夏が来た。
来たと言っても、季節に明確な区切りがあるわけではない。なんとなく暑いなと思って、なんとなく半袖を着る日が多くなり、なんとなく日焼け止めや汗拭きシートを使う機会が増えたと思ったら、もう夏がわたしを取り囲んでいる。日本人たるもの、どの季節も同じように愛でるべし。そう思わないこともないけれど、やはり度を越した暑さはすきになれない。加えて、大学生にはテストがある。いやだ。いやすぎる。
「祇園祭、行こうよ」
宵山を数日後に控えたある日の午後。食堂で、みっちゃんからそんな誘いを受けた。冷房がきいているはずなのに、アイスティーの氷が瞬く間に溶けていく。
京都を代表する祭・祇園祭。7月から丸々1ヶ月かけて行われ、15日・16日の宵々山・宵山では、さまざまな露店が立ち並ぶ。1回生の時にみっちゃんと行ったことがあるが、あまりの人の多さに辟易し、たこ焼きだけ買ってすぐに退散した思い出がある。
「いいけど、テストは大丈夫?」
「今回はレポートが多いし、去年より余裕あるもん。琴子だってそうでしょ」
「そうだけど」
「何そのノリ。めずらしい」
わたしはアイスティーのストローをちゅーちゅー吸った。さっき買ったばかりなのに、すでにぬるくなっている。窓の外が暑さで歪んでいるような気もする。
「だって前に行った時、人混みで息ができなかったんだもん。それに、暑いし」
「琴子、間崎教授に似てきたね」
みっちゃんが頬杖をついてわたしを見る。たぶん、褒められてはいない。
「確かに人混みはしんどいけどさぁ、年に1回は浴衣着たいじゃん? それに、琴子が興味ありそうなやつ見つけたんだ」
ほら、とみっちゃんが携帯電話の画面を見せてきた。そこには「石見神楽」という文字と、鬼のような面をつけた人が舞台上で舞っている写真があった。
「これ、何? 何て読むの?」
「『いわみかぐら』って読むらしい。16日に八坂神社で行われるんだってさ。写真映えしそうじゃない?」
確かに、迫力がある写真が撮れそうだ。そういえば去年、間崎教授に「京都にいるうちに、狂言や能も見ておきなさい」と言われたっけ。伝統芸能に触れたいと思いつつ、結局今までその機会もなかった。
「分かった、行こう。チョコバナナ食べたくなってきた」
「結局食べ物優先かぁ」
みっちゃんがひとりごとのようにつぶやく。最近は暑さにやられて引きこもりがちだったが、出かける予定が一つできた。石見神楽の写真を教授に見せたら、きっと喜んでくれるに違いない。気合いを入れるように、残りのアイスティーを一気に飲み干した。
宵山当日。去年と同様浴衣の着付けをするために、みっちゃんがわたしの部屋にやってきた。
「別に、わたしまで着なくてもいいのに」
「今着なくていつ着るの。若さは有限なんだぞ」
みっちゃんは慣れた手つきでわたしに浴衣を着せていく。去年はメイクもやってもらったが、今年はすでに自分で済ませた。少しは女子力が上がった気がする。
石見神楽が始まるにはまだ時間があるが、少し早めに家を出た。案の定、祇園に向かうバスはぎゅうぎゅうで、八坂神社に着く頃には首筋にしっとりと汗が滲んだ。西楼門から四条通を振り返ると、人が溢れて道路が見えない。なんとかチョコバナナとラムネを買い、境内をちょこちょこと小鳥のように歩いていく。
石見神楽が行われる舞台前には、すでに多くの人が待機していた。1回生の時、吉田神社で行われた火炉祭を思い出す。あの時も、開始の2時間前から並んでいる人がたくさんいた。
「あれ、間崎教授じゃない?」
みっちゃんが指差した方向を見ると、人混みの中に見知った横顔を発見した。
「おーい、間崎教授ー!」
わたしが一歩踏み出す前に、みっちゃんが大きな声で叫んだ。教授はみっちゃんを見て、それから後方にいるわたしを見ると、「やあ」とよそゆきの笑みを浮かべた。
「すっごい偶然! ひょっとして、石見神楽が目当てですか?」
「ああ。久しぶりに見ておこうと思って。君たちも?」
「そうです。琴子のカメラでばっちり撮影しようと思って」
わたしは食べかけのチョコバナナを手に持ったまま、すらすらと会話をしているふたりを眺めた。少し前まで「間崎教授には話しかけづらい」と言っていたのに。いつの間に仲良くなったんだろう。
「見てくださいよ。浴衣、似合ってるでしょ」
みっちゃんがわたしと腕を組み、蝶のようにひらひらと揺れた。教授はわたしたちを交互に眺めた。
「馬子にも衣装、というやつだな」
「だって。よかったね、琴子」
「みっちゃん、それ褒められてないよ……」
わたしは顔に垂れ下がった髪を耳にかけた。
こんなことなら、誕生日に教授からもらったかんざしをつけてくればよかった。でもあれは桜を模したものだし、季節が少しずれてしまう。それにあのかんざしは、まだわたしには早すぎるような気がした。単に歳を重ねるだけでなく、本当の意味で成長したその時まで、大事に取っておきたかった。
わたしたちはそのまま教授の隣に留まり、石見神楽が始まるのを待つことにした。時間が近づくにつれ、観客の数はますます増えていく。
「石見神楽ってこんなに人気なんですね。全然知らなかったなぁ」
チョコバナナを食べ終え、ラムネも最後の一滴を飲み干し、手持ち無沙汰になってつぶやいた。
「あたしも。写真はちらっと見たけど、どんな感じなのか想像つかない」
「何も知らずに見るのがいい。見たら、すぐに分かる」
いつもは饒舌に解説をする教授が、今日はそれだけしか言わなかった。知ってから見るべきものと、知らずに見るべきもの。きっとどちらも、同じくらい大切なのだ。
18時半になった。最初に簡単な挨拶と説明があったのち、「塵輪」という演目が始まった。笛が高らかに響き、太鼓の音がリズムを刻み始める。
「塵輪」のあらすじはこうだ。帯中津日子(たらしなかつひこ)、のちの仲哀(ちゅうあい)天皇が、日本に攻めてきた数万騎の軍勢を迎え撃つことになった。その中には翼があり、黒雲に乗って飛び回る悪鬼「塵輪」がいる。そのことを聞いた帯中津日子は、高麻呂を従えて討伐に向かう。彼は天鹿児弓(あめのかごゆみ)と天羽々矢(あめのはばや)を使い、激戦の末退治するのであった。
きらびやかな衣装をまとった出演者たちが、音楽に合わせて所狭しと踊っている。時折「えいさー」というかけ声が上がり、演者だけでなく観客の士気も高めていく。
「塵輪」が終わると、続けざまに「天神」という演目が始まった。こちらは菅原道真が主役の物語で、自身を左遷させた藤原時平との戦いが描かれている。激しい刀での立ち会い、早着替え、火花を使った演出もあり、シャッターを切る手がとまらなかった。
「続いては、石見神楽の人気演目『大蛇』です」
アナウンスを聞いた教授が、「琴子さん」と小さな声で話しかけてきた。
「写真、ちゃんと撮れてる?」
「撮れてますよ、もちろん」
「これからも、しっかり撮って」
「そりゃ撮りますけど……」
何なんですか。そう尋ねても、教授は「とにかく、すごいから」としか言わない。いつもの語彙力はどこへ行った。突っ込もうとしたが、舞台を見る教授がヒーローショーを見る子供のようだったので、やめておいた。代わりに唇をきゅっと結んで、気合いを入れ直す。
「大蛇」は、古事記や日本書紀にも描かれている須佐之男命(すさのおのみこと)が主役のストーリー。ある日、須佐之男命は娘を次々と大蛇に食べられ困っているという老夫婦に出会う。このままでは末の娘・稲田姫まで食べられてしまうと嘆き悲しむ老夫婦を見て、大蛇の退治を引き受けることにした。まず老夫婦に毒酒を作らせ、これを大蛇が飲んで酔っぱらった隙を見計らい、大蛇を倒す作戦だ。見事大蛇を退治した須佐之男命は、稲田姫と結ばれるのであった。
演目が始まる前に、係の方がストーリーを説明してくれるので、初見のわたしたちでも分かりやすい。
最初に稲田姫と思われる女性が舞っていると、突如赤い大蛇が現れた。その大きさと迫力に、わぁっと歓声が上がる。
「想像してたのより大きい! 何人入ってるの?」
みっちゃんが興奮した声を出す。
「ひとりだよ。ちなみに、大蛇の長さは約17メートル」
教授が舞台に目を向けたまま答えた。あんなに大きい大蛇をたったひとりで動かしているとは驚きだ。一体どんな風に動かしているのか想像もつかない。話が進むにつれ、一頭、また一頭と大蛇が出てきた。舞台の上が合計四頭の大蛇に埋め尽くされている。
「もっと大きな舞台だと、大蛇が八頭出てくる場合もあるんだ」
「八頭! 迫力がすごそうですね……」
四頭だけでもこれだけ迫力があるのだから、倍になったらどうなることだろう。大蛇が炎を吹く演出も相まって、まるでアクション映画を見ているようだ。
大蛇をすべて退治し終えると、観客から嵐のような拍手が起こった。今までより一層長く、大きな拍手だ。
「ものすごい迫力だったね」
「うん、すごい」
みっちゃんの言葉に、わたしはうなずくことしかできなかった。教授が「とにかくすごい」と言っていた意味がようやく分かった。どれだけ詳細に説明をしても、大蛇の迫力は言い表せないだろう。作り物なんてとても思えない。大蛇は確かにそこにいて、呼吸をし、人を食っていた。
「写真を見せてくれないか」
教授が落ち着かない様子で体を揺らしている。
「今回のは自信作です。いけてます」
わたしは早速撮ったばかりの写真を表示させた。四頭の大蛇がずらりと並んでいる様子は、写真に撮っても圧巻だ。
「確かに、いけている」
「うん、かっこいい」
左右からふたりに褒められて、少し気恥ずかしくなった。下駄の先で地面の砂を撫でる。
「おなかすいたね」
みっちゃんの言葉で、ぐんっと現実に引き戻された。いつの間にか日がずいぶん落ち、べたっとした湿気だけがしつこく体にまとわりついている。まだ石見神楽は続くようだが、空腹には逆らえない。
「まだ当分終わらないから、腹ごしらえをしよう」
「もしかして、奢ってくれるんですか?」
「そこら辺の屋台でいいなら」
「やりぃ」
みっちゃんが大きくガッツポーズをする。教授もいつの間にか愛想笑いをやめ、わたしと同様の態度で彼女に接していた。みっちゃんって、こんなにぐいぐい教授に話しかけるタイプだったのか。教授って、こんなに簡単に警戒を解く人間だったのか。役目を終えたカメラをしまい、ふたりのあとを数歩遅れてついていく。
まだまだ祭りが終わる気配はない。人混みを掻き分けて、やっとのことで焼きそばを買ってもらった。円山公園で座れる場所を見つけて、先にみっちゃんと食べ始める。教授は何かを買い足すらしく、なかなかこちらに来る様子がない。
「お祭りで食べる焼きそばって、何でこんなにおいしいんだろう」
「ほんとにね」
みっちゃんの言葉に、わたしは大きくうなずいた。空っぽの胃袋が、熱々の焼きそばで満たされていく。
「教授、まだかなぁ」
足をぶらぶらさせながら、暗闇のはるか先を見つめた。目を凝らしていたら、ちょうどよいタイミングで教授が歩いてくる。よくよく見ると、手にはいちご飴を持っていた。
「ほんと、似合わないですね」
「祭りだから、いいんです」
教授はそう言いながら、わたしの隣に腰かけた。わたしたちに一本ずついちご飴を差し出す。
「普通、焼きそばが先じゃないの」
いちご飴を受け取りながら、みっちゃんが言った。教授の分の焼きそばが、未開封のまま10分以上放置されている。「祭りだから、いいんです」と繰り返す教授から、いちご飴を受け取った。まだ焼きそばを食べ終わっていないので、至極持ちづらい。買ってくれたことはありがたいが、いまいち思いやりが足りていない。
「ふたりとも、こっち向いて」
どう食べようか迷っていると、みっちゃんが携帯電話をわたしたちに向けていた。咄嗟のことに何のポーズも取れないまま、パシャリとシャッター音が鳴る。
「え、ちょ、ちょっと」
何をされたのか理解して、左手にいちご飴、右手に箸を持ったまま、みっちゃんの携帯電話をのぞき込もうとした。膝の上に焼きそばが乗っているせいで、まったく身動きが取れない。
「今日の記念。明るさ調整して、あとで送るね」
みっちゃんは意地悪く笑って、携帯電話をしまった。送らないで、とも言えないし、消して、とも言えない。教授は文句を言う気配もなく、ご機嫌な様子で焼きそばを食べ始めた。
もらったいちご飴をじっと見つめる。3人でこうして過ごすのも、教授とふたりの写真を撮られるのも、なんだかちょっぴり変な感じだ。でも、こんな夜があってもいいのかもしれない。だって、今日は祇園祭だから。そう思いながら、わたしはいちご飴を口に含んだ。
来たと言っても、季節に明確な区切りがあるわけではない。なんとなく暑いなと思って、なんとなく半袖を着る日が多くなり、なんとなく日焼け止めや汗拭きシートを使う機会が増えたと思ったら、もう夏がわたしを取り囲んでいる。日本人たるもの、どの季節も同じように愛でるべし。そう思わないこともないけれど、やはり度を越した暑さはすきになれない。加えて、大学生にはテストがある。いやだ。いやすぎる。
「祇園祭、行こうよ」
宵山を数日後に控えたある日の午後。食堂で、みっちゃんからそんな誘いを受けた。冷房がきいているはずなのに、アイスティーの氷が瞬く間に溶けていく。
京都を代表する祭・祇園祭。7月から丸々1ヶ月かけて行われ、15日・16日の宵々山・宵山では、さまざまな露店が立ち並ぶ。1回生の時にみっちゃんと行ったことがあるが、あまりの人の多さに辟易し、たこ焼きだけ買ってすぐに退散した思い出がある。
「いいけど、テストは大丈夫?」
「今回はレポートが多いし、去年より余裕あるもん。琴子だってそうでしょ」
「そうだけど」
「何そのノリ。めずらしい」
わたしはアイスティーのストローをちゅーちゅー吸った。さっき買ったばかりなのに、すでにぬるくなっている。窓の外が暑さで歪んでいるような気もする。
「だって前に行った時、人混みで息ができなかったんだもん。それに、暑いし」
「琴子、間崎教授に似てきたね」
みっちゃんが頬杖をついてわたしを見る。たぶん、褒められてはいない。
「確かに人混みはしんどいけどさぁ、年に1回は浴衣着たいじゃん? それに、琴子が興味ありそうなやつ見つけたんだ」
ほら、とみっちゃんが携帯電話の画面を見せてきた。そこには「石見神楽」という文字と、鬼のような面をつけた人が舞台上で舞っている写真があった。
「これ、何? 何て読むの?」
「『いわみかぐら』って読むらしい。16日に八坂神社で行われるんだってさ。写真映えしそうじゃない?」
確かに、迫力がある写真が撮れそうだ。そういえば去年、間崎教授に「京都にいるうちに、狂言や能も見ておきなさい」と言われたっけ。伝統芸能に触れたいと思いつつ、結局今までその機会もなかった。
「分かった、行こう。チョコバナナ食べたくなってきた」
「結局食べ物優先かぁ」
みっちゃんがひとりごとのようにつぶやく。最近は暑さにやられて引きこもりがちだったが、出かける予定が一つできた。石見神楽の写真を教授に見せたら、きっと喜んでくれるに違いない。気合いを入れるように、残りのアイスティーを一気に飲み干した。
宵山当日。去年と同様浴衣の着付けをするために、みっちゃんがわたしの部屋にやってきた。
「別に、わたしまで着なくてもいいのに」
「今着なくていつ着るの。若さは有限なんだぞ」
みっちゃんは慣れた手つきでわたしに浴衣を着せていく。去年はメイクもやってもらったが、今年はすでに自分で済ませた。少しは女子力が上がった気がする。
石見神楽が始まるにはまだ時間があるが、少し早めに家を出た。案の定、祇園に向かうバスはぎゅうぎゅうで、八坂神社に着く頃には首筋にしっとりと汗が滲んだ。西楼門から四条通を振り返ると、人が溢れて道路が見えない。なんとかチョコバナナとラムネを買い、境内をちょこちょこと小鳥のように歩いていく。
石見神楽が行われる舞台前には、すでに多くの人が待機していた。1回生の時、吉田神社で行われた火炉祭を思い出す。あの時も、開始の2時間前から並んでいる人がたくさんいた。
「あれ、間崎教授じゃない?」
みっちゃんが指差した方向を見ると、人混みの中に見知った横顔を発見した。
「おーい、間崎教授ー!」
わたしが一歩踏み出す前に、みっちゃんが大きな声で叫んだ。教授はみっちゃんを見て、それから後方にいるわたしを見ると、「やあ」とよそゆきの笑みを浮かべた。
「すっごい偶然! ひょっとして、石見神楽が目当てですか?」
「ああ。久しぶりに見ておこうと思って。君たちも?」
「そうです。琴子のカメラでばっちり撮影しようと思って」
わたしは食べかけのチョコバナナを手に持ったまま、すらすらと会話をしているふたりを眺めた。少し前まで「間崎教授には話しかけづらい」と言っていたのに。いつの間に仲良くなったんだろう。
「見てくださいよ。浴衣、似合ってるでしょ」
みっちゃんがわたしと腕を組み、蝶のようにひらひらと揺れた。教授はわたしたちを交互に眺めた。
「馬子にも衣装、というやつだな」
「だって。よかったね、琴子」
「みっちゃん、それ褒められてないよ……」
わたしは顔に垂れ下がった髪を耳にかけた。
こんなことなら、誕生日に教授からもらったかんざしをつけてくればよかった。でもあれは桜を模したものだし、季節が少しずれてしまう。それにあのかんざしは、まだわたしには早すぎるような気がした。単に歳を重ねるだけでなく、本当の意味で成長したその時まで、大事に取っておきたかった。
わたしたちはそのまま教授の隣に留まり、石見神楽が始まるのを待つことにした。時間が近づくにつれ、観客の数はますます増えていく。
「石見神楽ってこんなに人気なんですね。全然知らなかったなぁ」
チョコバナナを食べ終え、ラムネも最後の一滴を飲み干し、手持ち無沙汰になってつぶやいた。
「あたしも。写真はちらっと見たけど、どんな感じなのか想像つかない」
「何も知らずに見るのがいい。見たら、すぐに分かる」
いつもは饒舌に解説をする教授が、今日はそれだけしか言わなかった。知ってから見るべきものと、知らずに見るべきもの。きっとどちらも、同じくらい大切なのだ。
18時半になった。最初に簡単な挨拶と説明があったのち、「塵輪」という演目が始まった。笛が高らかに響き、太鼓の音がリズムを刻み始める。
「塵輪」のあらすじはこうだ。帯中津日子(たらしなかつひこ)、のちの仲哀(ちゅうあい)天皇が、日本に攻めてきた数万騎の軍勢を迎え撃つことになった。その中には翼があり、黒雲に乗って飛び回る悪鬼「塵輪」がいる。そのことを聞いた帯中津日子は、高麻呂を従えて討伐に向かう。彼は天鹿児弓(あめのかごゆみ)と天羽々矢(あめのはばや)を使い、激戦の末退治するのであった。
きらびやかな衣装をまとった出演者たちが、音楽に合わせて所狭しと踊っている。時折「えいさー」というかけ声が上がり、演者だけでなく観客の士気も高めていく。
「塵輪」が終わると、続けざまに「天神」という演目が始まった。こちらは菅原道真が主役の物語で、自身を左遷させた藤原時平との戦いが描かれている。激しい刀での立ち会い、早着替え、火花を使った演出もあり、シャッターを切る手がとまらなかった。
「続いては、石見神楽の人気演目『大蛇』です」
アナウンスを聞いた教授が、「琴子さん」と小さな声で話しかけてきた。
「写真、ちゃんと撮れてる?」
「撮れてますよ、もちろん」
「これからも、しっかり撮って」
「そりゃ撮りますけど……」
何なんですか。そう尋ねても、教授は「とにかく、すごいから」としか言わない。いつもの語彙力はどこへ行った。突っ込もうとしたが、舞台を見る教授がヒーローショーを見る子供のようだったので、やめておいた。代わりに唇をきゅっと結んで、気合いを入れ直す。
「大蛇」は、古事記や日本書紀にも描かれている須佐之男命(すさのおのみこと)が主役のストーリー。ある日、須佐之男命は娘を次々と大蛇に食べられ困っているという老夫婦に出会う。このままでは末の娘・稲田姫まで食べられてしまうと嘆き悲しむ老夫婦を見て、大蛇の退治を引き受けることにした。まず老夫婦に毒酒を作らせ、これを大蛇が飲んで酔っぱらった隙を見計らい、大蛇を倒す作戦だ。見事大蛇を退治した須佐之男命は、稲田姫と結ばれるのであった。
演目が始まる前に、係の方がストーリーを説明してくれるので、初見のわたしたちでも分かりやすい。
最初に稲田姫と思われる女性が舞っていると、突如赤い大蛇が現れた。その大きさと迫力に、わぁっと歓声が上がる。
「想像してたのより大きい! 何人入ってるの?」
みっちゃんが興奮した声を出す。
「ひとりだよ。ちなみに、大蛇の長さは約17メートル」
教授が舞台に目を向けたまま答えた。あんなに大きい大蛇をたったひとりで動かしているとは驚きだ。一体どんな風に動かしているのか想像もつかない。話が進むにつれ、一頭、また一頭と大蛇が出てきた。舞台の上が合計四頭の大蛇に埋め尽くされている。
「もっと大きな舞台だと、大蛇が八頭出てくる場合もあるんだ」
「八頭! 迫力がすごそうですね……」
四頭だけでもこれだけ迫力があるのだから、倍になったらどうなることだろう。大蛇が炎を吹く演出も相まって、まるでアクション映画を見ているようだ。
大蛇をすべて退治し終えると、観客から嵐のような拍手が起こった。今までより一層長く、大きな拍手だ。
「ものすごい迫力だったね」
「うん、すごい」
みっちゃんの言葉に、わたしはうなずくことしかできなかった。教授が「とにかくすごい」と言っていた意味がようやく分かった。どれだけ詳細に説明をしても、大蛇の迫力は言い表せないだろう。作り物なんてとても思えない。大蛇は確かにそこにいて、呼吸をし、人を食っていた。
「写真を見せてくれないか」
教授が落ち着かない様子で体を揺らしている。
「今回のは自信作です。いけてます」
わたしは早速撮ったばかりの写真を表示させた。四頭の大蛇がずらりと並んでいる様子は、写真に撮っても圧巻だ。
「確かに、いけている」
「うん、かっこいい」
左右からふたりに褒められて、少し気恥ずかしくなった。下駄の先で地面の砂を撫でる。
「おなかすいたね」
みっちゃんの言葉で、ぐんっと現実に引き戻された。いつの間にか日がずいぶん落ち、べたっとした湿気だけがしつこく体にまとわりついている。まだ石見神楽は続くようだが、空腹には逆らえない。
「まだ当分終わらないから、腹ごしらえをしよう」
「もしかして、奢ってくれるんですか?」
「そこら辺の屋台でいいなら」
「やりぃ」
みっちゃんが大きくガッツポーズをする。教授もいつの間にか愛想笑いをやめ、わたしと同様の態度で彼女に接していた。みっちゃんって、こんなにぐいぐい教授に話しかけるタイプだったのか。教授って、こんなに簡単に警戒を解く人間だったのか。役目を終えたカメラをしまい、ふたりのあとを数歩遅れてついていく。
まだまだ祭りが終わる気配はない。人混みを掻き分けて、やっとのことで焼きそばを買ってもらった。円山公園で座れる場所を見つけて、先にみっちゃんと食べ始める。教授は何かを買い足すらしく、なかなかこちらに来る様子がない。
「お祭りで食べる焼きそばって、何でこんなにおいしいんだろう」
「ほんとにね」
みっちゃんの言葉に、わたしは大きくうなずいた。空っぽの胃袋が、熱々の焼きそばで満たされていく。
「教授、まだかなぁ」
足をぶらぶらさせながら、暗闇のはるか先を見つめた。目を凝らしていたら、ちょうどよいタイミングで教授が歩いてくる。よくよく見ると、手にはいちご飴を持っていた。
「ほんと、似合わないですね」
「祭りだから、いいんです」
教授はそう言いながら、わたしの隣に腰かけた。わたしたちに一本ずついちご飴を差し出す。
「普通、焼きそばが先じゃないの」
いちご飴を受け取りながら、みっちゃんが言った。教授の分の焼きそばが、未開封のまま10分以上放置されている。「祭りだから、いいんです」と繰り返す教授から、いちご飴を受け取った。まだ焼きそばを食べ終わっていないので、至極持ちづらい。買ってくれたことはありがたいが、いまいち思いやりが足りていない。
「ふたりとも、こっち向いて」
どう食べようか迷っていると、みっちゃんが携帯電話をわたしたちに向けていた。咄嗟のことに何のポーズも取れないまま、パシャリとシャッター音が鳴る。
「え、ちょ、ちょっと」
何をされたのか理解して、左手にいちご飴、右手に箸を持ったまま、みっちゃんの携帯電話をのぞき込もうとした。膝の上に焼きそばが乗っているせいで、まったく身動きが取れない。
「今日の記念。明るさ調整して、あとで送るね」
みっちゃんは意地悪く笑って、携帯電話をしまった。送らないで、とも言えないし、消して、とも言えない。教授は文句を言う気配もなく、ご機嫌な様子で焼きそばを食べ始めた。
もらったいちご飴をじっと見つめる。3人でこうして過ごすのも、教授とふたりの写真を撮られるのも、なんだかちょっぴり変な感じだ。でも、こんな夜があってもいいのかもしれない。だって、今日は祇園祭だから。そう思いながら、わたしはいちご飴を口に含んだ。