「あれは他に男ができたな……」
「え⁉」



 依頼人が帰ったあとに忍がしたり顔で言うので柊は声が裏返ってしまった。

「付き合って二年、適齢期、でもいつまで経っても結婚の話がでてこない。もう待てない別れるって言いたいけど、せっかく捕まえたハイスペック。自分も次に恋人ができるか分からない。
そんな彼女につけ込む新たな男! ベッドの上で赫碧症(かくへきしょう)じゃないのは確認済み! でもスペック面は彼に劣る、そして浮気しているのは自分の方なので別れを切り出すには罪悪感がある……。
でも彼が赫碧症だったら罪悪感ゼロ! 別れる理由は適当にでっち上げる! もし赫碧症じゃなかったらキープはポイ! 

…………ざっとこんなもんよ」

「所長、認知が歪んでます」

 忍が身振り手振りで大げさに説明するも、柊は至って冷ややかな反応で返す。

「世間知らずだなあ。それに他に別れたい理由はあるけど赫碧症を大義名分にしちゃう人だっているんだよ」

「……大義名分にできてしまうような事件が目立つせいだからじゃないんですか」

 忍は柊から少し怒りのようなものを感じ取り、「悪い」と謝ると彼女は険しい顔をしていたのに気づいて「えーと」と何か考える素振りをした。

「逆に、赫碧症だって分かっても別れなかった方っていたんですか」
「いたよ、ただ一人だけ。正確には依頼受けなかったけど。土壇場でキャンセルされたから。しばらくしたら事務所を訪ねてくれた。お腹大きくなってて」
「女性だったんですね。お子さんを授かったということは」

「あの時別れなくてよかったって言われた。後にも先にもこの選択をしたのは彼女一人だけで、殆どは恋人の仲を引き裂くお手伝いだよ」



 
●四月二十二日(月曜)



 柊は学校へ出かける前、制服姿で事務所の清掃をするのが日課となっている。

 初めて掃除を任されてから、彼女は窓の掃除だけは毎日欠かさない。その姿を見て感心した忍は「事務所の窓は社会の窓だからね」と彼女をねぎらった。柊は一瞬返答をためらい、「そうですね」とだけ答える。
 期待していたツッコミが返ってこなかったことに忍がシュンとしていると、柊が本棚の前で固まっている。本棚の奥から写真立てを探し当てたらしい。

 写っていたのは若い女性と、中学生らしきつり目の少年。彼の目つきは悪く、体は痩せこけている。それを見て

「なんだかこの頃の所長、今と全然イメージが違いますね」

 と、写真の少年と忍を見比べながら言う。

「勝手に見といて第一声がそれかよ」

 忍は柊に近づいて写真立てさっと取り上げた。

「これ、所長が用意したんですか?」
「いや、用意したのは俺じゃなくて前の所長ね。ここに厄介になったばかりの頃に撮ったやつのだから。まだ馴染んでない頃の写真なんだ」
「この頃から? もしかしてお二人ってご親戚ですか?」
「いや、親戚じゃないよ。でも俺の後見人ではあった」
「親族じゃない? じゃあどうして……」
「昔その、俺は手の付けられないガキだったから。反抗してプチ家出して……」
「プチ家出⁉ い、いつの話なんです⁉」
「えっ、ええっと……中一の十二月半ばくらいから大晦日まで?」
「そんなに……じゃあクリスマスは」
「寂しく一人で迎えてた」

 柊が突然食いついたかと思えば表情が曇り、忍は朝からこんな湿っぽいことを言うべきじゃなかったと後悔した。

「まあそれで、その時運悪く前の所長と知り合って、以後居候兼手伝いになったの」
 


 ――今度『おばさん』呼ばわりしたらハッ倒す! もうハッ倒してるって?
 ――ここにいる間は私のことは『所長』って呼ぶように。それが社会のケジメなんだから、オーケー?



「……? 所長?」

 柊の言葉に忍はハッとした。思わず昔の記憶に浸っていたらしい。

「その方、急に詳しい理由も言わずにいなくなったんですよね。どうして所長を一人置いて去って行ったんでしょう。一緒に連れて行こうと思わなかったんでしょうか」
「なんでかな。もしかしたら親離れしろって、一人立ちしろってことなのかな」

 もうそろそろ学校に行かないと、と忍が事務所の時計を指し示すと、柊は慌てて掃除道具を片付けてソファの上に置いていた鞄を持って「いってきます」と事務所の扉から出て行った。

 そうして一人残された忍は、カレンダー兼用の緑のデスクマットの右下をペラリとめくる。



  ◇◇◇



○令和二年 八月某日


「所長、俺来月誕生日ですよ」


 当時十七歳の忍が夏休みにえらい乱雑な棚を整理させられていた。その間前所長の有島は来客用のソファで悠々と依頼人からも貰ったせんべいを貪っている。

「プレゼント強請《ゆす》るの早すぎ」

「せめて強請《ねだ》るって言ってくださいよ!
 それで、いつか俺にこの事務所タダで譲る権利くださいよ」

「ふぅん? ま、考えてあげてもいいけど。いつの話よ?」

「所長がセミリタイアしたら」

「大体いつぐらい?」

「三十路になったら♡」


 渾身の制裁が十七歳の忍の頭蓋骨を襲う。

「殴った! この時代に暴力で訴えた! あまりヘタなことはしない方がいいですよ! こっちには児童虐待防止法と児童の権利に関する条約がついて」

 渾身の制裁が十七歳の忍の頭蓋骨を襲う。

「いつまでも法律や条約の威を借ってんじゃないの! てか、来月になったらあんたもう十八で未成年じゃないから。……つーか三十路って言ったらあと……ごにょごにょ……年しかないでしょーが!」
「確かあと――」

 渾身の制裁が十七歳の忍の頭蓋骨を襲う。

「この時代にレディーの年齢を弄りおって……。年々つけあがるようになってホントコイツどーしよーもない育成失敗した…………」




○令和二年 九月二十四日


「十八歳おめでとう。こないだ欲しがってたアレやるよ。ほれほれ」
「え。もう事務所くれるんですか? 流石に早すぎ……」
「バーカ、今あげるわけじゃないに決まってるでしょ。これ見なさいホラ」
 



事業譲渡契約書

有島美樹(以下「甲」とする)と伊泉寺(いせんじ)(しのぶ)(以下「乙」とする)間において有島探偵事務所の事業譲渡について以下の通り契約を締結する。


第1条 甲が事業に飽きたら、ないし他にやることができて失踪したら甲は乙に事業を譲渡する。

第2条 甲が失踪して2年以上経過した場合乙は事業の屋号を甲の意思に関わらず変更を可能とする。

第3条 甲が失踪して2年以内に復帰したくなったら乙は無条件で甲に事業を返還する。

 本契約の成立を証するため、本契約書を2通作成し、甲乙記名捺印の上、各自1通を保有する。

以上

 令和3年9月24日
 甲 住所  
   氏名        印

 乙 住所
   氏名        印




「契約の内容やる気なさ過ぎ‼︎‼︎ 所長に都合良すぎ‼︎‼︎ 失踪失踪ってしつこすぎ‼︎‼︎ 夜逃げの予定でもあるんですか‼⁇」
「これでもギリギリ譲歩可能なラインまで夜通しうんうん考えたのに……。ホラ、早く印鑑出す出す」
「なんか嫌な予感しかしない……」



  ◇◇◇


 
 ――こうして、二人は二部の書類に署名と捺印を済ませた。


 その内の一部が今デスクマットの下にある。ちょっとだけ二人の署名と印影を眺めてからマットを元に戻す。



 ちなみに、マットのカレンダーは四年前――忍が高校三年生の頃――のままである。