●四月十三日(土曜)
伊泉寺探偵事務所に一人来訪者が現れた。ただし依頼人ではない。
学校が休みの柊は今日が初めての事務所手伝いとなる。長袖の白いリブトップスに青の膝下までのフレアスカートと、落ち着いた服で事務所の扉を開けて来訪者を迎え入れ、ソファに案内する。
「その人、お客さんじゃないからお茶とかいらないよ」
柊はニッコリ笑ってから給湯室へ向かった。忍はなんとなしの彼女の足下を見るとストッキングに黒いオフィススリッパを履いていたことに気づく。そう言えば靴のことについて言い忘れていたのと、言われずとも用意していた柊に「やるじゃん」と謎の上から目線な感想が溢れた。
忍もまたメガネをかけた若い男の向かいのソファに腰掛ける。
少し崩れ気味の黒髪のオールバックに黒いスーツを着ている彼は薬物銃器対策課――略称「薬銃」――の刑事、荒川という。知り合いの記者に引き合わされて以来、暇つぶしに事務所に来ては駄弁ってくるのだ。
「蒼樹が今度帰国するって連絡入ったけど、お前知ってる?」
「えっ、そうなの」
「おっと、お前にはサプライズだったのかな。……あんま嬉しそうな顔してないな」
どうぞ、と柊が二人にお茶を差し出すと荒川もニッコリとありがとう、と返した。
「で? …………ええーっと……」
「晦さん、ちょっと席外してくれるかな」
柊は二人に会釈して奥に下がった。扉を閉めて、二階の自宅に上がる足音を聞き届けると二人は会話を再開させる。
「……で、事務所に銃弾がお届けされたんだって?」
「怖くてお巡りさん呼んじゃった」
「なんか送られるようなことに心当たりあるの?」
「あると言えばあるし、ないと言えばない」
「微妙な言い方だな」
そこで忍は植木鉢事件で明らかにされなかった「物陰から狙撃銃らしきものを持っていた誰か」の話のこと、送られた前日にそれらしき人物がいたとされるビルを見に行った話を荒川に話した。
「なんでそんな大事な証言を少年課は無視しちゃうんだよ」
「お前らが取り合わなかったんだろ」
「いや、俺の管轄じゃないから知らんけど……。見たのが子どもで、一瞬で、本人もああいった行動の最中だったからハッキリしないというわけか。確かに微妙かもな」
「それで、どこから誰が送ってきたかとかは分かったわけ?」
「本人がわざわざコンビニに出向いて送ってきてくれたら早かったんだけどな」
荒川が言いたいのは、割の良い金で雇われた代理人が宅配会社と提携しているコンビニに預けたということらしく、そして金で雇った当人の情報を代理人も知らないということだった。
「あのビルの周りになにか物騒な組織の人間でも出入りしてんの? 最近幅を利かせはじめてる半グレ連中のエスキモードッグか?」
「だからエスキモードッグはただの犬だって言ってるだろ。スモーキードッグだよ。してたとしてもお前には言えないよ。でも、もうあのビルの周りでウロチョロするなよ。あとは警察の仕事だから」
「おう。一応場所教えとくわ」
忍がテーブルの上のメモ帳から一枚引きちぎり、デスクペンで書き込んで荒川にメモを渡す。
彼は内容を確認すると「ところで」と話題を切り替える四文字を唱えた。
「あの娘だよ二月にお前の事務所じーーってガン見してた女子高生……ははぁ……あれから熱烈アプローチされてコロッといっちゃったか。コンシェルジュみたいなことまでさせちゃって。まあ、お前も人の子だからな」
荒川は一旦そこで言葉を切ると事務所の奥、忍の自宅につながる階段がある方をぴっと指差す。
「ところであの娘さっき二階に上がって行ったけど、あそこお前ん家だよな? 休憩室でもあるの?」
「いや、自分の部屋だと思うよ」
「自分の部屋? 住み込みで働いてるって言うのか? 親が許さないだろこんな得体の知れない男の家に……」
「住み込みって言うか一緒に暮らしてるんだよ。彼女十八だし、結婚してるから」
「誰が?」
「俺と彼女が」
うわ、と荒川は手で顔を覆うかわりに左の親指と中指で、知的さをうっすら感じさせるハーフリムのスクエアメガネのフレームを押さえた。
「先を越された……」
「あ、そっち?」
ちなみに彼は今年で二十六歳になり、九月で二十二になる忍より四つ年上になる。
メガネから手をどけた荒川から「今大学生?」と尋ねられ、嘘を言ってもしょうがないので忍は「高三」と正直に答えると向こうは予想通り露骨に顔を引きつらせた。
「卒業するまで待てなかったって、相当なんだな。いつもヨレヨレのくせになんか今日スーツが嫌にパリッとしてるから変だと思った」
「何、『十八歳の女子高生と結婚した』罪で逮捕してみるか?」
「俺に免じて逮捕は見送ってやろう。その代わり離婚したらすぐ教えろよ。結婚祝いとまとめて祝福するから」
「どうせ近いうちにそうなるよ」
忍は手を付けていない茶を一口飲む。茶はすでに彼の心境と同じく冷めきっていた。
「驚くだろうなあ、お前が女子高生と結婚したって蒼樹が知ったら……せっかく脈がありそうだったのに……」
「今から理論武装しとかないと」
「こりゃ蒼樹の追及の手がどこまで及ぶか楽しみだな」
「同じ男同士ってことでフォローしてくれる?」
「むしろ蒼樹に加勢したいくらいだね俺は」
●四月十四日(日曜)
忍は午前中からあちこち片っ端に電話をかけるのに忙しかった。
「伊泉寺です。磯所長をお願いできますか。…………はい、ご無沙汰しております。…………そうです、しばらく手が空いておりますので何かお困りがあれば案件などをご紹介していただければ…………。ありがとうございます。はい、よろしくお願いします」
忍の電話が終わるのを見計らって柊が話しかける。
「お電話で忙しいですね。皆さんお知り合いの探偵事務所ですか?」
「そうだよ。手がいっぱいな時とか、専門外の案件があると仕事を回してくれることがあるの。普段からいっぱいゴマはすっとかないとね」
「そうなんですか。同じ探偵事務所同士、持ちつ持たれつなんですね」
「そういうこと」
彼は手が空いているとは電話では言ったものの、本当は柊の分の生活費を稼ぐ必要があったからだ。
勉強用の文具やら自分の服など、忍には関係ない消耗品の類は「父からの送金」から買ってもらい、水道光熱費や食費などは忍が負担することにした。
一度忍は柊の通帳を見せてもらったが、「父からの送金」というのが毎月女子高生には多すぎる額で、残高も忍の年収以上残っている。通帳を初めて見せられた時、忍は思わず卒倒しそうになった。結婚したら贈与税ってどうなるんだろう。彼は一旦目を背けることにした。
案の定柊から口座の金は好きに使っていいという申し出を受けたが、忍はそれを断った。
会って二ヶ月、植木鉢事件の時も含めてたった三回しか会ったことのなかった女子高生と結婚した上に、顔も知らないどころか柊自身もしばらく会っていない父から送られてきた金を使うのは流石に躊躇われる。社会人が女子高生の金に手を出すのも抵抗がある。
柊との生活に見通しがつかない以上、忍は無用な借りを彼女に作りたくなかった。
で、柊自身は「私のために所長も仕事に精が出ているんですね♡」と言いたげなもので、こうして電話をする度に俄に嬉しそうな顔をするのが忍としてはやや癪であったが、ひとまずそういうことにしておいた。
「ところで専門外の案件って例えばどんなのですか? ……あ」
柊が窓を見てパタパタと入口に駆け寄り扉を開ける。入ってきたのはスーツ姿の小柄で初老の男性。同じく探偵事務所の所長を勤める熊谷という。
「伊泉寺さん、昨日はお電話いただいたのに折り返しご連絡できずすみません。ちょうどその時お客さんとの相談事が長引いていたもので。今、外出の帰りで通りがかったので直接お伺いに来ました」
遙か年下の忍にも物腰柔らかく挨拶し、忍もすぐに立ち上がる。
「熊谷さん、わざわざお越しいただきありがとうございます。どうぞ」
忍が熊谷をソファに座るよう促したあと、柊の給湯室でお茶の準備を始める。同業者や長くかかりそうな相談の時は忍の分のお茶も用意する。
「事務の方を採用したんですか?」
やはりというか、早速柊のことを聞いてきた。
「いや、社員じゃなくて主に雑務をお願いしてるアルバイトですよ。土日と祝日だけ来て貰ってるんです」
ああ、そうなんですか、と熊谷は案外すんなりと納得する。
ちょうど「アルバイト」の柊が熊谷と忍にお茶を運びに来た。
「ところで今お手すきだそうで。昨日ウチに相談に来たお客さんのことで、ちょうど伊泉寺さん向けのお仕事だと思ってお願いに上がりました」
「ありがとうございます。どういった案件なんです?」
「まあいつもお願いしているのと代わり映えないです。二件ありまして、『恋人が赫碧症かもしれない』『従業員が赫碧症かもしれない』というご相談ですよ。どちらもお願いしても?」
「ああ……そうですか。もちろん、ありがたくお引き受けさせていただきます」
「いえ、こちらこそ。では、事務所に戻ったらその旨を依頼人の方々にお伝えしますので、向こうからお電話してもらうか伊泉寺さんの方から連絡するかまたお知らせしますね」
わざわざすみません、と忍は頭を下げる。
「いや、こちらこそ助かります。赫碧症が絡む案件は年々相談が増えて、もしもの時にウチの事務所で手に負える者はいないから、伊泉寺さんが……」
「あ、熊谷さん、それは」
熊谷はハッとして、一瞬柊の方を見た。柊も熊谷の方を見ていたので二人の目線がかち合い、彼は咄嗟に茶に目を移して取り繕うように飲み始める。
「ああ、そう言えば栗本通りにあるあのラーメン店。有名なとこ。行ったことあります? こないだそこに行った話なんですけどね…………」
二人はしばらく雑談に花を咲かせ、二十分後には熊谷は事務所を去って行った。
柊が茶碗を片付けている間、忍はデスクに戻り有名なIT会社が運営しているニュースサイトをパソコンで一人閲覧する。
見出しは「小学校内で児童による傷害事件、教師二名負傷」、内容にはひっそりと「少年は赫碧症とされる」との一文が添えられていた。
忍が興味本位でコメント欄を覗いてみると、
「事件がこんなに起きてるのに政府はなにしてるんだ、国民を守るために税金使えよ」
「こないだ与党の議員が赫碧症の有力者から賄賂を受けたばかり」
などなど、義憤にかられたコメントのすぐ下についてある共感を示すサムズアップマークに多くの数字がついていた。
そしてこの手のニュースのコメント欄は大抵荒れに荒れて、最後は運営自ら閉鎖するまでがよくある流れである。
ふと、忍は終わりにあった関連記事が目についた。
『樫井夫妻殺害事件から九年、捜査に新たな進展、監視カメラの映像』
知らず、彼は自分の心臓が跳ね上がったのが分かった。マウスカーソルが関連記事のリンクに近づく。
「所長もニュースのコメント欄を眺めたりするんですね」
突然後ろから声をかけられ、忍は咄嗟にショートカットキーで閲覧しているタブを閉じてしまった。
給湯室からいつの間にか戻ってきた柊が忍のパソコンを眺めて後ろから話しかけてきたのだ。
「たまにね。晦さんは見たりする?」
「いえ、私は……極端な書き込みも多いから」
そっか、と忍はぽつりと呟く。
「よく、赫碧症の方が絡むご依頼が多いんですか?」
忍は一瞬なんて言おうが迷った末、「そうだね」と肯定した。
探偵による違法な調査、業務中のトラブル等が多発した結果、平成十七年に探偵業法が成立した。だが不当な差別に繋がる恐れのある身辺調査はいまだ制限されていない。
それも「赫碧症」がネックになっているからだ。
柊も、熊谷や忍のやりとりに特段疑問を覚える様子もない。
彼女が生まれる前から今までずっと、当然のように横行しているからだ。
「――それに今のニュースみたく、万一赫碧症の人と接触する場面があると危険かもしれないから。俺は体が丈夫にできてるから、いざという時も平気なの」
「ですね。あんな高い場所から落ちても全治二週間ですもんね」
くすくす、と柊は当時のことを思い出したのか目を細めて笑う。
「まあ、その話はこれくらいにして。所長、今日のお夕飯のリクエストはありますか?」
「夕飯? なんでもいいよ」
「………………………………」
「こ、怖ぇよ‼︎ いつもみたいに『なんでもいいって所長いっつもそうじゃないですか‼︎』ってキレろよ‼︎」
それでも柊の「恨み晴らさでおくべきか」とでも言いたげな表情に堪えられなくなり、忍は何か弁解をしなければと大いに焦る。
「てか別に、結婚してるからってわざわざ俺の分まで作らなくていいし自分の分だけ用意しなよ。こっちも来客とか、調査とか、訪問とかで決まった時間に飯食える訳じゃないんだから。この話……あれ? 何回したっけ?」
「四回です」
「数えてんのかよ! 怖‼︎」
「つまり私たちは同じようなやりとりを今まで四回もしているということです。そして今日のやりとりで晴れて五回目になるということです」
「わ、分かった。分かった分かった。今度から献立たくさん書いたポスター作って、それをダーツで決めよう」
「……………………………………」
「だから怖ぇよ‼︎ 何が不満なんだよ‼︎」
伊泉寺探偵事務所に一人来訪者が現れた。ただし依頼人ではない。
学校が休みの柊は今日が初めての事務所手伝いとなる。長袖の白いリブトップスに青の膝下までのフレアスカートと、落ち着いた服で事務所の扉を開けて来訪者を迎え入れ、ソファに案内する。
「その人、お客さんじゃないからお茶とかいらないよ」
柊はニッコリ笑ってから給湯室へ向かった。忍はなんとなしの彼女の足下を見るとストッキングに黒いオフィススリッパを履いていたことに気づく。そう言えば靴のことについて言い忘れていたのと、言われずとも用意していた柊に「やるじゃん」と謎の上から目線な感想が溢れた。
忍もまたメガネをかけた若い男の向かいのソファに腰掛ける。
少し崩れ気味の黒髪のオールバックに黒いスーツを着ている彼は薬物銃器対策課――略称「薬銃」――の刑事、荒川という。知り合いの記者に引き合わされて以来、暇つぶしに事務所に来ては駄弁ってくるのだ。
「蒼樹が今度帰国するって連絡入ったけど、お前知ってる?」
「えっ、そうなの」
「おっと、お前にはサプライズだったのかな。……あんま嬉しそうな顔してないな」
どうぞ、と柊が二人にお茶を差し出すと荒川もニッコリとありがとう、と返した。
「で? …………ええーっと……」
「晦さん、ちょっと席外してくれるかな」
柊は二人に会釈して奥に下がった。扉を閉めて、二階の自宅に上がる足音を聞き届けると二人は会話を再開させる。
「……で、事務所に銃弾がお届けされたんだって?」
「怖くてお巡りさん呼んじゃった」
「なんか送られるようなことに心当たりあるの?」
「あると言えばあるし、ないと言えばない」
「微妙な言い方だな」
そこで忍は植木鉢事件で明らかにされなかった「物陰から狙撃銃らしきものを持っていた誰か」の話のこと、送られた前日にそれらしき人物がいたとされるビルを見に行った話を荒川に話した。
「なんでそんな大事な証言を少年課は無視しちゃうんだよ」
「お前らが取り合わなかったんだろ」
「いや、俺の管轄じゃないから知らんけど……。見たのが子どもで、一瞬で、本人もああいった行動の最中だったからハッキリしないというわけか。確かに微妙かもな」
「それで、どこから誰が送ってきたかとかは分かったわけ?」
「本人がわざわざコンビニに出向いて送ってきてくれたら早かったんだけどな」
荒川が言いたいのは、割の良い金で雇われた代理人が宅配会社と提携しているコンビニに預けたということらしく、そして金で雇った当人の情報を代理人も知らないということだった。
「あのビルの周りになにか物騒な組織の人間でも出入りしてんの? 最近幅を利かせはじめてる半グレ連中のエスキモードッグか?」
「だからエスキモードッグはただの犬だって言ってるだろ。スモーキードッグだよ。してたとしてもお前には言えないよ。でも、もうあのビルの周りでウロチョロするなよ。あとは警察の仕事だから」
「おう。一応場所教えとくわ」
忍がテーブルの上のメモ帳から一枚引きちぎり、デスクペンで書き込んで荒川にメモを渡す。
彼は内容を確認すると「ところで」と話題を切り替える四文字を唱えた。
「あの娘だよ二月にお前の事務所じーーってガン見してた女子高生……ははぁ……あれから熱烈アプローチされてコロッといっちゃったか。コンシェルジュみたいなことまでさせちゃって。まあ、お前も人の子だからな」
荒川は一旦そこで言葉を切ると事務所の奥、忍の自宅につながる階段がある方をぴっと指差す。
「ところであの娘さっき二階に上がって行ったけど、あそこお前ん家だよな? 休憩室でもあるの?」
「いや、自分の部屋だと思うよ」
「自分の部屋? 住み込みで働いてるって言うのか? 親が許さないだろこんな得体の知れない男の家に……」
「住み込みって言うか一緒に暮らしてるんだよ。彼女十八だし、結婚してるから」
「誰が?」
「俺と彼女が」
うわ、と荒川は手で顔を覆うかわりに左の親指と中指で、知的さをうっすら感じさせるハーフリムのスクエアメガネのフレームを押さえた。
「先を越された……」
「あ、そっち?」
ちなみに彼は今年で二十六歳になり、九月で二十二になる忍より四つ年上になる。
メガネから手をどけた荒川から「今大学生?」と尋ねられ、嘘を言ってもしょうがないので忍は「高三」と正直に答えると向こうは予想通り露骨に顔を引きつらせた。
「卒業するまで待てなかったって、相当なんだな。いつもヨレヨレのくせになんか今日スーツが嫌にパリッとしてるから変だと思った」
「何、『十八歳の女子高生と結婚した』罪で逮捕してみるか?」
「俺に免じて逮捕は見送ってやろう。その代わり離婚したらすぐ教えろよ。結婚祝いとまとめて祝福するから」
「どうせ近いうちにそうなるよ」
忍は手を付けていない茶を一口飲む。茶はすでに彼の心境と同じく冷めきっていた。
「驚くだろうなあ、お前が女子高生と結婚したって蒼樹が知ったら……せっかく脈がありそうだったのに……」
「今から理論武装しとかないと」
「こりゃ蒼樹の追及の手がどこまで及ぶか楽しみだな」
「同じ男同士ってことでフォローしてくれる?」
「むしろ蒼樹に加勢したいくらいだね俺は」
●四月十四日(日曜)
忍は午前中からあちこち片っ端に電話をかけるのに忙しかった。
「伊泉寺です。磯所長をお願いできますか。…………はい、ご無沙汰しております。…………そうです、しばらく手が空いておりますので何かお困りがあれば案件などをご紹介していただければ…………。ありがとうございます。はい、よろしくお願いします」
忍の電話が終わるのを見計らって柊が話しかける。
「お電話で忙しいですね。皆さんお知り合いの探偵事務所ですか?」
「そうだよ。手がいっぱいな時とか、専門外の案件があると仕事を回してくれることがあるの。普段からいっぱいゴマはすっとかないとね」
「そうなんですか。同じ探偵事務所同士、持ちつ持たれつなんですね」
「そういうこと」
彼は手が空いているとは電話では言ったものの、本当は柊の分の生活費を稼ぐ必要があったからだ。
勉強用の文具やら自分の服など、忍には関係ない消耗品の類は「父からの送金」から買ってもらい、水道光熱費や食費などは忍が負担することにした。
一度忍は柊の通帳を見せてもらったが、「父からの送金」というのが毎月女子高生には多すぎる額で、残高も忍の年収以上残っている。通帳を初めて見せられた時、忍は思わず卒倒しそうになった。結婚したら贈与税ってどうなるんだろう。彼は一旦目を背けることにした。
案の定柊から口座の金は好きに使っていいという申し出を受けたが、忍はそれを断った。
会って二ヶ月、植木鉢事件の時も含めてたった三回しか会ったことのなかった女子高生と結婚した上に、顔も知らないどころか柊自身もしばらく会っていない父から送られてきた金を使うのは流石に躊躇われる。社会人が女子高生の金に手を出すのも抵抗がある。
柊との生活に見通しがつかない以上、忍は無用な借りを彼女に作りたくなかった。
で、柊自身は「私のために所長も仕事に精が出ているんですね♡」と言いたげなもので、こうして電話をする度に俄に嬉しそうな顔をするのが忍としてはやや癪であったが、ひとまずそういうことにしておいた。
「ところで専門外の案件って例えばどんなのですか? ……あ」
柊が窓を見てパタパタと入口に駆け寄り扉を開ける。入ってきたのはスーツ姿の小柄で初老の男性。同じく探偵事務所の所長を勤める熊谷という。
「伊泉寺さん、昨日はお電話いただいたのに折り返しご連絡できずすみません。ちょうどその時お客さんとの相談事が長引いていたもので。今、外出の帰りで通りがかったので直接お伺いに来ました」
遙か年下の忍にも物腰柔らかく挨拶し、忍もすぐに立ち上がる。
「熊谷さん、わざわざお越しいただきありがとうございます。どうぞ」
忍が熊谷をソファに座るよう促したあと、柊の給湯室でお茶の準備を始める。同業者や長くかかりそうな相談の時は忍の分のお茶も用意する。
「事務の方を採用したんですか?」
やはりというか、早速柊のことを聞いてきた。
「いや、社員じゃなくて主に雑務をお願いしてるアルバイトですよ。土日と祝日だけ来て貰ってるんです」
ああ、そうなんですか、と熊谷は案外すんなりと納得する。
ちょうど「アルバイト」の柊が熊谷と忍にお茶を運びに来た。
「ところで今お手すきだそうで。昨日ウチに相談に来たお客さんのことで、ちょうど伊泉寺さん向けのお仕事だと思ってお願いに上がりました」
「ありがとうございます。どういった案件なんです?」
「まあいつもお願いしているのと代わり映えないです。二件ありまして、『恋人が赫碧症かもしれない』『従業員が赫碧症かもしれない』というご相談ですよ。どちらもお願いしても?」
「ああ……そうですか。もちろん、ありがたくお引き受けさせていただきます」
「いえ、こちらこそ。では、事務所に戻ったらその旨を依頼人の方々にお伝えしますので、向こうからお電話してもらうか伊泉寺さんの方から連絡するかまたお知らせしますね」
わざわざすみません、と忍は頭を下げる。
「いや、こちらこそ助かります。赫碧症が絡む案件は年々相談が増えて、もしもの時にウチの事務所で手に負える者はいないから、伊泉寺さんが……」
「あ、熊谷さん、それは」
熊谷はハッとして、一瞬柊の方を見た。柊も熊谷の方を見ていたので二人の目線がかち合い、彼は咄嗟に茶に目を移して取り繕うように飲み始める。
「ああ、そう言えば栗本通りにあるあのラーメン店。有名なとこ。行ったことあります? こないだそこに行った話なんですけどね…………」
二人はしばらく雑談に花を咲かせ、二十分後には熊谷は事務所を去って行った。
柊が茶碗を片付けている間、忍はデスクに戻り有名なIT会社が運営しているニュースサイトをパソコンで一人閲覧する。
見出しは「小学校内で児童による傷害事件、教師二名負傷」、内容にはひっそりと「少年は赫碧症とされる」との一文が添えられていた。
忍が興味本位でコメント欄を覗いてみると、
「事件がこんなに起きてるのに政府はなにしてるんだ、国民を守るために税金使えよ」
「こないだ与党の議員が赫碧症の有力者から賄賂を受けたばかり」
などなど、義憤にかられたコメントのすぐ下についてある共感を示すサムズアップマークに多くの数字がついていた。
そしてこの手のニュースのコメント欄は大抵荒れに荒れて、最後は運営自ら閉鎖するまでがよくある流れである。
ふと、忍は終わりにあった関連記事が目についた。
『樫井夫妻殺害事件から九年、捜査に新たな進展、監視カメラの映像』
知らず、彼は自分の心臓が跳ね上がったのが分かった。マウスカーソルが関連記事のリンクに近づく。
「所長もニュースのコメント欄を眺めたりするんですね」
突然後ろから声をかけられ、忍は咄嗟にショートカットキーで閲覧しているタブを閉じてしまった。
給湯室からいつの間にか戻ってきた柊が忍のパソコンを眺めて後ろから話しかけてきたのだ。
「たまにね。晦さんは見たりする?」
「いえ、私は……極端な書き込みも多いから」
そっか、と忍はぽつりと呟く。
「よく、赫碧症の方が絡むご依頼が多いんですか?」
忍は一瞬なんて言おうが迷った末、「そうだね」と肯定した。
探偵による違法な調査、業務中のトラブル等が多発した結果、平成十七年に探偵業法が成立した。だが不当な差別に繋がる恐れのある身辺調査はいまだ制限されていない。
それも「赫碧症」がネックになっているからだ。
柊も、熊谷や忍のやりとりに特段疑問を覚える様子もない。
彼女が生まれる前から今までずっと、当然のように横行しているからだ。
「――それに今のニュースみたく、万一赫碧症の人と接触する場面があると危険かもしれないから。俺は体が丈夫にできてるから、いざという時も平気なの」
「ですね。あんな高い場所から落ちても全治二週間ですもんね」
くすくす、と柊は当時のことを思い出したのか目を細めて笑う。
「まあ、その話はこれくらいにして。所長、今日のお夕飯のリクエストはありますか?」
「夕飯? なんでもいいよ」
「………………………………」
「こ、怖ぇよ‼︎ いつもみたいに『なんでもいいって所長いっつもそうじゃないですか‼︎』ってキレろよ‼︎」
それでも柊の「恨み晴らさでおくべきか」とでも言いたげな表情に堪えられなくなり、忍は何か弁解をしなければと大いに焦る。
「てか別に、結婚してるからってわざわざ俺の分まで作らなくていいし自分の分だけ用意しなよ。こっちも来客とか、調査とか、訪問とかで決まった時間に飯食える訳じゃないんだから。この話……あれ? 何回したっけ?」
「四回です」
「数えてんのかよ! 怖‼︎」
「つまり私たちは同じようなやりとりを今まで四回もしているということです。そして今日のやりとりで晴れて五回目になるということです」
「わ、分かった。分かった分かった。今度から献立たくさん書いたポスター作って、それをダーツで決めよう」
「……………………………………」
「だから怖ぇよ‼︎ 何が不満なんだよ‼︎」