澄八は苛々していた。
 あやかしの国に来てから一週間が過ぎていた。その間に体力も回復し、人間界に戻れる日も近い。
 それなのにも関わらず、琴禰は一向にあやかし王を討つ気配がないからだ。

 機会は山ほどあるはずだった。あやかし王は琴禰に虜で隙だらけだ。
 寝ているあやかし王の心臓を一刺しすれば全てが終わる。
 あやかし王の力は強大で、命を奪える者などこの世に存在しないと思われているほどの絶大な権力者だが、唯一の弱点は琴禰だ。
 琴禰ならば殺気を完全に消し、屈強な体に一刺しを加えられるほどの力を持っている。
 祓魔一族の宿願がついに果たされる時がきたにも関わらず、肝心の琴禰が何も動かない。

 このままでは何も起こらずに人間界に追い返される日がきてしまう。
 焦る気持ちが、澄八の苛々を助長させていた。
 澄八が、あやかしの国に来ることになったのは、琴禰の様子を探るためだった。
 血の契約を結んでいるので、琴禰が死んでいないことは澄八には分かる。

 琴禰が、あやかしの国に行くときに作った糸のように細い道を登り、命からがらやってきたのである。
 当初は祓魔五人衆であやかしの国に乗り込む算段だったが、澄八以外は途中で力尽きた。
 澄八も、琴禰と血の契約を結んでいなければ辿り着くことはできなかっただろう。
 永遠に続くかのように思われた糸を辿って登る作業は、凄絶な鍛錬のようだった。

 力尽きた者たちは落ちていったが、下には結界を敷いていたし、元々の力が強いので死ぬことはないだろう。
 彩雲に輝くあやかしの国を真上に仰ぎ、下界を見下ろすと、まるで人間界が地獄のように汚れた世界に見えた。
 厄災の元凶であるくせに天上の美しい場所に住んでいるなど図々しい奴らだ。
 一刻も早く殲滅し、人間界に平和を届けてやりたい。
 そうすれば自分は英雄となり、祓魔で一番の権力者になれるだろう。
 人々から崇拝され、富も権力も手にした自分の姿を想像した澄八は、口元を綻ばせた。

 しかし、なかなかその日はやってこない。
 澄八との結婚を匂わせれば、琴禰は喜び勇んであやかし王を倒すと思っていた。
 嫌々、あやかし王と結婚したと思っていたが、あやかし王を見つめる琴禰の顔は、まるで恋する乙女のように幸せそうだった。
 最初は反対されていた二人の結婚も、祝福するような雰囲気になっているという。
 二人の仲睦まじい様子が周りを変えた理由のようだ。
 そして、澄八はようやく、ある一つの仮説に辿り着く。

(琴禰は、あやかし王に恋をしているのではないか)

 そう考えると、全ての辻褄が合う。
 殺す機会は山のようにあるのに、決行しない理由。
 あやかし王より優位な立場にあるはずなのに、なぜか負けているような気持ちになること。
 苛立ちや悶々とする気持ちの背景には、琴禰の裏切りが影響しているのかもしれない。

(血の契約を破るつもりか)

 澄八は段々と怒りが募っていった。

(もしも裏切るつもりなら命はないと思え)


 琴禰は一枚の文を手にしながら、思案に暮れていた。
 庭園の片隅で腰をおろしながら、一人ぼうっと空を見上げる。風がさやさやと草木を揺らしていた。
 文にはこう書いてあった。

『今夜、白木蓮の木の下で待っている。澄八』

 まるで恋人同士が逢引きするような内容だ。
 澄八は、あやかし国にいるにも関わらず、会うことはほとんどなかった。
 一つは琴禰があまり出歩かないからという単純な理由と、煉魁が澄八を琴禰に近づかせないようにしていたためだ。
 澄八は王の宮殿には立ち入るどころか近寄ることさえ禁止されているにも関わらず、あやかしの警備をかいくぐって琴禰に文を届けに来たのである。
 いつものように庭園の手入れをしていた琴禰の前に突然現れ、文を手渡して颯爽といなくなってしまった。
 そんな状態で渡されたので、内容を断ることもできず琴禰は困っていた。

(夜に一人で出歩いたりしたら煉魁様に不審に思われる)

 不審どころか過保護な煉魁は、心配して付いてきてしまうだろう。

(かといって本当のことは言えないし)

 煉魁は澄八に嫉妬している。
 そんな中、『こんな文が渡された』と言ったら、激怒するに決まっている。もちろん、会うことは禁止されるだろうし、警備も強化されるだろう。

(でも、私に会わないという選択肢はない)

 血の契約を交わしている以上、澄八の機嫌を損ねることは避けたい。
 琴禰は血の契約を完全に理解しているわけではなかった。決して破られぬ誓いで、契約に反したら強制的に力が発動するということしか知らない。
 つまり、契約違反に気づかれたら終わりだということだ。
 でも、例え強制的に力を発動させても、琴禰の力では煉魁を倒すことはできない。それが分かっているから澄八も強制的に発動はしてこないのだろう。
 勝機があるとすれば、煉魁が寝入ったところに不意打ちで心臓を一刺しにする。それくらいしか勝つ方法はない。
 そして、その方法ができるのは妻である琴禰だけだ。

(裏切りを決して気付かれてはいけない。そのためには、この誘いを何がなんでも叶えなくてはいけない)

 試されているような気がした。琴禰の真意を。
 煉魁を騙して、澄八の元へ駆けつけることができるのか。

(どうやって煉魁様の目を盗み、澄八さんの元へ行こう)

 琴禰は庭園に植えられている草花に目をやった。鮮やかな黄色の水仙の花が風にそよそよと揺れていた。

(これだわ!)

 琴禰は意を決し、水仙の葉をちぎった。


「琴禰! 大丈夫か⁉」

 琴禰の体調が優れないと聞いた煉魁は、仕事を放り出して宮殿へと駆けつけた。
 いつも二人で寝ている寝室ではなく、宮殿の端にある畳敷きの小部屋に布団を敷いて、琴禰は横になっていた。
 額には大粒の汗をかき、呼吸が乱れている。とても辛そうな様子に、煉魁は胸を痛めた。

「一体琴禰に何があった⁉」

 あやかしの侍医に煉魁はきつく問う。
 白い髭をたくわえた侍医は、ふさふさの髭を所在なげに撫でながら言った。

「それが理由はわからないのです。食中毒に似た症状なのですが、琴禰様と同じ食事を召し上がった方々はなんともないので、考えられるとしたら毒を盛られたか」

「毒だと⁉」

 煉魁はこめかみに青筋を立てて言った。

「しかし毒であれば遅くとも三十分から一時間くらいで症状が現れるはずなのですが、琴禰様が食事を召し上がられてから数時間は経っております。これほど長い潜伏期間で、このような急性期のような症状で発症する毒を私は知りません」

 煉魁は眉を顰めたまま、心配そうに琴禰の頭を撫でた。

「かわいそうに、こんなに苦しんで」

「解毒剤や嘔吐剤は飲ませたのですが、なかなか吐く気配がなく……」

 侍医は困ったように言った。

「命は大丈夫なのか?」

「胃の中のものをすっかり吐いて、数日安静にしていれば問題ないでしょう」

「そうか。ところで、なぜ琴禰はここで寝ている? 寝室の方が広く寝心地も良いだろう」

「それは琴禰様のご希望です。厠に近い所で、ゆっくり一人で寝たいとおっしゃっておりました。私もここの方が何かと便利だと思います」

「なるほど」

 琴禰は吐き気を猛烈に我慢している状態なので、言葉を発することができなかった。
 吐いたら楽になることは分かっているが、楽になってしまっては計画が潰れる。
 水仙には毒がある。猛毒なのは球根で、葉はそこまで毒性はないと思っていたが、実際に口に入れると気が飛びそうになるくらいの苦しさだった。

「大丈夫だ、琴禰。俺が今、楽にしてやるから」

 煉魁は琴禰の頭に手を添えると、ポウっと温かい光を出した。

(え⁉)

 これに困ったのは琴禰だった。治されては意味がない。煉魁は治癒の力も使えることを失念していた。

「完治まではいかないが、だいぶ楽にはなっただろう?」

 琴禰の額に浮かんでいた大粒の汗は消え、はち切れそうな頭痛も弱まった。

「煉魁様……」

「うん、ゆっくり休め」

 煉魁はとても優しい表情で琴禰の頭を撫でた。強烈な吐き気と頭痛がおさまったら、急激に眠気が襲ってきた。
 瞼を閉じると、安心したように煉魁と侍医は部屋を出て行った。
 本当に寝てしまっては、待ち合わせ場所に行くことができないので、気力で起きていた。あとは時間を見計らって外に出るだけだ。
煉魁は心配そうに度々琴禰の顔を見にきたが、寝ているのを邪魔してはいけないと思ったのか長居せずにすぐにいなくなった。
 そして夜は更けていき、煉魁も寝室で寝入ったことを気配で感じ取った。

(今よ)

 琴禰はムクリと起き上がると、人型に切り取った白い紙を取り出した。
 祓魔一族の最も得意とする術式、式神だ。
 紙に力を込めると、小さな人型の紙は、どんどん大きくなり人間の姿となった。そしてその姿は琴禰そっくりだ。

「あなたはここで寝ていて」

 琴禰の形をした式神は返事をすることなく、布団に潜り込み目を瞑った。

(式神は喋れないけれど、寝ているだけなら気付かれないでしょう)

そして琴禰は自分の気配を完全に消し、部屋を出て行った。
外に出る前に、厠で胃の中のものを全て出し切った。強烈な吐き気はおさまったが、まだ頭は朦朧としている。体の中に毒が吸収されてしまったらしい。しばらく引きずりそうだが、こうもしないと煉魁の目を欺くことはできなかった。

(ごめんなさい、煉魁様)

 心の中で煉魁に詫び、そして白木蓮が咲いている場所へと向かった。
夜は更け、真っ暗な宮中で中空の細い月の明かりだけが闇を照らしている。夜の底冷えは、吸う息が胸を刺し、体の弱った琴禰には沁みた。
月明かりの下で、白木蓮の花びらが空に向かって咲いていた。高木は堂々と梢を突き立て、涼やかな風が純白の大輪を揺らし、香を吹き送る。
 その大木の下で、澄八が腕を組んで物憂げに立っていた。

「遅かったね」

「申し訳ございません。煉魁様が寝静まるのを待っていたものですから」

 水仙の毒と式神を使ったことを話すと、澄八は満足気な笑みを見せた。

「さすがだね。そこまでして僕に会いたかったの?」

 澄八は琴禰の頭を撫でた。

「……はい」

 ここまで自分の体を犠牲にしたのは、澄八のためではなく煉魁のためだ。
 血の契約は発動させない。命を懸けても煉魁を守る。

「じゃあ、僕に口付けして」

「え⁉」

 耳を疑った。まさかそんなことを要求されるとは思ってもみなかった。

「僕が好きなのだよね?」

 澄八はまるで琴禰を試すような鋭い目付きだった。

「あ……でも、さっき胃の中の物を全部吐いてきたので」

 澄八は汚そうに目を顰めた。
 吐いていて良かったと心から思った。

「ねぇ、琴禰。本当に僕のことが好きなの?」

 澄八は琴禰に距離を詰めてきた。
 琴禰は目を泳がせて、半歩下がる。

「あの、臭いのであまり近づかない方が良いかと。好きな方を汚したくはありません」

 疑われないように、澄八のことを好きだと嘘をついた。
 しかし、澄八はさらに鋭い目付きで空いた距離を詰めてくる。

「琴禰が好きなのは、あやかし王でしょ?」

 確信を突かれて、胸がヒヤリとする。

(どうしよう、気づかれていた)

「そんなわけありません」

 琴禰は半笑いで澄八の目をじっと見つめて言った。

(絶対に隠し通すのよ)

 嘘は苦手だが、ここは何が何でも嘘を貫き通さなければいけない。
 煉魁につく嘘と違って、罪悪感はなかった。

「では証明してみせて」

「証明って言われても、何をすれば?」

「今宵、あやかし王を殺すのだ」

 全身から血の気が引いた。
 震えそうになる唇から、やっとのことで言葉を吐き出す。

「今宵は無理です。私は体調が悪く、一人で寝ていることになっています。真正面から対峙しても勝てないことは澄八さんにも分かるでしょう?」

「じゃあ、明日決行して」

「でも……」

「言い訳はやめろ!」

 澄八に怒鳴られて、恐怖に慄いた琴禰の肩が上がる。

「僕はもう帰らないといけない。あやかし王の首を祓魔への土産として持って帰りたい」

煉魁の首を持って高笑いをする澄八の姿を想像し、心の奥底まで冷えびえする思いだった。

(そんなこと絶対にさせない)

「善処しますが、あやかし王は勘がとても鋭く、私が不穏な動きをすると起きてしまうのです」

琴禰の嘘に、澄八は不敵な笑みを浮かべながら、琴禰の白磁のような滑らかな頬に指を這わせた。

「あやかし王の隣ですやすやと寝ている琴禰の力を、僕が強制的に発動させたらどうなるかな?」

 あまりに恐ろしい言葉に、琴禰は目を剥く。くすぶる熾火のような怒りが体を熱くさせる。

「あやかし王に重傷を負わせることができるだろう。それに、あの無駄に絢爛豪華な宮中も吹っ飛び、多くのあやかし達は死ぬ。これは祓魔の歴史の中でも大健闘だ。やる価値は大いにある」

「つまり、私に死ねと?」

 力の強制発動はすなわち、自爆のようなものだ。

「僕がこの国にいるうちに、あやかし王を仕留めないのならそうなるな」

 澄八は琴禰の退路を奪った。
 裏切れば死が待っていると、暗に匂わせていた。

(このまま穏やかで幸せな日々を過ごしたいと願うのは、しょせん叶わぬ夢だったのね。煉魁様を傷つけようとする者は誰であっても許せない)

 ふいに脳裏に浮かんだことは、とても恐ろしい行為だった。
 これまでの琴禰なら、絶対に思い浮かばない考えだ。
 叶わぬ夢を叶える方法。それは……。

(彼を殺すしかない)

 澄八を殺す。すなわちそれは、血の契約を断ち切ること。
 震える手で、覚悟を決めた。
 だが……。

(体が、動かない)

 まるで全身の血が固まったように動かなくなった。
 まるで人形のように顔が真っ白になり硬直した琴禰の変化に、澄八は苦笑いして後ずさる。

「さては琴禰、僕を殺そうとしたな。血の契約は決して破れぬ誓い。僕を殺そうとしても流れる血がそれを制する。自死しようとしたところで同じことだ」

 なんて恐ろしい契約なのだろう。
 澄八は力を発動させて琴禰を殺すこともできるのに、琴禰は澄八を殺せない。
 あまりにも琴禰に不利な契約だ。
 生き延びることに精一杯で、よく考えずに結んでしまったことが悔やまれる。
 殺すことも自死することもできないなら、どうすればいいのか分からない。
一番大切にしたい人を、誰よりも愛する人を傷つけることしかできないなんて。地が割れて飲み込まれそうになるくらい絶望的な心持ちだった。

 人形のように固まった琴禰の瞳から涙が伝った。
 琴禰の裏切りを確信した澄八は、身の危険を感じて徐々に琴禰から遠ざかる。

「最初から琴禰に選択権はなかったのだ。僕が死ぬことはすなわち、血の契約が発動されることを意味する。殺そうとしたって琴禰は血の契約から逃れられない!」

 口の端を上げて大声を張るが、肝は冷えていた。
血の契約によって琴禰に殺されることはないと分かっていても、頭の良い澄八は瞬時に最悪の想定を考える。
 琴禰自身は手を加えることはできなくても、他の者なら澄八を殺すことは可能だ。
 例えば琴禰が全てをあやかし王に告げれば、澄八を殺すことは容易だ。

 血の契約はあくまで当事者同士のもの。それに琴禰が気付けば澄八の命運は絶たれる。
だが、澄八を殺すと同時に血の契約は発動される。澄八を殺すということは、力が暴発して琴禰も死ぬことになる。
あやかし王は琴禰を愛しているから、おいそれと手出しができないにしても、もしもその事実をあやかし達が知ったらどうなる?
 厄介者が二名同時にいなくなるのなら、願ったり叶ったりではないだろうか。
あやかしの国に被害が起こることを懸念したとしても、琴禰をどこか遠くに幽閉するか、雲の上から人間界に突き落とせばいい。いくらでも対策の仕様がある。
 それに気が付いた澄八は逃げるようにその場を去った。

(琴禰が完全に寝返ったとしたら、僕の身も安全ではないということだな。早くこの国を離れ、琴禰もろともあやかしの国を撃破しなければ)

 澄八は大巫女様の言葉を思い出していた。

『あの者が祓魔一族を滅亡に導くだろう』

 もしかしたら本当に、琴禰が祓魔を滅ぼすかもしれない。
 圧倒的優位のはずなのに、澄八の心に一抹の不安が残る。
 そのような最悪な状況を想定し、慎重を期さねばならない。
 澄八はそうやって成り上がっていった男だった。

 一方、澄八が逃げるようにその場を立ち去った後、琴禰の体に血が通い、動けるようになった。
 琴禰の体は今や、存在自体が激甚の火種のようなものだ。
 いつ暴発するかわからない。澄八がこの国にいる間は発動させないとしても、人間界に戻れば身の安全は確保されるため、いつ発動させたとしてもおかしくない。
 絶望しかない現実に、琴禰は打ちのめされた。

(やっぱり私は生まれてきてはいけなかった)

 頭の芯がくらくらする。膝から崩れ落ち、地面に手をついて嗚咽を漏らした。

(私の存在自体が厄災なのよ)

 幸せになってはいけなかった。
 あやかしに着いた時に、誰にも見つけられることなく死んでしまえば良かった。
 生きたいと願ってはいけなかった。

(ごめんなさい、ごめんなさい、煉魁様)

 琴禰がどんな選択をしたとしても、煉魁を傷つける結果となる。
 煉魁が心から琴禰を大切に思ってくれていることは十分伝わっている。
 琴禰が別れを告げたら、どんなに傷つくだろうか。

『ようやく、生きている実感がする。ありがとう』

 と嬉しそうに微笑んだ煉魁を裏切ることになる。

(どうして出会ってしまったの)

 愛しあわなければ、傷つくことも傷つけることもなかった。
 大好きなのに。どうして……。
 失意のやり場のなさに怒りさえおぼえる。
涙がとめどなく溢れるのをとどめることもできず、どうすることもできない現実を受け入れるしかない。
 不穏な色をした波打つ雲が月を消していく。
 彩雲の上に存在するあやかしの国。その上にまた雲があり、月もある。
 なんて不思議な場所なのだろうと思う。
 神々が住む天上のように美麗なこの国を破壊させることなんて許せない。
 あやかし王が守るこの国を、命を懸けて琴禰も守ることを決めた。涙でぐしょぐしょになった顔を上げ、睨み付けるように空を仰ぐ。

(立たなければ。この国を守るために。煉魁様を守るために)


 部屋に戻った琴禰は、寝ている自分の姿をした式神を紙に戻し、布団の中に入った。
 心身共に疲れ切っていて、精神は過敏になっているものの目を閉じれば泥のように眠ってしまいそうだ。
 今後の動きを考えると少しでも体を休めておいた方がいい。
 澄八が、あやかしの国にいる間はまだ大丈夫。琴禰は気を失うように眠り込んだ。
 目が覚めると夕方になっていた。
 驚くほど寝てしまったようだ。けれど、おかげで体はだいぶ良くなっていた。
 起き上がって部屋から出ると、扶久が駆け寄ってきた。

「起きたのですね! お体は大丈夫ですか?」

「うん、だいぶ良くなったみたい」

 扶久がほっとしたような笑みを見せる。
 扶久とはすっかり仲良くなった。日本人形のように表情が乏しく怖い印象だった扶久だけれど、話してみると案外気さくで面白い。
 友達のいなかった琴禰にとっては、初めてできた友人のように感じていた。
 しかし、もう離れなければいけない。

「湯殿に入りたいわ」

「はい、今すぐ準備しますね!」

 湯を準備している間に、軽い食事を取った。
 体にたまっていた毒素もなくなり、生き返るようだ。
 湯を浴びて、髪に香油を塗ってもらっている中、扶久が世間話のように何気なく言った内容に衝撃を受ける。

「そういえば、あの人間の男性、もう人間界に帰ったらしいですよ」

「え⁉」

 明日か明後日には戻るかもしれないとは思っていたけれど、こんなに早いとは想定外だ。
 琴禰が突然震え出したので、扶久は手を止めた。

「琴禰様? 大丈夫ですか?」

「扶久、煉魁様は、いえ、あやかし王は今どこにいるの?」

「さあ、気ままなお方ですからねぇ。でも、もうすぐ帰って来ると思いますよ」

 扶久はニコリと笑って、再び髪を梳かし始めた。

(もうすぐ、この生活が終わる)

 琴禰は自分の手を握りしめて、溢れだしそうになる感情を抑えつけた。
 身支度を終えた琴禰は、寝室で煉魁を待っていた。
 もうすぐ帰って来るという扶久の言葉通り、日が沈む前に煉魁は帰ってきた。
 寝室に入ってきた煉魁は、琴禰の姿を見ると、俯きがちに目を逸らした。

「もう体は大丈夫なのか?」

「はい。ご心配お掛けしました」

「いや、元気ならいいのだ……」

 気のせいか、煉魁の方こそ元気がないように見える。
 不自然に空いた距離。けれど、そちらの方が、都合が良かった。
 琴禰は手の平から血が出そうになるくらい強く拳を握った。大きく深呼吸をして、吐き出す。

「お話があります、あやかし王」

 いつものように名前ではなく、あやかし王と距離を取られたような呼び名で言われた煉魁は、訝しそうに琴禰を見る。

「なんだ?」

 煉魁の声はいつもより低かった。

「私と離縁してください」