そうして二人が押し問答している最中、外から車の甲高いエンジン音が聞こえてきて二人は揃って窓の外の方へ顔を向けた。車のドアの開閉音が聞こえて柊が出迎えしようとすると、忍が「大丈夫」と制止する。

 やがて一人の女性が扉を開けて、中にいる忍にニッと笑った。
 ロングの黒髪に目鼻立ちの良い美人。派手すぎず地味すぎない化粧。
 手には紙袋が握られている。女性は「チャオ」の挨拶として右の掌で手先をパタパタと上下に動かすサインを忍に送った。その手で髪を耳にかける仕草する時、雫型の透明な水色のパーツが付いているフックピアスが見えた。

「びっくりした。来るんなら時間教えてくれたら良かったのに」
「どうせいつ来てもいると思って」

 忍はちょっと不服な顔をするがぐうの音も出なかったので反論はしなかった。女性の方へ歩み寄る途中気づいたように柊の方へ振り返り、「あ、お茶は大丈夫だから」と断りを入れた。
 柊は突然の、加えて忍がやけにフランクに接している若い女性の来訪に戸惑いを隠せない。

 そして彼女の格好――鎖骨まで見えるU字ネックでかなりタイトな紺色のシャツ、白のパンツもこれまたタイトで美しい体のラインが丸分かりで、柊の心はいっそう波立つ。おまけに二人が座ろうとした瞬間、忍の目の前で彼女の小さすぎず、大きすぎない胸が揺れたのを見て柊は目玉をひん剥いた。

 柊が同じ服を着て同じ動作をしたとしても多分揺れそうにない。

「えらい薄着だな」
「今日の最高気温何度だと思ってんの。この安楽椅子探偵」
「水道水でいいなら出すけど?」

 お願い、と女性が頼むと忍はさっさと給湯室へ向かってしまう。一方柊は女性の格好に面食らっているうちに給湯室へ行くタイミングを逸してしまった。
 忍が水を用意している間、その場に女二人が残される。柊がちらっと黒髪の女性を見ると、向こうはじーっと品評するかのごとく彼女のことを熱心に見ているので柊は目を合わさないように顔を少し背けた。
 ほどなく忍が戻り、氷入りの水道水が注がれたグラスを女性に渡し、ありがとうと女性はさっそく一口ほど飲む。

「いつ帰ってきた?」
「昨日。はいこれお土産」
 女性が紙袋をテーブルの上に置くと、忍が中身を抜き取った。おしゃれなデザインのクッキー缶だった。
「サンキュー、あとでありがたくいただくよ」
「今食べたら? 彼女も呼んであげたら?」

 女性が柊の方を見て言うと、忍も彼女の方を見て「じゃあ、コーヒーお願い」と頼む。
「あ、わたしもコーヒー欲しいな」
 柊ははい、と答えて給湯室で三人分のお湯を沸かした。その間、二人がやっぱり親しげに話している。
 ソーサラーに乗せたコーヒーカップをテーブルに並べると女性がありがとうと柊をねぎらった。柊も軽く会釈をして、お盆をテーブルの隅に置いて自分も忍の隣に腰掛ける。すでに真ん中には缶が開封され色んな種類の包装されたクッキーが敷き詰められていて、忍は一個貪っているところだった。
 あなたもどうぞと女性に促され、柊も遠慮がちにいただきますと小さなクッキーから手を付ける。
 忍が一枚食べ終わりコーヒーをすすってからようやく思い出したように口を開いた。

「あ、この人蒼樹(あおき)さんって言って記者の人。昨日来たメガネの刑事の人の知り合い」
「説明大雑把すぎ」
 蒼樹と紹介された女性がもう一枚クッキーを食べるべく缶に手を伸ばす彼を見て呆れ、次に柊の方を向いて人当たりの良さそうな笑顔を浮かべた。

「名前は蒼樹華蓮(あおきかれん)、フリーで記者やってます。色々手広くやってるけど薬物犯罪について調べることが多いかな。前ここで所長してた有島さんって人とわたしが知り合いで、その縁で伊泉寺(いせんじ)くんと。んで荒川くんとは仕事の縁で知り合って、わたしが二人を引き合わせてあげたわけ。前はあなたみたく、わたしがここの手伝いをしてた時期もあったんだから」

「あ、ここ前に別の方が所長してたんですか。それで三人で働いてたんですね」
「いや、わたしが久々に訪ねた時にはもう有島さんはいなくって、一人でクンクン鳴いてたハスキー犬を見かねて助けてあげてたの。当時のこの人もう本当見てらんなくて」

 蒼樹はその頃のことを思い出したのか鼻で笑うと、忍がムッと彼女を軽く睨むがすぐにクッキー缶へ視線を戻す。柊は「ハスキー犬」の意味を理解しかねているようで、蒼樹がそんな彼女に「あ、ハスキー犬ってこの人のことだから。犬顔だし、つり目で怖いし」と解説した。

「いちいちンなどうでもいいことまで教えなくていいから」
 そう言って乱暴にガサッとクッキー缶を漁る忍はまるで拗ねている子どものようだった。
 気心の知れた姉弟のような、仲睦まじい男女のようなやりとりに「ソウダッタンデスカ~」と柊、思わず棒読みになってしまう。

「ところで伊泉寺くん? 本当にこの娘が『例の』?」
「『例の』って言うな。もう荒川から聞いてるんだろ」
「伊泉寺くんが結婚したのって本当の本当にこの娘なの? なんか、全然イメージ違うんだけど……」
「どんなイメージ持ってたの」
「そりゃあ、わたしみたいな、一つ年上の女房とか?」
「金のわらじがあったらそうしてたかもね」
「わざわざ履いて探さなくてもすぐここにいるでしょ」

「わ………………」

 柊が一人プルプルしても、忍も蒼樹も全くその様子に気づかない。


「わ、私を無視して二人で盛り上がらないでくださーーい!」


 突然柊が声を荒げて話に割って入ってきたので、忍も蒼樹も小さく仰け反ってしまう。
「本当の本当に私は所長と結婚してるんですからね! 疑うっていうならこっちは役所がついてるんですよ‼︎」
 柊が息巻いて右手で胸の上辺りを叩くと、蒼樹はすぐに姿勢を正して「ふ~ん」と相づちを打った。ニュアンス的には「あっそ」に近かった。
「それにしては結婚指輪もしてないみたいだけど」
 蒼樹が二人の左手薬指を交互に見て事実を指摘する。
「そ、それはっ! 所長が出世したら気前良くプラチナでダイヤの結婚指輪を贈る手筈になってるんです!」
「俺もう所長だから出世もなんもないけどね」
「わたしがちょっと海外に行ってた隙にこの有様……。有島さんが聞いたら泣くんじゃない?」
「むしろ『男になった』って褒めてほしいね」
「なんなら愛人の一人や二人作った方がもっと褒めてもらえるわよ」
 再度二人が盛り上がる雰囲気を察知すると、それを阻止すべく柊がまたもや割って入る。
「あ! だめですよ! この人もう妻帯者ですから! こちとら不倫相手にも慰謝料の求償権があるんですからヘタなことはしない方が身のためですよ‼︎」
「なーに? 探偵事務所らしく不倫調査でもするつもり?」
「受けて立ちますよ! こっちにはプロの探偵がついてるんですよ‼︎」
「伊泉寺くん。わたしたちが不倫したら伊泉寺くんが調べるんだって」
「あらかじめ二人でアリバイ工作しておこうか」
「伴侶の前で堂々と口裏合わせするのやめてくださーーーーい‼︎」

 その時、忍のスマートフォンから着信音が流れると同時に彼も立ち上がって一人デスクに戻った。
「はい、先ほどはどうも。分かりました。こちらからご連絡すれば良いんですね。番号は………………。はい、ありがとうございます」
 忍が先の熊谷からの電話を切ると、蒼樹がコーヒーを一口啜ってから立ち上がる。
「じゃあ、わたしはこれでお暇するわね」
「ロクにおもてなしもできずに悪いな」
「それなら今度荒川くんと久々に三人で飲み行きましょ。わたしの帰国祝いにね」
 はいはいと忍は返し、蒼樹も立ち上がって柊にニッコリと「コーヒーごちそうさま」と礼を言い、颯爽と事務所を出て行ってしまった。黒いエナメルのハイヒールが似合いそうな彼女だが、運転するためかシューズを履いている。蒼樹の車が発進する際、外から聞こえる甲高いエンジン音が耳に刺さった。窓から艶のあるコーティングで青色のスーパーカーが華麗に走り去っていくのを見送った。
 ようやく二人だけになると、柊が恨めしそうな顔で忍を見つめる。

「あのね。何言いたいか分かるけど、元カノとかそういうんじゃないからね」
「で、彼女どのくらいここにいたんですか」
「ほんの一瞬だよ」
「具体的には?」
「三ヶ月くらい」
「ははあ……それは確かに一瞬ですねぇ…………」

 忍は柊のねちっこい視線を逸らすだけで精一杯であった。
「それに、前の所長さんがいたこととか色々教えてくださいませんでしたね……」
「いや、事務所のヒストリーより仕事とか家のこととか他に教えるべきことがあったから。その辺は追々話すつもりだったから。本当だから。…………あー分かった分かった。今掻い摘まんで説明する」

 忍は頭の中で情報を整理しているのか右人差し指で眉間のあたりを押さえ、だいたい纏まったあたりで指を元に戻してから語り始める。

「ここは前『有島探偵事務所』って名前で、蒼樹が言ってたとおり有島さんって女の人の事務所だったの。俺はそこで高校卒業したら本格的に働くために住み込みで手伝ってたわけ。んで三年前、突然『他にやることができた』って書き置き残して失踪して、一応戻ってきた時のために俺が引き継いで。そのあと一時期蒼樹が手伝いで来てた。でも有島さん戻ってきそうな気配ないから一年前屋号変えて現在に至る。以上」


「……………………………………」


「だから怖いって言ってるだろ! どう組み立ててもこういう説明にしかならねーよ!」