今日で、私の人生は終わる。

明日はやって来ない。
なんて解放感なんだ。

もう怖いものなんてない。
苦しいことも辛い思いをすることもない。

一歩足を踏み出せば、私は死ねるんだから。
何も怖くない。この先に待っているのは、きっと明るい世界。
私を迎え入れてくれるのは、きっと極楽天国。

――さようなら。

コンクリートから片足を離して、もう片っぽの足を空中に踏み出そうとした時だった。

「待って!」

…え?

突然、グイっと腕を後ろに引かれて、私の体は地面へと倒れ込んだ。
お尻を思い切りぶつけてしまい、痛くて顔をしかめる。

「きみにはまだ生きる権利が残っている」

そう言ったのは、見知らぬ男性だった。
だいたい20代くらいだろうか。
背が高くて、風になびくサラサラな黒髪。
周りが暗くて、よく顔は見えないけど、下から見る限り顔はリンゴのように小さかった。

「人助けしたとでも思ってるの?だとしたら無用な優しさね」

初対面だとは言え、私を助けてくれたことに対して感謝なんてしていない。
命の恩人だなんて、まったく思えない。
だって私は、意図的に死のうとしのだから。
死にたかったから。
死にたくないのに死のうとするバカがどこにいるって言うのよ。

すると男性はその場にしゃがみ込み、私と視線を合わせるように口を開いた。

「悲しいことを言うんだね」

「は?」

「きみは僕が優しさで助けたと思っているんだ?」

意味深な笑顔に少し身震いをした。

男性の質問に首を傾げて、そうじゃないの?と訊ねる。

すると男性は笑顔をスッと消して、色のなくした花のような表情で

「違うよ。僕にとってきみの命なんてクソほどどうでもいい」

凶器のような鋭い口調で、男性は言った。

「僕はね、ただ自分の使命を果たすために今こうしてきみを助けたんだよ」

「使命…?」

なにそれ。
この人の使命と私の自殺に何が関係あるの?
自殺をしようとする人を助けることが使命だとか言わないわよね。
だとしたら、すごくおせっかいな使命だ。

しかも、この人にとって私の命はクソほどどうでもいいのだから、
そんな気持ちで助けてもらっても、こっちもいい気はしない。

「僕の使命はね、説明しても信じてもらえないかもしれないね。
だけど、ちゃんと説明しとかないと話がいつまでたっても進まないから、真剣に聞いてね」

「なに?」

「まずは僕の名前と正体から。
名前は小泉彗(こいずみすい)24歳。彗でいいよ。
3年前はきみと同じでただの会社員だった
そして今の僕は通称、願い神と言われる仕事をしている」

…願い神?
どんな仕事なのか、今まで生きてきて一度も聞いたことのない職業だった。
それと、まさか同い年だったことに驚いた。

「どんな仕事なの?」

「んー言える限りのことは全部話すけど、
その前にまずは一旦きみに質問したいことがいくつかある」

「質問したいこと?」

「うん。きみの答えによっては、僕の使命が果たされるかどうかが決まる。
そしてきみの運命は大きく変わる」

‟私の運命が大きく変わる”
その言葉に不思議と鼓動が速まった。

死のうとしていた私の運命が大きく変わるということだろうか。

「じゃあ、まず質問1。きみの名前は?」

名前?
思ったよりも単純な質問をされて、気持ちが軽くなる。

「静井結奈(しずいゆな)」

「質問2。きみの家族構成は?」

「お母さんと――」

「質問3。今までお付き合いしてきた人数は?正確な数でね」

「…えっと、3人」

淡々と答えていくうちに、質問4つ目になった。

「じゃあ、これで最後ね。
質問4。きみは、どうして死のうとしたの?」

えっ…。
いきなり質問の難易度が急激して、戸惑う。

私が死のうとしたのは、どうしてか。
頭では分かっている。体でもハッキリと感じている。
人生の疲れ、息苦しさ。
社会人になって、人生への負の感情が生まれた
心も体もズタズタだった。
だけど、どうして疲れたのか、息苦しく感じるようになったのか、
それが分からなかった。

「答えられない?」

「えっと…疲れたから、だと理由にならない?」

「ダメ。どうして疲れたのかもハッキリ答えて」

だよね。
どうして生きることが疲れてしまったのか。
しばらく静かに考えていると

――ピコピコピコ

スマホの着信音がポケットの中から聞こえた。

急いでスマホを取り出すと、画面には課長の名前が表示されていた。

「誰から?」

「…桐原課長」

「ふーん。出なくていいの?」

出なくていいわけがない。
でも内心出たくない。

「結奈、固まってるよ」

「…あ、ごめん。私ちょっと電話出てくるね」

そう言って、彗と距離を取り、着信ボタンを押した。

「はい…」

『やっと出たか。おいお前、今どこにいるんだ』

…またお前呼び。
桐原課長は機嫌が悪い時、いつも部下の私をお前呼びをしてくる。

「今は家の近くですけど、なにかありましたか?」

『なにかありましたかじゃないよ!』

…はい?

『お前が製作した企画書に不備があったそうだ。
それも相手の会社の名前を間違えていたそうだ、何をやっているんだ!』

「え…だけど、その企画書は課長にチェックを頼んでおいたはずなんですが…」

昨日、ちゃんと桐原課長にチェックをしてもらうように手渡したはず。
チェックをする時に気付かなかったのだろうか。

『俺が悪いと言いたいのか?』

怒ったような口調に、しまったと慌てて謝る。
「…すみません。私が最終確認しておけばよかったですね」

桐原社長は役に立てませんから、と心の中で呟く。

「あぁ、そうだ。いいか?明日の朝、相手の会社の所まで行って、頭を下げて来い。
手土産も忘れずに。なんとしてでもあの企画を成功させるんだ。
もしも、こっちの会社が泥を塗るはめになったら、それは全部お前のせいになるからな」

なにそれ。部下の私に全てを任せるって言うの?
頭を下げるのも私だけ。課長も一緒に着いてくるのが普通じゃないの?

だけど今ここで反発している余裕はない。
「分かりました…」と返事をして、電話を切った。

はぁ、と深いため息をつく。
なんだか気持ちが悪いな。
早く家に帰って寝よう。

そういえば彗はまだいるのだろうか。

さっきの場所に戻ると、フェンスに寄りかかって、地面をジッと見つめる彗がいた。

ここはとあるビルの屋上。
夜景が綺麗で、辛い時や疲れた日にはいつもここで安らぎを感じていた。

今さっきまで、あそこに立って死のうとしていたのかと思うと、信じられない。

過去の自分を見返すのは得意じゃないけど、今あそこに数分前の私が見えた気がした。
もしも彼が声をかけてくれていなかったら、今頃私はどうしているのかな。
どんな気持ちで、あの世にいたのかな。

そんなことをフツフツを考えていると

「結奈、質問の答えは決まったかい?」

彗が顔を上げて言った。

どうして死のうとしたのか。
私の答えは――

「私の今まではずっと苦しいことしかない人生だった。
昔、私がまだ6歳だった頃、双子だった夕衣(ゆい)が交通事故で死んじゃったの」

静井夕衣。
陰にいるような愛想のない私と比べると、
いつも明るくて、向日葵のような笑顔を輝かしていて、私の自慢の双子だった。

そんな夕衣を愛していたのは、父と母。
2人とも夕衣のことを心から愛しているのが私から見ていて分かった。

それに比べて私は、人と関わることが苦手でよく人見知りをした。
両親は、そんな私の頭をよしよしと優しく撫でてくれたのを覚えている。

私も夕衣も、両親に心から愛されていると思っていた。
それも6歳の誕生日が来る日までは――

両親と私と夕衣は誕生日ケーキを買いに出かけた。

2人で一つのケーキだから仲良く選びましょうねと母に言われたのを覚えている。

だけど夕衣は「私、チョコケーキがいい!」と言った。

私はあまりチョコが好きではなかったため「イヤだ。苺がのったケーキがいい」と反論した。

そんな私に夕衣は頬を膨らませて、涙目でこちらを見てきた。

今思えば、夕衣は私の何倍もわがままな性格で自分の思い通りにならないと駄々をこねるような子だった。
だから私は、唇を噛んで、渋々頷いた。
「いいよ…チョコケーキにしよう」

そう言うと、夕衣は花が散るような笑顔に変わり「やった」と喜んだ。

両親は「えらいぞ、結奈」と私の頭を撫でくれた。
それもあって、少しいい気持ちになった。

ケーキを買い、お店を出る。
「ケーキ、ケーキ」とケーキの入った箱を持ち、鼻歌を口ずさみながら弾んだ足取りで歩く夕衣。

すると、「きゃっ」と夕衣が足をつまずかせて、こけそうになるのを目撃した私。

急いで手を差し伸べようと後ろから腕を伸ばした時だった。

夕衣は体操を習っていたため、すぐに崩れた大勢を取り戻したのだ。
だけど、まさか夕衣が大勢を戻すとは思わず、私は勢いのまま夕衣の背中を押してしまった。

しまった、と思った時にはもう遅かった。

夕衣の体は車道へと飛び出していた。
そして車と衝突した。

「夕衣!!!」

私がそう叫んだ時には、夕衣の体は赤く染まっており、
光のない瞳のまま道路に倒れ込んでいた。

「それで?きみはどうなったの?」

そこまで話して、一旦無言になった私に訊いてくる彗。

いつの間にか、片手にはたばこを持っており、口元に咥えている姿を見て、
少し大人の色気を感じた。

たばこを吸うことに驚きを隠せず、目を見開いていると

「あ、たばこダメだった?ごめん、ごめん」

彗はたばこを口元から離す。
フーっと白い煙を吹き出して、火を消そうとした。

「うんん、イヤとかじゃないから。それにたばこの匂い慣れてるから大丈夫」

「あ、そう。じゃあお構いなく」

「はい、どうぞ」

なんてことをやり取りしながら、私は夜空を見上げた。

それから私は、両親に叩かれるようになった。
毎日怒鳴られて、叩かれて、心無い言葉を浴びらせられて、人生が一変した。

愛されることのない人生となった。
小学校を卒業してからは、祖母の家で暮らすことになった。

高校を卒業して、久しぶりに両親と顔を合わせることにした。
私は正直、二度と会いたくない相手だけど、おばあちゃんに説得されて、
仕方なく会うことにした。

懐かしい家を訪ねると、母親が出てきて、衝撃的な言葉を放たれた。

「夕衣…?」

母は私のことを夕衣と間違えていた。
久しぶりに会ったとは言え、私、結奈を忘れるなんて酷い話だ。

そして認知症が悪化していた父親も、私のことを夕衣と呼んだ。

そんなに夕衣のことが大切なの?
死んでしまった夕衣のことをどうしてそんなに愛すの?

まだ生きている結奈がいるんだよ。
貴方たちの娘がもう一人いるのよ。
私のことを愛してよ。

それからは両親とは会っていない。
大学を卒業して、社会人となって化粧品会社の社員となった今。
そういった過去がある私は、幸せを求める生き方をいつの間にか諦めていた。
幸福なんてどうでもいい。
楽しい人生なんて最初から求めてない。

きっと私より不幸な思いをして生きている人もいる。
だから私も頑張って生きないといけない。

だけど、その反対に私よりも幸せな思いをして生きる人もたくさんいる。
私の周りにはそういった人が10割だ。
私よりも断然幸せな今までを生きてきた人がたくさんいる。
結婚や旦那さんの話、子供の話だって、すべてが幸せな家庭の話ばかり。

「それって、ただの憎しみじゃない?
自分が幸せじゃないから、幸せそうに生きる他人を憎むなんて、それこそどうかと思うよ」

「彗まで私を責めるの?」

「僕は別にきみを責めているわけじゃない」

「責めてるよ!私のこと…どうして、みんなして否定してくるの?
私だって一人の人間なんだよ。人権はあるんだよ。幸せになる権利があるの!」

フェンスをバンッと叩いて、怒り散らす。
心の奥が痛くて、涙がにじみ出てくる。

「そうだよ、きみには幸せになる権利がある。
だけどこの世は、幸せを平等にギフトされるような、そんな夢物語みたいなことはない」

‟幸せを平等にギフト”
そんなことあるわけないじゃん。
不平等すぎるよ。

「泣くな、結奈」

「なに、よ…別に泣いてもっ」

いいじゃない、と続きを言おうとすると

「きみには生きる権利がある。それを今から証明してやる」

「え…?」

証明ってなに?
私が生きる権利って、そんなのないよ。

「僕は、そのためにこの仕事を選んだ」

誇らしげに言う彗。
その時、自然と零れ落ちる涙は止まっていた。

「きみへの質問は以上だ。
おめでとう、結奈。きみの運命はこれから大きく変わるよ」

「どういうこと?私は…」

「これから結奈は幸せをギフトされる」

初めて見る彗の優しい笑顔に、色の無い世界に蕾が咲いた。

すると彗は、そっと瞼を閉じて胸の前で手を合わせて祈るような姿勢をした。

そして
「静井結奈の願いを一つ叶えることをここに誓います。
願い神様、彼女の願いを叶えるために、宿ることをお願い申し上げます」

なにかを唱え終えると、彗はゆっくり目を開けてこちらを見た。
瞳の色が青色に変わっていて、それは人じゃないかのように光り輝いていた。

「彗?」と安易を確かめるように呟いた。

さっきまでとは全然違う彗の姿。
まるで本物の神様のように美しかった。

「結奈の願いを聞かせて?」

「えっ」

「その願い、僕が必ず叶えるよ。どんな願いでもいい。
きみが幸せになれる願いを一つ、叶えるから」

どういうことなの?
私の願いを一つ必ず叶えるって、そんなことできるはずがない。
もしかして、これが彗の仕事なの?
そんな夢物語みたいな話、あるわけない。
彗もさっきそう言っていたのに。
今、実際に起きていることが信じられなかった。

「結奈、きみが今まで幸せになれなかった理由を考えてみて。
きっと答えは見つかるから」

答えというのは、願いごとのことだろうか。

言われた通りに今までを振り返ってみた。

事の発端は夕衣が死んでしまったあの日から。
――もしも夕衣が今も生きていたら?
私は幸せになれたのだろうか。
なにも想像つかない。
両親から愛されていたのだろうか。
もしかすると夕衣が生きていたとしても、彼女だけを愛する人生だったかもしれない。
分からない、なにも分からない。

「深く考えなくても、大丈夫。答えはもう見つかってる」

見つからないよ。
なにも見えない。
やっぱり私は――

「結奈。下ばかり見ていてもなにも見つからないよ。
もっと広く視野を広げて」

「そんなのできないよ…」

「過去に囚われないで。明日を想像するんだ、明るい未来を頭に浮かべてみて」

明るい未来なんて一生訪れることのない。
そう思っていた。

「夢はいくらでも描いていいんだよ」

彗の言葉が心に染みる。

夢を描く。
私の夢。
幸せな家庭を築きたい。
素敵な旦那さんと子供は一人。
自慢されるようなお母さんになりたい。
専業主婦になって、作り上げた家族に美味しい料理を作ってあげたい。

そこには明るい未来が見えた。
私が生きる未来が。

「彗、見つけたよ…」

私の願い、それは――


「愛のある人になりたい」


私は、あの人達のような愛を持たない人にはなりたくない。

過去があるから今の私がある。
今の私をどう生きるかが大切なんだって、気付いたから。
未来は変えられる。
どんな過去があったとしても。
私は、みんなと同じように幸せになれる。
その可能性を1%でも上げるために、私は愛のある人になりたい。

「本当にそれでいいの?」

「うん、いいよ。私の願い叶えて」


▼*▼

人は簡単に大きな幸せを手に入れることはできない。

過酷な1日1日を積み重ねてからこそ、手に入れることができる幸せがある。
終わりには必ず、きみが望んでいたことがそこにはある。
必ず人は皆、幸せになれる。
そんな世界にするために、僕はきみ達のような淋しい人間を助ける仕事を選んだ。
死にたいと思ったその時、限界まできたその身と心は終わるんじゃない。
物語はこれから始まるんだ。
幸せな未来を創る力をきみに与えるんだ。

幸せになれるように、僕は今日もきみの所へ願いを一つ叶えに行くよ。


10年後

「久しぶり、結奈」

2人の幼児を乗せたベビーカーを押しながら道を歩いていた彼女は、10年前に僕が担当した静井結奈だった。

あの頃よりも断然顔色は良くて、別人かのように穏やかな雰囲気をまとっていた。

彼女は目を見開いて驚いている様子で

「彗なの?」と訊いてきた。

「ああ、そうだよ。10年前、きみの願いを叶えた男さ」

「…本当なんだね。嘘、すごく信じられない」

今にも泣いてしまいそうなほど瞳を潤している。
随分と変わったんだな。
…幸せな家庭も築いたようだし。

「彗」

「ん?」

「あの時、私に希望を与えてくれて本当にありがとう」

感謝…ね。
まぁ、貰って悪い気はしないよな。

「感謝なんて要らないよ。これは僕の使命なんだから」

この世に生きるすべての人に幸せを平等にギフトされるように。
僕の使命は、ただそれだけ。

end.