それは翌日の昼過ぎ。一時か二時を回った頃だろうか。
 俺はあの場所でキャンバスに向かっていた。両耳をイヤホンで塞ぎ、昨日の自分から受け取ったバトンと言う名の鉛筆を握り絵を進める。
 それは昔からの癖のようなもので、俺は目で見た実際の風景をぼんやりと思い出しながら目の前のキャンバスへと形にしていた。まるで時間という人間にとって絶対的な概念から独りひっそりと逸れたようにただひたすら無心で。そこには肌寒さも自然の声も――自分という感覚さえない。深い眠りへと落ちるように、ただ只管、俺は描くというたった一つのプログラムを行っていた。

「ここ、ロケット雲とかどう?」

 するとそれは下書きを粗方描き終え、世界に色という存在を教えていた時の事だった。
 背後から伸びてきたその指はキャンバスに見えない線を描きながら蒼穹の端を指した。
 それは色白で華奢な女性のような手。だけど音楽に混じり聞こえてきた声は柔らかで包み込むような低い男性声。
 まさかこんな場所に人が居て、まさかこんな声の掛けられ方をするとは思ってもみなかったからだろう。俺は一瞬、素直に声を受け入れそれが妙案だと感心してしまっていた。
 その数秒後、遅れてきた違和感に手を止めるとイヤホンを外し、走らせた視線でその腕を辿った。肌を隠した袖を通り、肩と首を通過しては顔を見上げる。目を少し覆うぐらいの髪と柔和な印象を受ける若い男性の顔はこっちを向いてて――目が合うと眠気を包み込む朝日のような笑みを浮かべた。
 何故かその人は、初めて会うのにどこか見覚えのあるような、そんな不思議な人だった。

「誰――ですか?」

 だけど例えそのコートを着た男性が親しみを感じかつ無害に見えたとしても、至極当然な疑問は俺の口を飛び出す。今までここで絵を描いてる時、誰かに話しかけられたことはおろか人影すら見た事ない。だからか悪い人には見えないがどこか不審さを感じたのは。
 そして俺の問い掛けを聞いた彼は表情と共に「あっ」と声を零すと莞爾として笑った。

「確かにそうだね。ごめん。――僕は、鯨臥蒼空って言います。よろしくね」

 すると次は君の番だと言うように彼は俺の方へ手を差し出した。

「空見蓮……です」

 まだ脳裏を埋め尽くす疑問で首を傾げそうになりながらも彼の――鯨臥さんの爽やかで気さくな雰囲気に流され、気が付けば名前を名乗り手を握り返していた。

「空見……蓮」

 俺の名前を聞いた鯨臥さんは何か言いたげな表情をしながら小さな声で復唱した。
 だけど勘違いだと言うようにすぐさま先程の笑みへと戻る。

「良い名前だね」
「――どうも」

 一応でお礼を言った後も俺の頭では色々な疑問が渦巻いていた。鯨臥蒼空。何せそれが彼の名前だということ以外は何一つ知らないのだから。どこの誰で何しにここへ来たのか。何も分からない。
 そもそもこの鯨臥さんはこの場所が私有地だと言う事を知らないんだろう。

「あの、ここ一応うちの祖父の土地でして……」
「えっ? そうなの? あーっと。――そういう看板とか無かったから分からなかったよ」

 確かに彼の言う通りそういう類の看板も無ければ囲いのような物も無い。だから彼がそれを知らないのも当然と言えばそうだ。そもそも祖父が誰かが勝手に入って来ようと気にしなかったのか、動物には意味がないと思ったのかは定かじゃないけど、ここが私有地だって知ってる方がおかしい。

「まぁ無いですね。でも別に荒らしたりしなければいいんですけど。って俺の土地でもないんで勝手には言い切れないですけど」

 自分で自分の言葉を聞きながら、なら何でそんな事を言ったんだ? と突っ込みを入れてしまった。

「と言う事は――僕はすぐに出て行かなくてもいいってことかな?」
「まぁいいですけど」

 言葉にはしなかったが何もないここで何をするのか気にはなった。でも変に詮索するのは気が咎める。そもそも訊いてもいいのかすら分からないし、そういう賭けをするのはよそう(いや、でも人に言えないような事をここでされるのも困るのだが)。
 そう思いながら俺は再び目の前の絵へ視線を戻した。

「それは良かった」

 一言そう言うと彼は歩き出し、開けたこの場所を囲う林の外周をゆっくりとなぞり始めた。その姿を横目で一見してから意識を絵に戻した俺は、彼が最初に言っていたロケット雲を空に引いてみる。実際に実物として見てみるとそれは疑問を宇宙へ飛ばす程に見事だった。

「名脇役って感じだ」

 それから何度も筆を止めては全体を見つつ絵を完成へと着実に向かわせていった。
 そしてまた時間が飛び、どれくらい針が進んだのか見当もつかない頃(少なくとも目の前の絵はあまり進んでない)、絵に影が差した。人影だ。

「君は絵が上手だね。将来の夢は画家?」

 俺は横に立つ鯨臥さんを一瞥すると少し休憩しようとペットボトルに手を伸ばした。

「小さい頃はそんな事も思ってたんですけど、今は別に。好きな時に描く単なる趣味ってやつです」
「そう。それじゃあ、今の君の夢は何? 聞かせてよ」
「夢……?」

 夢。急にそんな事を訊かれても俺にはパッと思いつくようなことではなかった。それは少し考えてみても同じこと。子どもの頃なら絵具に顔や手を汚しながら「絵を描く人」と答えてたはず。
 でも今の俺は言葉に詰まるだけで何もない。

「いや、特にない――ですね」
「そう……」

 俺の答えに鯨臥さんはどこか残念そうに呟くと組んだ腕の片手を顎に添えた。視線は逸れ、何か考え事でもしてるのだろうか。
 なんて逆に考えている間に彼の視線はこっちへと戻ってきた。それからお馴染みのようにも感じるあの笑みを浮かべた。

「じゃあ質問を変えようか。今度は彼の言葉を借りて――」

 そう言うと顎から手は離れ両腕が横に大きくへと広がった。

「もしこの世にお金が存在しなかったら君は何がしたい?」