宝泉院を出たあとのことは、よく覚えていない。昼食を取り、バスに乗って大原を去った。必要最低限の言葉を交わし、わたしたちは別れた。晴れていた空が突然どしゃぶりになるように、心の色は行きと帰りでがらりと変わってしまった。撮影した写真を間崎教授に送ると、「ありがとう」とだけ返事が来た。それ以来、連絡は取っていない。
 
かすかに春が香り始める頃、久しぶりにみっちゃんからメッセージが来た。海外旅行に行ってきたから、土産を渡したいという。

春休みということもあり、大学のキャンパスは閑散としていた。制服姿の高校生を見かけ、今週末が大学入試だということに気づいた。受験生が下見に来ているのだろう。大して年齢は変わらないのに、彼らの顔つきはどこか幼い。10代と20代、高校生と大学生。身にまとっている服で、肩書きで、こんなにも差が出るものだろうか。高校生の頃と比べたら、わたしも少しは変わったのかもしれない。

時計台の下にあるカフェに入ると、先に到着していたみっちゃんが「よっ」と手を上げた。金色だった髪が、落ち着いた黒色に変わっている。心にすきま風が吹いた。どれだけ目を逸らしても、いやおうなく未来はやってくる。

「はい、お土産」

チャイティーを買って席に着くと、みっちゃんが手提げ袋を差し出した。

「ありがとう。お菓子?」

「カリソンっていうの。『幸せのお菓子』ともいわれてるんだよ」

「初めて知った。フランス旅行、どうだった?」

「すっごいよかったよ。もうね、日本と全然違うの。写真見る?」

みっちゃんはそう言うと、携帯電話の画面をわたしに見せた。

「行きたいところがありすぎて、全然時間足りなかった。これ、エッフェル塔ね。もっとおしゃれに撮ればよかった。変なポーズしちゃった」

「楽しそう」

日本の風景とはまったく違う、テレビや雑誌でしか見たことのない街並みが広がっている。帰ってきたばっかりだけど、もう一回行きたいなぁ。みっちゃんは思い出に浸るように頬杖をついた。

「琴子は? 間崎教授と大原行ったんでしょ。どうだった?」

「ああ、うん」

急に話題を振られ、思わず口ごもった。楽しくなかったわけではない。でも、楽しかったと言えば嘘になる。

ためらいながらも、大原での出来事をみっちゃんに話した。大学院に進もうとしていると教授に言ったこと。それを教授に反対されたこと。

話し終えると、みっちゃんは「そっかぁ」と一言だけ言った。わたしもそれ以上何も言えず、黙ってチャイティーを飲んだ。スパイスがぴりりと舌を刺激する。

「ちょっと出かけない? 寒いけど」

え、と聞き返す。みっちゃんが「行こ行こ」と立ち上がった。強風に背中を押されるように、わたしはみっちゃんのあとに続いた。





梅が咲き始める時期とはいえ、まだまだ冬の気配が色濃く残っている。光の届かない場所を歩いていると、凍てつくような痛みが頬に走る。細い針で何度も同じところをつつかれているような、些細な、だけどいやな痛みだ。教授と大原に行ってから、ずっとそれを感じている。

「早くあったかくならないかなぁ」

三条大橋を渡りながら、みっちゃんが言った。

「来月末にお母さんがこっち来るんだけどさ、おすすめの場所ない? 桜見にいきたいんだって」

「桜かぁ。王道がいいなら、平安神宮とか随心院とか。あとは、ちょっと遠いけど原谷苑もよかったよ。いろんな花が咲いていてきれいだった」

「さすが、詳しいねぇ」

鴨川にちらりと目をやった。立ち並ぶ木々はまだ蕾をつける様子はなく、土と同じ色をしている。今はまださみしい風景かもしれない。でも、知っている。あと一ヶ月もすれば、川の両端が桃色で埋め尽くされると。今のわたしは、知っている。

着いたよ。みっちゃんの言葉で、わたしは足をとめた。

「ここのはちみつ、おいしいんだ」

見上げると、緑色の看板に「miel mie(ミールミィ)」と書かれていた。今まで前を通ったことはあったが、中に入ったことはない。

店内には、棚いっぱいにはちみつが置かれていた。あざみ、みかん、マヌカ、りんご、はぜなど、数え切れないほど種類が多い。

「お昼ご飯食べた? ちょっとおなかすいちゃった」

店の奥にはカフェが併設されていた。そういえば、朝にヨーグルトを食べたきりだ。忘れていた空腹を思い出す。

わたしたちは、「ミールミィの贅沢ハニートースト」を注文した。厚く切られたトーストの上に、ソフトクリームと巣蜜が乗っている。よく見ると、アーモンドにはみつばちの顔が描かれていた。テーブルの上には8種類のはちみつがあり、トーストについてくる5種類のはちみつと合わせると、13種類も食べ比べができてしまう。

少しずつ違う種類のはちみつをかけながら、トーストを口に運んだ。

「すごい、どれも全然味が違う」

「でしょ。トーストもおいしいから、よく食べにくるんだ」

「みっちゃんはいろんなお店知ってるね」

「もう3年も住んでるからね」

詳しくなったねぇ、あたしも琴子も。みっちゃんがしみじみと言う。

3年。わたしが京都に越してきて、もう3年が経とうとしている。地図なしでは行けなかった場所に行けるようになった。どのバスに乗ればいいか分かるようになった。お気に入りの店ができた。京都が、特別な場所ではなくなった。

それはきっと、悪いことではないのだろう。写真がどんどん色褪せるように、咲いた花が散っていくように、時に重みが生まれた証拠だ。3年前のわたし。親元を離れ、ひとり暮らしを始めたばかりのわたし。洗濯機の使い方も分からず、住民票の取り方も知らず、銀行の窓口に行くだけで緊張していた、ばかでかわいいわたし。あの頃に比べたら、できることも知識も増えた。「何にも知らないね」と教授に言われるたび、わたしは悔しくて仕方なかった。ばかにされている、と思った。それなのに、どうしてだろう。蓄積された時間が、今は重たくて息苦しい。

「高校生の時ね、東京に飽き飽きしてたんだ」

はちみつをトーストにかけながら、みっちゃんが言った。

「生まれも育ちもずっと東京でさ。うらやましがる人もいるけど、電車はいつも満員だし、カフェ入るのに何分も並ぶし。なんか、いやになっちゃったんだよね」

「だから京都に来たの?」

「うん、そう。やっぱり大学も多いから、同級生はほとんど東京で進学したけど。あたしはもっと遠くに行きたくて」

わたしも、そうだ。生まれ育った土地に不満があるわけじゃない。新幹線だってとまるし、遊ぶ場所だってたくさんある。同級生の大半は地元の大学に進学した。だって、外に出る必要がないから。不要なお金をかけずに大学に通うことができるなら、それが一番の親孝行だから。

「京都ってさ、おもしろいよね。街並みがおしゃれだし、教科書に載ってるような場所にも行けちゃうしさ。まあ、観光客は多いし、交通の便はいいとは言えないし、夏は暑いし冬は寒いけど。ここにしかない魅力がたくさんあるなって」

分かる。分かるよ。京都って、歩いているだけで楽しいもん。

「でも同時に、東京のよさにも気づいたんだよね。大きなイベントはやっぱり東京で開催されるじゃん? 京都にいると簡単には参加できないし、参加できたとしても大阪まで行かなきゃいけなかったりさ」

それでさ、とみっちゃんは続けた。

「あたしたち、まだ全然知らないことばっかりなんだよね。フランスに行って感動しちゃった。ああ、世界にはこんな素敵な場所があったんだって。テレビや雑誌を見ただけで、知った気になってた。でも、実際に目で見たら全然違った。世界って広くて、すごいんだよね」

そう語るみっちゃんの瞳は、星を閉じ込めたようにきらきらしていた。見知らぬ土地に行って、知らないものを見た感動が、瞳の中にぎゅっと詰まっている。そう、京都を巡る時のわたしのように。

教授に知らないことを教えてもらうたび、わたしの胸は震えた。初めての場所に行き、知らないことを知るそのたびに、わたしの中の何かが生まれ変わるような気がした。教科書で得た知識が、凝り固まった価値観が、アップデートされていく。文字に命が吹き込まれ、三次元のものとして形になり、細部までぐんと見えるようになる。そうなって初めて、わたしは写真を撮るのだ。教科書や参考書で見る写真ではない。わたしが、わたしのために撮った写真は、確かに命を持っていた。

「あたし、琴子の写真がすき」

みっちゃんが言った。

「京都の写真もすきだけど、北海道の雪景色とか、沖縄の海とか、イギリスの街並みとかさ。そういう写真も見てみたいなぁ、って思ったりもする。間崎教授が言いたいのって、きっとそういうことじゃないかな」

わたしは何も答えなかった。答えたく、なかった。

分かっている。教授がどんな思いであんな風に言ったのか。分かっていた、そんなこと。それでもわたしは、まだここにいたいと願ってしまう。変化なんていらないから、この日常がずっと続いてほしいと思う。

トーストを食べ終え、店内のはちみつを見て回った。瓶に入ったもの、使いやすいスティック状のもの、リップやはちみつを使ったお酒まである。

「はちみつ酒って、世界最古のお酒らしいよ」

蜜月という名前のお酒を手に取りながら、みっちゃんが言った。

「はちみつに酵母と水を加えて発酵させるんだって。前、テレビでやってた」

「へぇーっ、そうなんだ」

教授は、はちみつ酒がすきだろうか。気づけばバレンタインも過ぎてしまった。義務ではないけれど、あたりまえのことができなくなるのは、少しさみしい。

別に、教授にあげなくてもいいし。自分で飲めばいいことだし。そう言い訳をしながら、「恋紅」というお酒をレジに持っていった。はちみつ酒はミードというんですよ。丸太町に醸造所があるので、また行ってみてくださいね。そんな話を、お店の人から聞いた。

「これ、あげる」

会計を済ませ店を出ると、みっちゃんが今買ったばかりのはちみつを差し出した。

「りんごはちみつ。おいしそうだったから、二つ買っちゃったの」

「もらってばっかりで悪いよ」

「いいから」

遠慮するわたしの手に、むりやり袋を握らせる。

「りんごはちみつは紅茶にも合うって、店員さんが言ってたの。琴子、紅茶すきでしょ」

それに、とみっちゃんが続けた。

「はちみつって、ストレス緩和にもいいらしいよ。副交感神経が優位になって、リラックス効果があるんだって」

そうなんだ、ありがとう。言いながら、わたしはうつむいた。心の中を見透かされているような気がして、同時に、そのさりげない優しさに、目の奥がつんとした。





昼間は春の陽気を感じても、日が沈むとぐんと気温が下がる。普段はシャワーで済ませることが多いが、その日は久しぶりに湯船に浸かった。40℃のお湯に肩まで沈み込む、この瞬間が少し苦手だ。熱さに慣れていないから、というだけじゃない。はるか昔の記憶が、なぜか頭をよぎるのだ。

まだ小学校に上がる前だったか、両親が仕事で夜遅くまで帰ってこない日、祖母と一緒に風呂に入った。幼いわたしは、母がいないと泣いたのだ。どうしていないの。どうしてママは帰ってこないの。そうやって、声を枯らして泣いたのだ。

なぜこの日の記憶が鮮明によみがえるのかは分からない。トラウマになっているわけでも、恨めしく思っているわけでもない。だけどきっと、10年後も20年後も、この記憶は失わないだろう。なぜかそう、確信している。

風呂から出て髪を乾かし、軽くストレッチをした。ずいぶん前に買ったお香を焚くと、ほのかに桜の香りがした。

みっちゃんからもらったカリソンを、皿の上に並べた。いつもだったら、わざわざ皿を出したりしない。だけど今日は、わたし自身をもてなそうと決めた。わたしを、幸せにすると決めた。

セイロンティーにはちみつを垂らし、くるくるとスプーンでかき混ぜた。一口飲むと、りんごの風味が口いっぱいに広がった。体の中心があたたかくなる。春の、やわらかい日差しを想像した。

相変わらず、教授からの連絡はない。わたしからも連絡はできない。文字を打って、途中でとまって、すべて消す。それを何度も繰り返している。今までどんな会話をしていたのか、どんな風に接していたのか。うまく思い出すことができない。

じんわりと涙が滲んだ。この涙が何を意味するのか、今のわたしには理解できない。この感情の名前を、わたしは知らない。世界は絶望するくらい広く、わたしという人間は、絶望するくらいちっぽけだ。

春になったら、教授とうまく話せるだろうか。みつばちが蜜を運ぶように、わたしにも春が来るだろうか。今はまだ、この甘さが少し痛い。