小学生の頃、だいすきな先生が転任した。「お手紙書くね」と約束したので、母に便箋と封筒を買ってきてもらい、切手を貼ってよく出していた。どんな内容を書いていたのかは覚えていない。勉強が難しいとか、最近あった出来事とか、そんな些細な報告だったと思う。 

先生からは毎回返事が来た。琴子ちゃんも、もう四年生ね。元気? お友だちとは仲良くしてる? 

だいすきだったはずなのに、いつの間にかその文通は途絶えていた。わたしが手紙を書かなくなったのだろう。幼いわたしは好奇心旺盛で、いつ届くかも分からない先生からの返信より、すぐそばにいる友人との会話を好んだ。純粋で、残酷な子供だった。

中学校でも高校でも、親しい先生は何人かいた。今思うと、あんなに年の離れた人たちに、ある種の馴れ馴れしさと親しみを込めて接することは、これから先ないのかもしれない。未成年を言い訳に、子供という肩書きを盾にして、何でもないことをよく話していた。

それなのに、卒業するとその縁はぷつりと途切れた。先生たちだけじゃない。毎日顔を合わせていた同級生だって、未だに連絡を取っているのは数人にも満たない。どれだけ親しく思っていても、環境が変わったら距離は遠くなるのだと知った。

成人式の時、同じ小学校だった子たちと再会した。久しぶり、元気だった? 大人っぽくなったね。そんな、挨拶のあとの会話が続かない。大学に通っている子もいれば、働いている子もいた。県外に引っ越した子もいれば、地元に残っている子もいた。共通の話題が見つからなかった。あんなによく遊んでいたのに。友だちと思っていたはずなのに。連絡先を交換した子も何人かいたけれど、結局一度もやり取りしていない。

わたしと間崎教授は、どうだろう。週に2日は講義で顔を合わせているし、連絡したらすぐに会える。他の教授と違って、出かけたり、一緒に食事を取ったりすることもある。だけどそれも、あくまでわたしが学生だからだ。わたしがこの位置にいられるのは、教授が勤めている大学に通っているからだ。学生という肩書きを失ったら、わたしたちの関係は、どうなってしまうのだろう。

そんなわたしの心を晴らすように、教授からメッセージが届いた。東林院で「梵燈のあかりに親しむ会」が行われるから、都合が合えば行かないか、というものだった。ついでに等持院にも寄るけど、あなたはどうしますか。そう、試すように聞かれた。バイトのシフトを確認して、あいている日にちをいくつか伝えた。

大丈夫。ベッドの上で横になりながら、携帯電話を胸に抱いた。わたしたちはまだ、繋がっていられる。





等持院には午後から行くことになった。同じ京都市内とはいえ、わたしの住んでいる一乗寺からだと一時間ほどかかる。名古屋に住んでいる時は電車が主な交通手段だったけれど、京都はバスか自転車だ。大学やバイトに行く時は自転車だが、それ以外ならバスを利用することが多い。とはいえ、観光シーズンになるとバスは例外なく遅れるし、来たとしても満員で乗れない、なんてこともざらにある。いろいろな事情があるのも理解できるが、もう少し交通網が発達してくれたら、なんてたまに思う。

教授からこうして誘われるのは久しぶりだ。ついこの間一緒に桜を見たような気がするのに、あっという間に春が過ぎ、夏が過ぎ、気づけば秋になっている。時の早さはおそろしい。

「めずらしく早いな」

先に到着しているわたしを見て、教授が驚いたように言った。なんと失礼な。いつもわたしが遅刻をしているような口ぶりだ。

「久しぶりにがっつり撮影するので、気合十分なんです」

「それは楽しみ」

ちょうど気候もいいしね。教授が言うように、今日は暑くも寒くもないちょうどいい天気だ。まだ紅葉にも早いので、人も少ないのがありがたい。

「来る途中に男の人の銅像がありましたけど、あれは誰ですか?」

「『日本映画の父』である牧野省三。等持院には、牧野教育映画製作所と撮影所があったんだよ」

へぇーっと来た道を振り返った。境内になぜ銅像があるのか分からなかったが、そんな理由があったのか。

「お寺に撮影所があるなんて、斬新ですね。でも、重要な文化財が傷んじゃいそう」

「方丈の襖絵なんかは、かなり破損してしまったらしいよ。今は修復されているけど」

やっぱり。時代劇だったら、刀を振り回すシーンも撮影されたのかもしれない。昔の人って、結構大胆なことをする。

方丈に入ってすぐ、廊下の突き当たりに大きな絵が見えた。住職だった関牧翁(せきぼくおう)が描いた祖師像らしい。

「だるまみたいですね」

「達磨大師と呼ばれているからね。天龍寺にもあるでしょう」

「そういえば、天龍寺って行ったことないかも」

何気なく言うと、教授は信じられない、という顔をした。

「君は何年京都に住んでいるんだ」

「だって、わたしのマンションから嵐山って結構遠いんですもん。前に教授と行ったきりです」

「君は私がいないと京都をまわらないのか?」
 
そうかもしれません。そう言いかけて、口をつぐんだ。怠惰な女だと思われたくなかった。
 
「教授だって、夏は引きこもってるくせに」

「引きこもってはいない。太陽光を避けているだけ」

「物は言いよう、ってやつですね」

白砂が広がる庭を眺めると、木々がわずかに赤みを帯びていた。夏の終わり、そして秋の始まりを暗示させるような色で、少しだけ、シャッターを切るのをためらった。

「等持院は、足利尊氏が天龍寺の夢窓疎石を開山に迎えて創建したんだ」

わたしのためらいなどに気づきもせず、教授は流暢に話し始めた。

「霊光殿には足利将軍の木像が安置されている。行ってみよう」

もう何度も来たことがあるはずなのに、教授の声は好奇心に満ちている。大学で接する時とは違う顔で、わたしを導く。

教授の言う通り、霊光殿には足利歴代の将軍像や、達磨大師、夢窓疎石の像が安置されていた。

「京都で生まれ育っていたら、もっと歴史が得意になっていた気がします」

テスト勉強をしている時、仏像の名前を覚えるのが苦手だった。どこがどう違うのかも分からないし、名前を覚えるのにも苦労した。資料集を眺めていても、ちっとも覚えられる気がしなかったけれど、こうして実物を目にしたら、深く心に刻まれる気がする。

「教授は、いつから京都に住んでいるんですか」

「君と同じ。大学から」

「そうだったんですね」

思わぬ共通点を見つけて、嬉しくなった。わたしも教授くらい長く京都に住めば、もっと詳しくなれるだろうか。そうだ、わたしが京都に住み始めて、まだ3年にも満たないのだった。この先の人生を考えたら、まだまだ短い。

再び方丈に戻ったわたしたちは、夢窓疎石作と伝えられる庭を散策することにした。築山の上にあるのは清漣亭という茶室で、昔はその後ろに衣笠山を望むことができたそうだよ。教授は絵本を読み聞かせるように話した。

「ちなみに、この芙蓉池は蓮の形をしているらしい」

「蓮ですか」

わたしはじっと池に目を凝らした。餌を食べているのだろうか、池の隅で鯉が渋滞している。清漣亭まで上って全体を眺めてみたが、いまいちよく分からない。

「本当に蓮の形になってます?」

「実は、心のきれいな人にしか分からないんだ」

「なんだ。じゃあ教授も分からないんですね」

心字池という別の池は、草書体の心の字をかたどって作られたという。こちらもわたしには認識できない。どうやら、わたしの心は相当汚れているようだ。

庭を一周してから、再び方丈に戻った。今はまだ何の花も咲いていないが、他の季節に来たら、また違う景色が見えるのだろう。夏はサツキやクチナシの花が咲くんだ、と教授が言った。

初秋の風が心地いい。夏休み、祖母の家で縁側に座り、スイカを食べていた頃を思い出した。何気ない毎日をずっと繰り返していたあの頃は、時間が過ぎるのがとても遅かった。早く明日になれと思っていた。成長した今は、一分でも長く、ぼんやりとこの景色を眺めていたいと思う。

「教授は、大学からずっと京都ですか」

「そうだよ。ずっと」

「やっぱり教授といえば京都ですね」

きっと10年後も、教授は京都にいるのだろう。そんな気がした。

教授はずっとこの土地で、学生が卒業するのを見送ってきたのだろうか。わたしのように、親しい学生はいたのだろうか。そうだとしたら、その人とは今どうなっているのだろう。縁は、切れているのだろうか。

「教授って、大学の卒業生と連絡を取ったりしますか」

思い切って聞いてみると、教授は「何、いきなり」とわたしを見た。いえ、大した意味はないんですけど。わたしは慌てて言葉をつけ足した。自分で聞いたことなのに、答えを聞くのがこわかった。

「そういうことは、していないな」

身構える間もなく、教授はあっさりそう答えた。ああ、やっぱり。首にかけたカメラがずんと重くなる。

「そもそも、連絡先なんて交換しないだろ。友だちでもあるまいし」

え、と口に出してしまった。教授が「だから、何」と面倒そうに聞き返す。

「そっか、そうでした」

教授の視線から逃れるように、わたしは再び庭を眺めた。

「教授は、友だちがいないんでした」

「失礼なやつめ」 

「うへへ」

わたしは両腕で膝を抱えた。わたしの心は実に単純で、スーパーボールのように跳ねては落ち、落ちてはまた跳ねるのだった。

どこからか鳥の鳴き声がする。秋の風が、わたしと教授の頬を撫でる。