●五月十八日(土曜)
柊の態度が少しおかしくなった。
いつも心ここにあらずで、ぼうっとして鍋が吹きこぼれても気づかなかったり、トイレに用があって忍が二階に上がるとダイニングで人形のようにテーブルに肘をついて椅子に座っている姿が目に入ったり、とにかくいつもの元気がなかった。
一緒に食べる朝食も口数が少なく、沈黙に堪えられなくなった忍の方が喋り倒す有様である。
そんな日が続き、ついに今日柊が皿を割ってしまった。
食後にダイニングでのんびりと茶を啜っていた忍が慌てて駆け寄ると、破片を触ってしまって指から血を流している柊が目に映る。
それだけではない。小さいながらも息が荒い。肩も小刻みに震えている。フローリングの上の破片と自分自身の赤い血から目を離せないでいる。
「バカよせ、触るなって。すぐに洗面所行って洗い流してこい。破片は俺が拾っておくから」
そう言って柊を洗面所に行くように促し、忍は箒とちりとりで大きめの破片を片付け、物置部屋から有島が置いていったストッキングを一つ拝借させてもらい掃除機の先端に取り付けて細かい破片を拾い集め、塗れた新聞でフローリングを拭くなど一連の作業をしても、洗面所から水が流れる音が止まなかったし、柊も出てこなかった。
そんなに深い傷だったのだろうかと忍は心配になり、救急箱をテーブルの上に用意してから洗面所の彼女の様子を伺う。
相変わらず彼女はぼうっとしていて、指の傷口より鏡に映る自分を見つめている。
「もうそのくらいでいいだろう。ほら、ボーッとしてないでこっち来い」
忍に手首を掴まれてから柊はようやく意識を取り戻したかのように、彼に引っ張られながら自分の足でおぼつかなくも歩いた。
二人は隣同士でダイニングの椅子に座り、忍は「浅そうだな」と傷口を見てガーゼを用意する。
「止血するから押さえるぞ」
ガーゼを使って柊の手を取って指の傷を押さえる。忍はしばらく止血に意識を取られていたが、ふと視線を感じて柊の方を見るとポーッと憂いを帯びた顔で見つめられ続けていたのに気づいた。
ちょっと妙な雰囲気になってしまったかもしれないと、そろそろ止血も十分な頃合いだと思って絆創膏を貼って手当を済ます。
ありがとうございます、と普段の柊なら言うのだが、それすら言わずにただただ沈黙していた。そんな彼女に忍も努めて明るく話しかける。
「どうした、元気ないな? 学校で、なんかあったか?」
「すみません、色々考え事があって、心が嫌にざわついて、居心地の良さがあって、悪さが同居しているというか……」
いやに抽象的な言葉を使っていた。これは重傷かもしれないと思い「今日は俺が食器洗うから、もう風呂入ってこいよ」と彼女の肩を軽くポンと叩くなどして忍なりの気遣いを見せた。
「あの、所長、お願いが……」
言いかけて柊はハッとして口をつぐんでしまう。
「所長、食器お願いします。お先にお風呂失礼しますね」
そう言って柊はエプロンを外し、スリッパをパタパタさせながら脱衣所へ向かった。
風呂から上がった柊はそれきり寝室へ引きこもってしまった。
◇
物置部屋もそろそろなんとかしなければと思いつつも、忍は未だに事務所のソファで寝る生活を続けていた。
その日は深夜遅くまで寝間着姿のまま、パソコンと紙の資料を睨めっこしていた。ただし残業というわけではない。
画面にはPDF化された新聞記事が複数開いている。そして荒川から横流ししてもらった警察内部資料のメモ書きには「樫井夫妻殺害事件・犯人像」と書かれており、中身の方は要約すると次の二点である。
・樫井夫妻の長女が目撃した「少年」は赫眼していた。
・「少年」は二階には痕跡を残していた一方、一階は玄関のドアノブについた指紋以外何も残していない。
トップクラスの人間が都倉に殺されたと知れると体裁が悪い赫保の強い圧力で、当時の記事のどれを漁っても明らかにされなかった事実である。警察だけでなく、マスメディアにも圧力をかけたのだろう。
忍は手にした警察内部資料の一つ、当時の容疑者リストに連なった名前を眺める。年齢、学校、住所、犯行当時のアリバイまでご丁寧にリストアップされており、五十音順で並べられていた数十人の氏名は全て男性名だった。
そのア〜オ行の欄に、見慣れた漢字四文字の男子中学生の氏名を見つけ、忍はため息をつきながら資料を裏返して机の上に置く。
今度は一度ブラウザを最前面に表示して、検索バーに柊の苗字――「晦」「つごもり」で検索をかける。すると上位に「晦昌紀」、風景写真家の情報がヒットした。
次にその名前で検索するとサジェストに「樫井夫妻殺害事件」が表示されている。
現在は消されているが、事件や叔父のウィキペディアの編集履歴から晦昌紀が樫井夫人の弟であると容易に辿ることができる。
これと全く同じ手順を、彼は四月八日――柊が来所している最中――に行った。
一瞬とはいえ初対面の時に碧眼していたのを見られていただろう。
樫井夫妻殺害事件の犯人と同世代、赫碧症の探偵が構える事務所に転がり込む樫井夫妻の一人娘。
本来なら、すぐに事務所から叩き出すべき存在である。
外から扉をコンコンと叩く音が鳴った。こんな非常識な時間に訪ねてくる客人は一人しかいない。
「ようやく常識的な訪ね方覚えたかよ。時間帯だけは相変わらず非常識だけどな」
忍はオフィスチェアから立ち上がり、扉を開けて都倉を事務所に向かい入れた。
やはり前に来た時のような地味なコーディネートだったが、今日は手ぶらで来たようだ。拳銃とハンマーはお留守番らしい。
「盗聴器聞かにゃならんからあんたずっと車中泊だろ。大変だな」
「柊様の様子がおかしいと心配になった。事務所で何かあったか」
「どうせ外で監視してるんだろ」
「女の客が帰ったあと二人で話し込んでたな。一体何を話した」
「いやあ、その依頼人の件であいつから説教されてただけだよ。
『オマエは男だから女心が分かんねーんだよ』みたいな。それからややお互い気まずい感じ?」
どこまで話せばいいのやらと迷ったので、忍は当たらずも遠からずな内容で誤魔化した。
都倉は忍の顔をじっと見つめたが、これ以上の収穫は期待できないと諦めたのか彼から背を向けて扉に手をかける。
かと思えば一瞬立ち止まり、何かまだ言いたいことがあるのか顔半分だけ忍の方に向けた。
「……なんだよ。言いたいことがあるならさっさと言えよ」
「両親のことを聞かされたか」
「両親?」
忍はあえてすっとぼける。鎌をかけているかもしれないと警戒したからだ。
しかし忍の予想に反し、都倉はあまり意に介さないようだった。
「もう知っているだろうが、私の本当の雇用主は柊様の叔父上だ。
彼は事件から三年ちょっとしか彼女のそばにいなかったが、私は中学に上がってから今までずっと見守ってきた」
だから自分の方がよっぽど彼女を大切に想っている。叔父よりも、そしてお前よりも。
口にこそしなかったが、雰囲気でなんとなく忍にも伝わってきた。
「私には子どもがいないが、彼女を我が子のように思っている」
「気持ちは分かった。別にキズモノにしようなんてこれっぽっちも考えてないから」
お前の言葉など信用できるか、とでも言われるのを覚悟していたものの、都倉は何も返さなかった。
今ならお喋りくらいしても許されるだろうかと、忍はダメ元で質問してみる。
「その事件だけど。夫妻に恨み持ってる人間に心当たりあったりしない?」
「私に聞かれても困る。赫保のトップで派手に活動していたと聞いている。敵は多かっただろう」
案外都倉の口がなめらかに動いたので忍は
「じゃあ、他にあの日現場にいた人間とかは? 記事で『通報したのは夫妻の知人』って書いてあるんだけど。叔父上から何か聞いてない?」
と、欲張りにも尋ねてしまう。
「夫妻の顧問……赫碧症の専門家だと聞いている。彼らとは親しくしていたらしい。――何を考えているか分かっているが、そいつはすぐに容疑者候補から外れている。お前が求める情報を提供できず悪いが」
それもそのはずだ。そんな人間が出入りしているなら、警察が疑わないはずがない。
「だな。もしそうなら『事件の通報者、狙撃銃で撃たれて死亡』ってニュースがないと変だからな」
都倉はただでさえ深い眉間の皺がさらに険しくなった。「本気にすんなよ」と忍は適当に謝罪する。
そこで二人の貴重なお喋りタイムは打ち切りになり、都倉は「もう用はないから帰る」とクールにも事務所を去ってしまった。
再び一人になった忍は荒川から入手した資料の一つを眺める。
「通報者:都倉武 二十九歳。元心理福祉課の職員で赫碧症の専門家。夫妻らの顧問。
事件当日樫井邸でクリスマスパーティーに参加」
柊の態度が少しおかしくなった。
いつも心ここにあらずで、ぼうっとして鍋が吹きこぼれても気づかなかったり、トイレに用があって忍が二階に上がるとダイニングで人形のようにテーブルに肘をついて椅子に座っている姿が目に入ったり、とにかくいつもの元気がなかった。
一緒に食べる朝食も口数が少なく、沈黙に堪えられなくなった忍の方が喋り倒す有様である。
そんな日が続き、ついに今日柊が皿を割ってしまった。
食後にダイニングでのんびりと茶を啜っていた忍が慌てて駆け寄ると、破片を触ってしまって指から血を流している柊が目に映る。
それだけではない。小さいながらも息が荒い。肩も小刻みに震えている。フローリングの上の破片と自分自身の赤い血から目を離せないでいる。
「バカよせ、触るなって。すぐに洗面所行って洗い流してこい。破片は俺が拾っておくから」
そう言って柊を洗面所に行くように促し、忍は箒とちりとりで大きめの破片を片付け、物置部屋から有島が置いていったストッキングを一つ拝借させてもらい掃除機の先端に取り付けて細かい破片を拾い集め、塗れた新聞でフローリングを拭くなど一連の作業をしても、洗面所から水が流れる音が止まなかったし、柊も出てこなかった。
そんなに深い傷だったのだろうかと忍は心配になり、救急箱をテーブルの上に用意してから洗面所の彼女の様子を伺う。
相変わらず彼女はぼうっとしていて、指の傷口より鏡に映る自分を見つめている。
「もうそのくらいでいいだろう。ほら、ボーッとしてないでこっち来い」
忍に手首を掴まれてから柊はようやく意識を取り戻したかのように、彼に引っ張られながら自分の足でおぼつかなくも歩いた。
二人は隣同士でダイニングの椅子に座り、忍は「浅そうだな」と傷口を見てガーゼを用意する。
「止血するから押さえるぞ」
ガーゼを使って柊の手を取って指の傷を押さえる。忍はしばらく止血に意識を取られていたが、ふと視線を感じて柊の方を見るとポーッと憂いを帯びた顔で見つめられ続けていたのに気づいた。
ちょっと妙な雰囲気になってしまったかもしれないと、そろそろ止血も十分な頃合いだと思って絆創膏を貼って手当を済ます。
ありがとうございます、と普段の柊なら言うのだが、それすら言わずにただただ沈黙していた。そんな彼女に忍も努めて明るく話しかける。
「どうした、元気ないな? 学校で、なんかあったか?」
「すみません、色々考え事があって、心が嫌にざわついて、居心地の良さがあって、悪さが同居しているというか……」
いやに抽象的な言葉を使っていた。これは重傷かもしれないと思い「今日は俺が食器洗うから、もう風呂入ってこいよ」と彼女の肩を軽くポンと叩くなどして忍なりの気遣いを見せた。
「あの、所長、お願いが……」
言いかけて柊はハッとして口をつぐんでしまう。
「所長、食器お願いします。お先にお風呂失礼しますね」
そう言って柊はエプロンを外し、スリッパをパタパタさせながら脱衣所へ向かった。
風呂から上がった柊はそれきり寝室へ引きこもってしまった。
◇
物置部屋もそろそろなんとかしなければと思いつつも、忍は未だに事務所のソファで寝る生活を続けていた。
その日は深夜遅くまで寝間着姿のまま、パソコンと紙の資料を睨めっこしていた。ただし残業というわけではない。
画面にはPDF化された新聞記事が複数開いている。そして荒川から横流ししてもらった警察内部資料のメモ書きには「樫井夫妻殺害事件・犯人像」と書かれており、中身の方は要約すると次の二点である。
・樫井夫妻の長女が目撃した「少年」は赫眼していた。
・「少年」は二階には痕跡を残していた一方、一階は玄関のドアノブについた指紋以外何も残していない。
トップクラスの人間が都倉に殺されたと知れると体裁が悪い赫保の強い圧力で、当時の記事のどれを漁っても明らかにされなかった事実である。警察だけでなく、マスメディアにも圧力をかけたのだろう。
忍は手にした警察内部資料の一つ、当時の容疑者リストに連なった名前を眺める。年齢、学校、住所、犯行当時のアリバイまでご丁寧にリストアップされており、五十音順で並べられていた数十人の氏名は全て男性名だった。
そのア〜オ行の欄に、見慣れた漢字四文字の男子中学生の氏名を見つけ、忍はため息をつきながら資料を裏返して机の上に置く。
今度は一度ブラウザを最前面に表示して、検索バーに柊の苗字――「晦」「つごもり」で検索をかける。すると上位に「晦昌紀」、風景写真家の情報がヒットした。
次にその名前で検索するとサジェストに「樫井夫妻殺害事件」が表示されている。
現在は消されているが、事件や叔父のウィキペディアの編集履歴から晦昌紀が樫井夫人の弟であると容易に辿ることができる。
これと全く同じ手順を、彼は四月八日――柊が来所している最中――に行った。
一瞬とはいえ初対面の時に碧眼していたのを見られていただろう。
樫井夫妻殺害事件の犯人と同世代、赫碧症の探偵が構える事務所に転がり込む樫井夫妻の一人娘。
本来なら、すぐに事務所から叩き出すべき存在である。
外から扉をコンコンと叩く音が鳴った。こんな非常識な時間に訪ねてくる客人は一人しかいない。
「ようやく常識的な訪ね方覚えたかよ。時間帯だけは相変わらず非常識だけどな」
忍はオフィスチェアから立ち上がり、扉を開けて都倉を事務所に向かい入れた。
やはり前に来た時のような地味なコーディネートだったが、今日は手ぶらで来たようだ。拳銃とハンマーはお留守番らしい。
「盗聴器聞かにゃならんからあんたずっと車中泊だろ。大変だな」
「柊様の様子がおかしいと心配になった。事務所で何かあったか」
「どうせ外で監視してるんだろ」
「女の客が帰ったあと二人で話し込んでたな。一体何を話した」
「いやあ、その依頼人の件であいつから説教されてただけだよ。
『オマエは男だから女心が分かんねーんだよ』みたいな。それからややお互い気まずい感じ?」
どこまで話せばいいのやらと迷ったので、忍は当たらずも遠からずな内容で誤魔化した。
都倉は忍の顔をじっと見つめたが、これ以上の収穫は期待できないと諦めたのか彼から背を向けて扉に手をかける。
かと思えば一瞬立ち止まり、何かまだ言いたいことがあるのか顔半分だけ忍の方に向けた。
「……なんだよ。言いたいことがあるならさっさと言えよ」
「両親のことを聞かされたか」
「両親?」
忍はあえてすっとぼける。鎌をかけているかもしれないと警戒したからだ。
しかし忍の予想に反し、都倉はあまり意に介さないようだった。
「もう知っているだろうが、私の本当の雇用主は柊様の叔父上だ。
彼は事件から三年ちょっとしか彼女のそばにいなかったが、私は中学に上がってから今までずっと見守ってきた」
だから自分の方がよっぽど彼女を大切に想っている。叔父よりも、そしてお前よりも。
口にこそしなかったが、雰囲気でなんとなく忍にも伝わってきた。
「私には子どもがいないが、彼女を我が子のように思っている」
「気持ちは分かった。別にキズモノにしようなんてこれっぽっちも考えてないから」
お前の言葉など信用できるか、とでも言われるのを覚悟していたものの、都倉は何も返さなかった。
今ならお喋りくらいしても許されるだろうかと、忍はダメ元で質問してみる。
「その事件だけど。夫妻に恨み持ってる人間に心当たりあったりしない?」
「私に聞かれても困る。赫保のトップで派手に活動していたと聞いている。敵は多かっただろう」
案外都倉の口がなめらかに動いたので忍は
「じゃあ、他にあの日現場にいた人間とかは? 記事で『通報したのは夫妻の知人』って書いてあるんだけど。叔父上から何か聞いてない?」
と、欲張りにも尋ねてしまう。
「夫妻の顧問……赫碧症の専門家だと聞いている。彼らとは親しくしていたらしい。――何を考えているか分かっているが、そいつはすぐに容疑者候補から外れている。お前が求める情報を提供できず悪いが」
それもそのはずだ。そんな人間が出入りしているなら、警察が疑わないはずがない。
「だな。もしそうなら『事件の通報者、狙撃銃で撃たれて死亡』ってニュースがないと変だからな」
都倉はただでさえ深い眉間の皺がさらに険しくなった。「本気にすんなよ」と忍は適当に謝罪する。
そこで二人の貴重なお喋りタイムは打ち切りになり、都倉は「もう用はないから帰る」とクールにも事務所を去ってしまった。
再び一人になった忍は荒川から入手した資料の一つを眺める。
「通報者:都倉武 二十九歳。元心理福祉課の職員で赫碧症の専門家。夫妻らの顧問。
事件当日樫井邸でクリスマスパーティーに参加」