「――キミ、私が見えるの!?」

 少女の第一声がそれだった。

 教室に一人佇んでいた女の子が気になり、なんとなく声をかけた。きっかけは些細なものだ。

「え、ええ。見えますけど」
「本当に見えるんだ! 嬉しい!」

 近づいてきた彼女は俺の手を取ると、ショートボブの髪を左右に揺らしながら満面の笑みを向けてくる。

「あの、イラスト部ってここですか? 入部希望なんですけど」
「うう……苦節三年、長かった……やっと私を見える人が現れた……!」

 握った手をぶんぶんと振りながら、彼女は涙ながらに言う。俺の話なんて聞いちゃいない。

「状況が飲み込めないんですけど。見える……って、どういうことです?」
「私、こうみえて幽霊なの!」
「ゆ、幽霊?」

 思わず聞き返し、目の前の少女の全身に目を向ける。
 大きなマリンブルーの瞳は生命力に満ち溢れ、唇はきれいなピンク色だ。肌も血色がよく、俺の手を握るその手は温かくて柔らかい。
 真っ白い肌に冷たい手……という、俺の知る幽霊のイメージとは程遠い。正直言って、美少女だ。

「……あんまり見つめられたら、恥ずかしいかな」
「あ、す、すみません」

 わずかに頬を赤らめながら言われ、思わず視線をそらす。

「と、ところで、幽霊さんはどうしてこんな場所に? ここ、イラスト部の部室ですよね?」
「そうだよー。私、イラスト部の幽霊部長なの」

 俺の手を離してから、彼女は教室を見渡す。
 長い間使われていないのか、床や机、乱雑に積まれた画材には、どれも埃が積もっている。
 現状、絵の具の匂いより、カビ臭さのほうが勝っているような気さえした。

「幽霊部員という言葉は聞いたことがありますが、幽霊部長って?」
「そのままの意味だよー。部長さんなんだけど、幽霊なの。絶賛部員募集中」

 自称幽霊部長さんはそう口にしながら、近くの机に触れる。
 その動作は生きている人のそれと全く同じだったけど、一切埃が舞うことはなかった。

「でも、たぶん今はイラスト同好会に格下げされてると思うんだよねぇ……もう長いこと人が来た記憶ないしさ」

 その動作にわずかな違和感を覚えていると、今度はこめかみに手を当てて、ぶつぶつと何か言っていた。

「なにはともあれ、キミは久しぶりの入部希望者というわけです! では、名前をどうぞ!」

 彼女は悩んでいたかと思うと、ぱっと顔を上げ、マイクを向けるような仕草をした。

「お、俺ですか? 内川護(うちかわ まもる)です」
「内川くん……ね。よし、覚えたぞっ」

 自身の胸に手を当てながら、うんうんと頷いている。
 よくわからないが、覚えられてしまったようだ。

「それじゃあ、改めて……内川くん、イラスト部(仮)へようこそ! 幽霊部長の雨宮(あまみや)みやこが歓迎しよう!」

 そして彼女は俺を真正面から見つめ、幽霊とは思えない眩しい笑顔を向けてきた。
 それが俺と幽霊部長――雨宮みやこさんとの出会いだった。

 ◇

 そんな雨宮部長と出会ってすぐ、俺は面談を受けることになった。
 勧められるがまま近くの椅子に腰を下ろすと、彼女も自分の椅子を運んできて、俺の対面に座る。
 幽霊でも、物を動かしたりはできるみたいだ。

「それでそれで、内川くんはどうしてイラスト部に入ろうと思ったのかな?」

 続いて思いっきり前のめりになりながら、彼女は瞳を輝かせる。
 めちゃくちゃ近い。それこそ、吐息まで感じられそうなくらいだ。いや、実際に感じる。

「それが……これには深い事情がありまして」
「ほうほう。詳細を話したまえ」
「だから近いっす」

 声を弾ませる雨宮部長を押し返して、俺はここに来るまでの経緯を話して聞かせる。

「俺、元々は美術部に入りたかったんですよ」
「イラスト部じゃなくて?」
「そうです。だけど美術部には美術科の生徒じゃないと入れないと言われまして」
「あー、そんな暗黙のルールがあったような……じゃあ、内川くんは美術科じゃないんだ」
「普通科です。そもそも、美術科は中学ん時にコンクールで賞でも取っとかないと、受験資格すらないじゃないですか」
「そうだけど……絵が上手なら学科関係なく入部させてくれそうだけど。ポートフォリオとか持っていかなかったの?」

 ポートフォリオとは、いわゆる作品集のことだ。

「もちろん持っていきましたよ。美術部の部長は俺の絵を褒めてくれましたし、入部にも前向きでした。最初は」
「最初は?」
「そうです。俺の学科を聞いたとたん、態度を豹変させて……理不尽に散々罵倒された挙げ句、絵もこの通り」

 俺はうなだれながら言って、鞄から無惨な姿になった絵を取り出す。

「うっわ……せっかく上手に描けてるのに、破るなんてひどい。私も絵を描くの好きだし、気持ちはわかるよ。辛かったね」

 一度開いた絵をそっと閉じてから、雨宮部長は俺の手を握ってくれる。じんわりとしたぬくもりに包まれ、どこか安心する。

「それで意気消沈して部活棟を歩いていたら、廊下にイラスト部のポスターを見つけまして。この際、絵を描けるならイラスト部でも……と、教室を覗いたところ、部長がいたわけです」
「なるほどなるほど。となると、これは運命だよ。内川くん」
「はい?」
「私、ずっとイラスト部を復活させたいと思ってたんだけど……ご覧の通り幽霊だから、誰からも気づいてもらえなくて。ほとんど諦めかけてたんだ」

 俺の手を離し、席に戻った彼女は両手を広げながら言う。
 ご覧の通りと言われても、どう見ても普通の女子校生にしか見えないのだけど。

「そしたら今日、私を見ることができる内川くんがやってきた。三年前に、私が作ったポスターを見てね。これはもう、運命以外の何物でもないよ!」

 その大きな瞳を輝かせながら、彼女は言う。

「う、運命だなんて大袈裟な……それより、雨宮部長って本当に幽霊なんですか?」
「むー? 信じてないのかね?」
「だって触れますし、会話もできます。ちゃんと足もあるし、とても幽霊には見えません。どこからどう見ても、かわいい女の子ですよ」
「か、かわいい……だなんて」

 俺の言葉を聞いた部長は両頬を押さえて赤面する。しまった、つい口が滑った。
 でも、部長は本当にかわいいと思う。数日前に入学したばかりの俺が言うのもなんだけど、学校でも上位に入るんじゃないだろうか。

「こ、こほん。確かに触れられるし、話もできるけど、それは内川くんが特別なの。これは信じてほしい」

 再び俺の手を取ってくる。しっかりとしたぬくもりが伝わってきて、ますます疑う気持ちが強くなる。
 第一、生まれてこのかた、幽霊なんて見たことがない。そんな俺の前にこんなかわいい幽霊が都合よく現れるはずが……。

「……なんだ? お前、こんなとこで何してる」

 その時、開けっ放しになっていた入口から一人の教師が顔を覗かせた。

「え、いやその……」
「空き教室で一人黄昏れるのもいいが、下校時間までには帰れよー」

 ため息まじりに教師は言うと、うろたえる俺を気にすることなく去っていった。
 その背中を見送りながら、俺は妙な引っ掛かりを覚える。

「今、一人って言われたけど……先生には部長の姿が見えてなかった?」
「そういうこと。信じてくれた?」

 目を細めて、勝ち誇った笑みを向けてくる。
 彼女は俺の目の前にいるわけだし、教師が気づかないはずがない。信じるしかなかった。

「それじゃ、疑いも晴れたところで……最終確認。内川くん、本当にイラスト部に入る気はある?」

 俺の手を握ったまま、雨宮部長は真剣な顔で訊いてくる。

「美術部の代わりじゃなくて、イラスト部で頑張ってくれる?」
「……そうですね。絵を描くのは好きですし、頑張らせてもらうつもりです」
「わかった。それじゃ、キミを部長代理に任命しよう!」

 俺の答えに納得がいったのか、雨宮部長は満足げに頷きながらそう口にした。

「あ、あの、部長代理ってどういうことです? 俺、まだ一年なんですけど」
「幽霊の私は他の人に見えないからね。そんな私に代わって、内川くんが新たに部員を集めて、イラスト部を復活させるんだよ!」

 鼻がぶつかりそうな距離まで近づきながら、よく通る声で言う。

「いやいや、俺には無理ですよ。今まで転校ばかりで、友達もいないんですから。いきなり部員を集めろだなんて」
「何事も挑戦だよ。それに、美術部の部長さんに自分の絵を破られた時、悔しかったよね?」
「そ、それはもちろんですが」
「なら、内川くんの絵に対する情熱は本物ってことだよ! きっと大丈夫! 私もサポートするから!」

 一年の俺が、部長代理……? あまりに突拍子のない話だけど、彼女は本気のようだった。

「わ、わかりました。よろしくお願いします」

 結局、俺はそんな彼女の勢いに負け、その提案を了承する。

「こちらこそよろしくね! じゃあ明日から、放課後は必ずこの部室に来るように!」

 満足そうに言って、彼女は天使のような笑顔を向けてくる。
 それを見ていると、これまで感じたことのない感情と安堵感が胸の内に広がっていく。

 ――学校生活の目標を失っていた俺は、こうして救われたのだった。