●令和六年 二月二十日(月曜)

 雨筋のあとが垂れている白いモルタル壁の小さな事務所、その玄関ドアに伊泉寺(いせんじ)(しのぶ)は「外出中」と書かれたプレートをかけた。今日は所長である彼が通院するため、他に従業員がいない事務所は午前休となる。天気予報で降水確率八〇パーセントとのことだったので忍は前もってビニール傘を持って出ていったが、結局使うことはなかった。

 その後整形外科で昨日仕事中に負傷した両足と右手を診てもらい、湿布と薬を貰いに薬局へ向かう。途中、極寒の二月のせいもあってか忍は歩くたび両足の痛みを覚える。が、傍目には普通に歩いているようにしか見えないだろう。
 かかりつけ医は彼の「事情」を承知しており、殊更驚いたりはしなかったので忍はいつもそれがありがたかった。
 ただしばらくの間は片手で食べられるサンドイッチやおにぎりで済ます日々が続きそうではあるが、それっていつもと大差ないよな、と忍は内心苦笑した。

 事務所に戻る前、ちょうど十二時を回ったあたりだと気づいて、忍はふらりとその足でこの辺りでは有名なラーメン店に寄ってみる。ただし食事のためではない。
 定休日でもないのに店は閉まっており、遠方から遙々来たと思われる十数人の客たちは文句を垂れてはスマートフォンで何やら書き込みするのに忙しそうだった。
 あの店の主人らが今どこへいるのか、その見当がついている忍は素知らぬ様子で店の前を通り過ぎる。

 あとは誰が待っているわけでも迎えてくれる人がいるわけでもない彼の自宅兼事務所に直行するだけだった。
 足の痛みを覚えながらも無事に事務所へたどり着くと、忍は玄関の前で誰か待っているようだと人影を確認した。
 もう警察から戻ってこれたのか、早いな――と思ったのもつかの間、その待ち人は忍が想像していた人物ではない。なぜか探偵事務所の前に制服を身に纏った少女がいるではないか。
 それ相応の身分の子女達が通う中高一貫校、その高等部の制服だったので忍は余計驚いた。
 お互い傘を持っていたが、向こうはハンドルの木材からしていかにも上等そうな紺色の傘で、しかもカバーが付いていた。コンビニで買った、その上一本骨が折れて膨らんでいるみすぼらしいビニール傘が急に恥ずかしくなった忍は思わずそれを背中側に隠してしまう。
 しかし平日の昼間、学期末試験中でもなさそうな時期になぜここに女子高生がいるんだろうと忍は疑問を覚える。卒業を控えている三年生だろうか。それでも忍の目には高校一年生、自分より五歳は下に見えるほど小柄な少女だった。
 黙って彼女の様子を伺っていると、向こうの方も忍に気づいて互いに見つめ合う形になった。

 上品さを醸し出す落ち着いた茶色のブレザーの制服を見事に着こなし、スカートから伸びる黒タイツはほどよくほっそりと伸びている。顔は小さく、肩は華奢。やや明るめの長い髪は透けるようで、忍は思わずため息をこぼした。

 一言で言えば清楚。二言目には深窓の令嬢がふさわしい。こんな庶民染みた事務所の前に佇むには不釣り合いなほどに。

 つい見惚れていると、あの少女が昨日会ったばかり――正確には「助けた」ばかりの少女と同一人物だと気づき、忍は途端顔を引き締めた。
 数秒顔を向かい合わせ、少女がふわっと顔を綻ばせながら口を開いた。




「あなたは昨日――ウンコ座りの――――」

「そう、俺ウンコ――――――――もっと他に印象なかったの?」





 ――これが、のちに夫婦となる二人の馴れ初めエピソードであった。