「遅くなってごめーん。ようやく開放されたよ……」
「おつかれさま……大変な仕事でも頼まれてたの?」

 部室にやってくるなりうなだれた汐見さんに労いの言葉をかけ、そう尋ねてみる。

「そういうわけじゃないんだけどねー。印刷する資料がひたすら多くて。うちの担任、クラス委員長を自分の助手か何かだと思ってるんじゃないかな」

 深いため息をつく彼女をなだめてから、近くの席に座るよう促す。

「ありがとー。ここがイラスト部の部室なんだね。なんか変わってて面白い」

 椅子に腰掛けながら、汐見さんは室内を見渡していた。
 高さを揃えずに寄せ集められた机もそうだけど、窓際の棚に詰め込まれた画材に興味津々といった様子だ。
 そんな彼女を、雨宮部長はまじまじと見ていた。
 それこそ、下手したら鼻と鼻がぶつかってしまいそうな距離で。相変わらず他人との距離が近い。

「ふむふむ、この子がそうなんだね。やっぱりかわいいよ。当たりだよ。話す時にちょこっと見える八重歯とか、チャームポイントだと思う」

 何が当たりなのかよくわからないが、汐見さんがいる手前、部長の発言に反応するわけにはいかない。

「それでイラスト部って、どんな活動するの?」
「基本的にいつ来て、いつ帰ってもいい、まったりな部活だよ。まだ同好会だし、人を集めないことには話にならないしさ」

 あらかじめ部長と打ち合わせていた内容を汐見さんに説明する。
 個人的に調べてみたところ、現在のイラスト部は同好会に引き下げられていて、部員不在で休部状態だった。

「言われてみれば、イラスト部って入学式の部活紹介にも出てなかったもんねぇ……じゃあ、入部テストとかもない?」
「特にないよ。さっきも言ったけど、まずは部員を集めないといけないしさ」
「選り好みしてる場合じゃない……ってこと? 同じ絵を描く部活でも、そこは美術部とは違うんだね」
「え、美術部って入部テストあるの?」
「そうらしいよー。あくまで噂だけどね」

 思わず尋ねてみると、そんな答えが返ってきた。

「そうなんだ……つくづく、俺には縁のない部活だったのかも」
「どういうこと?」

 思わず口をついて出た言葉に、汐見さんが反応した。
 特段隠すようなことでもないので、俺は自分と美術部の間に起こった出来事について、彼女に話して聞かせた。

「そんな悲劇が……それでイラスト部を復活させようと?」
「まあそんな感じ」
「一年生なのに偉いねー。つまり内川君が部長さんなわけでしょ?」
「いや、この部は別に部長がいるんだよ。俺はあくまで、部長代理だからさ」
「そうなの?」
「うん。いるにはいるんだけど……その、幽霊部長なんだ」
「なにそれ、幽霊部員的な? それって大丈夫なの?」
「えー、あー、大丈夫。俺が全部代わりにやるから」

 隣に座る部長へ視線を送ると、彼女は超絶笑顔でサムズアップしていた。どうやら俺に絶大な信頼を寄せてくれているらしい。

「じゃあ、このポスターを描いたのは内川君? それとも部長さん?」

 そんなことを考えていた矢先、汐見さんが机の上のポスターに気づく。
 先日廊下から持ってきて置きっぱなしにしていた、例の部活勧誘のポスターだ。

「それは部長が描いたんだよ」
「へー、すごく上手いよねー」
「いやー、それほどでもー」

 描いた本人が目の前にいるとはつゆ知らず、汐見さんはポスターをしげしげと見ながら、そんな感想を口にしていた。
 それに倣って、俺も改めてポスターを見てみる。
 中央にうちの制服を着た男女が笑顔で並び立っていて、その背後にインクや雲形定規といった画材が配置されている。
 描かれた人物はどちらも生き生きとしていて、今にも動き出しそうだった。
 ……すごく上手だ。これを、部長が描いたのか。

「何かね? 私がこの絵を描いたのが信じられないという顔だよ?」

 思わず部長に視線を送ると、腰に手を当てた彼女からジト目で睨み返された。俺は慌てて視線をそらす。

「本当に失礼だよねー。ほのかっちー」

 頬杖をつきながら汐見さんに言葉を投げかけるも、彼女の耳には届いていないようだった。
 神社の娘さんとはいえ、部長の存在を認識することはできないんだろうか。

「むー、全然気づいてくれない。こうなったら、もっと積極的に触れ合うべきか」

 部長はそう言いながら席を立つと、すたすたと汐見さんの背後に回り込む。

「ほのかっちー、ホントは聞こえてたりしないー?」
「ひいっ」

 そして汐見さんの耳元でそう呟くと、彼女は涙目になりながら小さく叫んだ。

「な、なんかぞくっとした」

 そう言って、自身の体を抱きながらおそるおそる振り返る。
 位置的に部長と完全に目が合ったはずだけど、気づいている様子はなかった。それでも、何かしらの気配は感じているみたいだ。

「えーい! これで気づけー!」

 そう考えていた矢先、雨宮部長は汐見さんの髪を結っていたリボンを勢いよく解いた。

「へっ? うそ、リボン切れた?」

 突如として広がった自分の髪を両手で押さえながら、汐見さんは焦った顔で周囲を見渡す。
 やがて床に落ちたリボンを見つけると、急いでそれを拾って確かめる。

「よかったー。切れてない。結びが甘かったのかな。焦ったー」

 続いてそう安堵の声を漏らし、彼女は慣れた手つきでリボンを結んでいく。

「……ちょっと部長、イタズラしちゃダメですよ」

 その隙を見て、俺は小声で部長に話しかける。

「ごめんごめん。でも、ほのかっちはほんの少しだけど私の存在を感じてくれている気がする」
「それはいいですけど、怖がられて入部拒否されても知りませんからね」

 部長はニコニコ顔で席に戻ってくるも、俺はため息まじりにそう言ったのだった。

「ところで内川君、入部届ってどこ?」
「入部届? えーっと」

 ややあって、髪を結い終わった汐見さんがそう聞いてくるも、俺には置き場所がわからなかった。

「この机の、一番上の引き出し」

 その時、部長が自分の机を指し示しながら教えてくれる。俺はその引き出しを開けて、中から一枚の書類を取り出す。

「汐見さん、今更だけど、本当に入ってくれるの?」
「いいよいいよ。人足りないんでしょ? 文化部は掛け持ちできるし……あ、幽霊部員にはならないから安心して」

 笑顔で書類を受け取ると、ペンを取り出して記入していく。そのペンには猫の模様が入っていた。

「掛け持ちできる……って、ほのかっち、何か部活入ってるの?」
「汐見さん、何か部活やってるの?」
「一応、料理部……なんだよね。へたっぴだけど」

 部長の言葉を代弁すると、汐見さんは恥ずかしそうに頬をかき、視線をそらした。
 クラス委員長の仕事もやりながら、料理部にも所属してるなんて。なかなかに大変そうだ。

「でも、料理部も毎日あるわけじゃないから大丈夫だよ……ほい。これでいいのかな?」

 会話をしながらも、彼女は入部届を書き上げる。
 雨宮部長と一緒に中身をチェックするも、特に問題はなさそうだった。

「ほのかっち、ありがとう! 部長として、歓迎するよ!」
「え?」

 部長が満面の笑みを浮かべながらお礼を言うと、汐見さんは一瞬反応し、キョロキョロと周囲を見渡す。

「どうしたの?」
「う、ううん。なんでもない。とにかく、これからよろしくね。内川君」

 彼女はそう言いながら、右手を差し出してきた。

「こちらこそよろしく、汐見さん」

 俺もそれに応え、しっかりと握手を交わす。

「よろしく、ほのかっち」

 そんな俺たちの手の上に、雨宮部長の手がそっと重ねられたのだった。