●四月二十日(土曜) 


(つごもり)さん、今日の相談は長くなるから俺の分のお茶もお願いね」


 土曜の午前。熊谷から回してもらった『恋人が赫碧症でないかの調査』の依頼人がこれから伊泉寺(いせんじ)探偵事務所に来る手筈だった。
 柊もガラスの一件からはケロッと立ち直ったようで、今日も元気にいつもの色ボケっぷりを炸裂中である。

「所長……さっき給湯室でゴキブリを見かけて……。怖いですぅ♡ 退治してくれますか……?」
「こないだキッチンで何食わぬ顔で新聞紙丸めて叩いてティッシュで掴んで捨ててたの見てたぞ」

 柊は忍から新聞紙を手渡され恨めしげな顔をしながら給湯室へ向かう。そしてすぐにバシィ!と乾いた音が聞こえた。

 恐ろしく速い一撃。彼女でなきゃ見逃しちゃうかもしれない。



 十時になり一人の女性が来所する。
 依頼人の名は「細谷孝子(ほそやたかこ)」。肩ほどの長さの明るい髪を内巻きカールにした三十歳手前の女性だったが、失礼にも忍にはそれ以上の年齢に映ってしまった。自分のことは棚に上げて。

 台風があったわけでもないのに段ボールで覆われた窓を若干不審に思われたが、「不審者に割られました」と素直に言うと情報漏洩を疑われるので、近所のライフル中年……もとい「野球少年にやられました」と嘘をついた。



 二人は軽い挨拶から入り、本題について語り始める。

「なんだか生真面目そうな方というかパッと見、人畜無害そうですね」

 忍はテーブルに置かれた画像――依頼人と恋人の男性――が映っているスマートフォンを見て、「頼りにならなさそうな優男」と評する為に遠回しな言い方をした。他にも依頼人が知っている男性についての情報も聞き取った。

「この方……相沢仁志(あいざわひとし)さんの職業やお二人のご縁をお伺いしても?」
「ひまわり証券に勤めてて、友人の紹介でした」

 五本の指に入る証券会社の名前が話に上がったことに驚きつつ、友人の紹介とは合コンのことかなと忍は余計なことまで考えてしまう。

 難関大学をストレートで合格、新卒で大手証券会社六年目の真面目な社会人。立派に社会に適応できていると評価できる。

「通院歴など本人から聞いていることは?」
「神経科に通って安定剤をもらってることを最近知りました。本人に聞いたら仕事のストレスで、とのことです」
「結構念入りだったり用意周到な一面がありますか? 石橋を叩いて渡るというか」
「え? ええまあ、ズボラではないのは確かですね。真面目な人です」
「失礼ですが以前お付き合いしていた女性などは」
「本人はいなかったと言っていますが、実際は分かりません。それで付き合ってもう二年になるんですが」

 そこで孝子の言葉が一旦途切れる。男相手に言うには憚る内容だと忍は察することができた。

「言わんとしていることは分かります」

 恋人が赫碧症(かくへきしょう)かもしれないと疑うきっかけはだいたい同じなので、彼は女性の依頼人相手にはこのフレーズで全てを語らせないようにしている。

「探偵事務所等で赫碧症者の方に関する身辺調査をお引き受けする前に、依頼人の方へ赫碧症に関する知識の説明責任が義務付けられています。ご存知の内容も含まれていると思いますが、ご了承ください。

 こちら、赫碧症人権保障機関(かくへきしょうじんけんほしょうきかん)が配布しているパンフレットになります。読み上げますので一緒にご覧ください」



  ◇◇◇ 
 


赫碧症(かくへきしょう)

 正式名称「虹彩赫碧変色症(こうさいかくへきへんしょくしょう)」。
 現在日本を中心に一部アジアで確認されている症状である。

 初めて確認されたのは平成元年、今から三十五年前。
 普段は通常の虹彩だが、特定の条件下で色が変化し、暗所では光を発する。
 幼児期にはこの形質及び特徴は現れず、第二次成長期前後で判明することが多い。
 


赫碧症(かくへきしょう)――眼が(あか)い状態】

 強いストレス、恐怖、興奮などが原因で現われる虹彩色。
 この状態になると身体強化及び能力の飛躍的向上、さらに持続するとに錯乱・破壊衝動などに襲われ、極限状態に達すると心神喪失・記憶混濁などの症状がある。

 大麻・覚醒剤・コカインなど薬物の摂取でも起きる。
 性交渉含む性的刺激行為でも赫眼するが、精神面に強い影響は及ぼさないとされる(個人差あり)。
 


碧眼(へきがん)――眼が(あお)い状態】

 差し迫った状況下で極度の集中力が必要だと脳が判断、あるいは誤認した場合に現われる虹彩色。
 この状態になると即座に身体強化及び能力の飛躍的向上・並外れた冷静な思考能力・五感が急激に研ぎ澄まされる特徴がある。

 アスリート等が体験する「超集中状態」と原理は同じとされているが、パフォーマンスの具合はそれの比でない。
 赫眼と比べて頻度は極端に少ないが、多用しすぎると脳に大きな負担がかかる。


 赫眼・碧眼、どちらの状態も「戦うか逃げるか反応(fight-or-flight response)」との関連性が指摘されている。
 



【心理福祉課】

 各自治体にある健康保健総合センター(健総センター)の「心理福祉課」で赫眼にならない為のストレスコーピング、赫眼状態に入ってしまった場合の対処法等々の学習がプログラムに沿って長期に渡り行われる。



【現状】

 明確な原因は不明であるが、遺伝子の突然変異が現時点での主流な見解である。
 三十五年前に突然確認された理由、赫眼や碧眼になるメカニズム、及びその状態下で身体能力向上に至るプロセス、そして治療法は未だに解明されていない。



  ◇◇◇
 


 ――以上のような事を忍は二十分かけて読み上げた。

 特に心理福祉課でのプログラム――各分野の著名な専門家らが研究と実際のデータに基づいて最適化した――の詳しい内容、スーパーバイザー、トレーナーの拡充、よくある誤解・流言の訂正、現在は赫碧症者が暮らしやすいよう手厚いサポートが各種充実していること、ほとんどの人間がいかに社会に溶け込んでいるかの説明が至極丁寧に行われた。

 ただ、都合の悪い部分――赫眼時における危険性や破壊衝動、実際に起きた事件についてはさらっと触れるのみだった。

 ちなみに時々名前が挙がっている「赫碧症人権保障機関」とは通称「赫保(かくほ)」。
 赫碧症者が暮らしやすい社会を目指すために設立された法務省の関連組織だ。この長ったらしい説明責任も赫保からの強い要請で義務づけられた。



 説明は以上です、と結ぶと口の中が乾いたのか忍は柊から出されたお茶に早速一口飲む。

 孝子から早速質問があった。

「一度も健総センターに行ったことのない赫碧症の人もいるんですよね」
「はい。心理福祉課に通うのは義務ではなく任意ですから。生活に支障がないと自分で判断して通わない人もいます」

 仁志が赫碧症で、真面目で、念には念を入れて精神安定剤を処方してもらっていると仮定すると、現在も定期的に心理福祉課に通っているかもしれない。
 赫碧症の調査で一番楽なルートは、心理福祉課に現在進行形で通っていると証明することだ。

 こちらからも質問いいですか、と忍が訪ねると孝子もどうぞ、と答えた。

「今回こちらに足を運ばれたのは、何か彼に不審な言動でもありましたか」

「はい、交渉を……」


 これが「恋人が赫碧症かもしれない」と疑問を持たれる最も多いケースだ。

 なぜなら交渉をすればほぼ自動的に眼が赫くなり、だからと言って暗い部屋で行おうとすれば光り輝いてしまうという嫌がらせオプションつきなのである。

「避けられるんですよね」
「いえ、逆です。今まで避けてきたのに、それとなく持ちかけられるようになりました。今になってなぜ、と」
「直接そうじゃないかと本人に聞いたりはしましたか?」
「去年一度聞いたことがありましたが、否定されました」
「一度否定したけど、今は打ち明けられる心の準備があるのかもしれませんね。再度聞いてみようとは思いませんか」
「赫碧症というだけで別れると言うと、差別してるみたいで」
「打ち明けられる前に、なるべく穏便に別れたいと」

 そうです、と孝子が肯定する。

「理解した上で、円満に夫婦生活を営む方もいらっしゃいますが」
「分かってます。でも結婚して、生活を共にするとなると、いつ態度が豹変するかと思うと怖いんです」
「結婚した途端パートナーの態度が変わるのは……」
「それも分かってます。ただ万が一そうなった時、普通の人よりその、パワーが段違いでしょう」

 忍は直感でこれ以上の説得は困難と判断し、最終確認に移る。

「相手がそうだと判明した場合、最終的に別れてしまう依頼者が殆どでした。それでも良いですか」

 孝子はゆっくりと決意するように頷く。



「ではまず本人が心理福祉課を利用しているか、あるいはしていたかの調査をいたします」


 話がまとまり、二人は契約書に署名と押印を済ませた。