【完結】18歳からの契約書

○平成二十七年 年末


「あんた、うち来る?」
「一時間一万円ね」
「買春じゃないっつの‼︎」



 当時中一だった忍が、有島に話しかけられたのが出会いのきっかけだった。

 ある出来事を境に、自分を巡り毎日争いの絶えない両親に嫌気が差し、忍は衝動的に家を飛び出してしまった。しかし無計画な子どもの放浪などすぐに破綻してしまう。

 二・三日に一食、公園の水で空腹を凌ぐ日々を送っていても、元々限りのあった所持金が既に底を尽き限界を感じていた。

 そんな時に有島に拾われ、とりあえず飯にありつければ何でもいいと忍は彼女の自宅兼事務所に身を寄せることになる。万が一何かされたら実力行使してやろうとも思っていた。

 クリスマスイヴに起きた事件はこの時の忍の耳にはまだ届いていない。


「テレビないのこの家」
「ない。事務所に小さいやつあったけど壊れた」


 適当に食料と金をくすねて出て行ってやろうと思っていたのに、忍はいつのまにか有島のペースに乗せられた挙句、「大掃除だから窓拭いてくれ」など事務所の雑事まで頼まれ、渋々ながらも引き受けるようになってしまった。

 何となしに外から窓を拭いていると、風で飛んできた新聞が目に入る。「事務所の前のゴミを拾え」とかなんとか言われるのが予想できたのでしょうがなく拾うと



「樫井夫妻殺害事件」

「クリスマスイヴの悲劇、犯人は少年」

「犯人の特徴:中学生前後、痩せこけて細身、特徴的な目つき」




 一目で飛び込んできた見出しに、思わず窓越しに事務所内にいる有島を見た。今電話でメモを取って目線を下に落としている。

 逃げるなら今しかない。今なら逃げられる。

 そして彼は有島探偵事務所から走り去って、二度と戻らなかった。




 ――――予定だったのだが、近くの河川敷で敢えなくすぐ見つかってしまう。


「なんですぐ居場所が分かっちゃうの」
「探偵だから」

「俺の事、警察に売る気だったろ」
「警察?」

「イヴに起きた事件。俺がやったと思ってるんだろ。俺が赫碧症ってことも調べて知ってるんだろ」
「前々からあんたのことは知ってたけど、あの事件の前の話よ。……誰から頼まれて探してるかって、内心分かってるんじゃない」

「俺がヤバい事件起こして世間からバッシングされたらマズイもんね。例の事件見てヒヤヒヤしてっかな」
「そんなヒネたこと言って。警察呼んだりしないから、事務所帰ろうよ。寒いんだけど」

「一人で帰れよ……」
「あんたあの事件に関わりないんでしょ? ならもっと堂々としてなさい」

「アリバイがない。その日ずっとここで寝てたから」
「寂しいイヴだったわね」

「それに、特徴だって似てるし」
「痩せてる男子中学生なんてこの街に何人いると思ってるの」

「目つきとか……」
「ちょっとハスキー犬に似てるわね」
「そんなん初めて言われた……
 
 いや、それより。
 多少の絞り込みくらいするだろ。俺……いや、知ってるんだろうけど」
「ずっと行方くらませてたら余計疑われるわよ。親んとこには帰らなくてもいいから、事務所には戻りなさい。警察もいつか来ると思うけど」

 有島は忍をどう説得しようかと考えているかと思ったら、すごい閃きでも浮かんだかのように左の掌にげんこつを作った右手でポンと叩いた。


「ああそうだ、あんたうちでクリスマスパーティーしてたってことにしなさい」

「は⁉︎」

「ちょうどイヴにホールケーキとターキー一羽まるごと家にあったから。あんたがいたらいいカモフラージュになるかもしんない」
「なんのカモフラージュだよ‼︎」
「どっちも前に関わった依頼人の店で、今後ともよろしく的な意味で買いに行ったんだけど。
 一人分だけ買うつもりだったのに『今夜はおうちデートですか?』って聞かれて『はい♡』って見栄張っちゃったから泣く泣く買う羽目になった」

「……クリスマスに一緒に過ごす恋人いないんだ……」

「やっぱ警察に売るわ」

「ごめんなさい」

「事件前からあんたのこと探してほしいって言われたのは本当だし、落ち着くまでウチで面倒見てたってことにしよう。警察にも知り合いいるし、私なら信用してもらえるでしょ。人望あるから。
 ……あ、今人望のとこで露骨に疑ったでしょ。まあいいや。流石にケーキは痛むから一人で食べたけど、ターキーは冷凍庫に入れたからまだ残ってるわよ。食う?」

「食う」




 ――――こうして、年越しは一人で過ごさずに済んだ。



 結局あのあと、事務所に警察官がやってきた。

 本当に有島は口裏合わせをして、忍も「行ってない」「やってない」「ここにいた」のゴリ押しで答え通したので、警察もすんなり帰っていった。






 それから一年以上経っても、事件の犯人は捕まらなかった。




「要するに本当はアリバイがないと」
「そう」

「おまけに金銭にも困っていたと」
「そう」



 都倉が柊に何やら耳打ちする。内容は分かりきっている。

「ずっと探してたんです……それこそ血眼になるくらい」
「柊ちゃん。そんなみだりに赫く血走ってちゃいけないよ。心理福祉課行かなかったの?」

 それまで柊の後ろで控えていた都倉が前に出た。彼女の代わりに彼が答えるつもりらしい。

「私はかつて心理福祉課の職員だった。最初は夫妻の顧問として声をかけられたが、柊様のコーピング指導も任された。
お前のような『ヘマ』はしないと保証する」

 柊の指導も兼ねていた点以外は忍が知っている通りの情報を都倉が語る。元々畑違いの職種だったのだから、護衛適正が低いのも納得である。

 一方で、ストレスコーピングの指導員としての実績は確からしいというのは忍としても否定できなかった。体裁が悪かったのかは知らないが、赫保(かくほ)のトップがわざわざ自分たちの娘が赫碧症(かくへきしょう)であることを隠そうとするくらいなのだ。

 先の忍のように赫眼(かくがん)してすぐ実力行使しているわけではないにせよ、既に五分以上赫眼状態を持続しているにも関わらず柊は未だ平然と自我を保っていた。忍であればそろそろ破壊衝動に襲われる頃合いである。

 恐らく今までも継続して彼から指導を受けていたに違いなかった。そう思うと多少なりとも面白くない感情が忍に芽生えた。


「へぇ。二人ってそんな長い付き合いなんだ。嫉妬するだろ」
「本当ですか? 嬉しいです。いつも私ばかりヤキモチ焼いてたから」

「過去は気にしちゃうタイプだから」
「奇遇ですね、私もです」


 柊はこの状況にそぐわないほど穏やかな笑顔を浮かべたと思いきや、その眼差しはすぐカミソリを思わせるほどに鋭く変貌した。

「じゃあ過去の話ついでにお伺いしますけど。所長が中学一年生の頃、十一月半ばに同級生を滅多討ちにしたそうですね。中には一人、女の子も混ざっていたとか」

 忍は身じろいだ。しかし一瞬のことだった。

「俺のことよく調べてるじゃん。探偵かよ。それとも荒川に遅めの御歳暮か早めの御中元でも贈った?」

 柊はその質問を無視した。


「その時の記憶は失くされたと記録にありましたが。何が起きたか、ご存知ないんですか」
「もう自分で調べて、何をしでかしたか全部知ってる」

「そうだったんですか。それで……それでよく、今まで生きてこられましたね。息苦しくなかったんですか」
「そうだな。あれから、人生は思い通りにはいかないんだって気づいたよ」

「辛かったですね。……でも、そろそろ楽にしてあげます」
「待て待て待て。そうやって突っ走るのが悪い癖だぞ柊。俺が死んだらお前寡婦(かふ)だぞ。未亡人になるぞ」
「所長、まだ冗談叩ける胆力あるんですか」
「ンなせかせかせず伴侶の遺言くらい聞いとけや」

 柊は拳銃を下げた。耳を傾けるということらしい。

「まず盗聴器とカメラが仕掛けられた件だけど、本当はお前が指示して都倉にやらせたんだよな。
 で、自分の部屋に大量にカメラ用意させたのは俺がお前の寝室行って眼が(あか)くなる決定的な瞬間撮りたかったんだろ?」

「そうですね。万一目隠しされて襲われた時の保険として。
 でも誰かさんの不手際のせいですぐ外されちゃったから、目視だけで確認しなくちゃならなくなりましたけど」

 言って柊は視線だけで横にいる男を睨みつける。しかし都倉は全く動じるそぶりはない。

「別に確認しなくても過去の経歴知ってんじゃん。なんで自分で確認することにこだわるの」

 黙っていれば清楚な少女そのものな柊が、クスッと蠱惑的な笑みを浮かべた。

「だって、二人とも真っ暗闇で眼が赫く光るだなんてなんだか、素敵じゃないですか?
 その瞬間に『私はあなたが殺した夫婦の娘です』って、言いたかったんです」

「ヘタしたらベッドの上で聞けてたのか。最高だな。飲み会のあと酔い潰れた芝居したのは失敗だったか」
「やっぱり。あの夜私が蒼樹さんのフリして夜這いしてたの知ってたんですね。
 ……私じゃなくて、蒼樹さんと良い雰囲気にさせたほうが確実だったかな」

 柊はほんのりと羨みの色を含めながら自嘲する。

 実のところ身体を重ねられて明らかに感触が控えめなことに気づいてしまい、焦って一気に酔いが覚めたのが真相だが忍の心の中だけに留めておくことにした。

「流石に貞操の危機を感じたから一度調査に連れてってあげたんだよ。見せるとしても碧眼(へきがん)のほうだけど。
 なのに人の気遣い無碍にして全部台無しにしちゃうんだもん」

 流石にこれには本人も反論できないようで、赫い視線の先はあさっての方角に向かっている。

「あと、蒼樹とはそういう関係じゃないって言ったろ。あいつ、俺が赫碧症なの知らないし。てかこの話これで……あれ? 何回したっけ?
 とにかく嫉妬深い女は嫌われるぞ」
「遺言は以上でいいですか」
「いや、まだあるぞ」

 一瞬碧眼が発動しそうになったので忍は両の掌を前に出す「待ってください」のハンドサインを送ることで勘弁してもらった。

「……俺の過去のこと調べたって言ったけど、俺が中一の時同級生乱暴した話。
 あれ、記録上は俺が女の子にサカっちゃって暴走したことにされてるけど、実態は女の子はいじめられてて、その場にいた男子はみんないじめっ子だったの。同じクラスにいた奴は全員知ってる」

 柊は白々しいと言いたげに冷め切っていたが、彼は構わず過去の話を続ける。

「理由は伏せるけどサカった説は真っ赤なウソで、本当はいじめの現場――もう直球で言っちゃうと、悪戯される目前な場面に遭遇して咄嗟に体が動いちゃったの。
 全員俺が現れるまでの状況話さないし、俺自身見たものが見たものだから言うに言えなかったし、学校は学校でいじめの事実伏せたかったから、取り敢えず丸く収めるために俺が悪者にされたくさい」

「……過去の弁解を私にされても困ります」

「つまり俺が言いたいのは、いじめを止めようとしたはずなのに『いじめっ子』も『いじめられっ子』も区別なく両方に乱暴したってことだよ」

 ここまで語っても柊は忍が言わんとしていることを理解していないようだった。忍は仕方ないと思い、今度は遠回しすることなくハッキリと告げる。

「それでお前の両親の事件だけど。さっきの話聞いて、俺が殺人犯すほど心神喪失してたら、柊の親だけ殺して子どものお前だけはお情けで見逃すなんて芸当できると思うか?
 お前現場で赫眼の犯人と鉢合わせしたんだろ? タガが外れた赫碧症者に大人や子どもの区別がつくはずないだろ」
「それは……さっきみたいに冷静な思考状態が保てるうちに手にかけたとしか……」
「もう自分で言ったこと忘れちゃった? 学校で事件起こしたばっかで、赫眼(かくがん)を制御できなかった当時の俺に?」

 柊は微かだが「あ……」と言う声が漏れた。
 そう言われたらそうだ、ではなく、薄々勘づいていたことを言い当てられた、が正解だろう。

「で、なんで柊だけ生き残ってたか俺なりに推理するけど。二人でネットで見たあのニュース、覚えてる?」

 熊谷が忍に依頼を二件頼みに来たあと、「赫碧症の児童により大人二名が負傷」というニュースを見た時のことを柊は思い出した。

「そう、小さな子どもでも赫眼状態なら大人を怪我させるどころか、殺すこともできる。ナイフで急所ひと突きなんてお手の物だろ。そんであの場所に確実にいた赫碧症者、一人いるよな。



 ――――柊、お前だよ」



 確信めいた語気で言い放つ忍を前に、柊の顔は崖から崩れ落ちる寸前の人間のそれだった。それでも何とか崩れ落ちまいと、

「でも。でも、確かに見たんです。赫い目をした、痩せこけて目つきの悪い男の子を……」

 彼女は自身に残された僅かな記憶――最後の希望にしがみつくように、弱々しく返した。

「……極限状態で赫眼になると場合によっては記憶の混濁が起きる。実際になかったことをあったことのように、自分に都合よく記憶を改ざんすることもある。お前の記憶は何の当てにもならないの」

 仮にも一つ屋根の下で暮らした間柄にも関わらず、忍は血も涙もなく柊の親殺しを追及する。わずかに彼がにじり寄ってくるのを恐れ、過剰反応した柊は前足を一歩後ろに下げてしまう。

「そんでもって柊が見た赫眼の少年ってのは、両親を殺した現実を受け入れるのを拒否したお前が作り出した、架空の存在かもしれない。架空の仇を作ることで、自分以外の誰かを憎むことでお前は罪悪感を和らげたかった。……どうだ?」
「極限状態って言われたって……クリスマスイヴの夜中……クリスマスになる直前ですよ。どんな興奮やストレスに晒されるって言うんですか」
「さあ? サンタさんのプレゼント楽しみすぎて興奮してたとか?」
「この期に及んでまだふざける余裕があるんですね」

 柊は忍をキッとにらみつけながら拳銃を構え直す。僅かに震えている両手を携えて。


「あなただって。悪戯されそうだった女の子を助けるためだなんて、都合のいい記憶にすり替えてるだけじゃないんですか。
 女の子に欲情してなかったって、本当に言い切れるんですか」


 そこで忍もちょっと返答に迷った素振りを見せた。が、覚悟を決める。


「柊。これは男の名誉に関わるから墓まで持っていって欲しいんだけど。
 俺が赫碧症って分かってすぐ、母親からのありがたい教育と治療の賜物でね。もう無理になった」


 忍が唐突に告白すると、柊の口から呆けた声が出てしまう。

 柊は自分自身が投げかけた質問が思わず頭から吹き飛び、彼が語った意味を理解するのに時間を要したのか、表情が、全身が固まっている。

 忍は柊の動揺など構わず続ける。

「『あなたのため』とか『赫碧症のせいだから』って言われたけど、本当の理由は穢らわしいことをしてたの見てショックで受け入れられなかったってあとで知った。それからもう俺、家族とか、愛とか信用できなくなったわけよ」



 夜這いをしても、ベッドに誘っても、彼には何の意味もなさない。

 赫碧症であることを知られたくなくて拒んでいたわけではない。

 「何の意味もなさないこと」そのものを知られたくなかったのだ。



「どうしてそのこと、事件の時に言わなかったんですか。お母さんは知ってたんじゃないんですか」

「俺の汚名を雪ぐためにそれはもう大声で喧伝してくれたよ。あの時は軽く死ねたね。
 そうでなくても自分からは言えないよ。言いたくないんだよ普通は。今だって本当は言いたくなかった」

 段々忍が恨めしげに言うので、告白を受け止められずにいた柊は言葉を失う。

「お前言えるか? 仮に好きな人ができたとしてよ、その人も俺のこと好きになってくれて、赫碧症に理解あったとしてもよ。
 『俺中学の頃同級生病院送りにしたことあるし男としての務め果たせないけど結婚してください俺と家族になってください』なんて言えるか? 言えないよな」


 矢継ぎ早に言葉をぶつける忍がだんだん柊の方へ詰め寄り、距離を縮めてくる。



「なぁ、柊。お前も俺の母親みたく、家族のためとか言って本当は自分に都合がいいように家族をダシにしてるだけなんじゃないか――――」

 刹那。忍の碧眼()が「回避せよ」という信号を全身に送っていた。

 回避直後に一発の発砲音が鼓膜を襲う。
 発砲したのは柊ではない。彼女の手から咄嗟に拳銃を奪った都倉の仕業だった。

「やめて! 彼に碧眼(それ)を使わせないで!」
「柊様、こうなっては仕方がありません。秘密を暴かれた以上、二人で奴を始末するしかありません」

「――――――え?」


 彼女は一瞬我が耳を疑った。今聞こえたのは外国語か何かでは、と柊の脳が思い込もうとしている。


「柊様…………ずっと騙している形になって申し訳ありませんでした。
 パーティーのあと、柊様へのクリスマスプレゼントを預け忘れたと気づいて夜分遅くではありましたがもう一度お家に伺った際、ご両親はもう事切れて、その場に柊様が………………。
 証拠の類は全て隠滅させていただきました」

 もしかしたら本当はそうではないのかと。ずっと自分でも思っていた疑念が、旧知の人物から真実だと告げられる。
 二本足で立つことすらやっとで、少しずつ後ろに下がり、都倉から離れたところでついに力尽きた柊がへたり込んだ。

 混乱と深刻な不安に陥ったことで、赫眼(かくがん)の影響が柊にそろそろ出始めている頃合ではないのか。焦りを覚えた忍は彼女の元へ駆け寄ろうとするも、それは叶わなかった。
 都倉の引き金を絞る指先の小さな動きを碧眼(へきがん)は決して見逃さず、駆り立てられるかの如く一目散に彼に向かって体が疾走(はし)ってしまう。


 そして忍には見えていた。都倉が背中に隠した手には本命――――バタフライナイフが仕込まれていることを。


「だから殺気隠すのドヘタクソ…………おおッッとォッ!」



 忍が何かに気づいて大きく後ろへ飛び引いた。
 都倉は突然の不審な行動の意味が分からずに――――

 頭頂部に真上から降ってきた植木鉢が激突して、その場に倒れ込んだ。

 素焼きの植木鉢は床に落下して欠片の集まりと化した。そこそこの大きさだった。


 植木鉢? なぜこんなところに?


 都倉の背後には赤いネスティングラックがあり、一番上に大きな積荷が乗っている。


 そこをよくよく見ると、上――高さ三メートル弱――から四つん這いになった蒼樹が倒れた都倉の様子をしげしげと観察している。

 頭に疑問符を浮かべていた蒼樹と忍の目が合った。


「死なない程度のサイズをセレクトしたつもりだったんだけど」
「お前か、模倣犯は。オリジナルは人の真上に落とさないように気をつけてたぞ」





「わ~ん何この車~~、エンジン音かっこ悪い乗り心地微妙すぎ地味すぎて気分アガらな~い」
「お前の無駄に派手でバカうるさい車で張り込みなんぞできるかい。適材適所だよ」

 都倉が気絶したあと、一旦柊の赫眼が治まるまで落ち着かせ、忍が都倉を担ぎ込み蒼樹が放心状態の柊を連れて現場からトンズラした。
 都倉はひとまずトランクに詰めておいて蒼樹を助手席に、柊を後部座席に乗せてSD倉庫を後にする。


「さっきの会話、全部聞いてた?」
伊泉寺(いせんじ)くんの赫碧症(かくへきしょう)発覚から衝撃のカミングアウトまでしっかり。陰で録音しといたわよ」

「男の名誉に関わるから消してほしいな」
「ンなことどうでもいいわよ」

「…………真剣に悩んでたのに…………」
「そういう意味じゃない。(つごもり)(ひいらぎ)もとい樫井柊が赫碧症で、樫井夫妻を殺害した真犯人、その鍵を握る重要な証拠を消すわけにはいかないの」

 助手席の蒼樹が自分の谷間をチラリと覗かせる。
 KYにも誘惑しているわけではなく、ボイスレコーダーを挟んでいるのを忍に見せつけていた。

「彼女の目が赫くなってた瞬間も二人が痴話喧嘩してた間に撮影済みだから」
「……蒼樹。さっき俺はああは言ったけど、確証があって言ったわけじゃない。とりあえず俺への疑いの目を逸らすために、なんかそれっぽいこと言って一旦柊に罪をなすりつけただけだ。本当に柊が犯人だなんて思ってない」

 後部座席でうなだれていた柊が一瞬ぴくんっ、と肩を動かす。

「ん? じゃあ無理になったって言うのは――――」

 全て言い終わらないうちに忍はハンドルを右手で握ったまま素早く、そして躊躇なく彼女の胸元へ左手を伸ばした。

 が、忍の予想に反し彼女が右手だけで強く掴んで制止する。


「お前、そういう悪い目つきもできるんだな。しかも結構簡単に目が碧くなるのな」
「車トバしてる時もよくなるの」

「脳によくないぞ。この車内赫碧症者(かくへきしょうしゃ)率一〇〇パーセントかよ」
「トランクで寝てる人含めたら七五パーセントだけどね」

「なんで俺のまわりには赫碧症の奴らが集まってくるかね」
「類友じゃない」

「この流れでいくと荒川も赫碧症の可能性ありえるな」
「荒川くんがそうなら旧車の運転中に赫眼になってないとおかしいから」
「そうだった。そういう趣味の持ち主だった」


 二人はいつものように軽口を叩き合っている。

 いつもと違うのは、運転席と助手席の間で二人の手と腕が拮抗し続け、横顔の蒼樹の目つきは険しく、そして碧い瞳を携えていること。

 「フリーの記者、忍の知人である蒼樹華蓮」としては今まで見たこともないと形容できるほどの目つきだったが――――。


「蒼樹さん、もしかして……。昔、私と会ったことがありますか」


 柊が言い終わると同時に、蒼樹が忍の腕を弾き返した。脳への負担のことを知っている忍は、弾き返された腕をもう一度彼女に伸ばす気にはなれなかった。

 バックミラーに映る蒼樹の瞳、そこに薄く灯っていた碧色が徐々に黒の虹彩に溶けていくまで、柊は瞬き一つできなかった。

「『クスリでみるみるうちに痩せた』って、まさか……」
「あーあ、あの時クスリやってなきゃ今よりもっと巨乳だったのになー。あのペッタンコからここまで持ち直すためにバストアップどんだけ頑張ったか」

「髪も、凄く短かったですか」
「昔徒党組んでばっかで好き放題派手やってたら古参グループに睨まれちゃってねー。闇討ちされちゃって赫眼三人同時は碧眼でも流石にキツすぎた。それでリンチされて、伸ばしてた髪短く切られちゃった」

 あの時は逃げるのに苦労したわ、と蒼樹が武勇伝のように語っている。

「ああ今分かった。あのヤクザが事務所に押し入った原因になった『赫眼の鉄砲娘』ってやっぱお前のことだったんだ」
「え⁉︎ そんなことあったの⁉︎ 有島さん教えてくれないんだから……」
「あの日、クリスマスイヴの日に、私の家に来ましたか。その時、眼が赫くなってませんでしたか」
「あの時あなたも眼が赫くなってたから記憶が混濁してるだけじゃない?」
「……どうして、私の眼が赫くなってたと知ってるんですか」
「ただの憶測よ。あなたが殺したんだから赫眼してたんじゃないの?」
「おい、さっきからはぐらかすな。あの日柊の家にいたのかいなかったのか。どっちなんだ」







「うん。いたよ。二階の窓割ったのわたしだから」



 なんてことないように、彼女はケロッと暴露した。
 蒼樹から「一時休戦しよう」と提案があり、忍も承諾して適当な場所に車を停めてから話を再開することになった。



「なんでよりによってクリスマスイヴに忍び込んだんだよ。えらい物騒なサンタクロースが来たなって思われるだろう」
「クスリが欲しくて欲しくて欲しくてたまらなかったのに、『今日はイヴだしやめとくか』ってなるもんですか。
 あの頃はまだヤクザと繋がる前でね。『自前』でクスリの資金を調達してたの」

 薬物乱用で体型だけでなく、顔つきも変わっていたことだろう。忍は「特徴的な目つき」の意味がようやく理解できた。

「痕跡だって残ってただろ。よくバレなかったな」
「こう見えてもわたし、警察のお世話になったことなかったから。有島さんに泣きついたお陰で。
 今まで慎ましく生きてきて良かったわ」

 蒼樹がそこでせせら笑った。得意げな顔をしている。

「お前……」
「怒らないの。(あか)くなるわよ」

 有島自身赫碧症(かくへきしょう)で、忍が犯人でないと証明できるアリバイがなかったにも関わらず彼に協力してくれた件もある。彼女が蒼樹に対して何らかの便宜を図ったとしてもおかしくはない。

 にも関わらず、蒼樹が有島の尽力を陰で嘲笑っていたと考えただけで怒りがこみ上げてきた。

「ヤクザに無理矢理クスリ打たれて鉄砲玉にされたって言ったら病院の人も施設の人もみんな簡単に同情してくれてね。だから誰も通報しなかった」


 麻薬中毒者であれば医師は都道府県知事への届出義務が発生する。
 しかしそれ以外の薬物使用患者であれば国公立病院の医師――つまり公務員――でない限り、警察への通報義務はない。有島が蒼樹のことを想い、然るべき病院を紹介したのだろう。

 だがこれ以上彼女の薬物使用の過去について掘り下げても仕方がない。忍は脱線しそうになった話を元に戻した。

「で、なんで柊の家に狙いを定めたんだ」
「当時はあんま車のこと知らなかったんだけどね、あの家の車庫に高そうな外車が入っていくのをたまたま見て『絶対金持ちじゃん!』って」
「やっぱ事件前に目撃された少年ってお前かよ。で、これ幸いと柊に罪をなすりつけようとしてんのか」
「あ、非行少女が押し入ったってだけで殺人犯にしちゃう?」

 まるで「短絡的発想ね」と言わんばかりな蒼樹の態度に忍は苛立ちを隠せなかった。

「まず木ィ登ったでしょ。ガラス破って侵入したでしょ。そんで二階の部屋一通り物色したでしょ」
「それは知ってる。一々勿体ぶるな」

 片手で指折り数えながら語る蒼樹に忍が早口で急かした。それがますます彼女に余裕を与えていると彼は気づかなかった。

「短気は損気よ。
 で、大したもんなかったから一階に降りてみたわけ。そんでリビングちらっと見たら包丁ぶっ刺さった大人二人転がってるわ、しかも暗闇の中死体のそばで眼を赫く光らせてる女の子もいるわで」

 女の子、のところで蒼樹が後部座席にいる柊に視線を送った。

「まあそれで流石にわたしも恐怖で赫眼しちゃって、とにかくヤバイと思って何も盗らずにとっとと逃げちゃった」

 そこで蒼樹が何かおかしなことを思い出したのかクスッと笑う。


「あのあと犯人のこと『少年』って断定してて、自分のことながら『失礼だろ』って思っちゃった」


 昔の思い出話でもしているかのように語る蒼樹に罪の意識が全く見られないことに忍は薄ら寒さを覚えた。
 しかしそれは本当に殺人を犯していないからではないかと、忍は自分でも知らず彼女の話を信じそうになっていた。

「繰り返しになるけど、わたしは何がなんでも金が必要だった。だからって殺人なんてリスク負うわけないでしょ、普通に考えて」
「本当か? もうその頃にはヤクザの鉄砲玉してたんじゃないのか。指示されて、クスリキメてから押し込みに行ったんじゃないのか。
 赫碧症者を使い捨てにしてる奴らからすれば、派手に動き回ってた樫井夫妻は邪魔だし、殺せば見せしめになる。そうでなくても夫妻を疎んじる有力者から『仕事』だって請け負ってたかもしれない」

 赫眼するのは何も負の感情の増幅だけではない。赫眼していたのは薬物を直前に使用していたからだという可能性を忍は指摘したかった。それなら中学生の少女でも一発で仕留めるくらいは造作もないはずだ。

 そこで忍はピンときた。有島が去ったあと、ふらりと蒼樹がやってきた時のことを思い出す。

「分かったぞ。三年前、有島さんがいないの見計らって自分に関する資料回収するために来やがったな。通りで妙なタイミングに来たと思ったよ」

 そう言うと蒼樹がかなり白けた顔をして、

「なんからしくなくドラマの名探偵っぽく推理してるとこ悪いんだけど。
 仮にそうだったとしてもよ。あんたのとこの前所長さんはそうとは知らず同情心で真犯人を警察から匿って、いたずらに事件を未解決に追いやった節穴さんってことになるんだけど、そう言いたいってこと?」

 などと反論され、忍もしてやられた気分になった。心なしかバックミラーに映る柊も「それはどうなんだろう」みたいな顔をしているように見えたが、きっと気のせいだと思って忍はミラーから視線を逸らした。

 報復のために事務所へやってくるほどヤクザは有島の介入に怒っていた。有島がどこまで調査をしていたか忍は知らない。だがその過程で樫井夫妻殺害事件に辿り着けば、流石の彼女といえども蒼樹を別の夫婦に養子縁組させるなどして徹底的に守ろうとはしなかっただろう。

 念のため忍はこれから事務所で蒼樹に関する資料を当たろうかと悩んだが、すぐに無意味だと諦めた。有島が節穴の持ち主とは思えないし考えたくもないし、仮にそうだとしても蒼樹が事務所へ手伝いに来た時、彼女本人に関する資料が回収されていないはずがない。

 忍の尋問が途切れると、今度は蒼樹のターンになった。


「で、四月に伊泉寺くんからメールが来て、

 『至急樫井夫妻殺害事件についての記事をまとめて頼む』
 『特に夫妻の娘について言及のある記事』
 『事務所に晦柊と名乗る女子高生が接触してきている』
 『現在の姓は母方の弟のもの、写真家』

 って書いてあったから、『あ! あの時わたしが忍び込んだ家の赫眼の子か!』ってすっ飛んできたの」


 忍は舌打ちした。よりによって最も頼ってはいけない人物に頼ってしまったことに。

 荒川に協力を仰いだ後、「蒼樹が当時の事件について調べていると言っていた」と教えられ、忍はつい彼女に頼ってしまったのだ。今思えば荒川にしてやられたかもしれない。PDF化された当時の記事を大量によこしてくれたのも彼女だった。


「状況的に柊ちゃんが筆頭容疑者だったけど、その根拠が『わたしが窃盗目的で不法侵入した時に彼女の眼が赫くなってたの見ました』じゃあね。誤認逮捕待ったなしだし。
 そろそろ揺さぶりかけてやろうかな?って思ったところに一本の電話がかかってきたってわけよ」
「ああ、なんでお前あそこにいたんだと思ったら荒川か。……あいつ不正送金疑われてないといいけど……」
「んでトランクで寝てる人がありがたいことに全部まるっと大声でブチまけてくれたから色々手間が省けて助かったわ。あの人も柊ちゃんが見た『少年』が犯人じゃないってハナから知ってたんでしょ」
「どうして……どうしてずっと教えてくれなかったの……」
「そりゃ『今まで君を守ってきたのは俺だったんだよ柊』って最高のタイミングで告ってスケベする予定だったんじゃない?」

 あまりにも見過ごせない発言だったので忍は蒼樹を思い切り罵倒してやりたくなった。が、それを察したのか彼女も「冗談よ、睨まないで」と謝罪する。

「素直に情でしょ。小さい頃からの付き合いなんでしょ。柊ちゃんが幼くして親殺ししてたって知って欲しくなかったんじゃない」

 柊がガックリと肩を落として項垂れた。

「一応聞くが、お前侵入する前に悲鳴とか聞こえたか?」
「ううん。全然。近所でも悲鳴は聞こえなかったんでしょ」

 自宅に知らない誰かが押し入った、であれば被害者も無抵抗ではなかったはずだ。大声を出してもおかしくはない。

 しかしそれが知り合い、気心の知れた人物――――そして家族であれば。

 難なく家に上がることができる人間ほど、邸宅で本人らに悟られずに殺すのは容易である。

 蒼樹が犯人であるならば、都倉はあのようなことを言うはずがない。やはり彼女は本当に窃盗目的で押し入っただけで殺人犯としてはシロなのか。

 そうなれば、残る候補はもう一人しかいない。


 柊は不安が消えないままバックミラー越しで忍の深刻な面持ちを見る。忍もまたバックミラーに映る柊を見て一つの決断を下す。




 
「柊。都倉と話をしてやれ。……もう、最後になるかもしれないからな」
 河川敷へ向かう。かつて忍が一人寂しくイヴを迎えていた場所。大晦日に有島に見つけてもらった場所。碧眼の件で事務所を飛び出して不貞腐れていた場所。同じ河川敷だった。

 柊が逃げないように蒼樹が彼女の側に、また勝手に蒼樹が彼女を連れ去らないよう車の鍵は忍が持つ。

 トランクから都倉を運ぶ前に車の中に置いていた結束バンドで手足の自由を奪ってから担ぎ上げ、なぜか蒼樹が「予備」と言って渡してきた底穴なしの割と大きめ――あの時これを使っていたら絶対に死んでた――の植木鉢を持って河辺で水を掬ってきた。蒼樹がそれを見て「それで殴るんだと思った」としれっと酷いこと言う。流石にそこまで鬼じゃないと忍は都倉の顔に水をぶっかける。

 都倉は最初は何が起きたか理解できないと動揺を隠せていなかった。

 が、すぐそばで膝をついた柊を見つけてすっかり大人しくなってしまった。

 柊は都倉に話す前にまず忍の顔を下から見上げる。

「今分かった、叔父がずっと私から離れてた理由。
 事件のあと、私が小学校を卒業するまでは叔父も国内にいたんですけど、いつも家にいたくないような、私と二人きりになりたくないような雰囲気を感じてました。
 私が赫碧症《かくへきしょう》だから……だけじゃなくて、内心私が犯人なんじゃないかと思って、実の親も殺せる子どもだと思って、怖かったんですね。それで一緒にいたくなかったんだ」

 世界中から評価されている写真家で、各地を転々としているから彼女を一人置き去りにしたのだと思っていた。それもあったのだろうが、忍は柊から聞かされてようやく叔父の本心に、そして叔父夫婦が「小五になる前に離婚した」の理由に気づいたことを恥じた。

「通りで他の親戚も私と関わろうとしないんだと思った。叔父は子どもがいなかったから、貧乏くじ引かされてたんですね。
 でも叔父のことを責める権利ありません。私も家族より自分が一番大事だったから」

 柊は気丈に笑ってみせたが、感情を伴わない乾ききった表情に忍は痛々しさを覚えてしまった。

「柊――」

 忍は反射的に心の言葉が口から漏れ出そうになった。その前に、柊はゆっくりと顔を左右に振ることで「これ以上なにも言わないで」と暗に伝えた。

「今までご迷惑をおかけしました。私のおままごとに付き合わせてしまって本当にごめんなさい」

 最後くらいは笑って別れたい。そんな想いが嫌というほどに伝わる、愛執と哀愁の入り交じった作り笑いだったのが忍は悲しかった。

 もう柊は忍から顔を逸らし、都倉の方を見る。結束バンドで自由を奪われ、ずっと横になっている都倉がややシュールに見えた。

「今まで私のこと庇うために九年間ありがとう。でも、もっと早く教えて欲しかった。……ごめんね」

「柊様。おやめください。当時あなたは九歳で、赫眼していたのです。自首しても罪には問われません。行っても無駄です」

「でもいつまでも未解決事件だったら、私が所長のことずっと疑ってたみたいに、目撃された少年と同世代ってだけな人たちが疑われ続ける。そんなの許されない」

「あなたが余計なことをすれば、赫碧症者が今以上に差別されます。それをお分かりですか」

「痛いとこ突くなあ……。でも私が自首しなかったら、そこの女記者さんが全部大々的に記事にしちゃうから。遅かれ早かれそうなるよ」

「やめてください。自首なら私がしますから……」

「都倉……それはあんまり……」

「違うんです。あの日、柊様の両親を殺害したのは私なんです」

「いや、だから……」


「あの日、クリスマスパーティーに私も参加させていただきましたよね。
 
柊様が二階のお部屋に戻られた際、ご両親とお話しました。プレゼントを預けて帰ろうとした時、ご両親からあなたの今後について打ち明けられました。
あなたが中学に上がった暁には赫碧症(かくへきしょう)であることを公にした上で


『赫碧症者に不利な法令は憲法違反であり人権侵害』
『赫碧症者でも適切な訓練を受けるだけで共生できる』


 などと、いずれはマスメディアの前で大々的にスピーチさせる予定だから、今のうちに練習させてやってほしいと、頼まれました」




 都倉の告白に、全員が息を呑んだ。

 
  ◇◇◇


 
 赫碧症(かくへきしょう)でも頑張ってたくさん友達を作りたい。

 そんな自分の姿を両親に見て喜んで欲しい。


 嬉しそうに語る幼い少女の純粋な願いに、思わず心を動かされたことを彼は今でも覚えている。

 元々心理福祉課の職員であり、それまでの実績で赫保のメンバーである樫井夫妻から直々の指名を受け、柊のコーピング指導者――表向きには夫妻らの顧問、赫碧症の専門家と言う立場――として転職した。

 彼は彼女の想いに応えるべく支え続けた。「適切な訓練」など月並みな言葉で語れるものではない。
 柊の人生が豊かに、幸せになることを願った彼の献身と愛だった。
 表向きの立場も、柊の不利益にならないための配慮だと信じ夫妻に対しても好意的に接していた。あの日、あの夜までは。

 夫妻から、今まで自分が任されていた仕事は「プロパガンダ」としての「英才教育」のためだったと知らされ、愕然とした。彼女の希望や、行く末が暗く閉ざされていく気さえ覚えた。

 この夫妻は彼女の保護者には相応しくない。話を打ち明けられた瞬間、失望より先に殺意が芽生えた。

 実行後、すぐに自首を考えた。

 しかし都合がいいことに窃盗――「赫眼(かくがん)の少年」が侵入する。

 一階で柊と、凄惨な一面に遭遇して恐怖で(あか)く眼が光った「少年」が鉢合わせした。

 運命だと思った。自分こそが彼女の保護者としてふさわしいのだと。そして神がそのお膳立てをしてくれたのだと。

 都倉はこの侵入者こそが犯人になるよう凶器から自分の指紋を拭き取り、更に柊に証言させることで世間の目を欺くことに成功する。

 彼女が赫碧症と知って腫れ物に触る態度の叔父の心理を突き、脳への負担が激しい碧眼になる場面が出ないよう目を光らせるために彼女の護衛を申し出た。

 叔父はお払い箱にできると簡単に彼を姪の護衛に指名する。指導者としての実績を信じていたという理由もあった。

 その後違法な手段で銃火器を揃え、彼女の護衛に徹するようになった。



 ――――これが、都倉が告白した全てだった。



  ◇◇◇
 


「……最悪なクリスマスプレゼントしてくれたなお前。それで、俺が柊を横から掻っ攫おうとしたから銃弾贈りつけたりガラス割ってまで牽制しに来たり、チンピラに襲わせたりしたのか。精神年齢いくつだよ」

 忍は皮肉で言うつもりだったが、どうしても声の震えを抑えることができなかった。

「得体の知れない男が自分の娘に近づいても腹を立てるなと言う方が難しい」
「――娘? 誰が、誰の娘ですって?」

 ずっと黙って膝をついていた柊が都倉の言葉にピクリと反応して、ゆっくりと立ち上がった。顔は下を向き、眼は前髪で隠れている。

「じゃあなんであの倉庫にいた時、私が罪を着せられそうになった時、自分が犯人だって自白しなかったのよ。それどころか所長に便乗して……娘に罪をなすりつける親がどこにいるのよ……」

「柊、それは違う……」

「よくも……今までのうのうと…………」

「柊……私だけが君を幸せに……」

「やめて! 気安く呼ばないで!」



 柊の両親は自らの信念を建前に娘を自分たちの道具にしようとしたのかもしれない。

 だが都倉は都倉で、「柊の将来」を建前に彼女を欺き続けていた。


 突然柊は忍を突き飛ばしたかと思えば、彼のポケットに入っていた拳銃を奪った。
 セイフティを解除し、当然のように彼女は両親の仇へ照準を合わせる。
 突き飛ばされた忍も、そばにいた蒼樹も彼女を止める素振りを見せない。
 都倉も、ただ処刑を待っている。

 そんな一触即発のシーンで、忍が「柊」と声をかけた。

「止めないでください!」
「いや、そうじゃなくて」

 柊が横目で忍を見る。底穴なしの植木鉢を持っていた。
 手で揺らすと中からカランコロンと音が鳴る。そして中身が見えるように柊の方へ傾ける。





 ――――中には、五つの銃弾が隠されていた。



 それを見て、柊は力任せに引き金とグリップを握り壊した。
 都倉はその後、樫井夫妻殺害事件の犯人だと出頭した。

 動機は個人的怨恨――――表向きには、だが。

 柊にマスコミの目が向かないよう、彼はあらゆるものからの矢面に立つつもりに違いない。

 柊は激情が収まってしばらくしたあと、やはり自分に非があるのではと思い悩んでいた。都倉の告白が事実なのか、本当は自分を守るために嘘をついているんじゃないかとまで言い始める始末だった。

 柊も植木鉢事件以降、都倉が違法に狙撃銃を所持していたことを知りながら隠すよう彼に指示していた。おそらく彼女は正直に警察に話すだろう。

 忍は心細くなっている柊にかけるべき言葉も見つからず、そのまま二人は離れ離れになってしまった。



 都倉と柊に付き添っていた忍と蒼樹も警察署でしばし足止めされたが、想像よりも早く解放される。そんな時「おーい」と署内で聞き慣れた男の声が聞こえてきた。

「二人とも、お勤めご苦労様」

 知的そうなメガネの男が二人の元に歩み寄る。刑期を終えたヤクザじゃないんだぞと忍は内心毒づくが、それよりもこの場にいない彼女のことが気がかりだった。

「柊は? もう帰った?」
「それは楽観視しすぎだろ。流石に彼女はまだまだかかるから、お出迎えしないで今日はまっすぐ帰るんだな。
 彼女の叔父が手配した代理人が来ることになってるから、ま、心配すんな」

「叔父ともう連絡取れたのかよ。こういう時だけスピーディーだよな警察は」
「いや、薬銃の俺に言われても……捜一の管轄だし…………」


 荒川に聞くところ、スモーキードッグとの一件はそもそも最初からなかったことにされたようだった。

 警察に「自称未解決事件の真犯人に頼まれて女子高生を拉致した挙句ボコられました」などと被害届を出せるはずもなく。これ以上の面倒には首をつっこまない、と判断したのだろう。都倉も、柊のことを思いあの一件のことは話していない。

 あそこで拾った拳銃と銃弾は、事前に連絡した荒川に「なんとかしてくれ」と言って押し付けておいた。

 赫保(かくほ)は今頃慌てているだろうかとあまり期待せずに聞いてみるものの、都倉が個人的怨恨と主張している以上知らぬ存ぜぬで通すのではと予想通りの答えが返ってきた。都倉もまた赫保の名前をヘタに出せば、樫井夫妻の娘であり赫碧症者である柊の立場が危うくなるのは重々承知しているだろう。

「お前今回周辺人物食い物にしすぎだろ」
「余裕ができたから今度焼肉にでも連れてってやるよ。
 お前もあんま人の名前使って好き勝手するなよな。名誉毀損罪で告訴するぞ」

 何食わぬ顔で柊に忍の情報を売り、忍に柊の情報を売り、ついでに蒼樹にも情報を売り、今回の件で一番得をしたのは荒川に違いない。

 したたかな男ではあるが、案外忍はそこが気に入っていた。

 中学生の頃の話とはいえ、前科持ちの赫碧症者(かくへきしょうしゃ)だと知っていても区別なく接する彼のことが嫌いではなかった。

 逆に大損したのは蒼樹かもしれない。せっかくの一大スクープのチャンスを忍に止められてしまったからだ。慌てて帰国して嗅ぎ回り、荒川に袖の下を送ったというのに最早全ては水の泡である。

 もし彼女経由で事件が露呈していたら、柊のことがスキャンダラスに報道されるのは火を見るより明らかだった。そこらへんは知り合いだろうが容赦しない女だと忍は身に染みるほどに理解している。

 ただ都倉が犯人だと確定さえすれば、イヴに現われた「赫眼(かくがん)の少年」はただの見間違いか物騒なサンタクロースとして扱われるだろう。「ヘタしたらお前が殺人犯として冤罪を被っていた可能性もあったんだから、このくらいの大損は安いもんだと思え」と忍は不満げな蒼樹を黙らせた。
 倉庫で伸びていたスモーキードッグの構成員らを見て、蒼樹も忍相手には分が悪いと悟ったのか、渋々といった顔でボイスレコーダーのデータと赫眼していた柊の写真を削除した。

 二人が揃って荒川から背を向けると、去り際に「ああそうそう」ととってつけたように後ろから声をかけられる。


「機会があればでいいんだけど。晦さんに『ダックワーズおいしかったよ』って伝えておいて」



 

 
●五月三十日(木曜)

 近くのカフェで忍は蒼樹と会っていた。取材で近日海外へ向かうになったので、荒川抜きの二人でコーヒーを飲みながら簡単な送別会をしていた。
 事件のほとぼりが冷めるまで日本を離れるのだろうと忍は思ったが、それは言わぬが花である。


「ねえねえ。結局伊泉寺(いせんじ)くんは今はどうなの? まだ無理なの? どっちが本当?」
「今夜事務所の裏口の鍵こっそり開けとくから遊びにおいでよ」
「誘ってくれて光栄なんだけど、あの若奥様が『泥棒猫やめてくださーーーーい‼』ってうるさそうだからやめとくわ」
「ああ、うん。そうだね……」
「そうだった。あの娘、事務所を出てったのね」


 先に荒川が言った通り、柊の叔父にも連絡が入った。

 自分が直々に指名した姪っ子の護衛が今頃になって自分の姉を殺したと主張し始めたのだ。代理人に連れられた柊は事務所に帰ることもままならず、すぐにマンションへ連れ戻されてしまった。

 ちなみに銃を隠すよう指示した件は都倉の自供と食い違うとのことで、結局何のお咎めもなかったらしい。

 ついでに二人が結婚したことも露呈し、代理人から忍宛に一通の封筒が届いた。

 まずはドシンプルに「離婚しろ」と記された文書。

 そして彼女に渡した事務所の合鍵。

 ただ、封筒には柊が書いた離婚届は同封されていなかった。

 彼女のマンションは売却することになるそうで、柊があそこを離れる前に忍は自宅に残っていた彼女の私物を全て宅配で送った。

 あれ以来彼女とは一度も会っていない。



 柊について考えているうちにボーッとしていたようで、蒼樹が「伊泉寺(いせんじ)くん、伊泉寺くん」と忍に再三呼びかけていた。

「な~んかあの場では誤魔化された気がしてきたんだけど。あの人の自白以外に柊ちゃんの無罪を証明するもの、なくない?」

 あの場では何も言わずに忍の指示に従った蒼樹だが、未だにボイスレコーダーを消されたことを根に持ってるようで、手にしたマドラーを顔の横で左右に揺らした。忍は「あれか」と答える。

「あいつ。ガラスとかモノが割れる音に敏感なんだよ、今でも。あの事件のことを思い出すから。真に迫ると言うか……酷い怯え方をしてた」

 都倉が真夜中に無断侵入した時。ダイニングで皿を割ってしまった時。特に柊の態度がおかしいのは昔の事件のためだろうと忍は内心気づいていた。
 トラウマを植え付けた張本人である蒼樹が目を泳がせながら手持ち無沙汰にマドラーをかき混ぜる。

「けど、伊泉寺くんだって言ってたじゃない。赫眼(かくがん)で記憶を改竄することもあるんだって。わたしが窓割った後、すぐリビングに降りて赫眼したかもでしょ?
 わたしがお邪魔した時までは本当の記憶、それ以降はウソの記憶。それならガラスのトラウマがあっても矛盾はないでしょ?」

 忍は陶器のコーヒーカップをスプーンでキンキンと音を鳴らす。

「お邪魔した後ってことは、お前が侵入した後すぐ下に降りて実行したってことか。ならお前、どのくらい二階で物漁りしてた?」
「そりゃ全部の部屋よ。トイレも含めて隠しものがないか隅々とね」
「柊も言ってたけどお前、子ども部屋まで行ってたらしいな……」

 当時中学生とはいえ蒼樹の節操のなさに忍は呆れるも、「まあともかく」と続きを口にする。

「結構二階には長く留まってたんだよな。それで、両親を殺してお前が下に降りるまでの間、赫眼したまま死体の前でただボーっと過ごすと思うか? もっと部屋の中で暴れてるか、ナイフを持って二階にいたお前をめざとく探してたかもしれないぞ」

 蒼樹は「そんな怖い事言わないでよ」とでも言いたいのか露骨に眉を顰めた。

「要するに、赫碧症者の犯行にしては『行儀が良すぎる』んだよ。俺の時はもうちょっと辺り一面散々になってた『らしい』から」

 忍はパンケーキの上のに形よくホイップされたクリームにシロップを垂らした後、ぐちゃぐちゃとフォークでかき混ぜた。
 その様を見て、蒼樹が「まあ柊ちゃん犯人説はここで手打ちにしとくとして」と話を一旦区切る。


「伊泉寺くん、あの人が自白するように上手く誘導してたでしょ」


 本格的に「あの人」――都倉の話に入った途端、忍はそれまで手をつけていなかったパンケーキやコーヒーを飲み食いし始めた。

「本当はあの人でも柊ちゃんでもない第三者が真犯人で、それを知らずにあの子のことを犯人だと早合点して証拠隠滅したり、ウソの自白をしたかもしれないじゃない」

 そこまで言って「あ、第三者ってわたしのことじゃないからね」と蒼樹こと元「赫眼の少年」が慌てて訂正する。

「そうかもな。あいつ、柊バカだから。やりそうではある」
「警察連れてく前に一応確認してあげても良かったんじゃない?」
「知ったこっちゃない。あいつのせいで、色々面倒な目に、遭った」

 咀嚼音を立てながら話す同席者に対し蒼樹は「喋るか食べるかどっちかにしてよ」と行儀の悪さを表情だけで訴るが、本人はスルーする。

「いいんだよ。警察じゃない俺が自白に誘導したところで、罪に問われる、わけじゃなし。あとは警察の仕事で。あいつが冤罪、だったとしても……」

 一度言葉を止め、忍はぬるくなったコーヒーを一息で飲むことでパンケーキを無理矢理胃の中へ流し込み、空になったカップをテーブルの上にコトリと置いた。

「それは警察や検察の責任で。どんな結果になろうが俺の責任じゃない」
「伊泉寺くん、冷たいこと言うのね」
「あいにくドラマに出てくる名探偵と違って、こっちは血も涙もないからね」

 いつかの彼女のセリフを引用しながら自嘲する忍に、蒼樹は薄く苦笑した。

 パンケーキを完食した忍がナフキンで口元を拭ってぞんざいに丸めたそれを皿の上に放ると、彼の目線は蒼樹へと移る。

「そう言えば蒼樹、ずっと聞きたかったんだが……」

 マドラーでかき混ぜられているコーヒーに視線を落としつつ、蒼樹が「ん?」と返事をする。

「お前。有島さんのこと、本当はどう思ってた。お人好しだって、内心嘲笑ってたか」

 あの時は状況が状況だけに深く追及できなかったが、忍はずっと気がかりで仕方がなかった。有島の好意がコケにされていたのなら、彼としては許すわけにはいかない。

 蒼樹がコーヒーを一口啜ってから答える。

「正直『クソチョロいなこの女』とは思ってたよ。同類相憐れむってやつ?」
「そうか。やっぱ有島さんが赫碧症なの知ってたんだな」
「赫眼対碧眼でキャットファイトしたからね。それで三年前の今頃再会したんだけど」
「三年前の今頃? 事務所出てったあと、お前に会いに行ったのか?」

 忍は有島のその後の消息を思いもよらない場面で知り、しかも蒼樹に会いに行っていたことに驚き、つい語尾が上がってしまった。


「『今事務所に行ったら面白いものが見られるから行ってこい』って教えられた」

「………………」


 妙なタイミングで来たなと当時忍は思っていた。それがまさか有島の差し金だったとは。

「今思うと完全にハメられたわね。まんまとあの人の思い通りにさせられちゃった。
 まあ、縮めた寿命分の借りぐらいは返してやるのもやぶさかでもなかったから」

 言って蒼樹は既にフレッシュが混ざりきっているコーヒーをマドラーで手慰みにかき混ぜる。なんとなくだが、その様がどこか物悲しげに映った。


「もう元に戻りそうにないのね」

「寂しいか」

「違う。このコーヒーのこと。賞味期限でも切れてたのかしら、このフレッシュ。
 やっぱブラックで飲めば良かった」


 蒼樹はなんてことないように愚痴をこぼした。ただ、そのなんてことないような言い方で、忍は蒼樹に対するわだかまりが解けた気がした。
 少なくとも彼の抱える喪失感を共有できるのは彼女しかいない。今ならそう確信できる。

 湿っぽい流れを変えるべく、忍はいかにも深刻そうにバカでかいため息をつく。

「二十一にして早くもバツイチか……」
「落ち込まないの。今の時代離婚歴があるなんて珍しくともなんともないんだから」
「離婚歴が男の勲章になるって話本当?」
「ンなわけないでしょ」



 出国前に時間を作っておいてくれと蒼樹に約束させ、送別会は適当にお開きとなる。
 特に予定はなかったが、このまま帰るのも名残惜しくなり忍は一人あてもなく街を徘徊することにした。


 ビルから植木鉢が落ちそうになった場所。
 開店時間前のラーメン店。
 タワーマンションが立ち並ぶ駅前に足を運びそうになったが、すぐに引き返す。
 そして、あの河川敷にもう一度訪れた。


 そうこうしていると時刻はもう五時を過ぎた頃。まだ早いが外食でもしようかとファミレスが目に入る。
 が、忍はやや空腹を覚えつつも店の前を通り過ぎた。何か引っかかりを感じて、どうしても食べる気になれなかったからだ。
 もう誰が待っているわけでも、迎えてくれる人がいるわけでもない、彼の自宅兼事務所に直行するだけだった。

 マスコミや世間はと言うと、期待していたような新事実でなかったことに露骨にがっかりしているらしい。犯人として自首した人物が普通の人間、しかも個人的怨恨と赫碧症(かくへきしょう)絡みではなかったと判明したからだ。

 一方、都倉は赫碧症の有力者の身代わりで出頭したとの陰謀説まで飛び交っている。

 どちらにせよ、「犯人が赫碧症だったら面白かったのにな」という集団心理である。

 そう思うのも無理はない。自分たちの危険性を十分すぎるほどに頭では理解している。「赫碧症だから仕方ない」と正当化するつもりもない。

 取り返しのつかない過去を持ちながら、あまつさえ同じ立場の人間をこれまで何人も追い込む手助けをしてきた。そんな彼が世間に抗弁する資格など、どこにもありはしない。

 それに碧眼(へきがん)をもう何度使ったことだろう。自分もいずれ有島や有島の友人のように憔悴しきった末に死んでしまうのだろうかと、遠くないであろう未来に彼は思いを馳せる。

 あのラーメン店の家族のような温かな居場所を求めるには相応しくなく、これからも自分一人で生きていくだけだと諦めるしかない。忍は改めてそう思った。
 しかし同時に、とある男性の言葉を思い出していた。
 


 ――今日だけは、自分が赫碧症として生まれたことを感謝しないと。
 




 そんな柄でもない感傷と自己憐憫に浸りながら事務所にたどり着くと、扉の前で立ち尽くしている人影が忍の目に映る。

 「外出中」のプレートを出したのだからまた出直してくれば良いのに。それかさっき到着したばかりなのだろうか。

 だが忍には待ち人が誰なのかなんとなくアタリがついていた。



 上品さを醸し出す落ち着いた茶色のブレザー――スカートから伸びる黒タイツ――顔は小さく、肩は華奢。やや明るめの長い髪――――。



 こんな庶民染みた事務所の前に佇むには不釣り合いな、彼の伴侶だった。


「良かった。そろそろ来る頃じゃないかと思った。ずっと待ってたよ」

 彼女は後ろから目的の人物に、思いもよらない言葉をかけられたことに驚いてくるっと振り向く。透けるような髪がふわっと広がった。

「中に入って」

 穏やかな口調で、レディーをエスコートするかのように彼が扉を押さえ、彼女を事務所の中へ迎え入れる。
 


 電気も付けていない、外の明かりだけが差し込む暗い部屋の中。
 いつかのように柊が来客用のソファに座っていた。

「あの、覚えてますか? 所長が有島さんと交わした契約書を見せてくれるって……」

 忍はデスクの引き出しから封筒に入っていた一枚の文書を持ってテーブルの上に広げる。
 ただしそれは、柊が言っていた契約書のことではない。


 一部記入があり、一部記入がない――――「離婚届」。


 既に忍の分の記入と押印は済ませてあった。あとは妻側、つまり柊と、証人二人の署名と押印だけで完成する。

「ここに記入して。証人は蒼樹と荒川に頼むから。そしたら、ここにはもう二度と来るな」

 忍は急に態度を豹変させ、有無を言わさぬようにデスクペンを柊の手元へ乱暴に叩きつけた。そんな彼の剣幕に気圧されて、彼女も大人しく従ってゆっくりとペンを握る。


 本来出会ってはいけなかった二人。本来そばにいてはいけなかった二人。
 紙切れで始まった関係は、紙切れで終わらせなければならない。

 氏名、生年月日、住所、本籍、――――届出人。

 その全てを、柊は一画一画刻みつけるようにペンを走らせていた。

 いつかのように印鑑ケースから中身を取り出し、テーブルに用意されている捺印マットと朱肉を手元に寄せる。
 朱肉に印鑑の面をポンポンと軽くつけ、押印をしようと――
 しようとするのだが、押印する手がピタリと止まった。


 いつまでも柊がそうして固まっているので、業を煮やした忍が強引に離婚届を引ったくってしまう。

「……押印はなくてもいいから」

 もう用は済んだと忍が腰を上げようとしたその瞬間、「所長」と柊に呼び止められる。

「所長、手を広げてもらえますか」

 意図は分からなかったが、忍は一度着席し言う通りに彼女に手を広げた。
 柊は忍の左手に手を添え、印鑑でぎゅっと押印する。

 忍から見て正向きに、「晦」と書かれた朱い文字か掌についていた。

 柊が、はにかんで笑んでみせた。

 その顔が、二人でラーメン店に行った時に見た植木鉢の少年の――平穏と安息と、家族のぬくもりで守られていた笑顔と不意に重なってしまう。


「柊、あんまり困らせないでくれよ。叔父さんのところへ戻れ。お前の唯一の身内だろ。お前をここにいさせるわけにはいかないんだよ」

 忍の忠言に、柊は目をぎゅっと閉じて顔を左右にふるふるして自分の意思を示す。

「俺が何したか、何してきたか知ってるだろ。だから、お前の家族にはなれないんだよ。駄目なんだよ……」

 彼は再度嘆願する。潤み声を抑えることもままならぬまま。柊が瞼を開けると、今にもこぼれそうなほどに涙を貯めていた。彼女の潤んでいる瞳に忍の視線はあっけなくも吸い寄せられる。



「ここが私の家です。あなただけが今の私の家族です。何年も遠くで暮らしている人より、あなたが私の家族です。もうあなたしかいません。

 ――――だから私、もう一度、所長の家族になるための本当の契約がしたいです」


 
 真剣で、懇願するようで、途切れ途切れで、懸命な告白。
 どう返せばいいのか。そんなの分かりきっている。

 帰れ。

 それだけで良かった。

 

「……窓…………」

「窓が、どうかしましたか」

「窓、柊に綺麗にしてもらわないと。また、忘れるから…………」



 どうしてか結婚を承諾した日のことを思い出して、あのセリフが頭をよぎり、気づいたらこんなことを口走ってしまった。


「忘れてること、もう一つありますよ」


 悪戯に笑む柊が、人差し指を口元で立てる。
 




「名前。

 ここにいる間は気安い名前で呼ぶの、ダメなんでしょ?」
 作中に登場する「赫碧症」は架空の症状であり、特定の疾患等をモデルにしているものではございません。
 また、特定の疾患・ルーツ・来歴等、あらゆるすべての差別・偏見を容認、肯定する意図もございません。
 
 作中で主人公や依頼人の一人である女性が、恋人が赫碧症であるという情報を取得する描写がございますが、実社会の探偵業法では犯罪行為や違法な差別的取扱いをするための調査を探偵業者に依頼することはできません。また、探偵業者も調査結果が犯罪行為や違法な差別的取扱い等に用いられると知った時は、当該業務を行ってはならないと定められております。同法に抵触し、公安委員会の指示に違反した探偵業者は懲役または罰金が科せられます。
 
 同様に依頼人の一人である経営者が、従業員が赫碧症であるという情報を取得する描写がございますが、実社会の個人情報保護法では個人情報取扱事業者が「要配慮個人情報」を本人の同意なく取得することをしてはならないと定められております。同法に抵触し、個人情報保護委員会の勧告及び命令に違反した個人情報取扱事業者は懲役または罰金が科せられます。

 

――平成二十七年に要配慮個人情報の規定が新設された「改正個人情報保護法」が成立・交付、平成二十九年全面施行

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