間崎教授の講義が休講になった。どうやら体調不良らしい。最初は仮病かと思ったが、2日後にある別の講義も休みになったので、もしかしたら相当まいっているのかも、なんて心配になった。というのも、日曜日にあじさいを見にいく約束をしていたからだ。メッセージを送ろうか悩んでいたら、教授の方から連絡が来た。風邪が相当長引いている、申し訳ないが日曜の約束はキャンセルで、とのことだった。別に、約束自体はどうでもいい。具体的に場所が決まっていたわけではないし、ひとりで行くことだってできる。
『大丈夫ですか? お大事にしてくださいね』
そう打ったのち、少し考えてから、もう一文つけ足した。
『何か必要なものがあれば言ってください。食料とか、飲み物とか』
学生の分際で差し出がましいかとも思ったが、教授との付き合いも3年目だ。このくらいのお節介はしてもいいだろう。教授はひとり住まいだと聞いているし、援助が不要ならそれでいい。
返事が来たのは翌日で、「ぎおん徳屋のわらび餅」という一言に、住所が添えてあった。どういう容体なのかは分からないが、とにかくわらび餅を買ってこい、ということらしい。
こういう時は普通、ポカリスエットやお粥など、胃に優しいものを頼むべきではないか。それに、ついこの間かざりやのあぶり餅を食べたばかりじゃないか。しかも、疫病退散の神社に行ってすぐ体調を崩すとは何事か。わたしが長年風邪をひいていないことをばかにしたバチがあたったに違いない。
最近、どうやら教授には和菓子ブームが到来しているようだ。つい先日も、教授室に行ったら出町ふたばの豆餅が大量に置いてあった。「来客用だよ」なんて言っていたが、絶対自分で食べるために買ったに違いない。ちなみに三つも分けてもらった。
教授の甘党が徐々に学生にも知れ渡っているのか、「間崎教授のところへ行けばお菓子がもらえる」なんて噂も流れている。ハロウィンでもあるまいし、そんなにほいほいお菓子を配って一体何になるのか。甘いものは脳を活性化させるとか疲れた時のエネルギー補給のためだとかなんとか言っていたが、そんなものは単なる言い訳にすぎない。集中しすぎると食事を忘れることもあるようだから、どうせ栄養バランスの偏りが原因で体調を崩したのだろう。
そんなことをたまたまみっちゃんに話したら、「ぎおん徳屋? 前から行ってみたいと思ってたんだ」とのことだったので、急遽ふたりで行くことにした。
開店してすぐ訪れたにもかかわらず、店内には3組ほど客がいた。幸運にも座敷に案内されたわたしたちは、早速「本わらび餅と本くず餅の合盛り」を頼むことにした。わらび餅は黒蜜ときなこ、くず餅はつぶあんと抹茶きなこにつけて食べるらしい。
「ぷるぷるでおいしい」
口の中に入れたくず餅は、噛むことなくつるりと喉を通った。
「花見小路にこんなお店があったなんて、全然知らなかった」
「琴子ってそういう情報疎いよね。今時、ネットで簡単に調べられるのに」
「あんまりネットとか見ないんだよね、SNSもやってないし。間崎教授が詳しいから、いつも教授に聞いちゃう」
「ふぅん」
いろんなことに詳しいんだね、教授って。みっちゃんにそう言われて、なぜかほんのり嬉しくなった。自分のことではないのに。何でも知っている教授のことが、誇らしくなった。
「そういえば、その後サトウくんとは何もないの」
「ない、全然」
「講義で会ったりしないの」
「会ってもあいさつ程度」
「そっかぁ。やっぱりそうなるかぁ」
みっちゃんが残念そうに天井を仰いだ。自分のことを見透かされているような気がして、「みっちゃんこそ、彼氏とはどうなの」と話題を振った。
「ああ、言ってなかったっけ。別れた」
「別れた? 何で?」
「そこまですきじゃなかった」
「すきだから付き合うんじゃないの?」
「すきになれるかなと思って付き合ってみたけど、やっぱりだめだった」
おいしいねぇ、これ。やっぱり来てよかったよ。みっちゃんはなんてことなさそうにわらび餅を食べている。
「話聞く限り、仲良さそうだなって思ってたけど」
「あたしに執着心がないのがいやだったらしい。釣り合ってなかったの、愛情が。どっちかが重たいと、シーソーみたいに傾いちゃうの」
「大人っぽいこと言うね」
同い年なのに、わたしは彼女のことを何歳も年上のように思う瞬間がある。茶色く染めた髪も、耳につけたピアスも、自分より何倍も上手な化粧も、わたしのはるか先を歩んでいるように思えてならない。
「高校時代だってそうだったでしょ。カップルができてもすぐ別れてたじゃん。興味あるんだよ、告白とかデートとか、少女漫画に描かれてる『恋愛』ってやつに。そんで軽率に付き合って、後々黒歴史になる。何であんなやつと付き合ってたんだろうって、付き合ってた事実を抹消するの」
「今回の彼も、抹消する?」
「いや、それはさすがにかわいそうだけど。抹消したいやつもいる。歴代には」
「わたしは全然分からないなぁ、恋愛とか。今はカメラを優先したいし」
「それはそれでいいと思うよ。あたしは琴子みたいに熱中できるもの、何もないもん。だから軽率に恋人ごっこしちゃう」
「恋人ごっこ」
もしわたしに恋人ができたら、どんな学生生活を送るのだろう。わらび餅を食べながら、そんなことを考えた。もしもサトウくんから告白されて、付き合っていたとしたら。きっと写真を撮りにいく時間も、京都を巡る時間も、今より減っていただろう。それはそれで、普通の大学生らしくていいのかもしれない。おしゃれをして、デートをして、日々の出来事をSNSに投稿する。たとえ別れることになったとしても、残り少ない学生生活に花を添えられたのかもしれない。
みっちゃんと別れたあと、わらび餅を手土産に教授の元へと向かった。地図を見ながら歩いていくと、百万遍と出町柳駅のちょうど中間地点にある、7階建のマンションに行き着いた。高級そうなエントランスに気後れしながら部屋番号を押すと、名乗る前に無言で扉が開いた。7階まで上がり、部屋のドアノブにわらび餅、それと来る途中で買った飲食料が入った袋をかけてその場を去った。
自宅へと戻り携帯電話を見ると、教授からメッセージが届いていた。
『ありがとう。今度またお礼をします』
いつも通り簡素な文だった。わたしは何度もその一文を読み返しながら、ベッドの上で寝返りを打った。初めてのおつかいを褒められた、子供のような気分だった。
恋人がいなくたって、SNSを楽しまなくたっていい。こういう小さな出来事が、わたしの日々を鮮やかに彩る。
『大丈夫ですか? お大事にしてくださいね』
そう打ったのち、少し考えてから、もう一文つけ足した。
『何か必要なものがあれば言ってください。食料とか、飲み物とか』
学生の分際で差し出がましいかとも思ったが、教授との付き合いも3年目だ。このくらいのお節介はしてもいいだろう。教授はひとり住まいだと聞いているし、援助が不要ならそれでいい。
返事が来たのは翌日で、「ぎおん徳屋のわらび餅」という一言に、住所が添えてあった。どういう容体なのかは分からないが、とにかくわらび餅を買ってこい、ということらしい。
こういう時は普通、ポカリスエットやお粥など、胃に優しいものを頼むべきではないか。それに、ついこの間かざりやのあぶり餅を食べたばかりじゃないか。しかも、疫病退散の神社に行ってすぐ体調を崩すとは何事か。わたしが長年風邪をひいていないことをばかにしたバチがあたったに違いない。
最近、どうやら教授には和菓子ブームが到来しているようだ。つい先日も、教授室に行ったら出町ふたばの豆餅が大量に置いてあった。「来客用だよ」なんて言っていたが、絶対自分で食べるために買ったに違いない。ちなみに三つも分けてもらった。
教授の甘党が徐々に学生にも知れ渡っているのか、「間崎教授のところへ行けばお菓子がもらえる」なんて噂も流れている。ハロウィンでもあるまいし、そんなにほいほいお菓子を配って一体何になるのか。甘いものは脳を活性化させるとか疲れた時のエネルギー補給のためだとかなんとか言っていたが、そんなものは単なる言い訳にすぎない。集中しすぎると食事を忘れることもあるようだから、どうせ栄養バランスの偏りが原因で体調を崩したのだろう。
そんなことをたまたまみっちゃんに話したら、「ぎおん徳屋? 前から行ってみたいと思ってたんだ」とのことだったので、急遽ふたりで行くことにした。
開店してすぐ訪れたにもかかわらず、店内には3組ほど客がいた。幸運にも座敷に案内されたわたしたちは、早速「本わらび餅と本くず餅の合盛り」を頼むことにした。わらび餅は黒蜜ときなこ、くず餅はつぶあんと抹茶きなこにつけて食べるらしい。
「ぷるぷるでおいしい」
口の中に入れたくず餅は、噛むことなくつるりと喉を通った。
「花見小路にこんなお店があったなんて、全然知らなかった」
「琴子ってそういう情報疎いよね。今時、ネットで簡単に調べられるのに」
「あんまりネットとか見ないんだよね、SNSもやってないし。間崎教授が詳しいから、いつも教授に聞いちゃう」
「ふぅん」
いろんなことに詳しいんだね、教授って。みっちゃんにそう言われて、なぜかほんのり嬉しくなった。自分のことではないのに。何でも知っている教授のことが、誇らしくなった。
「そういえば、その後サトウくんとは何もないの」
「ない、全然」
「講義で会ったりしないの」
「会ってもあいさつ程度」
「そっかぁ。やっぱりそうなるかぁ」
みっちゃんが残念そうに天井を仰いだ。自分のことを見透かされているような気がして、「みっちゃんこそ、彼氏とはどうなの」と話題を振った。
「ああ、言ってなかったっけ。別れた」
「別れた? 何で?」
「そこまですきじゃなかった」
「すきだから付き合うんじゃないの?」
「すきになれるかなと思って付き合ってみたけど、やっぱりだめだった」
おいしいねぇ、これ。やっぱり来てよかったよ。みっちゃんはなんてことなさそうにわらび餅を食べている。
「話聞く限り、仲良さそうだなって思ってたけど」
「あたしに執着心がないのがいやだったらしい。釣り合ってなかったの、愛情が。どっちかが重たいと、シーソーみたいに傾いちゃうの」
「大人っぽいこと言うね」
同い年なのに、わたしは彼女のことを何歳も年上のように思う瞬間がある。茶色く染めた髪も、耳につけたピアスも、自分より何倍も上手な化粧も、わたしのはるか先を歩んでいるように思えてならない。
「高校時代だってそうだったでしょ。カップルができてもすぐ別れてたじゃん。興味あるんだよ、告白とかデートとか、少女漫画に描かれてる『恋愛』ってやつに。そんで軽率に付き合って、後々黒歴史になる。何であんなやつと付き合ってたんだろうって、付き合ってた事実を抹消するの」
「今回の彼も、抹消する?」
「いや、それはさすがにかわいそうだけど。抹消したいやつもいる。歴代には」
「わたしは全然分からないなぁ、恋愛とか。今はカメラを優先したいし」
「それはそれでいいと思うよ。あたしは琴子みたいに熱中できるもの、何もないもん。だから軽率に恋人ごっこしちゃう」
「恋人ごっこ」
もしわたしに恋人ができたら、どんな学生生活を送るのだろう。わらび餅を食べながら、そんなことを考えた。もしもサトウくんから告白されて、付き合っていたとしたら。きっと写真を撮りにいく時間も、京都を巡る時間も、今より減っていただろう。それはそれで、普通の大学生らしくていいのかもしれない。おしゃれをして、デートをして、日々の出来事をSNSに投稿する。たとえ別れることになったとしても、残り少ない学生生活に花を添えられたのかもしれない。
みっちゃんと別れたあと、わらび餅を手土産に教授の元へと向かった。地図を見ながら歩いていくと、百万遍と出町柳駅のちょうど中間地点にある、7階建のマンションに行き着いた。高級そうなエントランスに気後れしながら部屋番号を押すと、名乗る前に無言で扉が開いた。7階まで上がり、部屋のドアノブにわらび餅、それと来る途中で買った飲食料が入った袋をかけてその場を去った。
自宅へと戻り携帯電話を見ると、教授からメッセージが届いていた。
『ありがとう。今度またお礼をします』
いつも通り簡素な文だった。わたしは何度もその一文を読み返しながら、ベッドの上で寝返りを打った。初めてのおつかいを褒められた、子供のような気分だった。
恋人がいなくたって、SNSを楽しまなくたっていい。こういう小さな出来事が、わたしの日々を鮮やかに彩る。