そして彼女が去った後、我慢していたように零れ落ちた溜息がひとつ。

「気持ちが分からない訳じゃないけど……」

 それから俺は買った物を置きに行こうとしたが、その前に颯汰さんの所へ寄ろうとレグルスへと向かった。中に入ろうと入り口まで足を進めると丁度そこでばったり桃真に出くわした。

「来てくれたんだ。ありがと」
「俺も気になってたしさ」

 それだけの言葉を交わすと桃真が先に中へ行き、俺もそれに続く。外でもそうだったがボールを打つ爽快な音は響いておらず、多分お客は居ない。
 中に入るとカウンターの前に颯汰さんの姿はあった。箒を体に凭れさせタブレットに視線を落としている。
 でもドアが閉まり少し歩いた所で彼の顔は上がり視線は俺達へと向けられた。

「桃真じゃん。それと蓮君もいらっしゃい」
「どうも」

 軽く手を上げる桃真に対し俺は少し頭を下げながら軽い挨拶をした。
 そんな俺達に向けられた颯汰さんの柔らかな表情は特にいつもと変わりない様に見える。もしかしたらもういつも通りに戻ったのかもしれない。そんな期待交じりの考えが頭に浮かんだ。

「何見てんの?」

 カウンターの傍で足を止めると桃真はタブレットを指差しながらそう尋ねた。

「実は今、ゲーム会社とかアニメ制作会社とかもいいなって思ってたんだよね。最初はフリーのイラストレーターが良いと思ったんだけど急にフリーよりはこういうところで働いてからの方がいいかなって思って」

 そう話しながら颯汰さんはタブレットを桃真に手渡した。その画面を一瞥した桃真は俺に見えるように向け、同時に目配せをした。こんな感じなんだよ、と言うような目が一瞬だけ俺を見た後、桃真はタブレットをカウンターに置いた。
 確かにカウンターの向こう側で突っ伏して「もう止める」なんて言っているところは見た事あるけど、こんなに落ち着いてしかも職場を探しているところは初めてだ。

「でもそういう会社って結構忙しいって聞くじゃん」
「そーだね。そうしたらもうここは無理だから内田さんに相談してここをどうするか決めないと。別の人を雇うなりね」
「そーじゃなくて。そうしたら漫画描く時間も無くなっちゃうかもしれないだろって」
「――だから言ったじゃん。それはもういいって」
「いいって……。何でだよ。急にそんなこと」

 颯汰さんのどこか投げやりで溜息交じりのその言葉に納得いかないんだろう。桃真の声は少し大きくなった。
 だけどそれに対する答えより先に響いたのは足音。颯汰さんは箒をカウンターに立て掛けると自販機の前へ向かった。

「別にちゃんとした理由があるって訳じゃないけど――」

 次の言葉までの沈黙を埋めるようにボタンを押し飲み物が落ちてくる音が響き渡る。颯汰さんはそれを取り出してから桃真の方へ体を向け口を開いた。

「強いて言うなら冷静になって今の自分を見直したってとこかな」
「何でそれが諦めるって選択肢になるんだよ」

 桃真の言葉を聞きながら颯汰さんは飲み物を飲みつつカウンターへ足を進めていた。
 そしてカウンターの向こう側に、いつも彼が漫画を描いている場所に腰を下ろした。

「だってここまでやってきたのにまだダメだし、その上、その兆しも見えない。それに今人気の漫画みたいな、あんなすごい物語を描ける気もしないし。なのに時間だけが進んでいって、そろそろちゃんとこれから先のこととか考えないとって思ったんだよね」
「いや別におれも、ここを辞めてそういう会社に行くなとは言わないけど……描くのを止めなくてもいいだろ」
「それはそうかもね。でも――」

 続きを言う前に颯汰さんは大きな溜息を吐き出した。そのひと吐きにどんな想いが込められていたかは本人じゃない俺には分からないけど――そこにはきっと長く歩み続けた者にしか分からないようなモノが詰まっているんだろう。
 それはそんな少し長めの――重い溜息だった。

「正直、もう疲れたんだよね。確かに描いてる時とかストーリーを考えてる時はそれなりに楽しいけど――それ以上に今回こそはって毎回期待してダメなのも、変に他の人を羨んだりしちゃうのも、上手くいかなくて落ち込んじゃうのもさ。全部辛いんだよね。プロになりたいって思えば思う程、どうしても成果を求めちゃうし、成果が出ないと落ち込んだりして色々と辛くてさ。それに、どうせこれを描いてもダメなんだろうな、とかたまに思っちゃって。だけど描かない訳にはいかないから嫌でもペンを進めるしかない。――そう言えばこの前デビューした人ってまだ桃真と同じ高校生だったらしいよ。そういうのを見ちゃうと最近は嫌になってくるんだよね。それに才能がどうのこうのって考えちゃってさ。そんな自分にも嫌気が差すし。そういうのも全部、もう……嫌なんだよね」

 そう言って片手で両目を覆い項垂れる颯汰さんは、疲れ切った様子でいつもの彼とは大分雰囲気が違っていた。