今日は熊谷から回してもらった二件目の依頼人、「従業員が赫碧症かもしれないから調べてほしい」という五十代の男性が来所した。彼は輸入販売を生業とする中小企業・「株式会社オーイシ」の社長である。本人の苗字もそのまんま「大石」。
いつものように赫保の長ったらしいパンフレットを読み上げたあと、調査を依頼するに至ったきっかけを尋ねた。
ある日ミスが原因でとある男性の従業員を怒鳴りつけていた際、途中でトイレに引きこもってしまったことがあったという。最初こそ「最近の若者は」と思っていたものの、「彼から避けられている気がする」と複数の従業員から打ち明けられ、その一人から「もしかして」と言われたのだった。
彼は以前の勤め先を一年足らずで退職していた。それで大石社長ももしやと疑うようになり、探偵事務所に依頼するに至ったらしい。
「うちは面接時に必ず『赫碧症者は採用しない』と強く言ってるんです。もしそうなら解雇させます」
――個人情報の保護に関する法律、通称「個人情報保護法」は平成二十七年に改正、翌々年二十九日に改正法が全面施行された。
情報通信技術がめざましい発展を遂げる時代、個人情報取扱業者がビッグデータを活用しやすくするため、匿名加工情報制度を導入することが目的の一つだ。
また個人情報漏洩は令和においてもニュースで度々報じられるが、この改正時に漏洩報告の義務化・厳罰化が盛り込まれた。
更に取り扱っている個人情報が五千人以下の事業者は対象外だったのが、この改正で全ての事業者が対象になった。取り扱う個人情報というのは顧客だけでなく、従業員も含まれる。
一方、「要配慮個人情報」――人種、信条、社会的身分、病歴、犯罪の経歴等といった差別や偏見を生じさせる恐れのある情報――を、本人の同意なく収集してはならない、という案は見送られた。
これは当時赫眼状態になった人間の傷害事件が続き、ついに傷害致死事件が初めて起きたという背景もある。亡くなった被害者は、加害者とは無関係で偶然居合わせていただけの、進学したばかりの小学生だった。
赫碧症であるかどうかも要配慮個人情報になる。しかし上記の事件もあり、例えば雇用者が採用時の面接に赫碧症者であるかどうか知りたいのは当然かもしれない。彼らからすれば赫碧症者はいつ爆発するか分からない地雷のようなものだ。
だからといって赫碧症だけ要配慮個人情報の例外にするのか、なら犯罪歴も例外にすべきだ、であればあれも、これも……と収集がつかなくなった。
当時積もりに積もった国民の怒りの声もあり、結局「要配慮個人情報」の規定整備自体なくなってしまった。
「赫碧症がなければ『要配慮個人情報』が新設されたかもしれないのに」と、同じく差別を受ける立場からの声も上がった。実際否定できない。
また、「自分は赫碧症者である」「前科がある」などとオープンにしたがる人間にはまずお目にかからない。赫碧症に関してはストレス耐性は人それぞれであるし、赫眼にはなりにくいと思っている者なら尚更である。
虚偽の申告をする者も多いし、仮に明るみになったとしても罰則の規定はない。
……なので、従業員が赫碧症者であると隠しているのかどうか調べて欲しいという「依頼自体」は法には触れないのだ。
しかし職業選択の自由や裁判を受ける権利が憲法保障されている以上、解雇など不当な扱いを受ければ訴訟を起こすこともできる。
ただ、そこまでして戦う被差別者は稀であり、ほとんどは経済的負担・時間的負担を前に泣き寝入りするしかない。
赫碧症が確認されてから三十五年。個人情報保護法が改正されて九年経っても、歪な法制度がずっと続いてきた。多くの人間にとっては当たり前であり、何の疑問も抱いていない。
ただし赫保、「赫碧症人権保障機関」はこの歪な構造を変えるべく活動し続けている。
「それにもう一つ気がかりなことがあって。赫保のトップが殺された未解決事件。『樫井夫妻殺害事件』ですよ」
大石が言ったのは今から九年前――平成二十七年十二月二十四日に起きた有名な「樫井夫妻殺害事件」。
この樫井夫妻とは、赫保のトップとして積極的に赫碧症者の人権を守るため声高に法改正を主張し、奔走していたことで有名だった。
しかし彼らの活動も虚しく、クリスマスイヴにその命を奪われてしまう。
夫妻は正面からナイフで刺され即死。返り血を防ぐ為か、凶器はそれぞれ遺体に刺されたままで指紋も残されていなかった。二階の窓のガラスを割られおり、そこから侵入されたらしい。
物色目的か二階にはあちこち痕跡を残していたものの、肝心の一階、殺害現場には一切証拠を残していないという、不可解極まりない事件であった。
そして唯一生存した家族に目撃された犯人の特徴は「痩せこけていて、特徴的な目つきの中学生前後の少年」。
事件前に品定めするかのように樫井邸を眺めている少年を見たと近所の住民からの目撃談もあった。
今も生きているならば、従業員の男性や忍と同世代になる。
タイミングがタイミングなので個人情報保護法改正が絡んでいるという声もあるが、ネットでは犯人が未成年なこともあり「赫碧症者なのでは」という憶測も広まっている。
大石社長から提出してもらった従業員の履歴書の顔写真を忍も見てみると、顔はほっそりしており目つきもまあまあ特徴的と言えなくもない。が、件の事件の犯人と目するには正直微妙な印象だった。
「万一そんな犯人を雇用していると知れたら世間から晒し者にされるどころか、取引先との影響にも関わります。経営者からすれば死活問題ですよ」とも社長から訴えられる。
そう息巻く大石相手に忍は冷静に対応し、調査依頼の契約書を交わした。
そして着手金を受け取る。おそらくこれから一人の人間の職を奪うことになる報酬として。
やはりというか中小企業の社長。それなりの金額を用意していたようだ。
――そういえばあの植木鉢の少年の両親もこうして多めの着手金をくれたっけ、と彼は今になって彼らのことをぼんやりと思い出していた。
いつものように赫保の長ったらしいパンフレットを読み上げたあと、調査を依頼するに至ったきっかけを尋ねた。
ある日ミスが原因でとある男性の従業員を怒鳴りつけていた際、途中でトイレに引きこもってしまったことがあったという。最初こそ「最近の若者は」と思っていたものの、「彼から避けられている気がする」と複数の従業員から打ち明けられ、その一人から「もしかして」と言われたのだった。
彼は以前の勤め先を一年足らずで退職していた。それで大石社長ももしやと疑うようになり、探偵事務所に依頼するに至ったらしい。
「うちは面接時に必ず『赫碧症者は採用しない』と強く言ってるんです。もしそうなら解雇させます」
――個人情報の保護に関する法律、通称「個人情報保護法」は平成二十七年に改正、翌々年二十九日に改正法が全面施行された。
情報通信技術がめざましい発展を遂げる時代、個人情報取扱業者がビッグデータを活用しやすくするため、匿名加工情報制度を導入することが目的の一つだ。
また個人情報漏洩は令和においてもニュースで度々報じられるが、この改正時に漏洩報告の義務化・厳罰化が盛り込まれた。
更に取り扱っている個人情報が五千人以下の事業者は対象外だったのが、この改正で全ての事業者が対象になった。取り扱う個人情報というのは顧客だけでなく、従業員も含まれる。
一方、「要配慮個人情報」――人種、信条、社会的身分、病歴、犯罪の経歴等といった差別や偏見を生じさせる恐れのある情報――を、本人の同意なく収集してはならない、という案は見送られた。
これは当時赫眼状態になった人間の傷害事件が続き、ついに傷害致死事件が初めて起きたという背景もある。亡くなった被害者は、加害者とは無関係で偶然居合わせていただけの、進学したばかりの小学生だった。
赫碧症であるかどうかも要配慮個人情報になる。しかし上記の事件もあり、例えば雇用者が採用時の面接に赫碧症者であるかどうか知りたいのは当然かもしれない。彼らからすれば赫碧症者はいつ爆発するか分からない地雷のようなものだ。
だからといって赫碧症だけ要配慮個人情報の例外にするのか、なら犯罪歴も例外にすべきだ、であればあれも、これも……と収集がつかなくなった。
当時積もりに積もった国民の怒りの声もあり、結局「要配慮個人情報」の規定整備自体なくなってしまった。
「赫碧症がなければ『要配慮個人情報』が新設されたかもしれないのに」と、同じく差別を受ける立場からの声も上がった。実際否定できない。
また、「自分は赫碧症者である」「前科がある」などとオープンにしたがる人間にはまずお目にかからない。赫碧症に関してはストレス耐性は人それぞれであるし、赫眼にはなりにくいと思っている者なら尚更である。
虚偽の申告をする者も多いし、仮に明るみになったとしても罰則の規定はない。
……なので、従業員が赫碧症者であると隠しているのかどうか調べて欲しいという「依頼自体」は法には触れないのだ。
しかし職業選択の自由や裁判を受ける権利が憲法保障されている以上、解雇など不当な扱いを受ければ訴訟を起こすこともできる。
ただ、そこまでして戦う被差別者は稀であり、ほとんどは経済的負担・時間的負担を前に泣き寝入りするしかない。
赫碧症が確認されてから三十五年。個人情報保護法が改正されて九年経っても、歪な法制度がずっと続いてきた。多くの人間にとっては当たり前であり、何の疑問も抱いていない。
ただし赫保、「赫碧症人権保障機関」はこの歪な構造を変えるべく活動し続けている。
「それにもう一つ気がかりなことがあって。赫保のトップが殺された未解決事件。『樫井夫妻殺害事件』ですよ」
大石が言ったのは今から九年前――平成二十七年十二月二十四日に起きた有名な「樫井夫妻殺害事件」。
この樫井夫妻とは、赫保のトップとして積極的に赫碧症者の人権を守るため声高に法改正を主張し、奔走していたことで有名だった。
しかし彼らの活動も虚しく、クリスマスイヴにその命を奪われてしまう。
夫妻は正面からナイフで刺され即死。返り血を防ぐ為か、凶器はそれぞれ遺体に刺されたままで指紋も残されていなかった。二階の窓のガラスを割られおり、そこから侵入されたらしい。
物色目的か二階にはあちこち痕跡を残していたものの、肝心の一階、殺害現場には一切証拠を残していないという、不可解極まりない事件であった。
そして唯一生存した家族に目撃された犯人の特徴は「痩せこけていて、特徴的な目つきの中学生前後の少年」。
事件前に品定めするかのように樫井邸を眺めている少年を見たと近所の住民からの目撃談もあった。
今も生きているならば、従業員の男性や忍と同世代になる。
タイミングがタイミングなので個人情報保護法改正が絡んでいるという声もあるが、ネットでは犯人が未成年なこともあり「赫碧症者なのでは」という憶測も広まっている。
大石社長から提出してもらった従業員の履歴書の顔写真を忍も見てみると、顔はほっそりしており目つきもまあまあ特徴的と言えなくもない。が、件の事件の犯人と目するには正直微妙な印象だった。
「万一そんな犯人を雇用していると知れたら世間から晒し者にされるどころか、取引先との影響にも関わります。経営者からすれば死活問題ですよ」とも社長から訴えられる。
そう息巻く大石相手に忍は冷静に対応し、調査依頼の契約書を交わした。
そして着手金を受け取る。おそらくこれから一人の人間の職を奪うことになる報酬として。
やはりというか中小企業の社長。それなりの金額を用意していたようだ。
――そういえばあの植木鉢の少年の両親もこうして多めの着手金をくれたっけ、と彼は今になって彼らのことをぼんやりと思い出していた。