●四月十六日(火曜)

 特に変わった予定もなかったので、忍は事務所内と二階をあちこち整理するのに一日を費やした。

 物置部屋――かつては忍の部屋だった――は、前の所長が買った数々のフィットネスマシン(殆ど使ってない)、蓄音器やアンティーク家具などレトロな趣味に走った頃の遺物、残していった衣類、CD、本、あと有島が使っていたものと自分用の潜入調査のための衣装やアイテム諸々を片っ端にここへ運んでいった結果、カオスな空間が成り立ってる。
 粗大ゴミは処理手数料がかかるし、衣類などは捨ててしまうのが何故か躊躇われた。柊も空いた時間を使って少しずつ整理を手伝ってくれるが、まだここを忍の寝室として使うには当分かかりそうである。


「所長、このセーラー服何に使うんですか。まさか所長用じゃありませんよね」

 学校から帰ってきて事務所に忍がいないと気づいた柊が物置部屋にいた彼を見つけ、女性用の色んな制服を眺めてその一つを手に取る。

「ンなわけあるかい。前の所長の置き土産だよ。なんか調査のために女子高生のフリをする必要があったらしくて、自信満々で制服姿見せつけられたことがあるんだけど。そのあと何故か記憶が飛んで気づいたら朝になってた」
「そ、そうでしたか」

 柊が何かを察したのか口ごもる。ちょっとして柊は思いついたように手にしたセーラー服を自分の体に当ててみせる。華奢な彼女にはサイズがやや大きめであった。
 その姿を忍に見せつけて

「私、中学もブレザーだったのでセーラー服を着たことがなかったんですけど。所長はどちらがお好みですか?」

 と、尋ねてきた。
この質問に忍はちょっと返答に困ってしまう。
なんとなく自身の性癖(誤用)開示請求をされている気がしたのだが、彼はちょっとだけセーラー服姿の柊を夢想する。一方で、初めて事務所に足を運んだ制服姿の柊に不覚にも見惚れてしまった記憶が蘇り、

「まあ、どっちでも可愛いと思うけど。やっぱいつも着てる制服が似合ってると思うよ」

 などと、彼にしては珍しく素直な感情を口にした。
 それを聞いた柊はセーラー服を腕で持ってもじもじしながら頬を赤く染める。


「そうでしたか……。では、あの制服は二人の性生活がマンネリした時のために大事にとっておくことにしますね……♡」
「余計な気を回さんでいい」
 



 夕飯問題については古本屋で買った料理本を開き、パラパラパラーと適当に開いたページの料理に付箋を貼って「明日はこれがいい」とリクエストすることで当面乗り切ることにした。その日の夕食も昨日引き当てたページの料理である。

 柊が来るまで忍が一人で事務所を切り盛りしていた時は、料理ができないというわけではないのだが朝抜くのは当たり前、昼だけ、夜だけ、一日中何も食べないことも珍しくなく、忙しさに追われる日はインスタントや栄養補助食品で済ますこともザラであった。

 それが彼女が来てから朝はダイニングテーブルへ決まった時刻に座らされるし、昼はなぜか弁当箱に詰めたものを残していくし(本人談「その方が奥様感が出るから」)、夕方は来客中や調査で留守にしていない限りはやはり決まった時刻に座らされる。
 ……なので今まで健康を犠牲にして節約できていただけに、最近は食費が彼の悩みの種だった。

 ただ柊の「不摂生な食生活で体を壊したら元も子もない、医療費も馬鹿にならない」という正論には流石の忍も逆らえない。
 マンションで数年一人暮らしをしていた為か彼女は割と何でも作れる。中一ですでに三枚おろしをマスターしたと聞き、中三になってからマスターした忍はこれでも早い方だと思っていただけに地味にジェラシーを覚えた。

  かつては忍も炊事当番だったことがある。ここに住んで最初の頃は当時の所長に何が食べたいか尋ねると「なんでもいい」と答えられ、朝・昼・夕全部ウインナーと卵焼きとおにぎりにしてみたら「栄養考えなさいよバカ‼︎ 肥えさせる気⁉︎」とガチギレされた思い出を忍は懐かしんだ。

 懐かしくなって柊にも同じメニューを提案してみたら「早死にしますよ」と冷酷に却下された。







 夕飯を食べてからまた事務所へ戻り、九時前には風呂に入った。

 風呂椅子に座って髪を洗っていると風呂場の外、脱衣所の扉が開く音が聞こえたので、忍は振り返って磨りガラス越しに人物の様子を眺める。

 服を脱ぎ、下着を外し、裸の女のシルエットが映った。

 そして浴室扉に手をかけ――――。




 グッッ!と開こうとするも扉はビクとも動かず。
 グッグッ!と再チャレンジしても扉は動かない。



「アレーッ! 所長! どうしたんですか! 閉じ込められてますよ‼」

 バンバンバンと磨りガラスを叩いて懸命に呼びかけている。

 ――どうやら、内側からロックをかけられることを知らなかったらしい。

 だからと言って「それはロックがかかっているからだよ」と馬鹿正直に教えていては、次の日ロックが破壊されていたという憂き目にあってはならない。

「たまに滑りが悪くなってね、石けんとかで馴染ませたら開くから大丈夫だよ」
「それ指輪が抜けない時の対処法じゃないですか⁉ ちょっと待っててくださいね! 今バールのようなものを持ってきますから‼」
「コラァーーーーーーーーッッ‼‼」


 こうして、二人のラッキーハプニングとアンラッキーハプニングを賭けた闘いのゴングが鳴らされる。
 そして激しい攻防戦の末、脱衣所の扉には以下の念書が張り出された。



  ◇◇◇



 伊泉寺(いせんじ)(しのぶ)
 (つごもり)(ひいらぎ)

 念書

 私の不始末により浴室扉に多大な損害を与えたことを心よりお詫び申し上げます。
 深く反省し、今後入浴中に侵入しないことをこの念書をもってお誓いいたします。
 ごめんなさいでした。

 以上



  ◇◇◇



 
 日付が変わる直前。

 事務所にはトイレがないので、夜中に忍が尿意を催した時は二階に上がり、用を足したら再び事務所へと戻る。
 一階に降りる前に柊の部屋の扉が少し開いたままなのが目について、忍は不用心だなと思いながら扉をバタムと音を立てて閉めた。
 そのまま彼が五、六歩ほど歩いたところだろうか。部屋からバタバタと足音がすると思ったら先程閉めたばかりの扉から柊が勢いよく飛び出てきた。さらにドシドシと重みのある歩みで忍に詰め寄る。

「まだ起きてたの。明日も学校でしょ」

「そ・う・じゃ・な・く・て!」

「あっ、俺が閉めた扉の音で起きたってこと? それならごめんね」

「そ・う・で・も・な・く・て! せっかく鍵もかけず意味深に五センチくらい扉を開けっ放しにして夜這いしやすいようにしていたのに、人の気遣いを無碍にしないでくださーーーーい‼︎」
「なんかごめんね……でもウチは仕事柄、時たま不埒な輩に事務所荒らされたりするから」

 忍の言葉は突然中断された。一階の事務所の方からガラスの割れる音が聞こえてきたからだ。

「まあ、こういうこともあるわけだから? 今度から夜は鍵を閉めて寝るように。ね?」

 柊は突然無表情になり、バタムと音を立てて扉を閉め、忍はそのまま下の事務所へ早足で向かう。