レジから商品の入った袋を下げた彼女が戻ってくるとそのまま一緒に店を出た。そして歩幅を合わせ一応出口へ向け歩き始める(彼女が他に買う物があるかは分からないから一応自分の目的である出口へ進んだ)。

「そっちは何買ったの?」
「絵を描く時に使うやつ」

 俺は細かく説明するのが面倒だし、したところで分からないと思ったから実際に袋の口を開き中を見せた。

「それって本格的なやつ?」
「別に本格的じゃないけど一応キャンバスに描いてるかな」
「本格的じゃん。そー言えばあたし蓮のちゃんとした絵って見た事ないかも。ノートの隅に描いたやつなら見た事あるけど。今描いてるの?」
「ちょっとずつだけど」
「じゃあそれ出来上がったら見せてよ」
「えぇ……」

 正直、ノートの落書きならまだしもキャンバスに描いたのを誰かに見せるのは――今の俺には自信が足りない。絶対に見せたくない訳じゃないが(実際、蒼空さんには見られてるし)躊躇してしまうのは確かだ。

「まぁ考えとくわ。それより今日、友達とカラオケ行くって言ってなかったっけ?」
「あぁ、それね……うん。その予定だったけどやっぱり止めた」
「何で? 昨日、歌の練習するって張り切ってたじゃん」
「まぁ、そうなんだけど……ね」

 さっきまでのとは一変し零奈はぎこちない笑みを浮かべた。そこに何かがあるのは誰の目にも明らか。人間関係かそれとも個人的な何かか。だけどそれを訊いていいのかまでは分からなかった。友達といえど安易に踏み込んじゃならない領域はある。

「実はさぁ……」

 すると少しだけ沈黙が辺りを彷徨いた後、忍び寄るように聞こえた零奈の声。横目で隣を見遣るとその表情は悄然としている。あまりいい言葉が続きそうには思えなかった。

「やっぱりあたしには無理かなぁ、って思っちゃってさぁ」

 この時点で既に俺は驚きを隠せないでいた。あまりいい言葉が続かないどころか、今の俺にとっては最悪の言葉がそこには待っていた。
 でもそんな俺を他所に視線を少し俯かせた零奈は言葉を続ける。

「これ以上、上手くなる気がしないっていうか。でもこのままじゃ無理だと思うし。何て言うんだろう――超えられない壁が目の前にあるって感じ? プロの人が上手いのは当たり前だと思うけど、今はネットにも一般の人の歌ってる動画って一杯あがってるじゃん。何でこの人はこんなに上手いのにデビューもしてないんだろうって人もいるし、それどころか再生もあんまりされてない人とかもいて。そういうまだデビューもしてないのに上手い人が沢山いるのに、あたしなんかがホントにこのまま続けたところでいつかプロになれるのかなって思うんだよね。あたし的には頑張ってここまでは上手くなれたけど、でもまだまだな訳じゃん。結構頑張ったって自分では思ってるのに実際にはまだ先は長くて、なんかこのまま永遠にこの状況が続いちゃうんじゃないかって気がするんだよね」

 なーんてね、そんな声と共に冗談だという笑みを浮かべないだろうか。なんて一縷の望みを胸に俺は、時折ため息が交りながら話す零奈を見遣る。
 だけどやはりそこには依然と沈んだ表情があった。

「――ていうかそもそもさ、やっぱり現実的に考えて好きだけじゃどうしようもないこともあるんだと思うんだよね。あたしにとってはそれがこれだったってこと。悲しいけど仕方ない気もしてて――だから今はあんまり前みたいに歌いたいって思わなくてさ」

 そう言って零奈が浮かべた無理したようなその笑みは、夢を語っていた時とは雲泥の差だった。
 颯汰さんに続いて零奈までもが夢に対して悲観的になっている。俺の頭には当然の如くあのネット掲示板と蒼空さんが浮かんでいた。
 でもまだ単なる偶然で数日経てば――いや、明日にでも二人共いつも通りに戻ってるかもしれない。それは分かっているが、心に抱いた懸念と懐疑の念が鼓動を微かに早める。良い気分とは到底言えないモノがじわり、染みるように広がっていくのを感じていた。

「でもそんな気しなくても、続けてたらいつか……」

 だけど俺は最後まで言葉を続けられなかった。自分の中の不穏な感情を消し去りたいという気持ちもあったが、彼女にはいつも通りに戻って欲しかった――のだけど。
 でも昔の自分に止められるように声は虚しく途切れた。続けていたらいつか叶う日が来る――そう言いたかったが、それを言う資格は俺には無い。諦めずに自分を信じて頑張れ、なんてどの面下げて言えばいいんだ。
 そしてそんな言葉なんて希望ごとあっさりと押しつぶしてしまうような絶望を俺は知ってる。
 だからいつかを信じてそれを味わい続けろとは言えない。いや、もしかしたら成し得た人間からすれば、俺のは絶望と呼ぶにはあまりにもちっぽけで浅いモノだったのかもしれない。ただ俺の心が弱く脆かっただけなのかも。

「そのいつかってもしかしたらあたしがおばあちゃんになった時かもよ」

 するとそんな自分の弱さに溜息を零しそうになっている俺を他所に、零奈は茶化すような口調でそう言った。
 でも俺には零奈のその言葉が救いの手にも感じた。励まそうにも過去の自分に邪魔され、今の彼女に何て言っていいか分からなくなっていたから。

「そうなったら最年長メジャーデビューじゃん」

 だから胸の中で渦巻く色々な感情へ蓋をするように俺もおちゃらけて返した。

「それも悪くないかも」

 それに零奈からもいつも通りの感じで返事が返ってきた。

「でもそこまでいったら意地で生きてるみたいなところありそうだよね」
「絶対にデビューするまでは死なん。みたいな?」
「そうそう」

 それからはついさっきの真面目な雰囲気が無かったかのように、俺たちはいつも通りの感じで話をしていた。
 でもそれはまるで互いに仮面を付けているような感じだった。二人して仮面の下の表情は隠したまま表面的に楽しさを演じているような。楽しいけど居心地はあまり良いとは言えない、少なくとも俺はそう感じていた。

「そうだ。あたしクレープ食べて帰ろうと思ってたんだけど、蓮もどう?」
「――いや、俺はいいかな」
「そう。じゃあ、あたしは美味しいクレープ食べて来るからまた明日ね」

 零奈は言い切る前に歩き出し、俺は言葉の代わりに軽く手を上げて見せた。