「私と離縁してください」

 琴禰は真っ直ぐな瞳で煉魁を見つめた。
 煉魁はまるで、時が止まったように感じた。可愛らしい唇から一番聞きたくない言葉を吐かれた。
 胸にグサリと刺さった言葉の刃は抜けそうもない。

(やはり、そうか……)

 昨夜煉魁は、琴禰と澄八の逢引きを見てしまった。
 厠へ行く琴禰の気配を感じ、目が覚めた。
 全てを吐いてしまった方が良いと侍医から聞いていたので、少し安心した。
 琴禰の様子を見に行くために部屋を覗くと、琴禰は布団に入って安らかに眠っていた。
 襖を閉めようとした時、何かの違和感に気が付いた。
 煉魁でなければ誰も気が付かないであろう術式の気配だ。

(これは、祓魔の力?)

 煉魁は琴禰に近付き、布団をはぎ取った。しかし、琴禰はすやすやと眠り、起きる気配もない。

(これは琴禰ではない)

 しかし、琴禰の術式だ。つまり琴禰は、自らの意思でいなくなったのである。
 琴禰の姿に似せたものを寝かせ、煉魁を欺こうとしてまで。
 何事もなかったかのように布団をかぶせ、煉魁は外に出た。
 後を追おうにも、琴禰の気配は消されている。

(さすがだな、琴禰)

 煉魁は苦笑いを浮かべると、神経を研ぎ澄ました。
 木の葉のざわめき、土が踏まれた足跡。自然のわずかな変化から、琴禰の居場所を探る。

(あっちだ)

 一足飛びで向かうと、そこには澄八と琴禰がいた。
 やたらと距離の近い二人を見て、煉魁はその意味を知る。

(あいつに会いに行くために部屋を抜け出したのか?)

 その理由は考えるまでもない。
 二人の関係はただの幼馴染ではないということだ。
 二人の間には、何か強烈な絆のようなものを感じ取っていた。
 あやかしの国に、琴禰を探しにやってきた澄八。
 そして、澄八を好きだった琴禰。

(そうか、そうだったのか……)

 煉魁はこれ以上二人を見ていたくはなくて、静かに寝室に戻った。
 そして今。
 離縁を告げられた。
 信じたくない現実が、目の前に差し出された。

「それは、澄八と一緒になりたいからか?」

 煉魁は呆然と佇みながら聞いた。
 琴禰は、煉魁がそんな勘違いをしていることに驚きつつも、その方が、都合がいいかもしれないと思った。

「……はい」

 琴禰の胸は引き裂かれそうになるほど痛かった。
 しかし、煉魁も同じように痛かった。いや、琴禰以上に衝撃的で苦しかった。

「あいつはもう人間界に帰った」

「はい。ですから私も、人間界に帰ろうと思います」

 そうくるとは思わなかった。
 昨夜、二人が逢引きしていたのは、人間界に戻って一緒になる約束をしていたのかもしれない。だから急に、こんな……。

「人間界に戻ったら寿命が短いのだぞ? ここにいた方がいいだろう。ここなら何でもある」

「でも、人間界は私の故郷です」

「殺されかけたのだろう? そんなところに戻っても、また傷付くだけじゃないか!」

 煉魁は悲痛な面持ちで声を荒げた。

「澄八さんが、私を守ってくださいます」

 煉魁は言葉を失った。
 命が短くなろうとも、再び虐げられるとしても、それでも澄八の元に行きたいというのは。

(それほどあいつが好きか)

 やはり、種族の壁は越えられないのだろうか。
 幸せだったのは、愛し合っていると思っていたのは、自分だけだったのだろうか。
 煉魁は、足元が崩れ落ちたかのように不安定になり、ふらふらとよろめいた。
 琴禰の幸せのためなら、何でもしてやりたい。
 琴禰が望むことなら、何でも叶えてやりたい。
 琴禰のためなら、自分の命すら投げ出せる。
 だが、この願いは受け入れることはできない。

「駄目だ、離縁は認めない」

 煉魁は、はっきりと拒絶した。

「そんな!」

 琴禰は顔を上げ、煉魁に詰め寄る。

「人間界に戻ることも許さない。琴禰は俺の側にいるのだ」

「それは駄目なのです、それはできないのです! 煉魁様!」

 琴禰は懇願するように切迫した面持ちで言った。

「必ず幸せにする。約束する。だから俺の側にいろ、琴禰!」

 幸せにする自信があった。
 誰よりも琴禰を愛しているし、生涯愛し続けると誓える。
 あの男の元にいけば、琴禰は不幸になる。
 あいつは腹黒い邪な気が内側から漂っている。琴禰を幸せにできるとは思えない。
 琴禰の幸せを一番に願うからこその言葉だった。
 琴禰は煉魁の目を見つめたまま、ポロポロと涙を零した。
 溢れ出る涙に、煉魁はたじろぐ。
 抱きしめてあげたいが、嫌がられるかもしれないと思い、手を引っ込める。
 琴禰は止まらない涙を隠すように、両手で顔を覆った。
 そして、信じられない言葉を呟く。

「離縁していただけないのなら、いっそ私を殺してください」

 心が凍り付く。

(それほどあいつが好きか……)

 煉魁は、深い絶望の闇に突き落とされた気分だった。
 これほど強く望んだことはなかった。他には何もいらない、琴禰がいればそれだけでいいのに。
 たった一つの願いさえ叶わない現実を前に、虚無感に襲われる。

「死ぬことも、離縁することも、人間界に帰ることも許さない」

 非道な煉魁の言葉に、琴禰は膝から崩れ落ちた。
 声を上げながら泣く琴禰を見下ろすことしかできない。
 心の冷たさが体に伝染していき、指先が凍えるように冷たくなっていた。

「煉魁様、私は、私は……あなたを殺すために花嫁になったのです」

 琴禰の告白に、煉魁は目を見張る。
 涙で濡れた瞳は、見る者が胸をつかれるような苦しみに満ちたものだった。そして琴禰は、狂おしげに驚くべき真実を口にした。

「私は、あやかし王を殺す命を受けて、この国にやってきたのです。結婚してほしいと願ったのは、妻になればあなたの隙が生まれると思ったから。あなたの懐に入るためです。私は裏切り者の大悪党です。どうかこの首を斬り落としてください」

 嘘を言っているようには思えなかった。
 これまでの不可解だった琴禰の謎が、一気に紐解かれたような気がする。

(そうか、琴禰は最初から俺のことを好きではなかったのか)

 真実を知ってすっきりとした気持ちと、脱力感。
 裏切られていたことを知っても、憎いとは思えなかった。むしろ愛しい。それでもなお、琴禰を愛している。

「大悪党であればお前に自由はない。ここにいるのだ、いいな?」

 琴禰は絶望の眼で煉魁を見上げていた。
 涙が止めどなく溢れている。
 琴禰にとっては、一番辛い罪の償い方法なのかもしれない。
 それが分かったところで、手放す気はなかった。
 煉魁は宮殿に結界を張っていった。言葉通り、琴禰を逃がさないためだ。

「何をしているのですか!」

 琴禰は顔面蒼白になりながら言った。

「琴禰が諦めるまで、ここから出ることを許さない」

 とてつもなく強力な結界だ。琴禰の力の強さは分かっているので、念には念を入れて何重にも見えない結界を張っていく。

「やめてください! 私は行かなければいけないのです! ここにいてはいけないのです!」

 澄八と人間界で落ち合う約束でもしていたのだろうか。
 琴禰の焦りようは緊迫していた。

「今後はここに入れるのは俺だけだ。逃がす者が現れては困るからな」

「煉魁様お願いします。ここから出してください」

「早く諦めることだな。仮にここから出られるようになったとしても、あやかしの国からは出られないぞ。永遠に」

「煉魁様! れん……」

 琴禰の言葉を遮るように、煉魁は部屋から出て行った。


 部屋に一人残された琴禰は、絶望感と焦りで頭が混乱していた。

(どうしよう。いつ力が爆発するか分からないのに)

 この強力な結界内で爆発すれば、被害はこの宮殿だけで抑えられるのではないか。
 いや、そんなに甘くない、と琴禰は頭を振って自分の考えを否定する。

(誰も傷つけたくないのに)

 無能のままであれば、こんなに悩まずに済んだのに。
 自分だけが傷ついて終われた。誰かを傷つけるくらいなら、自分が傷ついた方が心は軽い。

(煉魁様に血の契約のことを話すべき?)

 真実を告げれば、自分を殺してくれるだろうか。
 いや、たぶん無理だろう。
 むしろ同情して、何が何でも琴禰を救おうとするだろう。あの方は、そういうお方だ。
 血の契約は、決して破れぬ誓約。
 だからこそ、強い効力が発揮される。
 琴禰の裏切りを知った澄八が、いつ仕掛けてくるかわからない。
 人間界に辿り着き、己の安全を確認したらすぐに発動させるだろう。
 発動を遅らせる理由はない。むしろ、発動を早める理由なら山ほどある。

(一体どうすれば……)

 琴禰は頭を抱え込んだ。


 宮殿に結界を張った煉魁は、腕を組みながらどこに行くでもなく宮中内を歩いていた。
 突然張られた強力な結界に、あやかし達は驚いていたが、あやかし王がいつにもまして不機嫌な様子なので、誰も理由を訊ねる者はいなかったし、話し掛ける者さえいなかった。
 煉魁は感情のままやってしまった自分の言動を少し後悔していた。

(あんなことをやって、俺は一生琴禰に恨まれるのだろうな)

 大嫌いな相手と結婚し続けなければいけない琴禰の気持ちを思うと、それが琴禰の幸せになるのか疑問だった。
 とはいえ、ああでもしなければ琴禰は今すぐにでもいなくなってしまいそうな気がした。
 そして、一生会えなくなるような予感もした。
 これでいいとは思えない。しかし、これ以外に方法が思いつかない。

(琴禰は俺を殺すためにあやかしの国にやってきたと言っていたな。どうして人間は俺を目の敵にしているのだ? そしてなぜ琴禰がその役目を負うことになった?)

 まだ知らない真実が隠れていそうで、煉魁は胸騒ぎがした。

(人間界か。これまで全く興味はなかったが、いってみるか)

 煉魁は立ち止まり、遠くを見つめた。