雲雀がさえずる気持ちの良い朝。
古都・京都に屋敷をかまえるのは、代々祓い屋を生業とする天月家だ。その当主・楊を出迎えたのは、愛する妻・礼葉の弾けんばかりの笑顔だった。
礼葉は笑顔のまま、寝起きの楊に言った。
「ごきげんよう、旦那さま。さっそくですが、離縁してください」
テーブルには、離縁用紙。既に礼葉が書くべきところはすべて記入されていた。
突然奇想天外な言葉を発した妻を、楊は笑顔をたたえたまま見つめる。
楊の妻、礼葉は優しい老夫妻のもとで育った深窓の令嬢なのだが、性分なのだろうか。少々無鉄砲で無邪気が過ぎるところがある。
「……うん。これはまた、いつにも増して突然だな」
楊は動揺を胸の奥にひた隠し、静かに言った。
三年も彼女の夫をしていればこの程度、驚くことではない。
「いえ、突然ではありません。実は嫁入りする前から考えておりました」
その言葉には、さすがの楊も驚いた。
「嫁入り前から? 離縁することをか?」
「はい」
「……そうか。それは知らなかったな」
礼葉の実家の両親が流行病で亡くなったという報せが届いたのは、つい先日のこと。
礼葉は楊と結婚してからも、頻繁に生家である九条の家へ顔を出していた。それくらい、家族を大切にしていた。
とはいえ、両親とは言っても、ふたりは十八歳の娘を持つ親にしてはかなりの老齢だった。礼葉とて、両親の先が長くないということは覚悟していたことだろう。
この発言は、最愛の両親の死が影響してのことだろうか、と一瞬考えるが、違う。彼女は嫁入り前から考えていたと言った。
「うーん……」
思わず唸る。
夫婦生活は上手くいっていたと思っていたのだが。
とりあえず楊は礼葉の向かいに座り、礼葉を見つめる。
「じゃあまず、離縁したい理由を聞かせてもらえるかな」
「はい」
礼葉は頷くと、すんと姿勢を伸ばして楊を見た。
「私が楊さまと結婚したのは、両親を安心させるためでした」
「そういえば祝言のとき、ふたりは礼葉の花嫁姿を見てそれはそれは喜んでいたな」
「はい。だけど、その両親はもういません」
「あぁ……」
「つまりふたりが亡くなった今、私に結婚を継続する理由はありません」
ばっさりだ。楊は思わず苦笑した。
「それはあんまりなんじゃないか?」
楊が言うと、礼葉はきょとんとした顔のまま、首を傾げた。
「と言いますと?」
「君に結婚を継続する理由がなくても、俺にはある。今の発言だと、礼葉にとって俺はどうでもいいってことなのかな」
「そういうわけでは……」
「じゃあ、ほかになにか理由が?」
礼葉は少し戸惑うように視線を泳がせたあと、
「父との約束が」
と呟いた。
「お義父さまと?」
聞き返した楊に、礼葉はこくりと頷く。
「じぶんたちがいなくなったあと、彩葉を頼むと言われています。妹の彩葉は病弱です。ひとりではとても生活できません」
彩葉とは、血の繋がらない礼葉の妹だ。礼葉と違って病弱だと聞いた。
「でも、女中たちがいるだろ?」
「女中は家族じゃありません。両親が亡くなった家でひとりぼっちなんて、彩葉が可哀想ではありませんか」
「でも、君がここを出ていったら、俺がひとりになるだろ? 君の身勝手でひとりになる俺は可哀想ではないということかな」
礼葉の喉が鳴る。明らかに狼狽えていた。
楊はため息をついた。
礼葉はいつも、後先を考えない発言をする。突然かつ一方的な離縁だというのに、断られるとは想像していなかったのだろう。
「で、ですが……楊さまはとても素敵な方ですから、すぐに新しい花嫁が見つかります」
楊はじっと礼葉を見つめた。
「本当に素敵だと思ってる?」
「も、もちろん」
ぶんぶんと首を縦に振る妻に、楊は思わず笑みを漏らす。
「なら、手放さない方がいいんじゃないか?」
「うぅ……」
「責めているわけじゃない。俺はただ、君と別れたくないと言っているだけだよ」
本当に、楊の声音は決して礼葉を責めるような強い口調ではない。むしろ品のある声だった。
しかし、礼葉もまだ折れそうにはなかった。楊をまっすぐに見据え、言う。
「それこそ意味が分かりません。天月家に比べたら、私なんて所詮田舎の娘です」
「俺は、そんなことを言っているんじゃない」
礼葉は困った顔をした。
「……では、離縁は……」
「お断りしよう」
楊に笑顔で拒否され、礼葉は唇を引き結んだ。
礼葉がなにを考えているかは知らないが、彼女の困り顔すら愛おしいと思ってしまうのだ。
離縁なんて、楊はさらさらするつもりはなかった。
「では、俺は部屋に戻るよ。仕事があるので」
涼しい顔をして自室に戻っていく。部屋を出る直前、背中越しに礼葉の小さなため息が聞こえてきた。
礼葉は梨を剥きながら、ぐるぐる考えごとをしていた。
――どうしよう。
礼葉の背中を、冷たい汗が流れていく。
礼葉はまさか、楊に離縁を拒絶されるとは思ってもいなかったのだ。
結婚して三年。楊とは離縁されない程度に好かれるよう努力はしたものの、それ以上親密にならないよう、一定の距離を置いてきたつもりだった。
もともと楊は、ひとやものに頓着しないさっぱりとした性格だと見ていたのに。
「というかそもそも、縁談は私じゃなくて礼……」
声に出していることに気付き、礼葉は慌てて口を閉ざした。
礼葉に縁談の話が舞い上がったのは、三年前、礼葉が十五歳のときだった。
両親は突如舞い込んだ縁談を喜んだものの、しかし一方で、あることを心配した。
礼葉は生まれつき身体が弱かったのだ。
天月家は由緒正しい家柄。しかし、縁談相手の楊は天月家の当主だ。結婚すれば、必ず世継ぎが必要になる。しかし、礼葉にはとても世継ぎを産む体力はなかった。もし子を授かったとしても、礼葉の命のほうが危険になってしまう。
両親は悩んだ末、礼葉の身体のことを考え、天月家との縁談を断ろうとした。そこに待ったをかけたのが、礼葉の妹・彩葉だった。
彩葉は、九郎が街で拾ってきた妖狐の子狐。
幼い頃に母親を亡くした子狐を九郎は彩葉と名付け、ひとの子として、礼葉とともに姉妹のように育てた。
彩葉は言った。
「お父さま、お母さま、私が礼葉として天月家に嫁ぎます」
彩葉の提案に、家族は驚いた。
「なにを言うの、彩葉」
「そうだよ、彩葉。君は妖狐なんだよ。天月家は代々祓い屋を生業としている。もし君が妖狐であることがバレてしまったら、殺されてしまうかもしれない。危険過ぎる」
家族の言うとおり、天月家は祓い屋だ。
ひとであって人に在らず。
悪いあやかしを特別な力によって封じることができる、特別な家。あやかしにとって天敵ともいえる存在だった。
しかし、彩葉の覚悟は揺るがない。
「大丈夫です。私はもう子供ではありません。力もとても強くなりましたし、変化も自在。余程のことがなければ正体が知られることはないでしょう」
「だが……」
「そもそも私は、お父さまとお母さまがいなければ、とうの昔に野垂れ死んでおりました。今こそ恩返しをさせていただきたいのです」
彩葉の強い眼差しに、両親は顔を見合わせた。
「恩返しなんて、そんなこと考えなくていいのよ、彩葉」
「そうよ、そういうことなら私が嫁ぐわ」
今度は礼葉が話に割って入る。
「それはダメ。礼葉は今、家を出ることだって難しいのよ。結婚なんてぜったいダメ!」
「彩葉……でも」
「私じゃ、礼葉の代わりにはなれないかもしれない。でも……できることなら、ふたりに花嫁姿を見せてあげたいの」
礼葉の覚悟はやはり揺るがなかった。
大好きな姉のため。
大好きな家族へ花嫁姿を見せるため。
ひとりぼっちだったじぶんを拾ってくれた両親に、恩返しをするため。
まだ幼い妖狐は、礼葉に成り代わって、天月礼葉となった。
――あれから三年。
花嫁姿の彩葉を見た両親は、とても喜んでくれた。もちろん、礼葉も。
天月家へは、もともと両親が生きているうちだけ、と決めて嫁いだ。
なぜなら、両親が死んだら礼葉がひとりになってしまうからだ。彩葉は九郎に拾われたとき、両親亡きあとはじぶんが礼葉を守っていくという約束をしたのだ。
両親を失った礼葉は今、九条の家でひとりぼっちだ。
今頃はきっと、かなり気落ちしていることだろう。
大切なだれかを失ったとき、悲しみを癒すには、ただそのひとのそばにいるほかない。
女中に任せてはいられない。早く戻って、礼葉に寄り添ってやらなくては。
焦燥が胸を掻き立てる。
いっそのこと、このまま出ていってしまおうか。彩葉はひとでない。ひとのしきたりなど知らない。興味もない。
元来、離縁しているかどうかなんて、あやかしである彩葉にはどうでもいいことだ。
「……いや、ダメダメ」
そう思いかけて、慌ててとどまる。
楊には実家の場所を知られているし、あやかしのツテもある。礼葉の体調面のことも分からない今、向こうみずな行動をするわけにはいかない。
しかしそれならばどうやって離縁へ持ち込もうか、と考えていたときだった。
つるりと手が滑った。
「あっ!」
ぴっと指先に鋭い痛みが走る。
包丁を落とした拍子に、指を切ってしまった。皮膚の裂け目から、ぷくっとした赤い血が溢れてくる。
「いたた……」
慌てて指をくわえ、血を舐めとる。
包丁についた血を水で洗い流していると、背後でかすかな物音がした。振り向くと、楊が立っている。
「どうした?」
「あ、いえ……!」
慌ててくわえていた指をパッと離し、後ろ手に持っていく。
見られただろうか、と彩葉は冷や汗を垂らした。
はしたないと思われているかもしれない。ひとりになるとつい気が抜けてしまっていけない。指をくわえるなんて、と、今にも養母の嘆きが聞こえてきそうだ。
って、今はそれどころではない。傷口を隠さなければ。
妖狐である彩葉は、傷を負ってもすぐに治ってしまう。それを楊に悟られたら、あやかしであることがバレてしまう。ぜったいに知られるわけにはいかない。
「あ、えっと、楊さまこそどうしました?」
慌てて笑みを浮かべ、楊に訊ねる。
「あぁ、うん。喉が渇いてね」と、楊は淡白に答える。
彩葉は、その澄んだ双眸をじっと見つめた。
「それでしたら、私がお部屋にお持ちしますのに」
「いい。水くらいじぶんで酌める」
と、楊は彩葉のいる流し台へ歩いてくる。そして、まな板に転がった果実を見て、
「あぁ、梨を剥いてたのか」
「……はい。なんだかお腹が減って」
「そうか」
曖昧に笑う彩葉から何気なく流し台へ視線を戻して、楊は眉を寄せた。
「……これは、血?」
楊がパッと彩葉を見る。まずい、と彩葉は焦った。
「もしかして、どこか切ったのか?」
「あ、いえ……」
咄嗟に、誤魔化す言葉が出てこない。視線に耐えられず、礼葉は背を向けようとした。
「待て」
慌てて後退る彩葉の腕を、楊が掴む。
「切ったところを見せてみろ」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
慌てて断る彩葉の手を、楊は「いいから」と、半ば無理やり引き寄せた。
楊の目に晒された彩葉の指先には、まだ少し血が滲んでいる。
「やっぱり切ってるじゃないか。そのままにするのはダメだ。細菌が入る」
「大袈裟ですよ」
「なにが大袈裟だ、まったく……痛かっただろう」
楊は彩葉の手を掴んだまま、台所に立って蛇口をひねる。てのひらを水で濡らし、彩葉の指先を優しく洗い流していく。
「このくらいじぶんでできます。……汚いですよ」
「礼葉の血が汚いわけないだろ」
「…………」
滑らかに動く楊の手元を、彩葉は複雑な思いで見つめた。
「……なんだ?」
「え?」
「なにか、言いたげな顔をしてる」
「……いえ。ただ……」
そのまま、彩葉は黙り込んだ。
「ただ?」
「……いえ。なにも」
「……そう」
滲んでいた血をすべて洗い落とすと、楊は清潔な布巾で丁寧に彩葉の手を包んだ。
その際、ぐっとふたりの距離が縮まった。かすかに屈んだ格好をした楊の長いまつ毛が、小さく震える。まつ毛が上がり、楊の整った目が彩葉を捉える。
その瞬間、ふわりと甘い楊の香りが鼻先を掠め、彩葉の胸がどきりと弾んだ。
ハッとした。
「も、もう、結構ですから!」
彩葉は慌てて手を引っこめ、脱兎のごとくその場を逃げ出した。
屋敷の裏山の奥、山桜の樹洞の中で、彩葉は騒々しく脈を打つ心臓を押さえた。
先ほど包丁で切ってしまった指先を見る。傷口はもう完全に塞がっていた。きれいな皮膚を見て、彩葉は呟く。
「バケモノめ……」
怪我をするたび、鏡を見るたびに彩葉はじぶんがあやかしであることを思い出す。思い出しては、ひとでないことに絶望していた。
礼葉や両親といた頃は、妖狐として生まれたことを気にしたことなんてなかった。そんなことを気にする必要がないくらい、深く愛されていたから。
けれど、今は違う。
近頃彩葉は、じぶんがあやかしであることに後ろめたさと焦燥を感じるようになった。
なぜだろう。
楊が祓い屋の当主だからか。
いや、それだけではきっとない。
今、時代は変わりつつある。
天月家は都会から多少離れたところにあるが、とはいえ京都にも少しづつ都会の大衆文化やモダニズムが波及しつつある。
この先あやかしは、どんどん棲家を奪われていくだろう。
それは、妖狐である彩葉も例外ではない。いつまでも人間のそばに留まるべきではない。
最初から彩葉は、楊とは相容れない存在だったのだ。
しかしそれについて寂しさを感じていることが、彩葉にとっては予想外だった。
いつからこんなに、楊の存在が大きくなっていたのだろう。
「結婚当初は、いやな人だと思っていたのにな」
彩葉はひとりごちる。
かつて、楊は彩葉にこう言い放った。
――結婚などただの見せかけだ。俺には不必要にかかわるな。
楊のひとぎらいは、家庭環境にあるようだった。女中たちの話によると、楊の死んだ父親は、女癖が悪く、ろくでもないひとだったらしい。
おかげで、出会った頃の楊は極度の女ぎらいだった。
触れることはおろか、目が合っただけで怒鳴られたこともある。
しかし、彩葉はどれだけ楊に傷付けられても逃げ帰るわけにはいかなかった。
両親をがっかりさせないためにも、離縁されるわけにはいかなかったのだ。
嫁いでから彩葉は、楊とせめてふつうに会話ができるくらいに好かれようと奮闘した。苦戦したが、今はなんとかふつうに近い関係にはなれたと思っている。
すべては両親のためだった。
でも、その両親はもういない。すべて終わったのだ。
彩葉が楊へどんな想いを抱いていようと、楊がたとえ行くなと言おうと、お芝居はおしまいなのだ。
彩葉は大嘘つきのバケモノ。楊とは釣り合わない。
山桜の木の上から、彩葉は眼下、山桜に囲まれた天月屋敷を見下ろした。
彩葉は家を出ようと決意した。
礼葉がいなくなった台所で、楊は剥きかけの梨を片付けていた。片付けながら、ついため息が漏れる。
『ごきげんよう、旦那さま。さっそくですが、離縁してください』
朝、礼葉に離縁を突きつけられてからというもの、忌々しいその言葉が楊の頭から離れない。
胸がざわざわとする。楊は思わず胸を押さえた。
これは、なんだろう。
楊は、生まれて初めての感覚に困惑していた。
ついさっき、楊は礼葉の血に触れた。
あまりに痛々しく、胸が締め付けられるようだった。
これまでの楊だったら、有り得なかった感情だ。
結婚当初のじぶんが今のじぶんを見たら、きっと目を丸くして呆れていることだろう。
あの頃の楊にとって、夫婦というのは、ただの仮初でしかなかった。
もともと楊は、結婚自体する気などなかった。しかし、天月家の当主になるためには花嫁を迎えなければいけないというしきたりがある。
そのため楊は、仕方なく礼葉と結婚したのだ。
……それなのに。
楊は自身の胸を押さえながら、呟く。
「離縁なんてしたくない……」
じぶんの口から放たれたそれに、なにより楊自身がいちばん驚いていた。
ずいぶんな変わりようだ。
もともと天月家の当主になるための伝統の祭事が済んだら、すぐにでも礼葉をどこか遠くの別荘へ追い出すつもりだったのに。
気が付けば、もう三年も一緒にいる。
それだけでなく、離縁を突きつけられて焦っているなんて。
楊はもともと、ひとを好きになったことがない。
楊の父親はろくでもないひとで、本妻のほかに妾を何人も囲い、毎晩遊び狂っているような男だった。
楊はその妾の子として生まれた。
母親が十六、父親が齢六十のときの子である。
日々大きくなるにつれ、楊は女中の噂話を通して、じぶんの出自がどういうものかを理解していった。
それでもまだ、子供の頃は父親を愛していた。
本妻の間に子がなかったため、父親は仕方なく妾を囲っていたのだと。
家のために世継ぎを作らなければなかったから、仕方なかったのだと。
父親を蔑みたくなる衝動に駆られるたびに、そう言い聞かせていた。
しかし、楊が十五になる頃だっただろうか。
父親の妾のひとりが、夜な夜な楊の寝室へ夜這いにきたことがあった。
幸いすぐに気が付き、楊は女を寝室から引きずり出した。
女は不貞を働いたとして即離縁されたが、そのできごとは、幼かった楊の心に暗い影を落とすには十分過ぎるものだった。
あの日、楊は父親にはっきりとした嫌悪を抱いた。
あのとき女に触れられた感触が、楊は未だに忘れられない。
女は汚い。女は醜い。あんな獣のような女をそばに置く父親もどうかしている。
楊は家族すら信じられなくなった。
父が死んだとき、悲しみよりもホッとした。ようやく、妾たちを屋敷から追い出せるから。
それからほどなくして嫁いできた礼葉へ、楊は当時、今とは比べ物にならないほど冷たくしていた。
会話すらほとんど交わさなかった。
料理を出されてもぜったいに食べなかったし、声をかけられれば背を向けた。
気を引こうと腕にでも触れようものなら、容赦なく怒鳴り、その手を振りほどいた。
どうせすぐに興味を失くすだろうと思っていた。しかし、楊の予想に反して、礼葉はいつまでも楊にかまってきた。
どんなときも、どんなに虐げても文句ひとつ言わずに、ひねくれた楊を受け止めた。
ふと、回顧して思い出す。
そういえば、いつから今のような関係になったのだったか。
考えるまでもなく、楊の記憶がとあるときまで遡っていく。
祓い屋である楊は、日々あやかしと相対している。
善良なあやかしたちの相談に乗り、困りごとを解決することが多いが、ときには人々に害を及ぼす邪悪なあやかしを退治することもある。邪悪な心を持つあやかしや悪霊は、意思疎通ができない者が多い。
そのため、怪我を負うことも多かった。
あるとき楊は、腕にひどい傷を負い、血だらけで帰ったことがあった。
出迎えた礼葉は楊の怪我に気付くと、慌てて手当をしようとした。
しかし楊は、その手をいつものように「汚い手で触るな」と弾いた。
こういうとき、いつも礼葉は困ったように笑って「ごめんなさい」と素直に手を引いたが、このときばかりはさすがに言葉を詰まらせ、落ち込んだ顔をした。
その顔に、ほんの少し罪悪感がちらつきながらも、楊はそのまま礼葉を無視して自室へ入った。
部屋にある救急箱を使い、軽く止血したあとのこと。洗面所の前を通ると、水の音がした。そっと覗くと、そこに礼葉がいた。
水を豪快に出して、なにかをしている。
礼葉は、一心に手を洗っていた。ごしごしと、手の柔らかな皮膚が真っ赤になるほどに。
そのときはなにをしているのかと呆れて部屋に戻ったが、彼女の不可解な行動の理由はすぐに分かった。
そのあとすぐ礼葉が楊の部屋にやってきたのだ。
そして、言った。
『手はきれいに洗ってきました。手当だけでもさせていただけませんか』と。そう頼んできたのだ。
当て付けかと思ったが、その目を見て感じた。違う。
彼女はただ本気で、楊の怪我を心配していた。
馬鹿正直で要領の悪い礼葉を、楊は内心呆れていた。
だけど、それを知ってからもいうもの、どうも礼葉を邪険にすると良心が痛むようになってしまった。
『手当させてください』
それ以来、礼葉の澄んだ視線が、楊を捕らえて離さない。
礼葉だって女なのに。あいつらと変わらない、醜い生き物のはずなのに。
「あのときか……」
あのとき初めて、楊は礼葉に触れることを許したのだ。
梨を片付け終わり、楊は途方に暮れた。
いつの間に、こんなにも彼女を愛してしまっていたんだろう。
らしくない、と呆れつつ、こんなじぶんを愛おしいとすら思ってしまう。
まっすぐな彼女に感化されたのだろうか。
礼葉はまっすぐ過ぎる。
警戒心がまるでなく、すぐにひとを信用する。すぐにひとを愛する。拒絶されても、無邪気に追いかける。
そんな彼女が愛おしくてたまらない。
それなのに、彼女に裏切られたような気持ちになるのはなぜなのだろう。
深く息を吐くように、言葉を漏らす。
「……そうか。俺は、寂しいんだな」
三年も一緒にいたのに、彼女の家族になれなかった。
彼女のいちばんになれなかった。
それが、悔しくて悲しくて、そして、寂しいのだ。とてつもなく。
使用人から、礼葉が自室で荷物をまとめていると聞き、楊は慌てて礼葉の部屋へ向かった。
「なにをしているんだ?」
思わず感情の籠った聞き方をしてしまって恥ずかしさが込み上げたが、今はそれを気にしている場合ではない。
「見てのとおりです。荷物をまとめているんですよ」
礼葉は相変わらず、淡々とした声で答えた。
「だから、なぜ?」
「実家に帰るからです」
「離縁はしないと言ったはずだが」
「離縁していただけないのならば、勝手に帰るだけです」
夫婦間において、夫のほうが強いと言ったのはだれだったか。そんなことはない。
嫁だって、そこそこ強い。いや、むしろ嫁のほうが強いと思う。度胸も楊なんかよりずっとあるし、細々としたことにもよく気がつく。使用人との関係も、今では楊より礼葉のほうがずっと上手くやっている。
楊は今さらになってそれを自覚した。
「待ってくれ」
楊が礼葉の腕を掴む。
「俺は、君になにかきらわれるようなことをしたか?」
「いえ、しておりません」
「じゃあなぜ」
「私たちは合わない。それだけです」
なにを今さらと、楊がさらに口を開こうとするのを、礼葉が遮る。
「離縁を申し込んだときも言いましたが、私が楊さまとの結婚を選んだのは、ただ両親を安心させてやるためだけです。そもそも私たちは愛し合って結婚したわけでもありませんし、楊さまだって、当時は私に触れることさえ許してくれなかったでしょう」
「それは昔の話だ。今はいくらでも……それに、独り身になるのはいろいろと困る」
咄嗟に口から出た言葉だが、嘘ではない。
実際、近頃の日本は結婚していてこそ一人前という風潮が顕著だ。
特に、楊は人間だけでなく、あやかしの間でも有名人。天月家の当主が妻から逃げられたとなれば、変な噂が流れかねない。
しかし、そんな噂よりも楊が危惧しているのは礼葉のことだった。
社交の場で、礼葉はすこぶるモテたのだ。となりに楊がいても、男から声をかけられた。
礼葉の容姿は華やかな社交界でもずば抜けていた。この国では珍しい金色の髪は絹のように艶やかで、赤い色の瞳は蠱惑的で色っぽい。
ふだんは袴を着ていることが多いが、たまにまとう西洋のドレス姿はオーダーメイドでもないのに、まるでドレス自体が彼女のためだけに存在するのではないかと思うほどに似合ってしまうのだ。
それでいてまったく飾らないから、さらに男は彼女の虜になる。
もし、礼葉の離縁が世間に知れたら。
求婚の話が絶え間なく彼女のもとへと舞い込むことだろう。
だからというわけではないが、とにかく楊は礼葉を手放したくないのだ。なにがあっても。
「楊さまならすぐに良い方が見つかります。私にこだわる必要はないはずです」
「俺は君がいい」
「私はいやです、困ります」
きっぱりと言う礼葉に、楊は狼狽える。
「あ……す、すみません。いやというのは、その……楊さまがいやというわけではありません」
ひびが入ったような楊の表情を見て、礼葉もさすがに言い過ぎたと思ったのか、少し慌て気味に言った。
「なにがいやなんだ? なにかあるなら言ってくれ」
詰め寄られ、礼葉は俯く。そして、珍しく弱々しい声で言った。
「……それは、言えません」
「夫にも言えないことなのか」
「たとえ夫だろうと、知られたくないことくらいあります。……いいえ。むしろ、楊さまが夫だから言えないのです」
「それは……つまり、夫が俺でなければ離縁などと言わなかったと?」
「ええ、そうですね」
はっきりと肯定され、楊は思わず笑みを零す。
「……ずいぶん、きつい物言いだな」
「楊さまと過ごした日々は、とても穏やかで……夢のようでした。ありがとうございました」
礼葉は申し訳なさそうに目を瞑ってから、これですべて終わりだとでもいうように、柔らかに微笑む。
美しい妻の笑みは、楊の心を容赦なく突き刺した。それが余計に楊の胸を締め付ける。
「妹はひとりでは生きていけません。両親がいなくなった今、妹を守れるのは私だけなんです。分かってください」
荷物をまとめ終わると、礼葉は楊に深く頭を下げた。
「今まで、お世話になりました」
「礼葉、待て」
礼葉が振り向く。
「彩葉の病が治ったら、戻ってきてくれないか」
楊の言葉に、礼葉の目が泳ぐ。しかしすぐに楊を見据える。
「……彩葉は、不治の病です。生涯、治ることはないのです」
「もし治れば、戻ってきてくれるか?」
しばらく沈黙が落ちた。礼葉はなにかを堪えるように唇を引き結ぶ。
「……ごめんなさい」
楊の手を振り払い、礼葉は天月家を出ていった。
九条の家は、人里離れた京都の山の奥深くにある。
実家へ帰りながら、彩葉は両親や礼葉と家族になったときのことを思い出していた。
今から約十年前、まだ名前も持たなかった頃の話だ。
母親と生き別れた子狐時代、彩葉は九条九郎という男に出会った。
当時彩葉は人間に化けて街中に潜み、ときに悪事を働いて生きる、小悪党のあやかしだった。
親を亡くし、ひとりぼっちだった子狐は、人間の子供に化けて必死に食べ物を探していた。数日水しか口にしていなかった子狐の体力は、既に限界を越えていた。
大人に化ける余裕も、木の葉を金に変える力すら残っていなかった。
野良の子狐は毎日、子供に化けて物乞いをした。
しかし、どこへ行っても食べ物を恵んでくれる店はない。我慢の限界を迎え、子狐は露店で売られていた団子をひとつ盗んだ。
しかし、運悪く店の店主らしき男に盗んだ瞬間を見られてしまった。
男は怒り心頭で、子狐は何度も何度も殴られた。とうとう体力がなくなり、子供の変化が解けてしまった。子狐の正体を見て、男は驚いた。
「忌々しい妖狐め! 殺してやる!」
このままじゃ殴り殺される、と死を覚悟したとき、だれかが男の手を掴んだ。
見知らぬ老父だった。
老父は「うちの娘がいたずらをして申し訳ない」と言って、丁寧に頭を下げた。
うちの娘、と言った老父に、子狐は首を傾げた。
まったく見覚えがない。
戸惑う子狐をよそに、老父は詫びだと言って子狐が見たこともないくらいの大金を男に与えた。
男は目の前の金にすっかり気をよくして、子狐を解放してくれた。
しかし店を出るとき、ものすごい剣幕で怒鳴られた子狐は震え上がって、その場から脱兎のごとく逃げ出した。
人気のない森の中の神社まで逃げて一息ついていると、あの老父がやってきた。
あからさまに怯える子狐に、老父はあの店の団子を差し出した。
子狐は老父を警戒しながらも空腹に勝てず、そろそろと手を伸ばして、その団子を受け取った。
受け取った途端、頬いっぱいに団子を頬張る子狐を見て、老父は微笑みながら言った。
「君、親はいないのかい?」
子狐は咀嚼をやめ、老父をじっと睨みつける。そして、小さく答えた。
「いない。死んだ」
「……そうか。なら、うちの子になるかい?」
「え……?」
子狐はじっと老父を見つめる。
老父は境内にちょんと座っていた子狐のとなりに腰を下ろすと、しっとりと話し出した。
「うちにもね、君と同じくらいの娘がいるんだ。歳がいってようやく授かった子だった。だけど、娘は生まれたときから身体が弱くてね……。よかったら、うちの子の姉妹になってくれないかな」
「おじさんの娘に?」
「見てのとおり、僕はおじさんだ。もう先も長くない。この先、娘がひとりになってしまうことだけが僕は気がかりなんだ」
「おじさんの娘もひとりぼっちなの? 私と一緒だね」
あどけない声で言う子狐に、老父は微笑む。
「そうだ。だから、僕たちがいなくなったあと、ふたりが力を合わせて生きていってくれたら、おじさんはすごく嬉しいんだ。どうかな?」
「おじさんの子になったら、私、ひとりぼっちじゃなくなる? おなかいっぱいになれる?」
「もちろん。家族になるんだからね」
子狐は、パッと表情を明るくする。しかし、その表情はすぐに翳った。
「……でも、私はあやかしだよ。妖狐は、悪いヤツだってみんな言うよ。今日だって……」
「君はただ一生懸命に生きているだけだ。悪いことなんてなにもしていないよ。君、名前はなんと言うんだ?」
「……ない。あったのかもしれないけど、知らない」
「そうか。なら、僕がつけてもいいだろうか」
老父は子狐に優しい眼差しを向けた。
「僕の娘はね、礼葉というんだ。どうせならうちの子と似た名前がいいな。……そうだ、彩葉というのはどうだろう?」
「いろは……ねぇ、それってどういう意味?」
「彩というのは、鮮やかで美しいことをいうんだよ。それから、いろんな色の組み合わせを言う。礼葉と良い関係になってほしいという気持ちを込めてみたんだ」
「彩葉……?」
名前を呟く。名前というものに慣れていない子狐は、そわそわとした。
「どうかな? 彩葉」
「可愛い名前だね」
「そうか」
「おじさんの名前はなんて言うの?」
「九郎だよ。九条九郎だ」
「……九郎おじさん。私、おじさんの子になりたい。おじさんの娘、守るよ。私が」
そうして、子狐は老父――九郎の娘となったのだ。
***
礼葉が亡くなったのは、彩葉が実家へ帰ってすぐのことだった。両親と同じ流行病に罹患してしまったのだ。
最愛の姉の死に、彩葉の心にはぽっかりと大きな穴が空いてしまった。しばらくなにをする気にもならず、彩葉は姉の亡骸に寄り添い続けた。
礼葉が亡くなったその日の夜、彩葉は夢を見た。
彩葉が天月家に嫁ぐことが決まった日の夜の夢だ。
だれより心配症である礼葉は、じぶんと入れ替わって結婚する彩葉のことをすこぶる心配していた。
結婚前夜、布団に横になりながら、彩葉は言った。
「――いい? 礼葉。今日から私は礼葉として、あなたは彩葉として生きるの。私たちが入れ替わってるってことは、ぜったいに天月家には秘密なんだからね」
礼葉が彩葉のほうへ寝返りを打つ。
「ねぇ彩葉、本当にお嫁に行くの? 身代わりなんて無茶だよ。もしバレたら、妖狐であるあなたは殺されちゃうかもしれない。やっぱり私が……」
「大丈夫よ! もしバレそうになったら、そのときは逃げるわ。私、逃げ足だけはとっても早いのよ。なにせ、妖狐ですから」
ぽんっ! と変化を解き、狐の耳としっぽをあらわにした彩葉を見て、礼葉がくすくすと笑う。
「私は、お父さまとお母さまの本当の子じゃないけれど、それでも愛情だけは礼葉にだって負けてないつもりよ」
「もちろん、それは分かってるわ。でも、天月家の次期当主は、気難しいかただと聞いたわ。彩葉は素直だから、ちゃんと上手くやっていけるのか心配なの」
「大丈夫! 上手くやるわよ!」
「本当かなぁ」
「とにかく、私はふたりに恩返しをしたいの。分かってよ、礼葉」
「うん……」
それでもまだ苦い顔をする礼葉の手を、彩葉がぎゅっと握る。
「大丈夫。嫁いだって家族は家族。私たちの心はずっと一緒よ。それに、もしお父さまとお母さまになにかあったら、すぐに戻る。礼葉がひとりになるときは、必ず帰ってくる」
「本当?」
「もちろん。礼葉はとにかく、今は病を治すことを考えて。それから、お母さまとお父さまをよろしくね。あまり無理させないように」
「うん、分かった」
礼葉と彩葉は、血が一滴も繋がっていない仮初の姉妹だったけれど、それでもふたりは本物の姉妹よりもずっと深い絆で繋がっていた。
目が覚めると、枕が濡れていた。目元を拭いながら起き上がると、がらんとした殺風景な空間が目に入る。どことなく、色褪せているような気がした。
……色も、温度も、音すらない部屋。
少し前まで、どんな場所よりあたたかかったのに。
目が覚めた途端に襲ってくる不安感に、彩葉は打ちのめされた。
「礼葉……お父さま、お母さま……会いたい」
彩葉の呟きは、だれもいない空間に寂しく溶けていく。
実家に戻ってから、数週間が経った。
涙も枯れ果てた頃、彩葉はようやく部屋を片付け始めた。家のあちこちに、両親や礼葉の生活の跡が残っている。礼葉が作っていた押し花や、父親の趣味の木彫りの鳥。台所に行くと、今でも母親の背中が見えるような気がしてしまう。
がらんとした部屋を見るたび、枯れたはずの涙があふれ出してくる。
涙を拭いながら遺品の整理をしていると、不意にほとほとと玄関の戸が鳴った。
「礼葉、いるか?」
聞こえてきたのは、楊の声だった。もしや、礼葉を連れ戻しに来たのだろうか。一瞬出るか迷ったが、彩葉はそろそろと立ち上がり、玄関に向かった。
戸を開けると、そこに立っていたのはやはり楊だった。
「礼葉。彩葉さんの具合はどうだ?」
彩葉は楊を呆然と見上げる。
そうか。そういえば、まだ姉が亡くなった報せを出していなかったのだった、と彩葉は今さらになって気付く。
楊は続ける。
「実は、京の山には大蛇がいるんだが、その大蛇の鱗は万能薬なんだそうだ。時間がかかってしまったが、ようやく手に入れたんだ。すりおろして飲ませるといい」
言いながら、楊は彩葉の手に紙袋をのせる。
「それから……この前は、無理に引き止めて悪かった」
楊はそれから、さめざめとした様子で言った。
「たったひとりの妹を大切に思うのは当たり前のことなのに、俺はあまりに身勝手だった。ごめん」
「…………」
ふと、黙り込んだままの彩葉に、楊が首を傾げる。
「礼葉? どうした?」
「……ました」
「ん?」
「死にました、昨日」
「…………」
楊は黙り込んだまま、何度か瞬きを繰り返す。そして、ひそやかな声で言った。
「……そうか。それは……残念だった」
「……いえ。せっかく持ってきていただいたのに申し訳ありませんが、これはお返しします。もう、必要なくなってしまったので」
そう言って、彩葉は紙袋を楊へそっと押し返す。戸を閉めようとすると、「待て」と楊が戸を押さえた。
「礼葉、少しだけ中に入れてもらえないか。彩葉さんをちゃんと悼みたいし……それに礼葉、少し痩せたんじゃないか? ちゃんと食べているのか? 握り飯くらいなら俺も作れる。よかったら……」
「すみません。まだ、いろいろと整理がつかなくて。今日はお帰りください」
彩葉は楊の声に被せるようにして言った。
「礼葉」
彩葉は引き止める楊を無視して、無理やり戸を閉めると、鍵を閉めた。そのまま、戸に背中をつけ座り込む。
彩葉の両目の端から、再び大粒の涙があふれた。
どれくらい、そうしていたのだろう。いつの間にか眠ってしまっていたらしかった。
また、夢を見た。
満開の藤の木の下に、大好きなひとが立っている。礼葉だ。
礼葉は見たことのない着物を着ていた。きれいな藤色の着物だ。それに、白い袴。まるで藤の花の精霊のようだと彩葉は思った。
「礼葉……!」
彩葉は思わず駆け出し、礼葉に抱きついた。勢いよく飛びついた彩葉を、礼葉は優しく抱きとめる。
「礼葉、会いたかった!」
しかし、抱き締めながら、彩葉は違和感を感じた。
感触がないのだ。礼葉を抱き締めているのに、ぬくもりがない。礼葉の背中へ腕を回しても、力が入らない。
礼葉はどことなく悲しげな眼差しのまま、彩葉を見つめた。青白い顔をしている。
「礼葉?」
困惑したまま、彩葉は礼葉を見つめる。
「彩葉、ごめんね。せっかく帰ってきてくれたのに、ひとりにしちゃって」
礼葉はそっと目を伏せ、彩葉から離れた。
「私、あなたには迷惑かけてばかり。あなたから、いろんなものを奪ってばかりだった」
「そんなことない!」
「でもね、彩葉、私、今はとてもすっきりしてるのよ」
「……どうして?」
「あなたにとってなにより大切な名前を返せた。それから、自由も」
どうしようもないくらい、悲しくなる。どうしてそんなことを言うのだろう。それではまるで……。
「なによそれ。死んでよかったみたいなこと、言わないでよ」
「彩葉とのお別れは寂しい。だけど、身体が軽いの。呼吸が楽なの。こんなの初めてよ」
礼葉はそう言って、その場でくるりと回転して見せた。その動きは、たしかに羽のように軽く見える。
「彩葉。私はただ、これ以上あなたに悲しんでほしくないだけ」
「そんなこと言ったって……」
無理だ。最愛の家族を一度に亡くして、それを悲しまないなんて。
「私ね、彩葉にお願いがあるの。最後の最後まで頼みごとばかりで申し訳ないのだけど。だけど、これは私だけじゃなくて、お父さまとお母さまのお願いでもあるから、言うわね」
礼葉は一度言葉を切ってから、言った。
「彩葉は、今までずっと私たち家族のために生きてきてくれたでしょ。だから、これからはじぶんのために生きて。彩葉の人生を生きるのよ」
思いもよらないことを言われ、彩葉は困惑する。
「ねぇ、よく考えてみて。あなたにはまだ、大切なひとがいるじゃない」
「大切なひと? いないよ、そんなの」
首を振る彩葉を、礼葉は優しく見つめる。
「いるわ。楊さまよ」
彩葉はハッとした。
「楊……さま?」
「そうよ。今の彩葉の家族は、楊さまでしょう?」
「そ、それは違うわ。お父さまやお母さまが死んで、私はあの家にいる理由がなくなった。私はもう、楊さまとは離縁するの。他人になるの」
「まだよ。まだ愛は残ってるでしょう」
「愛……?」
「そうよ。彩葉はまだ楊さまを愛しているし、楊さまも彩葉を愛してる。でなきゃ、離縁した妻のために、九条の実家までわざわざ妙薬を届けになんてきてくれないわ」
「そ、それは礼葉のためであって……」
「違うわ。彩葉を取り戻したいからよ。私が元気になれば、きっと彩葉は安心して戻ってきてくれると思ったのよ。楊さまって、とっても可愛いところがあるのね。噂では冷酷なひとだと聞いていたけれど、ぜんぜん違うみたい」
「……楊さまは優しいわ。でも……」
ふと、ふたりを囲んでいた藤の花が淡く輝き出した。ぽうぽうと光るそれは、消えそうで消えない。次第に、礼葉の身体も輝き出した。
「もうそろそろ、時間みたい。行かなきゃ」
礼葉が言う。
「行くって、どこへ?」
「お父さまとお母さまのところよ」
「そんな……お願い、待って。もう少しそばにいて」
思わず手を伸ばすが、彩葉の手はもはや、礼葉に触れることはできなかった。まるで煙に映る幻に手を伸ばしているかのように、掴もうとすればふっと消えてしまう。
「彩葉、最後にひとつ忠告よ。楊さまを追いかけて」
「え?」
「彼、私の病を治す薬を手に入れるために、かなりの無茶をしたみたい。もし今あやかしに襲われたら、間違いなく死んでしまうわ」
ハッとする。そういえば、家に訪ねてきたときの楊は、どことなくやつれていた。心に余裕がなく、気遣いの言葉ひとつかけてやれなかった。
「今楊さまを守れるのは、彩葉だけよ」
「私には……無理だよ」
よろよろと首を振る彩葉に、礼葉は姉の慈愛がこもった眼差しを向ける。
「彩葉、大切なものというのは、失ってから気付いても遅いの。あなたはそのことをだれよりよく分かっているはずよ。今ならまだ間に合う。だから急いで、お願い」
次の瞬間、ふたりを包んでいた光がふっと消えた。
彩葉は目を開けた。静かに瞬きをする。
彩葉は、じぶんの手のひらを見つめた。
『楊さまを追いかけて』
脳内で礼葉の声が木霊し、心臓がざわめき出す。
今の夢はなんだったのだろう。むしのしらせというもの?
もしかして、楊になにかある?
妙な胸騒ぎがして、いてもたってもいられなくなった。彩葉は急いで家を出た。
下山しながら、楊は異様な身体の気だるさに襲われていた。全身が鉛になったようだ。
足元がふらふらとおぼつかない。妙薬を得るために京の山を巡った疲れが出たのだろうか。
そういえば、大蛇の棲家は霊山だった。あやかしの気配も多かったし、もしかしたらなにか悪い妖気に充てられたのかもしれない。
従者をつけてくればよかったのだが、一刻も早く薬を礼葉へ渡したかった楊は、九条家へはひとりで来ることを選んだ。
溶岩がごろごろと転がる道に差し掛かったところでふと、足が沈むような感覚に陥る。もはや歩けそうにない。
楊は、ひとまず岩陰で休むことにした。
岩に寄りかかり、しばらくうとうとと船を漕いでいると、ふと、さわさわと木の葉が風に擦れる音が耳についた。
――木? 近くに木などあっただろうか。
ふと気になって、ゆっくりと目を開ける。視界の端で、なにかが光った。
ひゅん、と風を切る音がして咄嗟に身を翻すと、肩になにかが刺さっていた。
枝だ。でも、いったいどこから。
周囲を見るが、あちこち転がる岩に鋭い日差しが反射しているせいで、状況がよく見えない。
次第に、枝が突き刺さった肩がじんじんと痛み出す。枝から妖気を感じる。
あやかしの仕業であることに間違いなさそうだ。
楊は小さく舌打ちをした。
「くそ……」
こんなときにあやかしに遭遇するとはついていない。
肩に刺さった枝を乱雑に引き抜くと、楊は集中して音を聞く。楊は今、なんらかの原因で視界がぼやけている。いくらか目眩もあった。
今は視力に頼るより、聴力に頼ったほうがいいだろう。と、思ったのだが。
痛みのせいで、耳さえ遠くなっているようだった。
肩は、異様なほどの痛みを覚えていた。やはり、なにか術でも施されているのだろうか。
ぐらり、と足元が揺れた。楊は地面に片膝をつく。
さわさわ、さわさわ。
風の音か、あやかしの囁きか。今の楊では、それすら判断がつかない。
そのときだった。
「――死ね」
はっきりと、その言葉だけ聞こえた。直後、とてつもない衝撃が、楊の身体を駆け抜けた。
なにかに貫かれたのか、と思ったが、一向に痛みがやってこない。
どういうことかと思っていると、身体全体が浮遊感に包まれた。
目を開くと、美しい黄金色の毛並みが目に入った。
「ご無事ですか、楊さま」
「え……」
耳を撫でたのは、愛しいひとの声。妻である礼葉の声だった。
――いや、そんなわけはない。だって、礼葉の姿はどこにも見当たらない。
状況が分からず混乱していると、遥か下のほうから舌打ちのような声がした。
「妖狐め。邪魔をするな」
見ると、先程まで楊が寝ていた場所に、黒い影が見えた。
おそらくあやかしだが、視界がぼやけて姿かたちはよく分からない。
「あなたは、何者?」
楊を背負っている獣のあやかしが、影に問う。
「お前に名乗る必要などない」
「なら、このひとは渡さない」
影が舌打ちをした。
「それは祓い屋だ。かつて、わしの子を祓った忌々しい奴……。お前もあやかしなら、わしの気持ちが分かるだろう。その男を庇ったところで、お前も祓われるだけだぞ。分かったらその人間を寄越せ」
影は楊を睨みつけたまま、憎々しげな口調で言った。
やはり影は、祓い屋である楊の命を狙っていたらしい。
朦朧とする意識の中で、楊は獣に言った。
「俺を下ろせ。このままでは、君も狙われてしまうぞ」
「いやです」
にべもなく、返された。
楊は困惑する。
「君もあやかしだろう……? あのあやかしの言うとおり、俺は祓い屋だ。あやかしを祓うのが仕事だ。それなのに、なぜ俺を助ける……?」
「それは……」
凛とした、どこか聞き覚えのある声を遠くで聞きながら、楊はゆっくりと意識を手放した。
「――楊さま。楊さま」
波が砂浜へ優しく押し寄せるように、楊はゆっくりとまどろみから覚醒した。
目を開けると、まず目に入ったのは、礼葉の顔だった。心配そうな顔で、楊の顔を覗き込んでいる。楊はゆっくりと身を起こし、何度か瞬きを繰り返した。
見知らぬ天井。どこか懐かしい香り。
「ここは……」
「楊さま。よかった、ご気分はどうですか?」
身を起こすと頭を鋭い痛みが巡り、楊は一瞬よろめいた。その背中を、礼葉が支える。
次第に意識がはっきりしてくる。楊は布団の上にいた。後ろから礼葉に抱き締められる形で、支えられながら座っている。振り返ると、すぐ近くに礼葉の顔があった。
「そうだ。俺は下山中にあやかしに襲われて……なんで礼葉がここに?」
「ここは私の家ですよ。天狗を追い払ったあと、この家に運びました」
「天狗……」
楊を突然襲ってきたあの影は、天狗だったのか。と、そこまで思い出して、ハッとする。
肩を見ると、傷口には丁寧に包帯が巻かれていた。わずかに消毒の匂いがする。
「手当ては、君が?」
「はい。楊さまが先程くれた大蛇の鱗をすりおろして傷口に塗りました。じきよくなると思うのですが」
すべてを思い出し、楊は訊ねた。
「もしかして、さっき助けてくれたあやかしは……君なのか?」
楊はまっすぐに礼葉を見つめる。その視線に、礼葉はわずかに唇を引き結んでから、こくりと頷いた。
「……私の正体は、妖狐というあやかしです。もともと父、九郎に拾われ、姉の礼葉とともにこの家で育てられました。そして……十五のとき、楊さまとの縁談が持ち上がって、病弱な姉の代わりに、私が嫁ぎました。……ずっと騙していて、申し訳ありませんでした」
楊はわずかに驚いた顔をしつつも、
「礼葉が姉、ということは、君は……」
「彩葉です」
「……しかし、それならなぜ、縁談を断らなかった? 祓い屋のもとへ嫁ぐなんて、気が休まらなかっただろう。もしかして、両親は君の正体を知らなかったのか?」
礼葉――彩葉は首を横に振り、
「いいえ、知っていました」
と、答える。
「なら、なぜ……」
「家族のためです。両親は花嫁姿を見たがっていましたし、それに、縁談を断ってしまえば礼葉が気を揉みます。だから、代わりに私が」
楊はため息を漏らす。
――家族。
彩葉の口癖だ。
花嫁姿を見せるためだけに、彩葉は命懸けの婚姻をしたというのか。
楊は彩葉を複雑な思いで見つめる。
「家族家族と……君はいつもそればかりだな」
言ってから、口を噤む。まるで子供のような口ぶりになってしまった。
「家族を大切に思うのは当然のことじゃないのですか?」
「それなら俺は、家族ではないのか?」
「…………それは」
言葉につまる彩葉を見て、楊は苦々しい顔をした。
「……いや、すまない。今のは忘れろ」
「……楊さまを、ずっと騙していたことに罪悪感はありました。ですが、話せば殺されるかもしれなかったので、どうしても言えなかったのです」
「……そうだな。俺も、あやかしを嫁にしたことが露見したら、仕事に支障が出てしまうかもしれない」
「はい。ですので、離縁を……」
「……なぜ、俺を助けてくれた?」
「え?」
「さっき、なぜ俺を助けに来てくれたんだ? 離縁を拒んだ俺は、彩葉にとって邪魔でしかなかっただろう? ここで死んでいたほうが、むしろ彩葉にとっては都合が良かったんじゃないか」
今さらなのですが、と彩葉は前置きしてから、
「楊さまのことを、愛していました」
と、小さな声で言った。
楊は思わず彩葉へ目を向けた。
「愛……してるのか? 俺を?」
「……はい。むしのしらせのようなものがあって、もし楊さまになにかあったらと考えたら、いてもたってもいられなくなって――」
話を遮って、楊は彩葉を抱き締める。彩葉は驚いて、身を固くした。布越しにゆっくりと楊の体温が伝わってきて、彩葉の体温もゆっくりと上昇していく。
「よ、楊さま、離してください」
「いやだ」
腕の中で身動ぎをする彩葉を、楊はさらに強い力で腕の中に閉じ込める。
「……もう一度言ってくれ」
楊は掠れた声で彩葉に言う。
「離してください?」
「違う。好きだと言えと言っているんだ」
「……いえ、あの……さっきはああ言いましたが、楊さまが祓い屋であることに変わりはありませんし……離縁の話は」
おろおろとする彩葉を、楊は顔を寄せて覗き込んだ。目が合うと、彩葉は口を閉じた。顔を近付けたまま、楊は言う。
「俺は、彩葉以外なにもいらない。祓い屋であることを理由に離縁をすると言うのなら、家を捨てよう」
「な、なにを言うのですか……!?」
驚く彩葉に、楊は微笑む。
「愛してるから、君を離したくない。……結婚当初、俺は君にひどい仕打ちをしていた。今さら信じられないと言われても仕方ない」
「い、いえ……そんなことはありません。そもそも出会ったばかりの人間を信用しろなどと言うほうが間違っていますし」
「俺は……女はずっと、汚いと思ってきた。触れられるだけで、吐き気がした。だけど……君だけは違う。君にだけは、触れられる。触れたいと思う。俺には生涯君だけだ。君の代わりはいないんだよ」
「でも、私はあやかしです。ひとですらありませんし……時代も変わっています。きっとこの先、あやかしはどんどん幽世に帰っていくことでしょう。そうなればやはり、天月家の当主の妻に私は相応しくな……」
「そのことなんだが、彩葉。彩葉が妖狐だということを知っている人間は俺以外にだれがいる?」
「えっと……家族だけです」
「つまり、今は俺だけなんだな?」
彩葉は少し考えてから、頷く。
「俺は、彩葉のことはだれより素敵な人間の女の子だと思っている」
「へっ?」
彩葉が間の抜けた声を上げる。
「彩葉は人間。俺の最愛の妻だ。彩葉の肩書きはそれだけだろう」
「あ、あの……?」
困惑した眼差しを向けてくる彩葉に、楊はため息混じりに告げる。
「……君の秘密は俺しか知らない。それなら、このさきもずっと隠し通せばいいだけだ」
「そ、そんな簡単に……! 私、おっちょこちょいなんですよ。うっかりしたらどうするんですか」
「幸い、俺にはあやかしの知り合いもたくさんいる。証拠隠滅に困ることはないよ」
茶目っ気たっぷりに言う楊に、彩葉はとうとう笑みを見せた。
久しぶりに見た彩葉の笑顔に、楊も思わず表情を崩す。ふたりのあいだに、穏やかな空気が流れる。
「……それで、いちばん重要な話になるんだが」
「はい?」
「これでもまだ、離縁したいと駄々をこねるか?」
一瞬、彩葉はぽかんとした顔をした。すぐに我に返ると、
「駄々……いえ、こねません! 楊さま、私は……」
楊が彩葉の手をぐっと引く。バランスを崩した彩葉は、楊の胸にもたれかかるような体勢になる。
彩葉は息を呑んだ。
「あ、あの……楊、さま」
楊は彩葉の手を掴んだまま、自身の背中に手を回した。自ずと彩葉は楊に抱きつくような姿勢になる。
カチコチになる彩葉を見つめ、楊はにこりと微笑む。
「ごきげんよう、俺の花嫁」
「……へっ?」
再び、間の抜けた声が出る。
「さっそくですが、離縁の件は撤回していただけますか?」
どこかで聞いたようなフレーズだ。ふと、彩葉は離縁を申し出た日のことを思い出す。
意趣返しをされたのだと気付き、彩葉は思わず苦笑した。まっすぐに楊を見つめ返し、言う。
「はい。離縁はいたしません」
頷いた彩葉の唇に、楊は素早く口づけをした。
甘い水音に、彩葉は耳まで真っ赤に染めて、楊を見上げる。
「よ……楊さま!?」
「誓いの口づけだよ」
楊は涼しい顔をして、言った。
「そんな、いきなり……!」
「できれば、彩葉さんからも誓いの口づけがほしいんだけどな」
「わっ……私からですか!?」
「さんざん振り回されたからな。それくらいの誠意は見せて頂いてもバチは当たらないんじゃないか?」
「そっ……それはそうなんですけど……」
わたわたとする彩葉を、楊は優しい眼差しで見つめる。
「冗談だよ」
そう言って、楊はもう一度、最愛の花嫁に口づけをした。