「でも、今までそれでも頑張ってたじゃんか」
「今まではね。でもその積み重ねが今なんだよ。今の僕にとって漫画家を目指すって全く楽しくないって訳じゃないけど辛いことだらけなんだ。その内、漫画自体が嫌いになるかもしれないし。でもそれだけは絶対に嫌なんだよね。描く側にいられないならせめて読む側で楽しみたいじゃん。折角大好きになったんだし、ずっと大好きでいたいしさ」

 一瞬、言葉に詰まった桃真だったけど無理やりといった笑みを浮かべ口を開いた。

「――そんなこと言ってどうせすぐ描き始めるんだろ? まぁ、今まで何回もあったもんな。でも結局、口ではそんなこと言って数日経ったら、絶対漫画家になってやるってやる気出してたしな。そうだ。そんな事言ってたら次の――」
「桃真」

 だけどその溜息交じりの声が桃真の声を遮った。そして颯汰さんは立ち上がると桃真の前まで足を進めた。

「何もかも変わっていくもんだよ。それに僕はそろそろ風夏との結婚も考えてるし、そうなったらこれに現を抜かしてる場合じゃない。決断するにはいい頃合いなのかも」
「そうだ。風夏さんも納得したのかよ? あの人だって颯汰の夢、応援してただろ」
「風夏にはまだ言ってないけど彼女はきっと理解してくれるよ」

 言葉の後、桃真の顔が静かに俯いた。

「――じゃあ。ほんとに諦めちまうのか?」
「丁度、今はどこにも応募してないし描いてたのも一区切りはついてるし。今が潮時なんだよ」

 颯汰さんの言い聞かせるような声(それは桃真にというよりはどこか自分自身にという感じでもあった)が名残惜しそうに空気へ溶けていくと、いつの間にか辺りは静けさに包まれていた。
 でもそれは緊張感にも似た沈黙で、俺はただどちらかが言葉を口にするのを待つことしか出来なかった。

「――おれは……」

 辛うじて聞き取れるぼそりとした桃真の声が響いたかと思うと、それはすぐに消え静寂は再来した。
 すると突然、桃真は颯汰さんの胸倉に両手で掴みかかった。
 その瞬間、「ちょっ、桃真」と咄嗟に俺は彼を止めようと一歩前へ踏み出すが颯汰さんの「大丈夫」という手に止められた。

「おれは颯汰がずっと頑張ってたの見てたから――だから自信なんて無かったけど自分の夢にも挑戦出来たしこうやって続けられてんだよ。それに言ったじゃん! 俺がやろうか迷ってる時に、自分は絶対漫画家になるから一緒に頑張ろうってさ。だからおれはやろうって決心できたのに……あれは嘘だったのかよ?」
「もちろん本気だったけど。結果的に嘘になっちゃったね。それはごめん」

 桃真への謝意だけじゃなくて自分に対する情けなさまでもが詰まったような――そんな目つきを颯汰さんはしていた。

「謝るぐらいなら続けろよ! ちょっとずつでもやれよ! 今更――なんでここまで来て諦めちまうんだよ? 確かにまだなれてないかもしれないけど、でも、最初の頃に比べたら読んでくれる人も増えたし、受賞とまではいかなくてもいいとこまでいけるようになってんじゃん。ちゃんと成果は出てるじゃんか」
「確かに最初の頃に比べたらね。でもここ最近ずっと何も変わらない。それにここまできて、じゃないよ。ここまでやってきたからこそもう無理な気がするんだ。これ以上は無いって。限界を感じるんだ」
「そんなん分からねーじゃん」
「分からないよ。でも分からないからもう無理なんだ。手ごたえも無くて分からないものに将来を賭けられる程、僕ももう子どもじゃない。時間が掛かり過ぎたんだよ。でも桃真はまだ高校生なんだし、まだまだ可能性だらけ。だからそれにしろ別の事にしろ心からやりたいって思えることを頑張って続けてね。僕とは違って桃真ならきっと叶えられるよ」

 依然と悲しさが影となって残ってはいたが、颯汰さんは微笑みを浮かべた。
 でもそんな颯汰さんに対し、顔を俯かせる桃真。

「颯汰が無理ならおれなんてもっと無理だろ」
「そんなことないよ。僕に出来なくても桃真になら出来る。僕は少し始めるのが遅すぎたのかも。でも桃真はもう走り始めてる。大丈夫、その調子でずっと続けてたらちゃんと叶うよ。だから、僕の分もなんて言わないけど、自分の為に頑張って」
「んだよ。自分は勝手に諦めておいて人には頑張れって……」

 すると、浮かない表情ではあったもののずっと諭すように穏やかだった颯汰さんの眉間に皺が寄った。

「勝手って……。別にいいじゃんこれは僕の人生なんだし。それに――桃真には分かんないよ」

 表情の変化に合わせるように声や口調も少し鋭さを帯び始める。

「あぁ、分かるわけない。こんなとこまできてあっさり諦める奴の気持ちなんて。分かりたくもないね」

 顔は俯かせたまま吐き捨てるように桃真は言った。

「そうだろうね。好きな事をちょっと続けただけの桃真には何にも分かるはずない。プロを目指して続けるってことがどんだけ辛いかも! 自分は頑張ってるつもりでも出ない成果にそれを否定される辛さも! 好きだったはずなのにそれが嫌になる辛さも! それにずっと耐えながら続ける苦しさも何も――何一つ分からないくせに……」

 いつも穏やかな颯汰さんの荒げた声。それだけで彼がどれだけその内に辛苦を溜め込んでいたのかが分かる。いや、俺にも桃真にも分かるはずもない。
 それなのにそれを無視するのは余りにも……。

「なのに諦めるなとか続けろとか。桃真の方が自分勝手じゃん! 僕の気持ちなんて知らないくせに自分の気持ちばっかり押し付けて。確かにいつも出来るとか次こそはとか言ってるけど。でもそうやって言い聞かせてるっていうとこもあるし……桃真の見てるとこが僕の全てじゃないんだよ! 僕もここまで頑張ってきたのにって、そりゃ思うけど――でも努力なんて所詮は結果が出て初めて価値が生まれるんだ。結局、僕のはただ努力してきたって思い込んでる自己満で……ただの無駄な時間でしかなったんだ」

 絞り出すような最後の声の後、下唇を噛みしめる颯汰さんの表情は後悔の念に歪んでいた。

「――それにさ。僕が止めたからって自分も無理とかそんな弱気になるぐらいだったら――桃真には無理だよ。続けていけばこの先、もっと辛いことが一度や二度どころじゃなくて沢山あるのに。そんなんじゃ耐えられないよ。僕とは関係なしにやるって思えないんなら止めた方が良い。絶対無理だから。悪いけど桃真が思ってる程、甘くはないと思うよ」

 颯汰さんの声が静かに消えていくと、時が止まったように二人は黙り込んだ。
 差し込んだ夕日に照らされた普段見ることのない颯汰さんの顔と顔を顰める桃真の顔。俯かせた桃真の瞳だけは夕日を反射し微かに光っていた。

「――勝手にしろよ」

 静かな空間へ桃真の声が微かに響くと、彼は投げ捨てるように手を離した。そしてそのまま顔を俯かせながら出て行ってしまった。