高台寺は、豊臣秀吉の正室である北政所が、秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、桜やもみじの名所として有名である。

と、いうのが、知れ渡っている高台寺についての話だ。春になれば観光客が桜を見にいこうと指差し、秋になればもみじを見ようと胸を弾ませる。祇園からもほど近いので、観光の計画を立てる際、組み入れる人も少なくはないだろう。

だけど今日は、桜もなければもみじもない。日は沈み、湿度は高く、出かけるのに適しているとは言えない。華やかな京都は息を潜め、この世のものではない何かがうごめいているような不気味さがある。

それでも人が集まるのは、やはりそれだけの理由があるからだろう。桜でも、もみじでもない。いつもとは少し違う、奇々怪々な風景が広がっているに違いない。

額の汗を拭いながら、ようやく高台寺に到着した。つい先ほどふしぎな現象に巻き込まれたからか、まだ頭がぼんやりする。六道の辻で起こったことが本当なのかは分からないが、それよりも今は、高台寺の方が大切だ。首から下げたカメラを触り、こん様のストラップを手で包んだ。大丈夫、ちゃんと帰ってこれたんだから。今日もいい写真が撮れるはず。

境内のいたるところには、おばけの顔が描かれた提灯がぶら下がっていた。暗闇の中、ぽうっとオレンジ色に光っている。普段ならば「あたたかな光」と形容されそうだが、今日はなんとなく妖しげに感じてしまう。拝観者は多いが、夜の空気に圧倒されているのか、大きな声で話している人はいない。祇園祭のような賑やかさはないが、神事のような厳粛さとも違う。別の世界に足を踏み入れるような、緊張感がある。

「プロジェクションマッピング、初めてです。お寺でっていうのも想像できない」

そう言うと、間崎教授は「最近は結構多いらしい」と答えた。

「夏は暑いし、冬は寒いからな。こういうイベントがないと、なかなか出かけにくいだろう」

「そうですよね。わたしも、バイト以外はずっと家にいますもん」

いくら夏休みシーズンとはいえ、最近は買い物に行くだけでも気が滅入る。どの季節も魅力があるのは重々理解しているが、暑さに耐えられるかと言えば、それはまた別の話だ。

教授もわたしも、どちらかといえば夏はインドアなタイプだ。こうしてわたしたちが高台寺に足を運んでいることを考えたら、イベント主催者の目論見も大成功と言えるだろう。

方丈に上がると、大勢の人がこぞって庭を見ていた。プロジェクションマッピングが終わった直後なのか、庭にはまだ何も映し出されていない。カメラの準備をしていると、教授が携帯電話を庭に向けた。

「教授も撮るんですか」

びっくりして尋ねると、教授は「動画係」とだけ言った。なるほど、確かに今回は、動画の方が映えるかもしれない。

どこからか、篠笛のような音が聞こえてきた。光の円が庭にぽつぽつと現れ、奥にある門に火の玉のようなものが浮かび上がってくる。音楽に合わせて、光はどんどん形を変えていった。よくよく目を凝らしてみると、ちらちらと妖怪の影が見え隠れしている。最初はかすかだった音楽も、妖怪の数が増えるにつれて祭囃子のように大きくなり、まるで宴をしているような盛り上がりを見せた。

約3分半、妖怪たちは庭中を思いのままに暴れ回り、門の向こうに消えていったのだった。

演出が終わると、また庭は一瞬の静けさを取り戻した。見終わった人たちがぞろぞろと移動し、今やってきた人たちと入れ替わった。

「おもしろかったな」

動画を撮り終えた教授が、満足そうに携帯電話をしまった。

「本当ですね。いつものおもしろさとは、また違った楽しさがありました」

時代が変わるにつれて、お寺の楽しみ方も少しずつ変化しているようだ。古いものと、新しいもの。それらが共存することで、また違った魅力を感じられるのかもしれない。

室内には、百鬼夜行の様子を描いた絵巻が展示されていた。

「わたし、妖怪ってあんまりこわいイメージがないです」

妖怪を題材にしたアニメや漫画が多いからだろうか。一反木綿やねずみ小僧、座敷童など、馴染み深い妖怪たちがたくさん描かれているが、不気味というよりはコミカルに見える。

「鳥獣戯画みたいだな」

教授がひとりごとのように言った。さまざまな動物がかわいらしく描かれた鳥獣戯画は、日本史の教科書にも出てくるほど有名だ。漫画やアニメのルーツとされ、グッズも見かけることが多い。

「あれ、かわいいですよね。確か、高山寺にあるんでしたっけ」

行ってみたいなぁ。何気なくつぶやくと、教授は「じゃあ、秋に行ってみよう」と言った。

「今年も行くでしょう」

「……行きます。行きたいです」

今年の秋も、教授と紅葉を見にいく。わたしにとってそれがあたりまえであるように、教授にとっても、あたりまえであるといい。

百鬼夜行展の出口近くには、妖しげな女の人形が飾られていた。説明書には、「にっかり笑う女の幽霊」とある。四国丸亀の京極家に代々伝わる名刀「にっかり青江」と、幽霊の伝説に発想を得た、球体関節人形らしい。

「これはちょっと不気味です」

先ほどの絵巻は微笑ましく鑑賞できたが、こちらはリアルすぎて夢に出てきそうだ。

「写真、撮って」

教授がわたしの腕を小突く。

「呪われそうです。教授が撮ってください」

「いやだ。呪われそうだから」

自分が呪われるのはいやだが、わたしが呪われるのは構わないらしい。撮るのは少しためらわれるが、展示品の中で撮影可能なのはこの幽霊だけだ。呪われたら、責任取ってくださいね。そう教授に言いながら、1枚だけシャッターを切った。

百鬼夜行展を見たあとは、境内を軽く散策した。今年もまた大文字を見よう。そう約束して、わたしたちは別れた。

家に帰ってシャワーを浴び、寝る前に手帳を開いた。記憶が新しいうちに、今日あった出来事を日記のように書いていく。聞こえたことや、思ったこと。写真には写らないけれど、残したい感情。

それにしても、今日は変な1日だった。六道の辻に迷い込んで、こん様に会って、冥界に飲み込まれそうになった。と、思ったら、なんとか現実世界に戻ってきて、教授と百鬼夜行を見た。本当に現実だったのか、夢だったのか、はたまたわたしの妄想か。分からない。分からないけれど、おもしろかった。

携帯電話が鳴った。見ると、みっちゃんからメッセージが届いていた。今年は試験期間が終わってすぐに帰省し、地元の友だちと夏休みを満喫しているらしい。大きなかき氷の写真とともに、「最高」というスタンプが添えられている。

わたしもお返しに、高台寺の写真を送った。すごいね、お寺でもこんなことやるんだ。これならあたしも見てみたいかも。

『でも、暑くてつらかったでしょ』

みっちゃんにそう聞かれて、どう返事をしようか少し迷った。確かに、暑かった。日が沈んでもすずしさはなく、少し歩いただけで汗だくになった。

暑かったけど、それだけじゃなかったよ。そう返事を送ると、みっちゃんは「どういうこと?」とふしぎがっているようだった。

彼女は信じてくれるだろうか。冥界へ住む、人ではないもの。高台寺に集まった妖怪たち。ちょっとひんやりとした、そんな夏の夜だった。