夕飯を早めに済ませたわたしたちは、日が沈むのを待ってから東林院に向かった。

「東林院は『沙羅双樹の寺』と呼ばれている」

「沙羅双樹って、平家物語に出てくる、あの?」

そうだよ、と間崎教授が言った。

「沙羅の花は、朝咲くと夕方には散る一日花なんだ。日本では夏椿と呼ばれる」

「一日しか咲かないなんて、儚すぎます」

「ちなみに、花言葉は『儚い美しさ』」

「最高です、最高に儚いです」

ぜひともこのカメラで撮りたかったものだが、あいにく時期がズレている。通常東林院は非公開で、1月の「小豆粥で新春を祝う会」、6月の「沙羅の花を愛でる会」および10月の「梵燈のあかりに親しむ会」の時だけ拝観が可能らしい。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」

平家物語の一文を、歌うように口ずさんだ。普段は意識せずとも案外覚えているもので、続きもすらすらと口から出てくる。

「奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」

「遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽(おうもう)、梁の朱忌(しゅい)、唐の禄山、これらは皆旧主先皇の政にもしたがはず……」

「分かりました、参りました」

わたしは早々に白旗を上げた。顔がよく見えずとも、得意げに笑っているのが分かる。わたしってちょっと天才かも、なんて、一瞬でも思った自分が恥ずかしい。

東林院の門には、オレンジ色の光を放つ提灯が二つ、両脇に吊り下げられていた。高台寺の時のような妖しさはなく、ほっと心が安らぐような光だ。

石畳の上を歩いていくと、「梵燈のあかりに親しむ会」と書かれた灯篭があった。梵燈とは、煩悩を消し去る明かりという意味だよ。教授が言った。

「わたし、煩悩だらけかもしれません」

「たとえば?」

「たくさん食べたいし、たくさん寝たいし、たくさん写真を撮りたいです」

「小学生かな」

それに、今がずっと続いてほしいです。そうつけ足したかったけれど、言わないでおいた。

堂内は暗く、夜の闇に身を浸していくような感覚があった。拝観者はたくさんいるのに、お互いがお互いの存在を認識させないように、無意識に気を遣っているような気もした。誰も彼もすり足で進み、呼吸を浅くし、生命の気配を消しているようだ。

ふと隣を見ると、教授がいた。蓬莱の庭はあっちだよ。そう、わたしだけに聞こえる声で、わたしを導いた。

突如、いくつもの灯が視界いっぱいに広がった。ろうそくや灯篭の火が、生命を持ったようにゆらゆらと揺れている。

よくよく見ると、灯篭には「今」と「日」、そしてろうそくが集まって、「亦無事」と文字を描いていた。

「こんにちもまたぶじ、と読む」

どういう意味だろう。そう思っていると、教授が小さな声で教えてくれた。

「元々『無事』という言葉は、ありのままという意味なんだ。人は平凡な毎日を過ごしているとよい出来事を求めてしまうが、平凡であることほどよいことはない、という禅語だよ」

「平凡、ですか」

その言葉は、正直あまりすきではなかった。自分は平凡な人間で、それは動かしようのない事実なのだけれど、だとしたら自分の価値は何なのだろう、と考えてしまうことがあった。

でも、毎日は平凡である方がいいのかもしれない。最近のわたしは忙しなかった。発表の準備に明け暮れ、教授がいなくなるかもしれないと動揺し、卒業を意識して眠れなくなった。でも、まだ日々は続いていく。いつか別れが来るとしても、それは今じゃない。今日も、無事に一日が過ぎていく。

この平穏で平凡な日常が、贅沢品であってはならない。この会話が、この日常が、特別な日であってはならないのだ。

間崎教授は、照らされたもみじの美しさを、風に揺らめく灯の儚さを知っている。わたしもそうありたいと思う。教授が美しいと思うものを知りたい。そして同じように、美しいと思いたい。少しでもこの人に近づけるよう、わたしは写真を撮るのだ。





東林院から出ると、あいまいだった自分の輪郭が、くっきりと浮かび上がったような気がした。大きく深呼吸をして、先を行く教授のあとを追う。「素敵でしたね」と声に出したら、空っぽだったこの体に、生命が戻ったように感じた。

「ライトアップってもっと豪華なイメージがありましたけど、こういうささやかな光もいいですね」

「ああ、来てよかった」

空を見上げると、ちかちかと星が瞬いていた。先ほどの明かりとはまた違う、遠い宇宙の彼方にある光だ。雲間から月が顔を出し、教授の横顔をやわらかく照らした。

「来月はもう、紅葉が始まるな」

確かめるように、教授が言った。

「今年は高山寺に行くんですよね。鳥獣戯画、見てみたいなぁ」

「神護寺にも行こう。結構ハードな場所だが」

「ハードって、どういう意味ですか」

「行ってみたら分かるよ」

「楽しみです。写真、たくさん撮りたいです」

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。わたしは再び口ずさんだ。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。教授が声を重ねた。

今日もまた、無事でありますように。平穏なこの日々が、いつまでも続きますように。そう願いながら、わたしたちは星空の下を歩いていった。