●五月十日(金曜)


(つごもり)さん。明日夜七時に二人で出かけるから、夕食は作らなくていいよ。俺が運転するから」
「あ、はい。……え? お出かけ? 今出かけるって言いました⁇」
「うん。そろそろ今の生活に慣れた頃合いだろうから、明日は初夜にするよ。土曜日だから問題ないでしょ。道具はこっちで用意するけど、心の準備だけはしといてよ」


 突然忍が仕事中に二階に上がってきたと思ったら一方的に告げて一方的に帰っていった。

 



●五月十一日(土曜) 



 そして当日。白のセダン車の運転席に忍、助手席に柊が座る。

 事務所を出た直後はソワソワソワソワしていた柊が、段々おかしいと気づきはじめて忍に確認する。


「所長、今私たちどこへ向かおうとしてるんですか。こっちラブホテル街じゃないですよ」

「うん。待ち合わせ場所で依頼人に会いに行くんだよ」

「あの、今晩は初夜って言いませんでしたか」

「うん。初めての二人で調査の夜だよ」

「こんな事だろうと思ってましたけど‼︎ 誤解を招く言い方やめてくれますか‼ こんなに張り切ってたのに‼」

「まあ普通は『そっちの』初夜だと思うわな。
 だから勝負下着を用意してくれたのは光栄だけど、運転中は見えないから。ここではしまっとこうね、もうちょっとで目的地に着くからね。フフッ」

「何楽しそうに笑ってるんですか! 乙女の純情を弄んでおいて! 今度からは煙に巻かないでストレートな言い方してくださーーーーい‼」

「分かった分かった。今度から大事な時は『今日はエロ同人みたいな夜にしよう』ってちゃんとハッキリ言うから」

「……! そ、そういうことです!」


 しばらくはプリプリしていた柊だったが、目的地に近づくと真面目な声色で尋ねる。


「所長。いままで『調査に連れてってくれ』って何度頼んでも断ってたのに、どうして今日は連れてってくださるんですか」

 夜中に連れ回すわけにはいかない、危険だから駄目、尾行がバレるから駄目、と様々な理由をつけて柊には出かけの調査の手伝いは一切させなかった。


「もしかしたら今日見せられるかもと思って」

 柊は理解できないようで、隣で運転する忍の横顔をただただ眺めるしかない。



「多分、晦さんがずっと見たがってたものだよ」




  ◇



 大型公園の駐車場に車を停めて、忍は柊にとあるレクチャーをしてから揃って下車する。二人が歩いて向かった先は近くの釣り場の駐車場。
 夜の駐車場はしんとしていて、堤防の先に暗い海が漂っている。数本の外灯と駐車場の隅にひっそりある公衆トイレの明かりが、却って人気のなさと寂しさを際立たせていた。

 なので、ここは奥の方に停めている黒いコンパクトカー一台だけの貸し切り状態だった。

 忍はスマートフォンを操作したあと、柊に手荷物を預け、公衆トイレの陰へ向かわせる。

 孝子が現われた。二人が揃ってから五分ほど経つと彼女のスマートフォンから呼び出し音が鳴り、彼女は電源を切ってそれを鞄の中へしまった。



「そろそろ来ますよ」
「はい」



 そう二人が示し合わせると仁志が遠くから現われた。いつまでたっても孝子が戻ってこないので不審に思い、ひとまず駐車場に来てみたのだろう。

 彼が遠くから見たのは、車のそばで地面にへたり込みながら鞄を掴まれている女性。そして彼女の鞄を無理矢理引っ張ろうとしているクラッシャーハットにサングラス、マスク、黒い服の不審な男。

 はやく寄越せと怒鳴る男、離してくださいと鞄を奪われまいと必死に抵抗する女の様は誰の目から見ても事件の真っ最中である。


「離れろ!」


 仁志――頼りにならなさそうな優男――が、もの凄い形相で駆け寄ってきた。

 孝子が彼の方を見た隙に、不審な男は彼女を突き飛ばして鞄をひったくるのに成功して逃げようとする。

 しかし逃亡は失敗に終わった。風のようなスピードで仁志がタックルをかまし不審者を地面へ吹っ飛ばしたからだ。不審者は大げさに転倒したように見えて、突き飛ばされる前から受け身の体勢に入り衝撃を最小限に抑えた。

 孝子は少し離れたところでその様を見ている。不審者が往生際悪く逃げようとするが、仁志に馬乗りされて肩を掴まれ、地面に顔を強くこすりつけられている。

 不審者が男の拘束から逃れようとするも、その力は尋常ではなかった。時間と比例して、その力はますます強くなっていく。



 そして仁志は上げた拳を振り下ろさんと――――。



「やめて!」



 二人の男の元へ女が駆け寄ってきた。地面に這いつくばった男を守るように、すぐさま両膝をついて拳を上げた仁志の胸のあたりを手で制する。

 予想していなかったのか不審者は思わず女の方を見る。サングラスとマスクで、その場にいた二人には彼の表情を窺い知ることはできない。

「やめてください! 私の兄なんです!

 父も母も、頼れる人もいなくて、兄が親代わりなんです。
 生活に余裕がないのを分かっているのに大学に行きたいと毎日我儘ばかり言って、ここまで兄を追い込んでしまったんです!
 殴るなら私にしてください、悪いのは私なんです。
 二度とこんなことさせませんから、盗んだものもお返ししますから……」

 仁志、そして不審者の妹を名乗る女の顔が向かい合う。妹の声は後半から涙声になり、すすり泣きした。

「お願いします、見逃してください……許してください……許して…………」

 その健気な様を見て、冷静になったのか仁志は肩を掴む手を緩めて馬乗りをやめ、不審者――兄を自由にした。妹はぐったりとした彼を強く抱きしめる。

 兄妹に置いてけぼりにされた仁志は、振り返って恋人の姿を探す。

「あは……今日言おうと思ってたんだけど、こんな形で知られることになるとは。もうちょっとしたら眼の色も収まるから」

 この隙に兄妹はその場をさりげなく離れる。仁志は二人を見逃し、そばにあった孝子の鞄を拾った。


「今日だけは、自分が赫碧症(かくへきしょう)として生まれたことを感謝しないと」


 仁志は安堵の表情で、(あか)い眼で恋人を見つめていた。あたりには頼りない外灯と離れたところに公衆トイレの照明があるだけだったので、その眼はほんのりと光っている。

 瞼を閉じ、深呼吸を何度かすると、仁志の眼は黒へと戻っていた。
 鞄を渡すために彼女の元へ歩く。

「無事で良かったよ。ごめん、ずっと待たせてたけど俺……」

 孝子は後ずさりになり、鞄を仁志の手からひったくり、言葉を最後まで待たずに走り去ってしまった。




 一人残された仁志はその場で呆然と立ち尽くし、しばらくして吹っ切れたかのように車に乗り込み、発進させる。そして駐車場から車は一台もなくなったのだった。
 その様子を公衆トイレの陰から兄妹――忍と柊が見守っていた。


「所長、お怪我は」
「ない!」


 心配そうな柊の声に被せるように忍が怒鳴り声を上げる。その苛立ちを隠そうとしない声に柊の肩は思わず跳ね上がってしまう。サングラスをはじめとした不審者ルックは既に解除してある。

「……隠れて撮るだけでいいって言ったろ。あんなに近づいて、危ないじゃないか。しかもなんだよあのくっっっさい芝居は……」
「すみませんでした。所長があの男性に襲われる所を見たら、体が勝手に動いてしまって」
「で、撮ったの」

 忍は彼女の弁解などに微塵も興味無く、地面に置きっぱなしになっている一眼レフを一瞥する。
 彼の咎めるような口調に柊はすっかり萎縮してしまい、彼女はただ黙って、俯いてからふるふると顔を左右に振った。

 その様を見て忍は「あ〜あ」とこれ見よがしにため息をつく。


「あえて暴力を振るわれることなんてしょっちゅうなんだから、そんなことで一々出てきてもらっちゃ身が持たないよ。
 いつも雑務だけで申し訳ないから少しは仕事の手伝いぐらいさせてやろうと思ったけど、晦《つごもり》さんにはまだ早かったな」


  ◇
 

 帰りの運転中、二人はあれからずっと口を開けないでいた。まだ気まずい、ギスギスとした雰囲気が車内に漂っている。

 行きの時はつけていなかったラジオ番組のリクエスト曲が次から次へと流れ、スピーカーから再生される音はいつも以上に無機質に聞こえた。
 そんな虚無のドライブだったが、フロントガラス越しの視界に店名とロゴと店内の照明が光る飲食チェーン店が次々と入っては消えていく。

 そこでようやく二人とも長時間食事をしていないことに気づくと、急激な空腹感が忍を襲う。

 先の子供じみた物言いに加え、柊もずっとお腹を空かせてるに違いないと、彼女に気を配れなかったことに忍はバツの悪さを覚えた。

「そういえば、夕飯がまだだった。ちょっと遅いけど、今日は外食にしようか」

 取り繕うように言ってみる。そうですね、と柊も同意する。

「前に依頼を引き受けた人のラーメン店があるんだけど、そこに行こう。ちょっとはまけてくれるかな」



 そうして栗本通りのラーメン店にたどり着き、店舗前の駐車場に車を停める。
 亭主――店の主人は忍の顔に気づくと笑顔で出迎えてくれた。おまけにチャーシューをサービスしてくれた。

 柊はあまり食べたことがないようで、ひとまず邪魔にならないように食事前に髪を一つに束ねる。そして横の忍の食べ方を真似ながら、そしてレンゲを使いはじめ、ついには自分の食べやすい方法を編み出したようだ。

 カウンターに隣同士で座ったので、お互いの腕と腕がたまに触れ合うのが少しこそばゆく、少し余裕ができたのかその様子を見て「所長さんも隅におけませんね」と主人が茶化したので忍はただ苦笑するしかなかった。

 食している最中、主人が忍の後ろの方を見ていたことに気づく。慈しみに溢れた眼差しだったので何を見ているんだろうかと振り向くと、例の少年がそそくさと他の客が食べ終わった皿を片付けていた。初対面が初対面だったせいか彼と目が合うと最初こそ驚かれたものの、すぐにはにかむように笑ってくれた。

 彼はあの日、いろんな意味で非常に危うい立場にいた。あの笑顔を見て、あんなことがあったにも関わらず彼が何事もなく両親の元で平穏な日々を過ごせていることにありがたみさえ覚えた。

 主人らは事務所のことを知り合いに宣伝してくれているようで、忍も礼を言ってまた食べに来ますと告げて柊を連れて店を後にした。

 後味の悪い出来事のあとだっただけに、少しだけささくれていた忍の心も和らいだ。

 同時に事務所に来てくれた一家のことを俄に見下し、邪推の目で見ていた自分を思い出して恥を覚えた。

 再び二人で車に乗り込むと、柊がおかしそうに笑いを噛み締めていたので忍も「なんだよ」と言う。

「せっかくの初デートにラーメンなんて、所長らしいですね」
「デカい案件がいっぱい舞い込むようになったら、ディナーにでも連れてってあげるよ」
「はい、期待して待ってます」


 忍はエンジンをかけようと触れたスタートボタンを押す前に、「晦さん」と声をかけた。

「あの時イライラして酷いこと言ってごめんな。見せたかったものも見せられなかった」

 忍の左肩に小さな手がポンと触れて、助手席の柊を見る。




 柊は言葉の代わりにただ肩をさすさすと撫で、この上なく愛らしい笑顔で応えた。