰の肩を抱き、宮中を歩く。

「あやかし王~、大王には何と伝えるのですか⁉」

 二人の後ろを追いかけるようにしてやってきた秋菊が、息も絶え絶えに聞いた。
 怠慢な様子で後ろを振り返った煉魁は、足を止める。

「容態が悪化したら大変だから、しばらく内緒にしておいて」

「しばらくっていつですか⁉ 見ればすぐ分かりますよ!」

「うん、だから、しばらく会わないでおくわ。適当に理由言っておいて」

「困りますよ~」

 泣きつくように言ってくる秋菊に背を向けて、再び歩き出す煉魁。
 隣で聞いていた琴禰は、不安気に煉魁を見つめる。

「あの、大丈夫なのでしょうか?」

「大丈夫だ。琴禰は何も心配しなくていい」

 そう言って煉魁は、琴禰の額に口付けを落とす。
 あやかし達に見られたので、琴禰は真っ赤になってしまった。

「今日から琴禰の部屋は俺の寝殿だ」

 煉魁は琴禰の肩を抱きながら、嬉しそうに言った。

「え⁉」

「そりゃそうだろう。俺達は夫婦になったのだから」

 煉魁はニヤリと微笑み、琴禰の肩を抱いていた手に力を込めた。

「そ、そうですよね」

(私達は夫婦、私達は夫婦、私達はふ……)

 気持ちを落ち着かせるために、心の中で反復していたら、余計に恥ずかしくなって、顔に火がついたかのように赤くなり、両手で顔を隠した。
 そんな様子の琴禰を見て、煉魁は楽しそうに笑う。
 心の底から幸せそうな笑顔に、結婚を反対していた者達は『仕方ないか』という気になってくる。
 あまりにもお似合いで、あまりにも幸せそうで、互いを思いやっているのが伝わってくる。
 これまでどんな女性にも興味を抱けなかった、あのあやかし王が、初めて恋した女性が人間だった。
 祝福してあげたいという気持ちが、皆の心に湧き上がる。
 そして、幸せいっぱいの煉魁は、愛する新妻を部屋に招き入れた。

「さあ、琴禰。ここが俺の部屋だ」