そうやって俺が頭の中で鯨を泳がしていると蒼空さんの足元へボールが一つ転がってきた。足に触れるように当たり止まったボールを彼は一見して拾い上げる。
 少し遅れボールを追って来たのだろう、走ってきた少女は一人距離を空けて立ち止まった。

「君の?」

 うん、と蒼空さんの質問に無言で頷く少女。

「めいちゃーん! 私もう帰るねー」

 後ろから掛けられた声に振り返ると少女は向こうで手を振る同じぐらいの少女に手を振り返した。
 そしてその子が親らしき人と公園から出ていくと少女は再び顔を蒼空さんの方へ。人見知りなのか、知らない人だから警戒してるのか、少女は俯き気味で緊張にむず痒そうな様子。

「めいちゃんって言うんだ。良い名前だね」
「――ありがとう」

 今度は小さな声でお礼を口にするめいちゃん。そんな彼女の目の前へボールを持ったまま立ち上がった蒼空さんは足を進めた。
 そして片膝を着き目線を合わせる。

「はい。めいちゃんはまだ帰らないの?」

 ボールを差し出しながら彼はそんな質問をした。

「今、ママがお仕事のお電話してるから……」

 依然と小さな声で返事をしながら小さな手がボールを受け取る。確かに向こう側には電話をする女性の姿があった。口を動かしながら頻りにこちらの様子を伺っている。俺は(見えるか分からないが)一応、怪しい者ではないという意味を込めて軽く頭を下げてみた。
 するとそれに答えるように(もしかしたら電話の相手に対してかもしれないが)その母親も軽く頭を下げ返した。

「そう。ママはお仕事頑張ってるんだ。カッコいいママだね」
「うん!」

 するとその瞬間、さっきまで小さかった声は大きく弾み、緊張気味だった表情には枯木へ満開の花が咲き誇るように笑みが浮かんだ。それは彼女は母親を誇りに思ってるということが十分に伝わる笑顔だった。

「めいちゃんは今いくつ?」
「――五歳」

 彼女は目視で指を確認してから大きく広げた手を見せた。

「じゃあ、めいちゃんは大きくなったら何になりたい?」
「お姫様! お姫様になって王子様と一緒に暮らすの」

 大きな声ととびっきりの幸せに満ちた笑顔で彼女は答えた。純真無垢で欲望に忠実。
 それを俺は少し羨ましく思った。同時にまるで昔の自分を見ているようでもあった。多分、俺もこんな風に「絵を描く人」と答えていたんだろう。顔も手も汚しながら。

「素敵な夢だね。――あっ、そうだ。ちょっと待っててね」

 蒼空さんはそう言うと立ち上がり、ベンチ近くの何もない所でしゃがみ込んだ(隠すようにこっちに背を向けて)。何をしてるのかその背中をめいちゃんと二人して眺めること暫くして。
 立ち上がった蒼空さんは両手を後ろに回しながらめいちゃんの前へと戻って行く。その時点で俺には彼が何を持っているのかが見えていた。それはコミュニケーション能力というより優しさ。もしくはサービス精神とでもいうんだろう。俺はそんな事をさらっとしてしまう彼に、純粋に感心していた。同時に多少なりとも憧憬のようなものもそこにはあった気がする。

「それじゃあ、めいちゃんが可愛いお姫様になれるように僕からのプレゼント」

 また片膝を着いた蒼空さんは後ろに隠していたそれを彼女の頭へ。
 少女の頭に乗ったそれはシロツメクサの花冠。

「これでお姫様になれる?」
「あとはママの言うこと聞いて、お手伝いもしてちゃんと良い子にしてたらきっとなれるよ」
「芽衣」

 するとめいちゃんよりも後ろの方から母親の様子を伺うような声が聞こえた。その声の方を見遣るとさっきまで向こうで電話をしていた母親がいつの間にかそこまで来ていた。
 母親の声でほぼ同時に顔の上がる蒼空さんと振り返るめいちゃん。