●四月二十四日(水曜)
忍はまず先に二件目の対象――輸入販売会社に勤める従業員――の調査に着手した。
依頼人から入手した対象の履歴書を手がかりに元同僚、つまり対象が一年前に入社し、そして退職した会社に現在も勤める従業員と二人きりで会う約束を取り付けることに成功する。
「私は労働保安局環境改善対策調査委員会から、内密に社員の方へ会社が不当解雇やパワーハラスメントをしていないかなどの実態を調査している民間委託の者で、荒川と申します」
――などと架空の部署、架空の設定、架空の身分、あと勝手に荒川の名前を借りた名刺を渡し、元同僚とファミレスでお茶していた。
平然と身分を偽って接触することへの罪悪感など忍にはとうの昔に消え失せている。
「例えば出自、病気、性的指向、宗教、支持政党などを理由に不当に解雇された社員の方、パワーハラスメントを受けた事例があれば教えていただきたく……」
今回接触した元同僚は「国が秘密裏に派遣した調査員」が自分を訪ねたことに気を良くしたのか、会社内でのパワハラやモラハラやセクハラなどを嬉々として語ってくれた。ボイスレコーダーの録音にも喜んで協力してくれた。
それにしてもこの会社問題ありすぎだろ、と忍が思っていた矢先に本命の情報が元同僚の口からついに漏れ出る。
「部長にパワハラ受けてた新入社員の眼が赫くなっちゃって、部長が情けなくも腰を抜かして震えてたんですよ」
「……その方、今も会社に?」
「いや、流石に退職しましたよ。赫碧症ってバレてみんな近づこうとしなくなったから、自主退職で」
入社時期と退職時期を聞くと、依頼人から提出してもらった履歴書と一致していた。
「情報提供のご協力ありがとうございました。今回いただいた貴重な情報は労働環境改善のために必ず役立てます。あなたから情報提供を受けたことを勤務先にお伝えすることは絶対にありませんのでご安心ください。その代わり、私がこうして接触したこともどうかご内密にお願いします」
そう礼を言って伝票立てからレシートを取って会計を済ませるため忍が席を立とうとすると、元同僚から「あの」と呼び止められる。
「あの――――実はそのパワハラされてる現場の写真、こっそり撮って今も持ってるんですけど。何万円で買っていただけますか?」
◇
元同僚との話が済んでファミレスを出たあとは、あらかじめ連絡を入れておいた大石社長と事務所で落ち合う。
その場でボイスレコーダーの内容を二件目の依頼人に聞かせた。赫眼を見たこと、そして退社したこと、淀みなく元勤め先の入社時期と退職時期を語る元同僚の証言を聞いて「やっぱり」と怒り心頭に発したという顔色を見せる。
――結局、忍は元同僚から持ちかけられた写真は買わなかった。
なんだか「買わないならお前のことバラすぞ」的なオーラを発されたが、名刺に書いているものはデタラメなので忍は「お好きにどうぞ」といった態度で別れてきた。
ただ無断で名前を使われた荒川だけはとばっちりなものの、市民の敵の社会的信用を落とすための地道な活動と思えば罪悪感も特にない。
●五月二日(木曜)
一方、一件目の依頼である対象、仁志の調査を開始したものの、二件目とは違いこちらは難航が予想された。
尾行してしばらくは市内の健総センターに訪れる様子はなかった。
神経科に通っているのは依頼人の話通りだった。
過去に心理福祉課に通っていたかどうかも調べてみたものの、流石に心理福祉課はガードが堅く証拠を入手することが難しい。
相変わらず仁志も健総センターに近づくそぶりも見せない。
それとなく周辺人物から彼の評判を聞くと証券会社で働く彼は仕事熱心な有望株だという意見で一致していた。彼が赫碧症だと疑う者は一人もいなかった。
あまりにも進展がなさすぎてこれはもしかして本当にシロなんじゃないかと忍が思いはじめた矢先、依頼人から「彼がゴールデンウィーク前に有給を取っているようだ」と連絡を受けた。
忍の中で連休前の有休は嫌がられるイメージがあったが、もしかしたら健総センターが休みになる前に出向きたいからではないかと睨んだ。
当日、朝から仁志が住んでいるマンションの近くに車を止め、忍は双眼鏡で仁志が玄関から出てきたのを確認する。
あらかじめ教えられていた黒のコンパクトカーが発進するのを確認すると、彼も車で跡を追跡した。
車の向かう先は市内の健総センターへの通り道でもあり、これは確定かと思いきや仁志の車は見事にスルーする。
それでもまだ可能性が一つだけあったので、追跡を続けた。
車はまさかのインターチェンジ、高速道路へと入っていった。これがただの遠出だったら取り越し苦労である。
しかしそれはただの杞憂であった。隣県に入ると、すぐに車は高速を降りていく。
市街地へと入り、ずっとつけていることが露呈せぬよう距離をとりつつ運転すると、仁志のコンパクトカーは目的地らしき三階建てのちょっと古びた薄茶色の建物に到着した。
その施設の名前は――――「健康保健総合センター」。
◇
「県外の健総センター……? そんなとこ利用できるんですか?」
尾行の結果を伝えたその日のうちに、孝子は仕事終わりに来所した。柊はこの時間は二階にいるので、自分で茶を沸かして用意する。
県外の健総センターを訪れる仁志の様子を映したタブレットを彼女にも見せた。
「普通は無理です。ですが心理福祉課に限り、住民票と異なる自治体の健総センターを利用することが七年前から可能になりました。地域の健総センターに通っているところを見られた子どもが学校でいじめられる事態を受けて、本人のプライバシーが守られるよう改正されました」
考えればすぐ分かりそうなことだ。狭い地域で何度も健総センターに足を運べば誰だって心理福祉課に通っていることくらい検討がつく。
そして忍は仁志が施設に入り、そして退出した場面の写真それぞれの詳細情報を表示する。
「午後一時から二時二十分、一時間以上滞在していました。用もないのに県外の健総センターを尋ねる理由はありません。ここに彼の関係者がいるという事実も確認できませんでした」
「やはり、そうなんですか?」
「間違いないかと」
孝子は予想していたとしてもショックだったのか、しばらく押し黙るも再び口を開く。
「赫碧症でも、自分を律して、社会に溶け込んで、暴力を振るわない方もいるんですよね」
忍は「その通りです」と答え、自分なりの所見を伝えてみることにした。
「彼は大手証券会社にお勤めですよね。あまり知ったようなことは言えませんが、非常に多忙で、ノルマもきついと聞いています。ストレスが限界に達する前に早めに退職されるか、そもそもこういった職種は避ける方もいます」
二件目の調査対象が大石社長が経営する会社の前に勤めていた会社は所謂「ブラック企業」だと元同僚の話で察することができた。
彼女の恋人の会社もそうだとは一概に言い切れないものの、一流企業である以上楽な仕事だと断言できる人間はまずいないだろう。
「しかしこの方は五年以上も退職せず続けてらっしゃるところを見るに、人並み以上に社会に適応できていると思います。念には念を入れ神経科に通い、有給を使って県外の健総センターにまで通い、赫碧症のリスクもよく承知されている方に見えます」
「でも、普通の人でも仕事ではいい人で、家庭では酷いという方もいますよね。仕事のストレスのはけ口に」
「今まであなたに酷く当たったことはありましたか」
孝子は俯いてただ黙っていた。
「調査は以上で完了ということで、よろしいでしょうか」
孝子はまだ顔を上げようとしなかった。
「もう一つ、追加の調査をお願いしてもいいでしょうか」
「はい、なんでしょう」
「素行調査をお願いしたいです。
彼が赫碧症でも、信頼できる人だとこの目で確信したいです。私に協力できることがあれば、微力ながらお手伝いさせていただきます」
「……今まで彼と共に過ごしてきて、まだ不十分ですか」
「自信がないです」
ほんの少しだけだが、忍の心にある種の失望が芽生えた。しかしおくびにも出さずにすかさず言う。
「分かりました。では新たに素行調査の依頼をお引き受けします」
●五月三日(金曜)
「赫眼になっている場面を撮るんですか?」
GW初日の昼下がり。デスク後ろの乱雑な棚を見かねた柊が「連休中に全部綺麗にする」と片付け始め、忍はその間立ちながらインスタントコーヒーを飲んでいた。
ちなみに都倉に破壊された窓は既に修理会社に直してもらっている。
そんな時に素行調査の話を聞いて、もう依頼は終わったものだと思っていたのか柊は驚いていた。
「あえて赫眼にさせようと思っても、ちょっとやそっとのことじゃ難しいんですよね。特に慎重な方みたいですし」
まあね、と忍は気のない返事をする。そもそも簡単にできるものなら健総センターに通ってるかどうかなど地道に調べずに済むのだから。
「今回は裏が取れましたけど、もしめぼしい結果が得られなかった場合はどうするんですか? 最終的に」
「そりゃまあ、無難に夜道で一人歩いてるところを不意打ちでビックリさせるとか……」
「それはただの通り魔じゃないですか……」
「それと、ハニートラップよ」
突然事務所の奥から思わぬ女性がスッと現れ、意図せぬタイミングでの登場と不穏なワードに柊は持っていた本を床にブチまけてしまった。
「蒼樹、いつから聞いてた? てかどうやって入った?」
「素行調査云々のあたりから。裏口の鍵開いてたわよ。不用心ね」
「あのバカうるさい車はどうした」
「近くのコンビニ。お金下ろす用があったから」
「蒼樹さん! なんなんですかハニートラップって…………まさか」
「そのまさかよ。蒼樹ちゃん直伝赫碧症判定ハニートラップ。相手が女ならこれが一番確実よね」
「所長。とりあえず『直伝』と『ハニートラップ』の説明を順にしてもらいましょうか」
「説明も何も……いいじゃないか結婚前の話なんだから」
「良くないです! この方、元カノとかじゃないとか言ってましたけどもしかしてその、やっぱりアレですか! セフレなんですか! しかも女性相手に調査する度にハニトラするんですか!」
「張り込みなんてまどろっこしいことしなくてもこれで一発だったのに。今回相手女?」
「いや男なんだが」
「案外効いたかもしんないよ」
「男相手は経験ないなあ……うまくイクかどうか」
「私は女相手にイケたことあるわよ」
「えっほんと。気になるからあとで詳しく教えて」
「スルーしないでくださーーい! 新しい経験を積もうとしないでくださーーい‼ ついでにカタカナで変換するのもやめてくださーーーーい‼︎‼」
◇
その日蒼樹が来たのは今夜荒川と三人で飲みに誘うためであった。
柊は蒼樹と一緒に行くことをもの凄く非難してきたが、荒川がいるから変なことにはならないよとなんとか宥めて事務所を出て、飲み屋街にある焼き鳥屋に現地集合した。
「また海外行くの?」
「いや、しばらくはここにいるよ」
ふーんと荒川はジョッキに注がれたビールをあおる。
「そういや事務所一度ガラス割られたって? 一人であの娘留守番させて大丈夫なの?」
「大丈夫だと思うよ」
忍もまた冷えたビールを飲みながら、都倉のことを思い出していた。
柊が事務所にいる間だけではあるが、忍が留守にしていても無料セキュリティサービスを享受できると思えば悪くはない。事情を知っている荒川もこの話題には口を挟まなかった。
彼はこの中では年長なのだが、本人は特に気にせず呼び捨てやくん呼び、タメ口を受け入れている。
荒川も案の定というか、初対面で忍が実年齢を明かした際は「年上かと思った」と言われる始末であった。
そして当然のように荒川は捜査で得た情報を密かに蒼樹に流している。
蒼樹は色んな事件の取材をしているが、薬物犯罪に絡む内容は特に熱心だった。蒼樹が荒川と接触したのも彼が薬銃のためだ。
初めて荒川と知り合った時に「蒼樹の色香に負けたのか」と言うと、「車の話で意気投合した」と面白みのない返事が返って来て、忍ははじめ隠語か何かだと思ったという逸話がある。
初めて三人で飲みに行った日にその意味を理解した。二人とも実際に相当な車好きで、車など移動手段と張り込みに使うくらいの思い入れしかない忍には縁がない話題だった。三人で飲みに行くとたまに忍を置いてけぼりにして車トークに花を咲かせるので、大抵そんな場面は忍はヘソを曲げて一人酒をあおっている。
そして今夜はまた別の理由でヘソを曲げていた。
「もう手は出した?」「寝た?」「関係持った?」「営みは済ませた?」
「全部言い方変えただけで内容同じじゃねーか!」
この悪徳警官とふしだら記者は絡み酒の傾向はあったものの、ここまで激しく追及されると忍は思ってもいなかった。
「だってやっぱり気になるじゃないか。女子高生と結婚して一つ屋根の下だなんて」
「チキンなの? ヘタレなの? 不能なの? どれ?」
「全部違う‼」
「彼女十八ったって全然幼く見えるし」
「伊泉寺くん老け顔だから余計犯罪臭凄いし」
「老けてない」
「未成年じゃないからパクれないのが残念でならない。出所祝いしたかった」
「実名つきで報道したかった」
「結託して惜しむのやめんかーーーーい‼」
忍も相当酔っ払っていたのか、思わず柊の口癖が微妙に伝染していた。
二人からのしつこい追及が終わったあとは恒例の車トークが始まった。ガソリン車至上主義の荒川と電気自動車もアリだと主張する蒼樹のつかみ合い試合が始まり、忍も見てて面白くなったので野次を飛ばすなどして二人のボルテージを上げるのに貢献したが、現職警察官がいるのに警察を呼ばれる寸前になったのでそこでお開きになった。
飲み会が終わってすぐ事務所へ直行し、忍はいつものようにソファで横になり即寝落ちした。
しかし腰の辺りに重たいものがズシリとのしかかる感触で目が覚めてしまう。
「伊泉寺くん」
「うん? 蒼樹か?」
「正解」
事務所内は暗くて何も見えなかったが、声だけは聞きとれる。
「あのバカうるさい車はどうした」
「あのね。飲酒してんのにンなもん乗れるわけないでしょ」
「どうやって入った?」
「裏口の鍵開いてたわよ。懲りないわね」
そのまま彼女は忍の体に体を重ねてきた。
「なんか髪、晦さんと同じ香りするんだけど」
「勝手にシャワー借りるついでに、シャンプーも借りたから」
忍は両手で彼女の背中を弄る。くすぐったかったのか彼女の体が一瞬だけピクッと反応する。
「えらい薄着だな……下着、付けてなくない?」
「伊泉寺くんのワイシャツも借りさせてもらった。脱がしやすい方がいいと思って。あと気分の問題」
「気が利くね」
彼女は裸の上にワイシャツだけで、おまけに前を留めていなかった。
彼女は忍の太ももの上に跨るように腰を後ろにずらし、ズボンに手を伸ばすが、彼が力強くその手首を掴んだ。
「なんなの?」
「いや、事務所でするのはダメだって言っただろ」
「ここ以外のどこでするって言うの」
「なに言ってんの。いつも寝室に行くんだよな」
「え、でも寝室は……ここの方がいいんじゃない?」
「いや、でもいつも寝室だから。事務所でするのはダメだって言ってるだろ。じゃ、寝室に行くんだよな」
忍はだいぶ酩酊しているらしかった。忍は彼女を押しのけて立ち上がる。そのまま彼に抱き抱えられてしまったので、彼女も寝室に向かわざるを得ない。
忍は誰もいない真っ暗な寝室に向かい、ベッドに彼女を寝かせて一度部屋を出る。その後、物置部屋から物をひっくり返す音が聞こえてきた。
しばらくすると太いベルトのようなものを手にして部屋へ戻ってくる。
「ほら、起きて」
彼女がベッドに座る態勢になると、忍はその隣にドカッと座った。
「じゃあこれつけるよ」
「つける? どこに?」
はあ?と忍が呆れたような声を漏らす。
「目ェ以外のどこにつけるってんだよ」
「………………目?」
「そうだよ、ほら、目隠しするから頭あっち向けて。……なんなの。早くしろよ。目隠しプレイじゃないと嫌だっていつも言ってるだろ」
そうせがまれても、彼女は後頭部を彼に向けようとしなかった。
「今更だけど、聞いてもいい? なんで……いつも目隠しするの?
何か……見られたくないものでも、あるんですか」
忍は興味を失ったように
「あーあ、気持ち萎んじゃった。その気がないならおやすみ」
とこぼし、目的が果たせないと分かるや否やあっさりと寝室から扉を開けて出て行ってしまった。
彼女は一人寝室に残される。しばらくベッドに座ったまま動けなかった。
そして忍へは一階へ降りると、しっかりとした足取りで事務所のソファへ戻った。
●五月四日(土曜)
「晦さん、昨日蒼樹来てた?」
「何言ってるんですか。お昼に来てたでしょう」
まだお酒が抜けてないんですね、と柊が呆れている。日曜の営業時間前、柊が忍に背を向けせっせとテーブルを拭いていた。
「いや昼じゃなくて飲み屋に行った帰り……寝てたら、事務所にあいつが来てたような記憶があるんだよな」
「飲み屋の帰り? 深夜に? 事務所に? 何しに?」
「ごめん。夢だったわ」
映像が一時停止するかの如く柊のテーブルを拭く手がピタッと止まり、早口で捲し立てられると顔が見えないだけに忍の心臓がギュッと縮む。これ以上語るのは危険だと察知して口をつぐんだ。
「そう言えば所長。昨日ははぐらかされてしまいましたが『直伝』と『ハニートラップ』についての説明をしてなかったですよね……」
ようやく柊が振り返るが、その瞳に光はない。
「再度言うけど蒼樹は元カノでもセフレでもないのは本当だから。信じてください」
「嘘つくなんて悲しいです」
「真実を述べたまでだろ‼ もっと伴侶を信じろよ‼」
「はあ。その割には伴侶の前でよくもまあイチャイチャイチャイチャと見せつけちゃって所長もえらく楽しそうじゃないですかぁ…………?」
柊が震えながら握りしめているテーブル拭きに忍は自分の首を幻視してしまう。
「だって晦さんが蒼樹に嫉妬してる姿見るのって面……」
「おも?」
「……思っていた以上に可愛くてやめられなかった。意地悪しちゃってごめんね」
本人は努めて平常心を保とうとしているつもりらしいが、忍には感情に出すまいと口角が上がるのを必死にプルプルと堪えているようにしか見えなかった。
「で、結論から言うと『直伝』って言うのは口からデマカセ。口伝が正しい。その手の知識頼んでもないのにペラペラ教えてくるの」
柊は渋い顔をしてあまり信じていないようだったが、「じゃあハニトラの方は?」ともう一つの質問をする。
「依頼人の恋人や家族相手にそんなことしたら大問題だろ。依頼人との信用関係に関わるようなことするわけがない。
それに赫碧症かどうか調べるために関係持つなんて言語道断にもほどがある」
「ほっ……ですよね」
「だからハニトラは『赫碧症の調査とか依頼人の恋人や家族相手にゃ』したことないから安心しなよ」
「『赫碧症の調査とか依頼人の恋人や家族じゃなけりゃ』やってるんじゃないですか‼︎」
「結婚前の話くらい大目に見てよ」
「開き直るその態度が気に入らないんですよ‼︎」
柊を一旦クールダウンさせるために適当に近所まで簡単なおつかいを頼ませた。二人で昼休みを兼ねて二階で昼食を済ませたあと、二件目の依頼人が依頼料を渡しに来たのでいつものように忍が応対し、柊がお茶の準備をする。
例の社員について、表向きは「営業成績の不振」「コミュニケーション能力の問題」として会社都合で退職させた、と報告された。
「まあ、向こうだって赫碧症であることを隠していたわけですし、退職金も支払ったんだから文句は言わせませんよ……」
「あの、使ってください」
「え?」
忍からテーブルのティッシュを近づけられ、その意図が分からないでいる依頼人はキョトンとしている。
「涙が……」
依頼人は忍に言われて咄嗟に指で頬を触り、その頬が濡れていることに気づいた。本当に自覚がなかったらしい。
「……ああ、すっかり涙もろくなってしまって。私も歳ですね。お恥ずかしいところをお見せしました」
一企業の社長が人目を憚らずティッシュでごしごしと涙を拭っている。柊も後ろでハラハラしていた。
依頼人が「独り言を言ってもいいですか」と尋ねるので、忍も黙ってコクリと頷く。
「うちの娘がね、大学四年の頃偶然心神喪失していた赫眼の男に出くわして。
娘を含むその場に居合わせた全員が暴行されて、うちのは全治二ヶ月でした。恐ろしい事件でした。
これでも被害者の中では軽い方だったんですが、事件のショックで当時採用が決まっていた大手企業への就職もできなくなって、一年間家で塞ぎ込んでたんです」
目の前にいた忍も、二人から離れたところにいた柊も大石社長の告白を聞いて身体に何か重たいものがズドンとのしかかる感覚があった。
「でも最近、本人も少しずつ社会復帰できる余裕ができたみたいで、リハビリとして家業の手伝いをさせてるんです。
二年前守ってやれなかったから、その罪滅ぼしとして…………安心して暮らせるようにしたいんです。
そのためならどんなに世間から非難されようが構いません」
忍は今まで無意識に彼のことを赫碧症者を差別する大衆の一人だと思っていた。しかし、いい歳した男が見せる涙を前に、どう非難できようか。
またもや、あの植木鉢の少年の両親のことを思い出す。
彼らは自分の息子や娘がもし赫碧症でも、今と同じように自分の子ども達と接し、愛してやれるのだろうか――――と。
◇◇◇
嫌に息苦しく、身体中汗を掻いていた。
あなたが安心して暮らしていくために必要なんだからね。…………もあなたがこの先安心して暮らせるようになって欲しいから。
切実そうに語る…………の顔を見て、もっと安心して欲しくて、本当は「おかしい」と感じていても、…………の為なら、真剣に想われていることが嬉しかったから、言うがままに続けた。
しかしその努力の甲斐もなく、到底予想できなかった出来事が起きてしまった。
あとからそれは本心ではなく違う理由で行わせていたと打ち明けられても、離れて暮らしても、まだ心のどこかで…………を信じている自分がいた。
そして高校生になって、あれが自分のことなど少しも考えていなかった…………自身のエゴだったのだとようやく認めることができた。
認めてしまったから、耳当たりが良いだけな口先だけの言葉を無条件で信じられる愚かで、滑稽で、哀れなガキを心の中から永遠に追い出してやった。
その時、耳元でカチャンと音が聞こえた。
「あ……ごめんなさい、起こしてしまいましたね」
どうやらデスクの上で顔を伏せていたらそのまま仮眠してしまったらしい。うつ伏せのまま顔半分を右に向けると、柊がまだ中身の入ったコーヒーカップを片付けようとしていたのが目に入った。
「所長、ちょっとお元気ありませんね」
「んあぁ?」
うつ伏せの姿勢を続けていた忍がようやくそこで顔を上げる。
「なんだか、やるせない依頼が多くて」
この二件以外にも「誰々が赫碧症じゃないか調べて欲しい」という依頼が忍の元へ舞い込んでいた。
そして大抵その対象は婚約破棄されるか、職場で良くて窓際社員にされるか、最悪解雇されるか、ある日突然近所の人が引っ越ししてしまうか、さまざまである。
「所長、もしかして辛いんじゃないかって――――」
「何を言うと思えば……。
晦さんは社会に出たことがないから、俺が酷いことをしてるって思ってもしょうがないけどさ。こんなのよくある依頼の一つだよ。
こっちだって君のための生活費を稼がなくちゃいけないのに仕事選んでいる場合じゃないし。俺らの生活は、晦さんが作ってる食事だってこうして他人の情報を売って成り立っているようなもんなんだから。
赫碧症の人を食いもんにしてメシ食ってる――――」
「あ! もう五時ですね、お先に失礼します!」
忍の言葉の途中で柊が自宅へ逃げるように去ってしまった。確かに彼女の言う通り事務所の時計の針は五時を指し示している。
高校生相手に正論で捲し立てて、情けないことを言いすぎてしまった。忍はなぜ自分が急にムキになってしまったのかが分からなかったが、後悔していることだけは確かだった。
夕食の時間、二人で食べる時間ができたのでお互い向かい合ってもぐもぐと柊の手料理を食べている。
「所長、今日のお夕飯は昨日リクエストしてもらった牡蠣の炊き込みご飯ですよ。午前中おつかいのついでにスーパーで買ってきて、昼間仕込みをしてたんです。
牡蠣には滋養強壮の効果があるんですって。もしかして所長、狙ってましたか……♡
それに前菜は私が好きに作ってますけど今日のアボカドなんかも」
一人で今日の献立について語りっぱなしの柊に忍は「晦さん」と話の途中で口出ししてしまう。
「いいよ、無理して盛り上げようとしなくても。
段々俺のこと、思ってたような男じゃないって気づいてるだろ。初めて会った時みたいにカッコ良く人助けしたいのは山々なんだけど、大半は今日みたいに他人のキャリアや人間関係をぶっ壊す手助けするのが俺の仕事だから。
失望したんなら俺に気を遣わないで別れてもらっても構わないから」
柊はニコニコとした顔から途端物憂げになり、忍の言葉を前に口を結ぶしかなかった。
例の従業員は今回の件で再び社会から繋がりを断たれて孤立感をつのらせてしまうかもしれない。証券会社に勤める仁志と比較するとお世辞にもストレス耐性がありそうとは思えなかった。
社会、家族からも切り離された孤独とストレスが蓄積することで余計赫眼しやすくなり、結果あの社長の娘が巻き込まれてしまったような事件を起こしてしまう事例も知っていた。爪弾きに遭い、そうして寄る辺もない鬱屈が赫眼となって現れることもある。
それを理解した上で、彼は依頼を引き受けている。
やりたくないからイヤです、などと言えたとしても、別の探偵事務所に依頼されるだけで結果が変わることはない。
前所長の有島がいれば今頃こんなことにはなっていなかっただろうにと、忍自身鬱屈した感情があった。
彼女はこんな相談を受ければ懇切丁寧に説明し、辛抱強く説得していた。結果依頼を取り下げる人もいれば、それなら他の事務所に行くと去って行く人もいた。どちらにしろ有島はせっかくの依頼をフイにしたことになる。
所長の座に納まってからは忍は彼女のそんな姿勢を引き継ごうと努力した。
が、いざ間近で依頼人たちの逼迫した様を見てしまうとなんとか心変わりをさせなければと思う気にもなれず。それでもできる範囲で説得を試みてみるものの、結果忍は依頼人の要求通りに仕事を受けてしまうのだった。
依頼人を満足させることこそがプロの仕事。であればそつなく仕事をこなす忍がプロで、有島はそうではなかったのか。
そんな風に忍が一人悶々としていると、柊から「所長」と話しかけられる。
「あの時は分かったようなこと言ってごめんなさい。
私、探偵のお仕事のこと浮気調査とか、潜入調査とか、なんだかワクワクするような世界だと思ってたみたいです」
ただ食事を口に運ぶ作業を繰り返している忍に対し、彼女は箸を一旦箸置きに置いて自分のことを見ようともしない真向かいにいる彼をじっと見た。
「あの依頼は難しい事情だったと思います。大人の男性が人前で涙を流すのはよっぽどのことです。
確かなのは、所長のおかげであの方は少なからず救われたんです。それに、所長のせいで従業員の方が解雇されたわけじゃありません。その決断を下したのは依頼人の方なんですから、所長に責任なんてありません。だから……」
柊が言葉を一つ一つ選んでいた。彼女なりにどう言葉をかけるかどうか、あれからずっと考えていたに違いなかった。
「だから、あんな風に自分を卑下するようなこと、言わないでください」
それでも忍は箸を動かす手を止めない。柊は未だ箸に手を伸ばそうとしない。
「所長にとってはよくある依頼かもしれませんけど、事務所では辛くないフリしてもいいから、家では辛い時は我慢しないでください。
最近見てられないんです」
あまりにも柊が深刻そうに言うので、忍はなんてことないように炊き込みご飯を口に運びながら「考えとくわ」などと素気無く返した。それを聞いて、彼女は少ししょんぼりと肩をすくめた。
少しだけ柊の言葉で不覚にも心が解けていくのを悟られたくなくて、彼は咄嗟に強がってしまった。
●五月七日(火曜)
GWが終わり、孝子が早速事務所を訪れた。会社の昼休み中だったので、制服のままだった。
連休中は二人で共通の友人カップルと一緒に遠方へデイキャンプを楽しんだとのことだった。キャンプ中、仁志に異変は一切なかったとも。
「素行調査の件でお願いしたいという協力、とは一体どのような……?」
忍はある計画を提案する。案の定孝子は目を開いて驚く。
「そんなことしたら危険じゃないですか⁉︎」
「はい。ですからあなたはすぐにその場を離れてください」
「でもあなたは」
これは賭けだと、半信半疑な依頼人に対し忍は自らの意思を示すには強力な武器――飛び道具があった。
「このような依頼を受けて、今まで打ち明けられず心苦しかったのですがお話しします。ただ、ここだけの秘密にしていただけますか」
忍は一言前置きをすると、孝子もピクッと反応して彼の顔を直視する。
「私も赫碧症です。万一の場合は碧眼状態に入り、速やかに対処します」
●五月十日(金曜)
「晦さん。明日夜七時に二人で出かけるから、夕食は作らなくていいよ。俺が運転するから」
「あ、はい。……え? お出かけ? 今出かけるって言いました⁇」
「うん。そろそろ今の生活に慣れた頃合いだろうから、明日は初夜にするよ。土曜日だから問題ないでしょ。道具はこっちで用意するけど、心の準備だけはしといてよ」
突然忍が仕事中に二階に上がってきたと思ったら一方的に告げて一方的に帰っていった。
●五月十一日(土曜)
そして当日。白のセダン車の運転席に忍、助手席に柊が座る。
事務所を出た直後はソワソワソワソワしていた柊が、段々おかしいと気づきはじめて忍に確認する。
「所長、今私たちどこへ向かおうとしてるんですか。こっちラブホテル街じゃないですよ」
「うん。待ち合わせ場所で依頼人に会いに行くんだよ」
「あの、今晩は初夜って言いませんでしたか」
「うん。初めての二人で調査の夜だよ」
「こんな事だろうと思ってましたけど‼︎ 誤解を招く言い方やめてくれますか‼ こんなに張り切ってたのに‼」
「まあ普通は『そっちの』初夜だと思うわな。
だから勝負下着を用意してくれたのは光栄だけど、運転中は見えないから。ここではしまっとこうね、もうちょっとで目的地に着くからね。フフッ」
「何楽しそうに笑ってるんですか! 乙女の純情を弄んでおいて! 今度からは煙に巻かないでストレートな言い方してくださーーーーい‼」
「分かった分かった。今度から大事な時は『今日はエロ同人みたいな夜にしよう』ってちゃんとハッキリ言うから」
「……! そ、そういうことです!」
しばらくはプリプリしていた柊だったが、目的地に近づくと真面目な声色で尋ねる。
「所長。いままで『調査に連れてってくれ』って何度頼んでも断ってたのに、どうして今日は連れてってくださるんですか」
夜中に連れ回すわけにはいかない、危険だから駄目、尾行がバレるから駄目、と様々な理由をつけて柊には出かけの調査の手伝いは一切させなかった。
「もしかしたら今日見せられるかもと思って」
柊は理解できないようで、隣で運転する忍の横顔をただただ眺めるしかない。
「多分、晦さんがずっと見たがってたものだよ」
◇
大型公園の駐車場に車を停めて、忍は柊にとあるレクチャーをしてから揃って下車する。二人が歩いて向かった先は近くの釣り場の駐車場。
夜の駐車場はしんとしていて、堤防の先に暗い海が漂っている。数本の外灯と駐車場の隅にひっそりある公衆トイレの明かりが、却って人気のなさと寂しさを際立たせていた。
なので、ここは奥の方に停めている黒いコンパクトカー一台だけの貸し切り状態だった。
忍はスマートフォンを操作したあと、柊に手荷物を預け、公衆トイレの陰へ向かわせる。
孝子が現われた。二人が揃ってから五分ほど経つと彼女のスマートフォンから呼び出し音が鳴り、彼女は電源を切ってそれを鞄の中へしまった。
「そろそろ来ますよ」
「はい」
そう二人が示し合わせると仁志が遠くから現われた。いつまでたっても孝子が戻ってこないので不審に思い、ひとまず駐車場に来てみたのだろう。
彼が遠くから見たのは、車のそばで地面にへたり込みながら鞄を掴まれている女性。そして彼女の鞄を無理矢理引っ張ろうとしているクラッシャーハットにサングラス、マスク、黒い服の不審な男。
はやく寄越せと怒鳴る男、離してくださいと鞄を奪われまいと必死に抵抗する女の様は誰の目から見ても事件の真っ最中である。
「離れろ!」
仁志――頼りにならなさそうな優男――が、もの凄い形相で駆け寄ってきた。
孝子が彼の方を見た隙に、不審な男は彼女を突き飛ばして鞄をひったくるのに成功して逃げようとする。
しかし逃亡は失敗に終わった。風のようなスピードで仁志がタックルをかまし不審者を地面へ吹っ飛ばしたからだ。不審者は大げさに転倒したように見えて、突き飛ばされる前から受け身の体勢に入り衝撃を最小限に抑えた。
孝子は少し離れたところでその様を見ている。不審者が往生際悪く逃げようとするが、仁志に馬乗りされて肩を掴まれ、地面に顔を強くこすりつけられている。
不審者が男の拘束から逃れようとするも、その力は尋常ではなかった。時間と比例して、その力はますます強くなっていく。
そして仁志は上げた拳を振り下ろさんと――――。
「やめて!」
二人の男の元へ女が駆け寄ってきた。地面に這いつくばった男を守るように、すぐさま両膝をついて拳を上げた仁志の胸のあたりを手で制する。
予想していなかったのか不審者は思わず女の方を見る。サングラスとマスクで、その場にいた二人には彼の表情を窺い知ることはできない。
「やめてください! 私の兄なんです!
父も母も、頼れる人もいなくて、兄が親代わりなんです。
生活に余裕がないのを分かっているのに大学に行きたいと毎日我儘ばかり言って、ここまで兄を追い込んでしまったんです!
殴るなら私にしてください、悪いのは私なんです。
二度とこんなことさせませんから、盗んだものもお返ししますから……」
仁志、そして不審者の妹を名乗る女の顔が向かい合う。妹の声は後半から涙声になり、すすり泣きした。
「お願いします、見逃してください……許してください……許して…………」
その健気な様を見て、冷静になったのか仁志は肩を掴む手を緩めて馬乗りをやめ、不審者――兄を自由にした。妹はぐったりとした彼を強く抱きしめる。
兄妹に置いてけぼりにされた仁志は、振り返って恋人の姿を探す。
「あは……今日言おうと思ってたんだけど、こんな形で知られることになるとは。もうちょっとしたら眼の色も収まるから」
この隙に兄妹はその場をさりげなく離れる。仁志は二人を見逃し、そばにあった孝子の鞄を拾った。
「今日だけは、自分が赫碧症として生まれたことを感謝しないと」
仁志は安堵の表情で、赫い眼で恋人を見つめていた。あたりには頼りない外灯と離れたところに公衆トイレの照明があるだけだったので、その眼はほんのりと光っている。
瞼を閉じ、深呼吸を何度かすると、仁志の眼は黒へと戻っていた。
鞄を渡すために彼女の元へ歩く。
「無事で良かったよ。ごめん、ずっと待たせてたけど俺……」
孝子は後ずさりになり、鞄を仁志の手からひったくり、言葉を最後まで待たずに走り去ってしまった。
一人残された仁志はその場で呆然と立ち尽くし、しばらくして吹っ切れたかのように車に乗り込み、発進させる。そして駐車場から車は一台もなくなったのだった。
その様子を公衆トイレの陰から兄妹――忍と柊が見守っていた。
「所長、お怪我は」
「ない!」
心配そうな柊の声に被せるように忍が怒鳴り声を上げる。その苛立ちを隠そうとしない声に柊の肩は思わず跳ね上がってしまう。サングラスをはじめとした不審者ルックは既に解除してある。
「……隠れて撮るだけでいいって言ったろ。あんなに近づいて、危ないじゃないか。しかもなんだよあのくっっっさい芝居は……」
「すみませんでした。所長があの男性に襲われる所を見たら、体が勝手に動いてしまって」
「で、撮ったの」
忍は彼女の弁解などに微塵も興味無く、地面に置きっぱなしになっている一眼レフを一瞥する。
彼の咎めるような口調に柊はすっかり萎縮してしまい、彼女はただ黙って、俯いてからふるふると顔を左右に振った。
その様を見て忍は「あ〜あ」とこれ見よがしにため息をつく。
「あえて暴力を振るわれることなんてしょっちゅうなんだから、そんなことで一々出てきてもらっちゃ身が持たないよ。
いつも雑務だけで申し訳ないから少しは仕事の手伝いぐらいさせてやろうと思ったけど、晦《つごもり》さんにはまだ早かったな」
◇
帰りの運転中、二人はあれからずっと口を開けないでいた。まだ気まずい、ギスギスとした雰囲気が車内に漂っている。
行きの時はつけていなかったラジオ番組のリクエスト曲が次から次へと流れ、スピーカーから再生される音はいつも以上に無機質に聞こえた。
そんな虚無のドライブだったが、フロントガラス越しの視界に店名とロゴと店内の照明が光る飲食チェーン店が次々と入っては消えていく。
そこでようやく二人とも長時間食事をしていないことに気づくと、急激な空腹感が忍を襲う。
先の子供じみた物言いに加え、柊もずっとお腹を空かせてるに違いないと、彼女に気を配れなかったことに忍はバツの悪さを覚えた。
「そういえば、夕飯がまだだった。ちょっと遅いけど、今日は外食にしようか」
取り繕うように言ってみる。そうですね、と柊も同意する。
「前に依頼を引き受けた人のラーメン店があるんだけど、そこに行こう。ちょっとはまけてくれるかな」
そうして栗本通りのラーメン店にたどり着き、店舗前の駐車場に車を停める。
亭主――店の主人は忍の顔に気づくと笑顔で出迎えてくれた。おまけにチャーシューをサービスしてくれた。
柊はあまり食べたことがないようで、ひとまず邪魔にならないように食事前に髪を一つに束ねる。そして横の忍の食べ方を真似ながら、そしてレンゲを使いはじめ、ついには自分の食べやすい方法を編み出したようだ。
カウンターに隣同士で座ったので、お互いの腕と腕がたまに触れ合うのが少しこそばゆく、少し余裕ができたのかその様子を見て「所長さんも隅におけませんね」と主人が茶化したので忍はただ苦笑するしかなかった。
食している最中、主人が忍の後ろの方を見ていたことに気づく。慈しみに溢れた眼差しだったので何を見ているんだろうかと振り向くと、例の少年がそそくさと他の客が食べ終わった皿を片付けていた。初対面が初対面だったせいか彼と目が合うと最初こそ驚かれたものの、すぐにはにかむように笑ってくれた。
彼はあの日、いろんな意味で非常に危うい立場にいた。あの笑顔を見て、あんなことがあったにも関わらず彼が何事もなく両親の元で平穏な日々を過ごせていることにありがたみさえ覚えた。
主人らは事務所のことを知り合いに宣伝してくれているようで、忍も礼を言ってまた食べに来ますと告げて柊を連れて店を後にした。
後味の悪い出来事のあとだっただけに、少しだけささくれていた忍の心も和らいだ。
同時に事務所に来てくれた一家のことを俄に見下し、邪推の目で見ていた自分を思い出して恥を覚えた。
再び二人で車に乗り込むと、柊がおかしそうに笑いを噛み締めていたので忍も「なんだよ」と言う。
「せっかくの初デートにラーメンなんて、所長らしいですね」
「デカい案件がいっぱい舞い込むようになったら、ディナーにでも連れてってあげるよ」
「はい、期待して待ってます」
忍はエンジンをかけようと触れたスタートボタンを押す前に、「晦さん」と声をかけた。
「あの時イライラして酷いこと言ってごめんな。見せたかったものも見せられなかった」
忍の左肩に小さな手がポンと触れて、助手席の柊を見る。
柊は言葉の代わりにただ肩をさすさすと撫で、この上なく愛らしい笑顔で応えた。
●五月十二日(日曜)
忍は別の依頼人から「夫が会社仲間とのゴルフと称して職場の女性と会っているかもしれない」と先日相談を受け、その不倫調査で留守にしていた。
柊が一人店番をしていると外から例の甲高い音が響いて、柊も慌てて身構える。予想通りの女性が事務所に入ると、柊が先制攻撃を仕掛ける。
「あっあっ蒼樹さん! なんですか! 所長は今日」
「不倫調査なんでしょ。知ってる」
「……………………」
「ンな怖い顔で睨まないでよ。コンビニの前で会っただけだって、偶然。それよりほら、来客をおもてなししてよ、コンシェルジュさん」
蒼樹は「お土産もあるから」と、他県へ行った時に購入したご当地スイーツである栗のタルトを献上した。
柊が二人分のコーヒーを運び、柊は蒼樹の向かいに腰掛ける。蒼樹は足を組んで座っていた。
「柊ちゃん、彼に八つ当たりされたんだって?」
柊は突然フランクに下の名前でちゃん付けされて面食らったが、蒼樹が金曜夜の一件を知っていることに遅れて動揺した。
「道端でハスキー犬がションボリしてたから」
「所長、蒼樹さんにはなんでも話すんですね」
「いや、かなり無理強いして吐かせただけだから。最初本人も抵抗してたし。……まだ気にしてるの?」
「いえ、そもそも私が所長の指示を聞かなくて怒られただけなので。そのあと所長も私に気を遣って、外食に誘ってくださいましたし。お互い水に流して終わりましたよ」
「向こうはまだ気にしてるんじゃないかってクンクン鳴いてたわよ。『やけに優しいからまだ怯えてるんじゃないか』って」
「そんな風に見えたんでしょうか。いつものように過ごしていたつもりだったんですけど」
柊の顔が曇るので蒼樹も困り、一度タルトとコーヒーを口にした。
「昨日の調査って多分例の素行調査よね。赫碧症の」
柊がコクリと頷くと、蒼樹も納得したかのような顔をする。
「依頼人の方と恋人の男性を引き合わせて、所長が鞄を盗もうとする暴漢役で男性にわざと襲われたんですけど、依頼人の方、走って逃げてしまわれました」
そっか、と蒼樹は相づちを打つ。そのまま黙って柊の言葉を待った。
「所長もそれを気に病んでるんじゃないかと思って。
所長のやり方は間違っていたんでしょうか」
蒼樹がしばらく考え込んだので、しばし事務所に沈黙が流れる。彼女は組んだ足を元に戻してソファに深く腰掛けた。
「急にらしくないことやろうとして。適当に通り魔しときゃ良かったのに」
「最初は赫碧症かどうかの調査だけだったのに、素行調査まで依頼されたので。依頼人の方を守ろうとする姿を見たら、もしかしたら考え直してくれるかもって、そう思ったんでしょうね」
「登場人物全員幸せにならない結末になっちゃったのね。それも凹んでた理由か」
蒼樹は腕を頭の後ろで組んで「はあ~、甘いなあ伊泉寺くんは」とため息をつきながら天井を眺めた。話題に困った蒼樹が色々考えた末、あることを聞かせてやろうと閃く。
「そうだ。わたしと伊泉寺くんが知り合うきっかけになった人、有島さんのことを話してあげようか。どうせ伊泉寺くん、ロクに教えてないんでしょ」
確かに教えてもらっていなかったが、写真でしか知らない、柊とは面識もない女性なのだ。
忍が言おうとしないのも無理はないと思って、今まで彼女は自分から進んで話題にしようとは思わなかった。
「まあ、私も無理に聞こうとはしなかったので」
「あれ? あんま興味ない感じ?」
「あ、いえ。そうではないんですけど……。
有島さんのことを知るということは、昔の所長のことを知るということで、なんとなく所長が昔苦労されたんだなと窺い知ることができるだけに聞きづらいというか。
知りたくなかったんです」
蒼樹は「そっか」と一息つくと、
「じゃあ伊泉寺くんとは関係ない、わたしと有島さんの話にしよう」
と、提案するのだった。
「そう言えば、所長も蒼樹さんも有島さんつながりでしたね。でも有島さんが出て行かれるまで面識はなかったんですね」
「そうね。有島さんとは十五の頃出会ったの。当時わたしはクスリやってた非行少女で――」
予想もしていなかった告白に思わず柊も「え⁉︎」と口を挟んでしまった。流石に唐突すぎたかと指でぽりぽりと頬を掻く蒼樹だったが、構わず続ける。
「最初はね。きっかけは痩せるって言われて試してみたらみるみるうちに痩せちゃって、快楽にも目覚めてすっかり虜になっちゃったの。まあ胸まで萎んだのは痛かったけど。やってなかったら今もうちょっと巨乳だったのに」
蒼樹は自分の胸を不満げに見つめた。確かに大きいと呼べるサイズではないものの極端に小さいというわけでもなく、見る人が見れば彼女の美しいスタイルに釣り合う絶妙なサイズのように映るだろう。
「で、クスリ繋がりで徒党を組んで悪さやってるうちにいつのまにかヤクザと関わり合いになって、ちょっとしたアルバイトの見返りにクスリをタダでもらってたの。それまで必死にお金巻き上げてまで買ってたから、わたし向きのバイトの上にクスリもタダで手に入れてラッキー、って。
そこに有島さんが現れてキャットファイトした結果、わたしは有島さんの言うこと聞いてクスリからもヤクザからも手を引いてこうして社会復帰に成功したわけです」
「結構簡単にまとめましたが、ずっと乱用してたんですよね。禁断症状はどうだったんですか」
「そりゃ毎日地獄よ地獄。色んな施設梯子したし、精神も不安定になってまたクスリに手を出したくなると必ず降って湧いたように有島さんが様子見に来るの。本当敵わないったらありゃしない」
「以前主に薬物犯罪について追っているとお伺いしましたが、その時の体験が理由で?」
「まあそれもあるけど。将来経験者としてクスリが如何にヤバいかを世間に警鐘しとけよってシメられた。
それにほら、赫碧症の人がクスリやると、アレでしょ」
そう、確かに違法な薬物の摂取で赫眼するというのは一般常識だった。
「赫碧症の人はタダでさえ社会に溢れやすい上に、クスリで身体強化してヤクザの鉄砲玉に担ぎ上げられて、それでまたクスリ欲しくなってヤクザの言うこと聞いて……って悪循環なの。
それを止めるのがわたしの罪滅ぼしだって言われた」
蒼樹は感慨深げに忍のデスクを見つめる、忍ではなく、そこで座って働いていたであろう有島の姿を見たのだ。
今度は柊が話題を振る番で、前々から聞きたかったことを蒼樹に尋ねた。
「蒼樹さんは所長と二人でお仕事されてたんですよね、三ヶ月くらい」
「三ヶ月? …………あっ」
蒼樹は心の中で忍に謝罪した。今の反応で忍にウソをつかれたことに気づいた柊が冷めた目で蒼樹を見ている。
「本当はどのくらいなので?」
「半年くらい」
「ははあ……それは確かに一瞬ですねぇ…………」
蒼樹は最初こそ忍に申し訳なく思ったものの、彼が事務所に帰ってきたあとのことを想像するだけで爆笑しそうになったので特にフォローはしなかった。
「で。で、蒼樹さんもここでお手伝いをしてたんですよね。当時は大変でしたか?」
「大変なんてレベルじゃない。
雑務はもちろん、電話対応、来客対応、調査でカップルのフリする必要があるからってこっちの都合もお構いなく引っ張り出されたし。
今日中に作らないといけない書類あるのいつも忘れるからその度に教えてあげて、そういう日は家にも帰れず付き合わされて。
確定申告の時は最悪だった。素直に税理士に頼めば良いものを『自分でやる』って言い張った挙句に『あの領収書がない、書類がない』ってギリギリになって大騒ぎし始めて事務所中ひっくり返りそうになるくらい漁るに漁ってその時期はほとんど泊まり込み……
……わたしもあんま甘やかさずにたまには突っぱねるんだった」
「ほほっっ、ほっ、ほ、ほおう……?」
柊はもはや怒りを通り越して笑うしかなかった。蒼樹は蒼樹で「やべーおもしれー」と対岸の火事で、忍の行く末などお構いなしである。
「色々お手伝いを経験されたみたいで…………当然夜のお手伝いもしたことでしょうねえ………………」
「だから怖いって。そういう手伝いはしたことないって真面目に」
「所長も蒼樹さんも口裏合わせてウソつくんですから。信用なりません」
柊がぷいと拗ねるので流石の蒼樹も見かねて「ちょっと」と声をかけた。
「その点は彼本当に紳士だからね? 泊らせてもらった夜はいつも一階のソファ使って寝るし、誘ってみたこともあるけど固辞するし。一応本人の名誉の為に言っておいてあげるけど」
「証拠は?」
「悪魔の証明やめてくれる?」
「これはですね? 偶然! 偶然見つけたんですけど‼
物置部屋を掃除してたらいかがわしいグッズ……なんかこう、目隠し、しかもなんかいかにもプレイ用って感じなデザインのやつを見つけたんですけど、二人でこれを使って楽しんでたんじゃないんですか‼」
「じゃあ別の女と楽しむ時に使ったんじゃない」
「ウソつかないでくださーーい! だって所長、だって……」
「まあ億が一に調査のために必要になった説も捨てきれないよ?
探偵だし、潜入調査とかで色々買いそろえてるって言ってたし。
なんかその手の店に潜入するために必要になったんじゃない?」
「いや、そうは言っても………………潜入調査? その手の店に?」
夕方過ぎ。調査を終えた忍が柊へのご機嫌取りにケーキを買ってきたものの、事務所に戻るやいなやプレイ用目隠しを突きつけられると同時に、蒼樹の話で判明したあれやこれやの説明を求められた。ケーキはおろか夕飯どころではなく、事情聴取は深夜まで及んだという。
明け方になって、忍から蒼樹に抗議の電話が届いたのは言うまでもない。
●五月十四日(火曜)
「この度はありがとうございました」
孝子が会社の帰りに依頼料を支払いに来所した。
忍はお札の枚数を数え終わると「確かに」と言って封筒に戻し、予め用意していた複写式の領収書の一枚目の方を依頼人に手渡す。
「また何かお困りのことがあればいつでも相談にいらしてください」
「いえ……多分もう、大丈夫です」
孝子は忍に顔を、というより目を合わせづらそうに言う。
「そうですか。では、この度はご利用ありがとうございました」
ありがとうございました、と柊も続け、孝子は事務所を去って行った。
「……あのあと結局どうなったのか、話しませんでしたね」
「まあ良い報告があったら言うだろ。言わなかったらそういうことだろ」
「男性の方は気の毒でしたね。今までずっと気をつけて生活して、それでも赫眼になるのをいとわずに助けてくださったのに」
「そうだな」
「もう、恋愛はしたくないって思いますかね」
「そうかもな。
……まあしんみりしてもしょうがねーって! どうせ男女なんて別れるときゃ別れるんだから」
忍はソファから立ち上がってオフィスチェアに戻り、アームレストに肘をついて楽にする。
「晦さんの両親だって離婚してるんだろ。所詮血の繋がってない恋人なんて体とか、夫婦なら紙切れだけで繋がってるんだって」
柊は「あの」とおずおずと忍に声をかけた。
「海外に住んでるっていう父の話なんですが。本当は実の父じゃなくて、叔父なんです。
両親が死んで、叔父の養子になったんです。
――両親が、殺されたから」
忍がびっくりしたようなリアクションを――
――取ろうとして、やめた。
その代わり「あのさ」と申し訳なさそうに重く口を開く。
「実は晦さんの戸籍謄本が必要になった時、もう養子だって知ってたんだ。前は『樫井柊』って言うんだよな。
それで実の両親の名前……見覚えがあったから調べた。ごめん」
「あはは……そっか。戸籍謄本で全部バレちゃうんですね。うっかりしてました」
「じゃあ、やっぱり君は……」
「そうです。九年前のクリスマスイヴに起きた未解決事件――『樫井夫妻殺害事件』。その殺された被害者の娘が私です」
忍はただの書類置きと化していた丸椅子から書類を机の上にまとめて置いて、自分の前に動かして柊に「座りなよ」と促す。二人は座って向かい合う形になった。
「犯人が少年、それに殺されたのが赫保《かくほ》……赫碧症人権保障機関のトップ、そしてクリスマスイヴということもあって当時センセーショナルに取り上げられました。覚えてますよね、やっぱり」
「うんまあ……目撃された犯人と同世代だったから、心穏やかではなかったね」
「それで、その日犯人と鉢合わせになったことがあったんです。私が目撃者でした」
「よく無事だったな……」
「犯人は真夜中に庭の木を上って二階のガラスの窓を割って入ってきて、私の部屋も二階だったから聞こえたんです。
それに人の足音が聞こえて、怖くて……。
最初は布団かぶって、机の下に逃げて、足音が怖くて耳を塞ぐのに必死で……。
突然誰かが部屋に入ってきて微かにゴソゴソした音が聴こえて、その時は本当に生きた心地がしなくて……。
でも私に気づかなかったのかすぐに出て行ったんです。
それで数分して耳を塞ぐのをやめたら足音も聞こえなくなってて、もういなくなったんじゃないかと思って、すぐにでも両親の元へ行かなきゃって……」
「柊……」
「……それで両親の元へ急いで向かったら、二人はもう変わり果てた姿でした。
横たわった両親に駆け寄った私を部屋の外から犯人が見ていて、目が合ったらすぐにその場を離れたんです。
そうして一人取り残されて、玄関が閉まる音を聞くと糸が切れたように失神して、気づいたら警察署で……」
「柊、もうよせ……」
「そのあと、二階を物色した痕跡はあったようですが結局何も取られていなかったことを知りました。
それで犯人について世間に公表された内容は少年であることと身体的特徴だけだったんですけど、ひとつだけ伏せられたことがあったんです。赫保には都合の悪い内容でしたから。
――――どういうことか、お分かりですよね」
「……犯人は赫碧症で、お前が見た時赫眼してたんだな」
柊は「所長」と毅然とした態度で言う。彼女が心からの主張をぶつける前触れだった。
「あの人のこと、心のどこかで軽蔑してるでしょう。
でもみんながみんな、唯一依頼をキャンセルした人みたいにはなれないんです。あの人の反応の方が普通なんです」
忍は柊をじっと見る。心なしか彼女の目が潤んでいる気がした。
「私も、彼女の気持ちが痛いほど分かります。
……怖いんです。赫碧症の、しかも男の人がみんな両親の仇に見えてしまって。
もし好きな人が赫碧症だったら私、耐えられません」
「例えば俺がそうだとしても?」
「そうだとしても、です」
「あの依頼人みたいに、即離婚する?」
柊は俯いてその質問には答えようとはしなかった。
「でも、彼は何も悪いことをしてなかったんだ。愛する人を守ろうとしただけだったんだよ」
なのにあまりにも理不尽じゃないか。そんな彼のやるせなさを感じ取った柊は「じゃあ、所長」と話しかけ、「なに?」と忍も耳を傾ける。
「もし所長があの男性と同じ立場で、私が危ない目に遭いそうな時、嫌われるかもしれないと分かっていても、あの人みたいに迷わず助けに来てくれますか?」
実年齢よりちょっと年上に見られる彼だが、この時だけは少年を思わせる屈託のない笑顔で答えた。
「伴侶だからな」
●五月十八日(土曜)
柊の態度が少しおかしくなった。
いつも心ここにあらずで、ぼうっとして鍋が吹きこぼれても気づかなかったり、トイレに用があって忍が二階に上がるとダイニングで人形のようにテーブルに肘をついて椅子に座っている姿が目に入ったり、とにかくいつもの元気がなかった。
一緒に食べる朝食も口数が少なく、沈黙に堪えられなくなった忍の方が喋り倒す有様である。
そんな日が続き、ついに今日柊が皿を割ってしまった。
食後にダイニングでのんびりと茶を啜っていた忍が慌てて駆け寄ると、破片を触ってしまって指から血を流している柊が目に映る。
それだけではない。小さいながらも息が荒い。肩も小刻みに震えている。フローリングの上の破片と自分自身の赤い血から目を離せないでいる。
「バカよせ、触るなって。すぐに洗面所行って洗い流してこい。破片は俺が拾っておくから」
そう言って柊を洗面所に行くように促し、忍は箒とちりとりで大きめの破片を片付け、物置部屋から有島が置いていったストッキングを一つ拝借させてもらい掃除機の先端に取り付けて細かい破片を拾い集め、塗れた新聞でフローリングを拭くなど一連の作業をしても、洗面所から水が流れる音が止まなかったし、柊も出てこなかった。
そんなに深い傷だったのだろうかと忍は心配になり、救急箱をテーブルの上に用意してから洗面所の彼女の様子を伺う。
相変わらず彼女はぼうっとしていて、指の傷口より鏡に映る自分を見つめている。
「もうそのくらいでいいだろう。ほら、ボーッとしてないでこっち来い」
忍に手首を掴まれてから柊はようやく意識を取り戻したかのように、彼に引っ張られながら自分の足でおぼつかなくも歩いた。
二人は隣同士でダイニングの椅子に座り、忍は「浅そうだな」と傷口を見てガーゼを用意する。
「止血するから押さえるぞ」
ガーゼを使って柊の手を取って指の傷を押さえる。忍はしばらく止血に意識を取られていたが、ふと視線を感じて柊の方を見るとポーッと憂いを帯びた顔で見つめられ続けていたのに気づいた。
ちょっと妙な雰囲気になってしまったかもしれないと、そろそろ止血も十分な頃合いだと思って絆創膏を貼って手当を済ます。
ありがとうございます、と普段の柊なら言うのだが、それすら言わずにただただ沈黙していた。そんな彼女に忍も努めて明るく話しかける。
「どうした、元気ないな? 学校で、なんかあったか?」
「すみません、色々考え事があって、心が嫌にざわついて、居心地の良さがあって、悪さが同居しているというか……」
いやに抽象的な言葉を使っていた。これは重傷かもしれないと思い「今日は俺が食器洗うから、もう風呂入ってこいよ」と彼女の肩を軽くポンと叩くなどして忍なりの気遣いを見せた。
「あの、所長、お願いが……」
言いかけて柊はハッとして口をつぐんでしまう。
「所長、食器お願いします。お先にお風呂失礼しますね」
そう言って柊はエプロンを外し、スリッパをパタパタさせながら脱衣所へ向かった。
風呂から上がった柊はそれきり寝室へ引きこもってしまった。
◇
物置部屋もそろそろなんとかしなければと思いつつも、忍は未だに事務所のソファで寝る生活を続けていた。
その日は深夜遅くまで寝間着姿のまま、パソコンと紙の資料を睨めっこしていた。ただし残業というわけではない。
画面にはPDF化された新聞記事が複数開いている。そして荒川から横流ししてもらった警察内部資料のメモ書きには「樫井夫妻殺害事件・犯人像」と書かれており、中身の方は要約すると次の二点である。
・樫井夫妻の長女が目撃した「少年」は赫眼していた。
・「少年」は二階には痕跡を残していた一方、一階は玄関のドアノブについた指紋以外何も残していない。
トップクラスの人間が都倉に殺されたと知れると体裁が悪い赫保の強い圧力で、当時の記事のどれを漁っても明らかにされなかった事実である。警察だけでなく、マスメディアにも圧力をかけたのだろう。
忍は手にした警察内部資料の一つ、当時の容疑者リストに連なった名前を眺める。年齢、学校、住所、犯行当時のアリバイまでご丁寧にリストアップされており、五十音順で並べられていた数十人の氏名は全て男性名だった。
そのア〜オ行の欄に、見慣れた漢字四文字の男子中学生の氏名を見つけ、忍はため息をつきながら資料を裏返して机の上に置く。
今度は一度ブラウザを最前面に表示して、検索バーに柊の苗字――「晦」「つごもり」で検索をかける。すると上位に「晦昌紀」、風景写真家の情報がヒットした。
次にその名前で検索するとサジェストに「樫井夫妻殺害事件」が表示されている。
現在は消されているが、事件や叔父のウィキペディアの編集履歴から晦昌紀が樫井夫人の弟であると容易に辿ることができる。
これと全く同じ手順を、彼は四月八日――柊が来所している最中――に行った。
一瞬とはいえ初対面の時に碧眼していたのを見られていただろう。
樫井夫妻殺害事件の犯人と同世代、赫碧症の探偵が構える事務所に転がり込む樫井夫妻の一人娘。
本来なら、すぐに事務所から叩き出すべき存在である。
外から扉をコンコンと叩く音が鳴った。こんな非常識な時間に訪ねてくる客人は一人しかいない。
「ようやく常識的な訪ね方覚えたかよ。時間帯だけは相変わらず非常識だけどな」
忍はオフィスチェアから立ち上がり、扉を開けて都倉を事務所に向かい入れた。
やはり前に来た時のような地味なコーディネートだったが、今日は手ぶらで来たようだ。拳銃とハンマーはお留守番らしい。
「盗聴器聞かにゃならんからあんたずっと車中泊だろ。大変だな」
「柊様の様子がおかしいと心配になった。事務所で何かあったか」
「どうせ外で監視してるんだろ」
「女の客が帰ったあと二人で話し込んでたな。一体何を話した」
「いやあ、その依頼人の件であいつから説教されてただけだよ。
『オマエは男だから女心が分かんねーんだよ』みたいな。それからややお互い気まずい感じ?」
どこまで話せばいいのやらと迷ったので、忍は当たらずも遠からずな内容で誤魔化した。
都倉は忍の顔をじっと見つめたが、これ以上の収穫は期待できないと諦めたのか彼から背を向けて扉に手をかける。
かと思えば一瞬立ち止まり、何かまだ言いたいことがあるのか顔半分だけ忍の方に向けた。
「……なんだよ。言いたいことがあるならさっさと言えよ」
「両親のことを聞かされたか」
「両親?」
忍はあえてすっとぼける。鎌をかけているかもしれないと警戒したからだ。
しかし忍の予想に反し、都倉はあまり意に介さないようだった。
「もう知っているだろうが、私の本当の雇用主は柊様の叔父上だ。
彼は事件から三年ちょっとしか彼女のそばにいなかったが、私は中学に上がってから今までずっと見守ってきた」
だから自分の方がよっぽど彼女を大切に想っている。叔父よりも、そしてお前よりも。
口にこそしなかったが、雰囲気でなんとなく忍にも伝わってきた。
「私には子どもがいないが、彼女を我が子のように思っている」
「気持ちは分かった。別にキズモノにしようなんてこれっぽっちも考えてないから」
お前の言葉など信用できるか、とでも言われるのを覚悟していたものの、都倉は何も返さなかった。
今ならお喋りくらいしても許されるだろうかと、忍はダメ元で質問してみる。
「その事件だけど。夫妻に恨み持ってる人間に心当たりあったりしない?」
「私に聞かれても困る。赫保のトップで派手に活動していたと聞いている。敵は多かっただろう」
案外都倉の口がなめらかに動いたので忍は
「じゃあ、他にあの日現場にいた人間とかは? 記事で『通報したのは夫妻の知人』って書いてあるんだけど。叔父上から何か聞いてない?」
と、欲張りにも尋ねてしまう。
「夫妻の顧問……赫碧症の専門家だと聞いている。彼らとは親しくしていたらしい。――何を考えているか分かっているが、そいつはすぐに容疑者候補から外れている。お前が求める情報を提供できず悪いが」
それもそのはずだ。そんな人間が出入りしているなら、警察が疑わないはずがない。
「だな。もしそうなら『事件の通報者、狙撃銃で撃たれて死亡』ってニュースがないと変だからな」
都倉はただでさえ深い眉間の皺がさらに険しくなった。「本気にすんなよ」と忍は適当に謝罪する。
そこで二人の貴重なお喋りタイムは打ち切りになり、都倉は「もう用はないから帰る」とクールにも事務所を去ってしまった。
再び一人になった忍は荒川から入手した資料の一つを眺める。
「通報者:都倉武 二十九歳。元心理福祉課の職員で赫碧症の専門家。夫妻らの顧問。
事件当日樫井邸でクリスマスパーティーに参加」
●五月十九日(日曜)
翌日、忍は迷子の飼い犬探しに明け暮れていた。
飼い主の心配も知らず離れた公園で学校帰りの子どもたちの相手を嬉しそうにしていたのを見つけ、無事依頼人の元へ送り届ける。
帰宅すると熊谷が例の二件の依頼のその後を尋ねにわざわざ事務所まで足を運んでくれたので、そのまま二人は語らい合う。
熊谷が帰った頃には柊との夕食の時間を過ぎてしまっていた。
その後二階に上がると、タイミングを計ったかのように忍の分の料理が並べられている。柊はもう先に済ませていた。
今夜のメインディッシュは箸で切れるほどのとろとろのロールキャベツである。
リクエスト用の料理本は少し前に新品で買ったものを使うようになった。
適当に買った中古本を使い続けるのになんだか後ろめたさを覚えてしまったからだ。
ページめくりで決めるのもやめた。気分ではあるが、彼女に作ってほしいものを考えて選ぶようになった。
食事中は学校の出来事とか、仕事はどうだったとか、今日の料理は自信作だとか、今朝のニュースで二人の星座の恋愛運が良かったとか、今日で結婚○日目記念だとか○周目記念だとか泥棒猫がどうだったとか代わる代わる話題を振ってくる柊だったが、今日この日だけはいつもと毛色の違う話題から入ってきた。
「今更なんですけど。どうして所長は私と結婚するのに同意してくださったんですか」
「いや、なんか君勢い凄いし来所二回目で婚姻届出してくるから、こりゃちょっとやそっとのことじゃ諦めてくんねーなって。押してダメなら引いてみろ理論で署名しちゃった」
実際のところは違うが、忍はひとまずそう答えることにした。
「そうですよね……別に私のことが好きで結婚したわけじゃないんですよね……」
「露骨に凹むなって。ンなのそっちだって織り込み済みだったろ。どうせいつか飽きるだろってこっちもタカを括ってたから、まあ紙切れ一枚くらいいいやって」
「所長、あまり家族とか、恋人とか信じてないんですね。ああいう依頼をたくさん見てきたからですか」
「あんなのはもう慣れっこだから。お察しの通り夢は見てないよ。俺の場合実体験に基づくものだから」
「これからも、信じられそうにないですか」
「ない」
忍はノータイムで返答する。予想はしていたものの、柊は胸が締め付けられるのを感じた。
「……分かりました。それで所長、昨日言いかけたことなんですが。今夜、私と寝ていただけませんか」
忍の箸からロールキャベツがスルリと抜けてスープが残っていた皿へボッチャンと落ち、あたりのテーブルにスープが飛散する。
ちょっとこの状況なんて切り抜けようかと彼が返答に困って固まっているうちに、柊はふきんでテーブルを綺麗にしてくれた。
柊がスープを含んだふきんをシンクで洗うために忍から背を向ける。顔を合わせていないのを良いことに忍が遅い答えを口にする。
「悪いんだけど――」
「違うんです、寝るって言うのは、添い寝のことです」
相変わらず柊はシンクに向き合っていて、どこか取り繕うように言われた気がした。
「一人でいると考え事ばかりして、最近中々寝付けないんです。それがずっと頭から離れなくて、変な気分なんです」
「子どもか。もしかしてさっき俺があんなこと言ったから不安になっちゃった?」
「それは前から薄々思ってたことでしたから気になさらないでください。もちろん、ベッドにお誘いする以上、覚悟はできてます。なんでもお応えしますから、
その……エロ同人みたいに」
「二月に会った時のあの勢いはどうしたよ」
「すみません。あの時は会ったばっかりで昂ってました。今思うと恥ずかしいです。本当はエロ同人のことよく知りません。なんかそういうネットスラング?なんですよね」
「う、うん」
耳年増アピールをしたくて口走ったらしい。しかし本人は認識にまだ齟齬があることを知らない。
「晦さん、普段は、本当はこうなの?」
小さくこくり、とうなずく柊。
「結婚したばかりの頃はちょっと無理してはしゃいでたのか。
ここはもう晦さんの家なんだから、自分らしく振る舞いなよ。ああは言った手前だけど、別に出てけって言うつもりもないから。
テンション昂ってる時も見てて飽きないけど。
今の晦さんもその、悪くないよ」
これがギャップ萌えなのだろうか。忍は柊をこんな風に思うようになる日が来るとは、と感慨深さを覚える。
夕食後、柊が風呂に入っている間に忍は急ぎ全ての部屋の盗聴器とカメラをチェックすると、それら全てが取り除かれていることに気づいた。
最後に柊の寝室からも一つ残らず消えているのを確認して一人呟く。
「あいつ、全部外したんだ」
風呂を済ませた忍は既にベッドの上、涅槃のポーズで待機していた。
「ほら、遠慮せず俺の胸に飛び込んでこいよ」
「そんなノリノリならもっと早く頼むんでした」
シングルベッドを二人で分け合うために身を寄せ合う。
狭いには狭いが、逆にその狭さが安心感を与えた。
忍が不安は和らいだかと聞くと「少し」と柊は答える。
「ずっと一人で暮らしてたから、人恋しかったのかもしれません」
「誰でも良かったってこと?」
「! そんな、心外です!」
本気で柊が反論するので「冗談じゃん」と忍は軽く受け流す。
「所長、何かお話ししてください」
「子どもかよ」
「じゃあ、有島さんのことを教えてください」
「有島さんか……。色々エピソードには事欠かない人だけど、赫碧症の話も出てくるけど、平気か?」
「教えてください。私は平気ですから」
「じゃあ決まりね。前はこの寝室俺が使ってたけど、その前は有島さんが使ってたの」
時系列はバラバラであったが、忍は柊に有島にまつわるエピソードをさまざま披露した。
有島は一度ヤクザ絡みの依頼を引き受けたことがあった。結果的にヤクザと関わることになっただけで、最初は行方不明になった女子中学生の娘を捜索してほしいという両親からの所在調査の依頼であった。
女子中学生は元々非行に走っており、家に帰らないことがしばしばあった。警察に届け出はしたものの中々彼女は捕まらない。そこで痺れを切らした両親が有島に依頼したのだ。
有島の調べで、少女は「鉄砲玉」の任務の見返りとしてヤクザから違法ドラッグを授受していたことが発覚する。
少女は赫碧症だった。報酬として得たドラッグで赫眼し、その状態で任務をこなし、その報酬として得たドラッグを……と、回し車を走るハムスター状態で、いずれ破滅して使い捨てられるのが目に見えていた。
そんな彼女を有島がなんとか救い、最終的に有島のツテで安全な場所でかつ信頼できる夫婦と養子縁組させることで少女を保護した。
「あれ、なんかその話……」
「ん?」
「あ、いえ。なんでもありません」
――以下は柊に伏せたその後の話。
○平成二十八年 某月某日
ある日、有島の介入に対する報復に訪れたヤクザが事務所のドアのガラスなどを盛大にブチ壊して押し入ってきた。
有島も忍もその場に居合せ、男たちは近接武器を持参して襲いかかってきたものの、忍は思いの外すんなりと碧眼して襲ってきた大人五人をコテンパンにしてしまった。当時忍はまだ中学二年である。
碧眼というのは任意のタイミングでなろうと思ってなれるものではない。それは今の忍でも同じ話である。
しかし「差し迫った状況」――これを脳が認識するかどうか、そしてその速さは人それぞれであり、「碧眼になった時はもう手遅れでした」というパターンも珍しくない。
だが一部の人間、例えば彼のように危機察知能力が高すぎる人間ほど、早い段階で碧眼状態に入りやすくなってしまうのである。
赫碧症の自分が初めて人を守るために役に立った。
それが誇らしくて、後ろにいた有島に「今の見てた⁉︎」と嬉しそうに振り向いた瞬間。
熱い平手打ちを喰らった。
「碧眼状態は脳に負担がかかる。心理福祉課で習わなかったの」
「……習ったけどっ! ほんの一瞬だったじゃんかっ! 十秒もなかった! たったそれくらいどうってことないだろ!」
「どうってことがあるから引っ叩いてんのよ!」
有島はもう片方の頬を平手打ちした。
「碧眼になれるからって自惚れるんじゃないんだからね。そんなの才能でもなんでもないんだから」
そんなことを言われるために戦ったわけでも、碧眼になったわけでもないのに。
忍は既に転がっていた観葉植物のプランターを思い切り蹴り上げ、怒りに任せて走り去る。
そのままとある河川敷に駆け込み一人不貞腐れていた。
いつぞや有島に見つけてもらい、そしてある記念日を迎えた、彼にとって思い出の場所とも言える。
しかし数時間経っても有島は現れず、忍も時間が経ったおかげで頭が冷えて、事務所へ戻ることにした。
事務所はまだ警察の実況見分が終わっておらず、有島もそばで立ち会っている。
なんだ、探しにこなかったのは警察に拘束されてたせいなのか。
少し考えれば分かりそうなことだったのに、有島が来なかった理由が別にあったと知って安堵する自分がいることに忍は気づかない。
裏口からそっと入って二階に上がり、軽い罪滅ぼしとして有島が比較的好んだ鉄板目玉焼きのせナポリタンを用意した。
実況見分から解放されたのかちょうど調理し終えた頃に有島が現れたが、料理にちっとも関心を示さず一人で部屋に戻ろうとする。
それがどうしてもどうしてもどうしても腹立たしくて――――。
「……め……眼。眼が赫くなってる」
ほんの一瞬だけだったが、意識が飛んでいた。言われるまで赫眼になっていたことにも気づかなかった。いつのまにか食卓テーブルがひっくり返って、用意したはずのナポリタンはカーペットの上でぐちゃぐちゃになっている。
「あーもうただでさえ事務所もめちゃくちゃなのにダイニングまで……カーペット汚れちゃったじゃん。気に入ってたのに。
……それと癇癪起こして赫眼になるのが許されるのは小学校低学年までだから。あんた今何年生? 中二でしょ。そんなんじゃ高校生活やっていけないわよ」
「……じゃあいいよ! 義務教育じゃないんだから高校は通わなくてもいいんだろ‼︎」
「あっそう。じゃあ親元に帰れば? 中卒の探偵助手なんていらないから」
有島は冷たく吐き捨てて、彼を無視して部屋の中へ消えてしまう。
忍は最初片付けも何もかも放り投げて一度は部屋――現在の物置部屋――でふて寝したものの、一時間ほどしてすぐにダイニングに戻り、散らかった料理を片付け、手洗い表示のカーペットを風呂場で足踏みして洗うもナポリタンのケチャップの跡は消えそうになく、ある程度のところで諦めた。
翌日には予備のカーペットを敷いて、忍は努めていつものように過ごす。有島は気怠げそうだった。日によって気分が変わるのはこの人にはよくあることだと言い聞かせた。
結局この件のはなあなあになり、直接和解があったわけではないがお互い喧嘩していたことなどなかったかのように振る舞った。
◇◇◇
「――丈夫だけが取り柄みたいな人だったんだけど、事務所出てく半年前くらいから体調崩して、毎週水曜定休日にしてずっと寝込んでた。この部屋で」
◇◇◇
○令和二年 十月某日
忍が十八になってほどなく、有島の調子がおかしくなりはじめた。
そして高校三年の三学期。忍の卒業まであと三ヶ月のことだった。
相変わらず寝室で横になっていた有島を見かねた忍はお粥を作り、ただの飾りと化したアンティーク椅子の上にお粥が入った食器とレンゲを乗せたお盆を置く。
「所長、もう三ヶ月近く水曜は横になりますね」
「女の子はね、週に一回、こうして寝込みたくなるくらい辛いことがあるの……」
「……………………」
「おい、今せっかくツッコミポイント二箇所ほど用意してやったろ」
「こんな時に人の気遣いなんてしてる場合じゃないでしょう。病院行きましょ、せっかく免許取ったのに」
「病院行く前に事故って死ぬ……」
「部下をもっと信用してくださいよ! そりゃあの、車にガードレールちょっぴり擦った記憶があるようなないような気がしますけど」
◇◇◇
「気丈な方なんですね、有島さんって」
「うん。横になってる時点で弱み見せまくってるんだけど、本人的には弱みを見せてないつもりっぽい。それがまた面白いのなんの」
――また、柊には以下のやりとりを伏せた。
◇◇◇
しまった、またいつもの調子で話してしまった。今の有島に必要なのは安息と休息、そして病院へ向かうことだと、忍はスマートフォンを取り出した。
「タクシー呼びましょ。病院行ったことない自慢とかしてる場合じゃないですよ。それか救急車――――」
スマートフォンを操作する手を弱々しくも有島が制した。「所長?」と困ったように尋ねると、すぐに有島は腕をだらりと下げる。
「あんた……碧眼になりやすいからってあんまホイホイ使うんじゃないわよ……。
私の知り合いで赫碧症の人がいてね……危険な土地で、危険な仕事して……何度も死線潜り抜ける度に碧眼になりやすくなって、だんだん脳に負担がかかって、ある日突然脳死しちゃった……。
その人、まだ二十六だった……」
「あ…………所長、もしかして、そんな」
「だから、これは女の子の週一のイベントっつってん……でしょうが…………」
「……所長……。女の子って、何歳まで女の子なんでしょうか…………週一って、そんな頻度高いですっけ…………」
「そうそう……そのツッコミ…………待って…………」
嬉しそうにそう言いかけて有島は眠りにつく。
冷めると思って食器に蓋にして、数時間後にまた戻ってきたら有島がまだお粥に手をつけていないことに気づいた。
――彼女が自分と同じ赫碧症だと、この日初めて知った。
それでも次の日にはいつものように起きていつものように仕事する。傍目には元気そうにしか見えない。
元気そうにしか見えないだけに、水曜の憔悴しきった彼女とは別人のような気がしてならなかった。
◇◇◇
「一ヶ月後に週一のイベントは週二のイベントになった。新規の依頼は受けないことにした。熊谷さん、他の探偵事務所に案件の引き継ぎをお願いしに回った」