最後の授業が終われば程なくして学校も終わり、俺は一人電車に揺られていた。家への駅も通り過ぎ、人の居ない車両で外を眺めていた。忙しなく変わっていく窓越しの街並み。だけど空だけはまるで時間の流れが違うように悠々と雲の配置を変えている。
 そんな景色をただぼーっと何も考えず眺めていた。



 どこまでも澄み渡り大海原のように広がる蒼穹とそこに浮かぶ波の雲。
 それを分かつように伸びた地平線の下には、赤と白、二種類の花が混じり合った果てしなく蒼々とした草原。
 その中に佇む男性は背を向け空を見上げていた。
 そう言えば確か空には大きな飛行船浮かんでいた気がする。男性はそれを見ていたのかもしれない。

「お父さん。今度は何描いてるの?」

 まだ母に抱きかえられていた俺はただじっとその絵とその前に座る祖父を見つめていた。
 でも祖父の顔は靄がかったように思い出せない。

「ん? これは……」

 それも仕方ない。祖父に会ったのは物心付く前のその一回限りらしいから。
 だけど何故か絵を描く祖父と母のとのこのやり取りは鮮明とはいかずともずっと覚えていた。まるで目覚めた後の記憶があやふやなでも忘れられない夢のように今でも頭に残っている。

「これは、『山茶花と待雪草』だ」



「まもなく虹奇ヶ原《にじきがはら》。虹奇ヶ原です。お出口は 左側です」

 いつの間にか眠ってしまってた俺は運良く降りる駅のアナウンスで目を覚ました。寝惚け眼を擦りながら電車を降りると、冬の香るそよ風を浴びながら一度だけ伸びをして目的の場所へと歩を進め始めた。

「あっ、すみません」

 途中、フードを深く被った人にぶつかってしまうぐらいにはまだ寝惚けていたけど、それもひんやりとした風を浴びながら歩き、目的の場所に着くころにはすっかり覚め切っていた。

 桃真の誘いを断った俺が向かったのはとある小さな林。木々の間を抜け少し奥に進んでいくとそこには開けた場所があり、その中央辺りにはぽつりと小屋が建てられている。
 俺は真っすぐその小屋に向かうと財布を取り出し小銭入れに入ってるレバータンブラー錠の鍵を取り出した。それを鍵穴へ入れ回すと、ガチャリと閃くような気持ち良い音が響き渡る。
 鍵を仕舞い悲鳴を上げるように軋むドアを開くとそこは外観通りの狭い一室。その僅かな空間の半分以上は少し黄ばんだ白く大きな布が覆っており、入り口のすぐ右手に素朴な棚が一つあるだけ。少し埃っぽいのは久しぶりに来たのと、その俺が唯一この場所に来る人間だからだろう(正確にはもう一人いるが彼がもう一度ここへ来ることがあるのかは分からない)。
 俺はドアは開けたまま棚に鞄を置くと天井からぶら下がったランプを点けた。点くかどうかは不安だったけど、辺りを照らした光は暗闇ごとその不安を塗り潰した。

「良かった」

 そして次は布へ手を伸ばし、ゆっくりと引いていく。撫でるように滑り落ちる布。その下から顔を出したのはイーゼルとキャンバスの束、スツールにそれから腰辺りまである棚が一台。棚の中には色んな画材が入ってる。
 俺は布を適当なとこに置くとまずはイーゼルへ手を伸ばした。それを初めに必要な画材を外へと運び出す。

 ここは(当然ながら全てではないが)祖父の土地らしくこの小屋も祖父が建てた物らしい。祖父は一時期ここで絵を描いていたらしい。全てらしいというのは全部が母から聞いたことだからだ。
 俺は祖父の事を良く知らない。それは母も同じで家にほとんどいなかった祖父の事はあまりよく分からないんだとか。
 そんな祖父は俺が物心つく前に家を出て以来、一度も帰ってきていない(たまにどこの国のかも分からないポストカードが届き、更に低い頻度で電話も掛かってくるらしいけど、それももう随分と途絶えてる)。
 だけど絵を描く人だと言う事だけは知ってる。俺と同じ様に――いや、俺が祖父と同じ様に絵を描く。今はノートにする落書きかこうやってたまにしか描かないけど。でも描きたくなったら祖父が置いて行った鍵を(ここを使うのは俺しかいないから鍵は俺が持っていいことになった)使ってこの場所で絵を描く。静かで絵を描くにはもってこいのこの場所は、秘密基地のようで一番のお気に入りだ。

「これでよしっと」

 小屋の傍に全て置き終えると中へ戻り最後に鞄からお茶を取り出した。それを一口飲みながら戻りスツールに腰を下ろす。
 一度だけ伸びをしてからゆっくりと目を閉じた。何を描こうか考えながら瞼の裏には色々な景色が思い浮かんでは消えていく。

「あれにするか」

 一人呟き目を開けるとまずイメージの下書きを始めた。記憶に新しいあの蒼穹と雲を描こうと鉛筆を走らせる。
 それからどれくらい時間が経っただろう。気が付けば夕暮れ。試行錯誤していた所為かいつもなら簡単に済ませる下書きもまだ終わってない。
 俺は鉛筆を置きまだ線だけのキャンパスを眺めながら地面のペットボトルに手を伸ばした。何か物足りなさを感じながら蓋を外し口元で傾ける。だけどいつの間にか飲み干してしまったらしく一滴二滴と雫が申し訳程度に流れ込むだけ。仕方なく蓋を閉め地面に戻した。

「今日は帰るか」

 もう少しやっても良かったけど明日は土曜だしまた来ればいいかと思い、その日は片づけをして家へと帰った。