龍ケ崎(りゅうがさき)

 異能の強弱によって序列が厳格に定められたこの国で、日本随一の異能を誇るのが、龍ケ崎一族である。

 伝説上の生き物である『龍』を始祖に持ち、脈々とその血統を今に至るまで繋げている。

 『異能』とは、生まれる前、先天的に宿る特殊能力のことだ。

 『異能』の種類は様々で、ひとりひとり違う能力を持っている。

 『異能』は強ければ強いほど、国家における地位は高くなる。

 (まつりごと)や経済界への発言権を持ち、その影響力は絶大である。


 その中にあって、『龍ケ崎』は日本で最上級の家柄だった。

 その異能で以って、数百年に渡り日本を裏から表から支配し権限を握ってきた。

 龍ケ崎に嫁入りすることは、最上の栄誉であり、誇りであり、女性たちの憧れでもあった。

 
☆☆☆


「離婚が成立した」


 それが、初めて顔を合わせた夫の第一声だった。

 十畳ほどの寝室で、畳に正座した東雲朧(しののめおぼろ)に、対面に座る、長い黒髪に灰色の地味な着物を着流した、世にも麗しい、噂に違わぬビジュアルの男性が淡々とそう告げた。

 声の主である男性は、畳敷きの部屋に不似合いなベッドに背を預けて座っている、龍ケ崎一族の若き当主、23歳の龍ケ崎湊斗(みなと)であった。

 背が高く、痩せ型、さらりと長髪を背中に流し、表情はなく、気怠そうに視線を泳がせている。

 無表情が、更に彼の神秘性を深くしている。

 神々しい、と表現したくなるほどの人並み外れた雰囲気と威圧感に、朧は思わず息を呑んだ。

 その様は、まるで精密に造られた人形のよう。

 懇切丁寧に造られた、100人が見たら、ひとりの例外もなく美しいと太鼓判を押す美形の湊斗と朧はまともに目を合わせることができない。

 ちゃぶ台を挟んで湊斗の向かいに正座しているのは、東雲朧。

 18歳になると同時に湊斗の妻として、龍ケ崎家に嫁いできた。

 それから、わずか1年で、今日、突然帰宅し、初めて顔を合わせた湊斗から彼の自室に呼び出され、離婚を言い渡されたのだった。


「そう、ですか。わかりました」

 正座したまま、それも当然だろうな、と納得した朧は、やや硬質な声音で、一言そう返しながら、離婚を決定的にした、昨夜(ゆうべ)のことを思い出していた。



 
☆☆☆


 昨夜、湊斗の両親と、朧で囲んでいた夕食の席で、使用人のみゆきが台所に食器を持って消えたタイミングで、朧はおもむろに口を開いた。

「お義父(とう)さん、お義母(かあ)さん、お話ししなければいけないことがあります」


 湊斗の母親の富子(とみこ)は、薄く笑みを浮かべながら、「どうしたの、朧さん。改まって」と目尻に笑い皺を作った。

 
 深呼吸してから、朧は覚悟を決めて、一息に言った。


「実は、わたしは無能力者なんです」


 その言葉を聞くや否や、はは、と乾いた笑い声を洩らし、富子はゆっくりと箸をテーブルに置き朧を見据えて言った。


「だって、あなた、私たちに見せてくれたじゃない。
 何も無いところから、物質を生み出す異能を」

《全く、何を言い出すのかと思えば、自分が無能力者?
 わけがわからないわ。
 だから嫌だったのよ、こんな小娘を、大切に育てた湊斗の嫁にするのは。
 この婚姻は失敗だわ》


 突然、朧が両手で耳を塞ぐ。

 その様子を見た富子が、心配そうに朧の顔を覗き込んで言った。


「どうしたの、朧さん。
 具合が悪いのではなくて?」

《具合が悪いなら、都合が良いわ。
 それを口実に、湊斗と離縁させられるかもしれない》

 
 耳を塞いでいた手を離すと、乱れた呼吸を整えて朧は再び話を再開する。


「残念ですが、本当です。
 無能力者であることを、両親にさえ隠して生きてきました。
 全ては龍ケ崎に嫁ぐため、わたしは必死に異能を持っていると偽ってきました」


 富子と、湊斗の父親、定国(さだくに)の顔が揃って引きつる。

《何を言っているんだ、この嫁は。
 どこかおかしいんじゃないのか、全く、使い物にならない嫁を貰ってしまったものだ。
 この結婚は失敗だ。
 早くこの嫁を追い出してしまえないものか》


「では、わしらに見せてくれた、あの異能は、何だったんだ?」

 怪訝そうに定国が朧を見やる。


 朧は、自分の拳を富子たちに見える位置にかざすと、握った手を、ぱっと開く。

 先程まで何も持っていなかった手には、薔薇が握られ、花弁がはらはらとテーブルに落ちた。


 居間の窓際に飾られていた花瓶に挿してあった薔薇だった。


「簡単な手品です。
 練習すれば、誰でも身につけられます」


「手品ですって?」

 朧の言葉を聞いた富子の顔がみるみるうちに真っ赤になっていく。


《手品!?手品ですって?
 こんなの詐欺じゃない!
 許せない、こんな女、すぐに追放よ!》


《わしらをおちょくっていたのか、この小娘!》


「離婚よ、離婚!
 私たちを騙すなんて許せないわ!」

「そうだ、この小娘をつまみ出せ!」

 とうとう富子と定国が立ち上がり、怒り狂って怒鳴り散らす。

 驚いて、皿を運んできたみゆきが目を丸くする。


「言われなくても、そのつもりです。
 たった1年でしたが、お世話になりました」

 深々と頭を下げると、食事の途中で朧は立ち上がり、2階の自室へと姿を消した。


☆☆☆

 逃げるように自室に戻った(おぼろ)は、スーツケースに私物を詰め込む作業に没頭した。


 離婚は決定的だろう。

 これで、煩わしい義父母から離れられる。

 ふたりの、《あの声》から、ようやく逃れることができる。

 かといって、安心してばかりはいられない。

 龍ケ崎の家を出たあとに、身を寄せられる場所は今の朧にはない。


 まもなく実家の両親のもとに、激昂した富子から連絡があるだろう。

 先程、朧が突然告白した内容を知れば、両親もまた、プライドを傷つけられ、ひとり娘である朧を勘当することは、目に見えている。

 まずは住む場所を探し、わずかばかりの貯金で新しい生活環境を整えなくてはならない。

 仕事も、探さなくてはならない。

 自分ひとりの力で、これからの人生を切り開かなくてはならないのだ。

 ──でも。

 今の環境に耐えることと、苦労して働くことを天秤にかけると、決断は容易についた。

 この家を出たことを、この先、後悔することは恐らくないだろう。

 何だか、胸がすっとした。


 心残りがあるとすれば、夫婦となって1年が過ぎても、実家に帰らなかった夫の湊斗の顔を拝めなかったことくらいか。

☆☆☆

 東雲朧(しののめおぼろ)は、道具にすぎなかった。

 女の子に生まれたその瞬間から、朧は龍ケ崎家に嫁ぐことを決められていた。

 東雲は、龍ケ崎ほどではないが、国内有数の名家だ。

 一族には強力な異能を操る者が多くおり、龍ケ崎との関係も深かった。

 朧の両親は、日本随一の家柄である龍ケ崎との関係を強固にするため、次期当主となる湊斗に娘を嫁がせることを湊斗の両親と約束していた。

 全ては、東雲の格を上げるため。
 
 両親の野望も知らず、物心ついたころから、朧は湊斗との結婚に向けて花嫁修行をさせられ、厳しく(しつけ)をされてきた。

 朧も、両親の期待に応えようとした。

 行き過ぎた躾に反抗することもなく、自分を待ち受ける未だ見ぬ婚約者を想像しながら、従順な娘に育った。

 そして、朧が18歳のとき、両親は悲願を達成したのだ。

 東雲朧は、龍ケ崎朧となり、両家は親族となった。

 自分たちの顔に泥を塗った朧を、両親は許さないだろう。

 二度と両親と会うことはできないかもしれないと思うと、一抹の寂しさも感じないことはないが、これが自分の運命なのだと考えれば、耐えられないこともなかった。


 朧には、両親に愛された経験がない。

 たったひとりの娘は、家の格を上げるためにもうけた、言ってしまえば生贄に近かった。

 それを知ったとき、朧はショックを受けるとともに、両親から愛情を注がれることを諦めた。


 がらんどうの娘は、生まれてからこれまで、自分の意志で物事を決めたことがなかった。

 それは、嫁いでからも同じだった。


☆☆☆

 一晩中かかって荷物をまとめ、寝不足にぼうっとしていると、部屋がノックされ、使用人のみゆきが顔を覗かせた。

 まだ若いみゆきは、朧のお姉さん的存在であり、相談相手でもあった。

 みゆきは、「旦那様が呼んでいる」と告げると、朝食を作るため、さっさと姿を消してしまった。


 『旦那様』。

 それが、龍ケ崎湊斗(みなと)を指す言葉だと理解するまでに、少しの時間を要した。

 おそらく、昨夜(ゆうべ)の一件が湊斗の耳に入り、全く寄り付かなかった実家に帰ってきたのだろう。

 結婚したにも関わらず、妻を義理の両親と同居させて家にも帰らない湊斗を、無責任だと、朧は心のどこかで責めていた。

 重い足取りで、湊斗の寝室へと向かう。

 入室の許可を得て、緊張しながら寝室に入ると、神々しいまでの雰囲気をまとった男性──湊斗が(くら)い表情で朧を迎えた。

 そして、開口一番、『離婚が成立した』と告げたのだった。

「そう、ですか。わかりました」 


 ずいぶん展開が早いな、と思いながら、朧はそれ以上何も言う気はなかった。


 夜通し家族会議を行い、朝早くに離婚の手続きをして、正式に離婚が成立したのだと、木訥(ぼくとつ)と湊斗は語った。

 ならば、話は終わりだ。

 朧は正座したせいでしびれた脚で立ち上がり、深々と頭を下げた。

「短い間でしたが、お世話になりました」


 本当に短かったな、と朧は顔を上げつつ、もう夫ではなくなった湊斗の顔を拝んだ。

 敗北感を感じるほどの神がかり的な美しさを失礼にならないほどの数秒だけ見つめたあと、視線を反らす。

 龍ケ崎家に生まれたのだから、働かなくても生活には困らないだろうに、湊斗は家に寄り付かなかった。

 異能を用いての仕事を、何かしているのだろうと、朧も深くは考えなかったのだが、新婚らしいことは、何ひとつしなかったな、と改めて思う。

 そもそも、湊斗には自分が結婚しているという認識が本当にあったのだろうか。

 自分の妻となった朧に、関心はあったのだろうか。

 部屋の扉に向かって歩き出そうとした朧を、湊斗の感情を含まない、ぶっきらぼうな声が引き留めた。

「お前、心が読めるな」

 心臓が飛び跳ねるほど驚いて、朧は振り返った。

 朧は、ばくばくとうるさい心臓をなだめながらも、無理やり笑顔を取り繕う。

「何のことでしょう?」

 震える声で尋ねると、湊斗はやはり無表情のまま淡々と答える。

「俺の異能、『龍の眼』を甘くみるな。
 俺は、他人の記憶を読むことができる。
 当然、他人が抱えている、別に知りたくもない秘密だって、知ってしまうことがある」

 朧の額を冷や汗が濡らす。

「昨夜、わたしが無能力者だと言ったこと、ご両親から聞いたんですか?」

「聞いた。
 自分に異能がないと嘘をついてまで、そこまでして、よっぽど離婚したいんだろうと思ったから、特に両親にも教えなかった」

「で、でも、湊斗さんとわたしは、今初めて会ったのに、昨夜の時点で、どうして嘘をついたのだとわかったんですか?」

 湊斗は、面倒臭そうに長くさらさらな黒髪をかき上げると、眠そうな眼で朧を見た。


「龍ケ崎の人間が持つ力を、お前たちの常識の範疇におさめるのは無駄だと思え。
 俺の『異能』がひとつだと、誰が言った?」

「……他に異能が……?」

「そうだ。『千里眼』。
 遠くのものを視る能力がある」

「千里眼……?
 あっ、じゃあ……」

「理解したか?
 遠くからでも、この家で起きたことは、把握できる。
 両親とお前の間の確執も、全て承知している。
 当然、お前の記憶も確認済みだ」 

 湊斗の言葉に、朧はあんぐりと口を開ける。

 湊斗は、何の義理もないのに、富子や定国に朧の異能を隠し、味方をしてくれたということなのだろうか。

「うちの両親、さぞかしうざかっただろう?
 悪かったな、迷惑をかけた」

「い、いえ、そんな……」

 予想外の湊斗の謝罪に、朧はますますしどろもどろになって焦ったように、ひらひらと両手を振る。


 湊斗は表情を変えないまま続けた。

「お前と、俺の異能は似ているな。
 知りたくない相手の本音や本心を、嫌でも知ってしまう。
 だから、上辺を取り繕う人間に嫌気がさして、人間嫌いになる」


 それが、湊斗が無愛想な理由なのか、と納得しながらも、朧は眉をひそめる。

 先程から、朧はずっと、湊斗に対してある疑問を持っていた。

 確かに、湊斗の言う通り、朧には、他人の心を読む異能がある。

 それ故に、両親が野望を叶えるための道具として自分を生み、愛情もなく育てたことにも気づいてしまったし、湊斗の両親が朧を面白く思っていないことも余すことなく知ってしまった。

 特に富子と定国の心中に吹き荒れる朧への罵詈雑言は、耐え難いものがあった。

 昨夜、自分が無能力者だと虚偽の申告をしたのは、決して突発的な衝動がそうさせたのではなく、この1年で積もりに積もった苦痛から解放されたい一心で、富子たちをどうすれば一番怒らせ、あちらから離婚を言い出すよう仕向けることができるか検討を重ねたうえでの、あの告白だった。

 両親も、義理の両親も、誰も朧に愛情を与えてくれない。
 
 両親も、義理の両親も、世継ぎを作るための道具としてしか朧を見ない。

 結婚から1年経っても懐妊しない朧に、義理の両親は苛立ちを心の中で募らせていた。

 しかし、それも仕方のないことだった。

 何しろ、結婚が成立してからも、湊斗が朧に会おうとしなかったのだから。


 湊斗は、自分になど興味を持っていないのだろうと、そう思ってきた。

 しかし、まだ断定はできない。

 まだ会って数十分。

 だが、朧には、それだけの時間があれば充分のはずだった。

 他人の心の中を覗くには、充分すぎる時間のはずだった。

 おかしい、だって──。

──湊斗の心を、朧は読めなかった。

 これまでの人生で、心を読めない人と出会ったことはなかったし、例外があるなんて思いもしなかったが、事実、朧には、湊斗の心の中を知ることができなかった。

 無愛想で何を考えているかわからない人物──湊斗を、朧は不気味にさえ思っていた。 

 自分の異能を見抜かれていたことには驚いた。

 湊斗が、朧をかばってくれたことにも驚いた。

 けれど、それだけだ。

 離婚は成立しており、まもなく朧は家を出て行く。

 数秒間、部屋を沈黙が支配する。

 異能がもたらす共通の苦痛について、もう少し話してみたかったが、名残惜しさを振り払って、朧は再び扉に向き直った。

 最後に、くるりと振り返り、再度頭を下げる。

「今まで、ありがとうございました」

 ノブに手をかけ、部屋を出ようとした瞬間だった。


《あー、しんどかった。
 何も考えないっていうのも、骨が折れるな》

「え?」

 湊斗の声に、朧はまたも振り返る。

 いや、違う、湊斗の『声』じゃない。

 これは、《心の声》だ。

──湊斗の。

 呆然と自分をみつめる朧を、不快そうに眺めた湊斗が仏頂面で素っ気なく告げる。

「何だ、話がないのなら、さっさと出て行け」

「あ、はい……。すみません」

 聞き間違いだろうか。

 朧は狐につままれたような心地になりながらも、部屋を出ようとする。

 すると、背中に突然の衝撃があった。

「!?」 

 振り返ろうとしたが、できない。

 背後から、湊斗が朧を抱きしめていたのだ。

《やっと手に入れた。
 もう離さない》

 湊斗の心の声が、はっきりと朧に聞こえる。

「あ、あのっ」

 慌てて朧は身体を離そうとするが、湊斗はぎゅうと朧を抱く手に力を込める。


「用がないなら、とっとと出ていけ」 

 湊斗の血の通わない無感情な声が頭のすぐ後ろから響いてくる。

「……はい、そう、したいんですが……?」

 振り向くこともできず、見動きをすることもできないのに、湊斗は言葉とは裏腹に朧を離さない。

「離して、もらえますか……?」


 桃色の着物を着た小柄な朧を抱きすくめながら、ぶっきらぼうな口調の湊斗の声が降ってきた。
  
「ここを出て行ってどうする。
 行くあてなどないだろう」

「は、はい。
 ……そうですけど」

 湊斗の突然の抱擁に、朧は顔は真っ赤に、頭は真っ白になりながら、何とか言葉を声にする。


「使われていない離れがある。
 しばらくそこに住め」

《どこへも行かせるわけがないだろう。
 離婚は成立したんだ、もう自由の身だ。
 両親にも、朧の両親にも、何も文句は言わせない。
 お前のことは、俺が必ず護る》

「は、はい!?
 今、『朧』って言いませんでした?」

 しかし、湊斗はすっと身体を離すと、相変わらずの無表情で朧を見下ろしていた。

 聞こえてくる《心の声》と湊斗の表情の落差がすごい。

 同じ人間が思っている言葉だとは信じられない。

 湊斗は朧を追い越して、扉を開けると、やはり仏頂面で言った。

「荷物を持ってこい、行くぞ」

 朧は、呆然としながらも、スーツケースを取りに行き、そそくさと屋敷をあとにしたのだった。


☆☆☆

 資産家である龍ケ崎家の敷地は広大である。

 立派な屋敷と、手入れの行き届いた枯山水の日本庭園を通り過ぎ、5分ほど歩くと、林に囲まれた平屋建ての家が見えてきた。

「あの、どうして、わたしにここまで良くしてくれるんですか?」

 ずんずん先を歩いていく湊斗を小走りで追いかけながら、朧がそう聞くと、やはりというべきか、湊斗の心の声が流れ込んできた。

《決まっているだろう。
 早くお前をあの両親から解放するためだ。
 お前を、愛しているから》

 湊斗は背中を見せたまま、口を開かない。

 しかし、心の声は雄弁に彼の本音を語っている。


『愛している』


 朧の人生とは、無縁の言葉。

 血の繋がった両親ですら、与えてくれなかった言葉。

 それを、1年も妻をほったらかしにしていた湊斗から与えられたことに、素直には喜べなかったものの、朧の空虚な心に響いたのは確かだった。

 やがて離れに辿り着き、湊斗が引き戸を開ける。

 内部は、生活するのに申し分ない広さがあり、見て回ると、台所、居間、寝室、トイレや風呂もあり、すぐにでも生活できる環境が整えられていた。

「しばらく使っていなかったが、みゆきに掃除させたから、清潔だろう」

 若き使用人、みゆきの顔が浮かぶ。

 嫁いできてからというもの、みゆきには面倒をかけてばかりだ。

 スーツケースの荷物を広げている朧をしばらく眺めていた湊斗は黙って家を出て行こうとする。

「湊斗さん、本当に、ありがとうございました」

 玄関に向かった湊斗は、何も言わずに姿を消した。

 あの、心の声は一体なんだったのだろう。

 湊斗の本意がわからず、朧はひたすら戸惑っていたが、初めて顔を合わせた元旦那様は、悪い人ではないのかもしれないと朧は結論づけた。


☆☆☆

 湊斗(みなと)の心の声が、(おぼろ)に聞こえなかったのは、人間嫌いの彼の、ささやかな抵抗だった。

 自分の心の内、嘘偽りのない本音を他人にさらけ出すことに、抵抗があったのだ。

 だから、意識的に、心が読める朧の前では、何も考えないようにし、心を空っぽにした。

 しかし、異能『千里眼』を駆使して遠くから朧を見守っていた頃は抑えていた感情が、いざ朧を目の前にした途端、堰を切ったように溢れ出して止まらなくなった。

 最初は、朧の記憶を覗き見て、同情心が湧いたのだと思っていた。

 時が経つにつれ、健気に自分の妻になるべく努力を欠かさない朧に、感じたことのない気持ちを抱くようになった。

 それが愛情なのだと、湊斗はしばらく気づかなかった。

 こんなに朧のことを愛していたのかと、湊斗自身も驚くほどだ。

 ただ、感情を直接言葉にかえて気持ちを告げることは、人を好きになった経験がない湊斗には至難の業であった。

 素直になれず、つい素っ気ない態度を取ってしまう。

 朧への接し方がわからず、屋敷に戻る道すがら、湊斗は思い悩んでいた。


☆☆☆

 湊斗によって、離れに(かくま)われて数日。


 日中は、湊斗から事情を知らされたみゆきが富子と定国に気づかれないよう食事を運んでくれていた。

 夜になると、湊斗は離れを訪れては、朧を困らせていた。

 離れにやってくるなりシャワーを浴びて、濡れ髪のまま出てくると、ドライヤーを朧に渡す。


 そして、ぶっきらぼうにこう言うのだ。

「妻なんだから、亭主の髪くらい乾かせ」と。

 浴衣姿のまま、畳にどかっと座り込んだ湊斗の長い黒髪を、朧は言われるがまま乾かしてやる。

《愛しの朧に髪を乾かしてもらえる日がくるなんて、俺はとことん幸せ者だな》


 湊斗に何かしてやるたびにだだ洩れてくる心の声を、朧は聞き流すようにしていた。

 湊斗と同じく、愛情表現を知らない朧もまた、湊斗との接し方に悩んでいた。

 風呂のあと、湊斗が目を輝かせて朧の髪を乾かすと言ってきた時など、最初は非常に戸惑った。

《良い香りがするな。
 髪もこんなにつやつやで。
 まるで絹のようだ。
 好きな女の髪に触れることが、こんなにも心地良いものだとは知らなかった》

 聞こえてくる心の声を無視し、湊斗にドライヤーの熱風を当てられながら、朧も、心が安らいでいることを感じていた。

 少しくすぐったくて、心地良い、慈愛に満ちた湊斗の手の感触。


 言葉数こそ少ないが、穏やかな時間にふたりは身を委ねていた。

 朧の湊斗への思いも、湊斗の心の声を聞くたびに高まっていく。

 湊斗の存在が、どんどん大きくなっていく。

 『好き』になっていく。

 しかし、とも思う。

 自分と湊斗は、離婚した身だ。

 このまま彼を好きになっても、いいものなのだろうか。

 仮に彼との仲が進展しても、再び結婚することは、湊斗の両親が許さないだろう。

 これが『禁断の恋』というやつだろうか。

 その言葉の響きに、何だか背徳感を感じるが、それに反して胸が高鳴るのも事実で、鼓動が速くなる。


 そんな温かい気持ちに、じわじわと浸っている中、ある夜、朧は衝撃に身体を固まらせていた。

 ベッドに、湊斗が横になっていたのだ。

「……あ、あの……」

 困惑する朧に、湊斗はいつものぶっきらぼうな態度で事もなげに告げる。

「早くベッドに入れ。寝るぞ」

「え……。一緒に寝るって、ことですか?」

「当たり前だろ。
 お前は俺の抱きまくらなんだからな」

「だ、抱きまくらって……」


《もういっときも離れたくない。
 ずっと一緒にいたい。
 誰にも渡さない、邪魔させない。
 朧のぬくもりを感じて良いのは俺だけだ。
 愛しい俺の朧》


 朧への愛を叫ぶ湊斗の盛大な心の声が、朧に激突しそうなほどの質量を持って流れ込んでくる。

 朧は思わず苦笑しながら、ベッドに足を突っ込む。

「あの、前から言いたかったんですけど……。
 湊斗さん、絶対わざとですよね?
 わかってますよね、心の声がわたしに聞こえてるって。
 わかってて、そういうこと、思ってますよね?」

 湊斗は無表情を崩さない。

「『そういうこと』とは?」

「それは、その……。
 『好き』だとか『愛しい』だとか……」

 改めて自分の口から言うと、恥ずかしくてたまらない。

《照れてる顔も可愛いな》

「今、わざと、わたしに恥ずかしいこと言わせて楽しんでますよね。
 意地悪です、湊斗さん」

 ぷくう、と頬を膨らませて顔を赤くした朧を、ベッドの中に引き込むと、湊斗は朧の手を握った。

《愛しているよ、朧。
 絶対に離さない。
 俺の心は、永遠にお前のものだ。
 誓おう、永遠の愛を》


 朧は、耳まで真っ赤に染めると、顔を背ける。

「だから、聞こえてますって!
 やめてください、恥ずかしいですから!」

 朧は手を離そうとする。

 湊斗はそれを許さない。

 こんなにドキドキしていたら眠れる気がしない。

 そう言おうと湊斗を見ると、目が合った。

「……駄目か?」


 朧は心の中で地団駄を踏む。

 か、可愛い……。
 
 なんて綺麗な顔なんだろう。

 そんな捨てられた子犬みたいな顔で言われたら、断れるはずがないではないか。

 いつも仏頂面な湊斗に、すがるようなこんな顔をされたら、なけなしの母性本能がくすぐられて、湊斗を拒絶することができなくなる。

「だ、駄目じゃないです……」

《やったー!
 朧と一緒に寝られる!
 またひとつ夢が叶った。
 ますます好きだ、朧》

「だから、やめてくださいって!
 恥ずかしくて寝られませんよ、わたし……」


 嘆きつつも、もはや朧は笑うしかなかった。

 狭いベッドで、身体を寄せ合い、手を繋ぎながら、ふたりは夜を過ごした。

 温かなぬくもりに包まれて、緊張も忘れ、朧は心地良い浮遊感の中で眠りに落ちた。

 寝息をたてる朧を眺める湊斗は、唇の端をわずかに引き上げ、不器用に微笑んだ。


☆☆☆

 「新しい妻を迎えることになった」

 唐突に告げれた言葉に、朧は少なからぬ衝撃を受けた。

「明日、こちらにくる」

《でも、安心しろ。
 俺のお前への愛が揺らぐわけではない。
 何も心配するな》

 相変わらず、本音を言葉にしない意地っ張りな湊斗に、じれったさを感じながらも、朧は不安を隠せなかった。

「新しい奥さんがきたら、わたしはどうなるんでしょう?
 いつまでも、ここにいてお世話になるわけにはいかないんじゃないんですか?」

「両親に気づかれなければ問題ない。
 お前は変わらずここにいろ」

《手放さないと言っているだろう。
 心配するな》

 不安を隠し切れず、表情を曇らせた朧は、ただ、こくん、と湊斗の言葉に頷いた。

 
☆☆☆

 屋良小花(やらおはな)は苛立っていた。

 日本の政財界を牛耳る名家、龍ケ崎家当主、龍ケ崎湊斗と婚姻を結んで早くも一ヶ月が経とうというのに、湊斗は小花と会おうともしない。

 21歳になる小花は、自分が美人に分類されるビジュアルであることを自覚していたし、気難しいことで有名な美貌の当主、湊斗を振り向かせる自信もあった。

 あの龍ケ崎家に嫁いだことで、自分は勝ち組だと確信もしていた。


 しかし、湊斗は小花を妻として認めようとしない。


 小花は、上流階級の名家で、ご令嬢として大切に育てられ、自慢の処世術を駆使し、湊斗の両親に上手く取り入り、義父母には大層気に入られている。

 義理の両親は、湊斗の前の妻を引き合いに出し、小花を褒めちぎる。

 しかし、肝心の湊斗とは顔すら合わせておらず、相手にもされない現状に、ストレスが溜まっていく。

 頑なな湊斗の態度には、何か理由があるのではないかと疑った小花は、行動を起こした。

 小花には、他人の弱点を見抜くという異能がある。

 華やかな社交界の裏で繰り広げられる腹の探り合いには、非常に役に立つ異能だ。

 小花が目をつけたのが、使用人のみゆきだった。

 みゆきは、貧しい家庭で育ち、運良く龍ケ崎の使用人として雇ってもらい、給料のほとんどを、幼い兄弟がいる実家に仕送りしている。

 龍ケ崎からもらう給料は桁違いだ。

 学もないみゆきが、龍ケ崎家をクビになったら、次の就職先を探すのは困難だろう。

 そう弱点を読み取った小花(おはな)は、解雇をちらつかせながら、みゆきから情報を引き出すことに成功した。

 何でも、この家の離れに、湊斗の前妻が匿われているという。

 湊斗は前妻を心から寵愛しており、離婚後も、彼女が離れで暮らしていることを、湊斗の両親すら知らないと、みゆきは語った。


 気に食わない。

 邪魔者は消してしまおう。

 湊斗の妻は自分だ。

 湊斗の心も、自分のものにしてみせる。

 昔から、小花は欲しい物は、何でも手に入れてきた。

 今度だって、きっと上手くいく。

 小花はすぐに次の手を打った。

 それは、湊斗さえ巻き込む、悪魔のような悪巧みだった。

 屋良小花は、夫の心を掴んで離さない、朧という名の、憎き女と、自分をないがしろにした湊斗を犠牲にすることもいとわない残忍な計画を実行した。


 ☆☆☆

 いつも通り、離れにやってきた湊斗は、朧の姿が見えないことに、首を捻っていた。

 離れを一通り探し回って、居間に戻ってきたとき、玄関が引き開けられる音がした。

《朧……?》

 湊斗が振り返った次の瞬間、頭から布を被った黒ずくめの人影が、湊斗に体当たりしてきた。

「ぐっ……?」

 腹に衝撃が走り、次にかっと熱を持った。

 湊斗は表情を歪める。

 力任せに黒ずくめの人物を押し退けると、腹にめり込んだ物体に恐る恐る手を触れる。

 ぬるっとした感触があり、とたんに激痛が走る。

 黒ずくめの人物は、さっと身を翻すと、離れを走り去っていった。

 力が入らず、崩れるように湊斗は畳の上に倒れ込んだ。

 目の前が暗くなり、手足が冷えてしびれてくる。

 荒い呼吸の間に、湊斗は朧の名を呟いた。

 愛しい、愛しい彼女の名を。

 じわじわと、着物に黒い染みが広がり、真新しい畳をも侵食し始めた。

 激痛にうめきながら、湊斗はゆっくり意識を失っていった。


☆☆☆

 離れを大掃除するから、とみゆきに言われ、龍ケ崎の敷地にある蔵に身を隠していた朧は、日が沈んでしばらくしてから、離れに帰り、玄関を開けた。

 草履を脱いで居間へ向かうと、飛び込んできた光景に、朧は息を呑んだ。


 次いで、形にならない悲鳴が喉から無意識に溢れ出す。

「湊斗さん!?湊斗さん!」

 居間の畳の上に、湊斗が倒れていた。

 腹部から流れ出た血液が、湊斗の灰色の着物を黒く染め、畳にも血が染み込んでいる。

 湊斗の腹には、短刀が突き刺さっていた。

 思わず駆け寄り、短刀を引き抜こうとした、そのときだった。

 空間を引き裂く悲鳴が、背後で上がった。

 振り返ると、みゆきが口元を押さえて蒼白になっていた。

「みゆきさん、湊斗さんが……」

 頭を恐怖に支配され、思考停止に陥っていた朧が、すがるようにみゆきを呼ぶと、複数の足音が離れに近づいてきた。

「湊斗!
 まあ、なんてことなの!」

 富子が目を見開いて、玄関先に立ち尽くす。

 続いて定国が、理性を失ったような怒鳴り声を上げる。

「どうした、何があった!?
 朧さん、何であんたがここにいるんだ、湊斗に何をした!」


「わ、わたしは何も……」

 朧が動転したまま言葉を継ごうとすると、みゆきが遮るように叫んだ。

「私、見ました!
 朧さんが旦那様を刺しているところを!」

「みゆきさん!?
 ち、違います、わたしは何もしていません!
 わたしが来たときには、もう……」

 思いもよらないみゆきの裏切りに、わけがわからなくなって、朧は言葉を繋げることができない。


 朧を突き飛ばすと、定国が怒号を響かせた。

「見苦しい言い訳はよせ!
 わしらが離婚させたことを恨んで、湊斗に復讐したんだろう!
 全く、東雲は何という娘を寄越したんだ、この疫病神が!
 早く医者を、鬼怒川(きぬがわ)先生を呼べ!」

 鬼怒川とは、龍ケ崎家の敷地に住むお抱えの医者のことだ。

 定国の剣幕に()され、離れの外に出た朧は、手にこびりついた湊斗の血を見て、めまいを覚え、小刻みに震えだした。

 湊斗は、大量に出血している。

 助かるのだろうか。

 もし、湊斗が死んでしまったら──。

「そいつを取り押さえろ!」

 定国の命令に従い、制服を着た警備員が、朧の両腕を掴み、拘束する。

「違うんです、わたしじゃありません!
 わたしは何もしていません!」

「みゆきが見たと言っているのよ、観念なさい!
 この、人殺しが!」

 富子が髪を振り乱して涙声で叫ぶと、朧の頬を平手で叩いた。

 じんわりと、右の頬に痛みが滲む。

 朧は、もう何も考えることができなかった。

 今、一体、何が起きている?

 何故、湊斗は刺された?

──誰に?

 誤解を解かなければいけないと理解してはいるのだが、青白い顔で固く目を閉じる湊斗を見て、抵抗する気力も削られ、朧は膝から崩れ落ちる。

 少しして、小柄な中年男性が白衣に袖を通しながら、警備員に連れられて駆け込んできた。

 丸い眼鏡が特徴の、鬼怒川医師だった。

 鬼怒川は、湊斗の様子を一目見るなり、眉間のしわを深くした。

「これは……ひどいですな。
 出血が多すぎる……。
 ショック状態にあります。
 すぐに輸血をする必要があります」

 医師の見解に、この世の終わりを迎えたように絶望した表情で、富子が鬼怒川の腕を掴む。

「湊斗は、息子は助かるんですか!?
 助かりますよね、先生。
 助かると言ってください!」


 富子の言葉に、医師は難しい顔をして、目を伏せた。

「奥さま……。
 お気持ちはお察ししますが、断定はできません。
 湊斗さんは昏睡状態にあります。
 私も、手を尽くしますが、覚悟はしておいてください」

「そんな……」

 富子は重力に逆らえず、地面に座り込んでしまう。

 そんな妻を気力だけで支えながら、定国は鬼怒川に深く頭を下げた。

「お願いします、先生、どうか息子を救ってください」

 鬼怒川は頷くと、警備員に、湊斗を自分の部屋に運ぶよう指示した。

 治療のために湊斗とともに離れを去って行った鬼怒川を見送った富子は、充血した瞳を朧に向けた。


 その目には、憎しみの炎が燃え盛っている。

「あなた、そこの小娘を、どうするつもりなの?」

 富子の言葉に、定国は、困惑の表情を浮かべる。

「龍ケ崎で、痴情(ちじょう)のもつれから当主が刺されたなどという醜聞(しゅうぶん)が広まるのは、避けなければならない。
 通報して、騒ぎが世間に広まれば、龍ケ崎の求心力が低下するのは目に見えている。
 虎視眈々と、龍ケ崎を引きずり降ろそうと画策している家にとっては、願ってもない好機になるだろう。
 先祖代々受け継いできた龍ケ崎の影響力を守るためには、小娘を警察に突きだすことはできない」

「じゃあ、どうするの?」

 定国は苦渋の表情を浮かべると、視線を、不要な物をしまっておくだけだった蔵へ移した。

 ()しくも、昼間、朧が身を隠していた蔵だった。


「あそこに閉じ込めておく」

 定国は、警備員に、朧を蔵に連れて行くよう指示した。

 もつれた足取りで、警備員に挟まれた朧は、ほこりと湿った匂いが充満する、明かりひとつない蔵の中へと放り出され、重厚な扉が閉められる。

 薄く差す月明かりに、震える手をかざす。

 湊斗の血が、べっとりと付いている。

 心が飽和しているようにも、ぽっかり穴が空いたようにも感じられた。

 早く冤罪(えんざい)であると誤解を解かなくてはならない、そう思うのに、頭が上手く働かない。

 やがて、朧の頬を、涙が伝った。

 それは、時間を経るごとに、大粒になり、ついには、子供みたいにしゃくり上げながら、朧の頬を濡らし続けた。

 湊斗に、助かってほしい。

 生きてほしい。

 今の朧にできることは、ただ湊斗の無事を祈ることだけだった。

 時間の流れが遅い。

 世界にたったひとり取り残されたような孤独感。

 いつまでそうして、放心していたか。


 湊斗に会いたい。

 その一心で、朧は立ち上がった。

 扉には外から施錠されていたが、昼間ここを訪れたとき、古びた鍵が壊れていることは知っていた。

 長年手入れがされておらず、壊れていることに、誰も気づいていないのだろう。

 案の定、ガタガタと乱暴に扉を揺らすと、金属質な何かが割れる音がし、扉が開いた。

 外はまだ暗く、丸い月がぽっかりと浮かんでいた。

 見張りはいなかった。

 先程の騒ぎなどなかったように、世界は静寂に支配されていた。


 湊斗はどこにいるのだろう。

 朧は、あてもなく歩き始めた。


☆☆☆

「はあっはあっ……」

 夜闇のなか、朧は湊斗を探して駆けていた。

 龍ケ崎の所有する土地は広大だ。

 離れや倉庫や蔵などが、敷地内にいくつも点在し、周囲は林に囲まれていた。

 まもなく夜が明ける。

 青みがかった紫色が、漆黒の空を侵食し、朝焼けを連れてくる。

「女がいないぞ!」

「逃げた、探せ!」

 複数の警備員の声があちらこちらで上がり、闇に松明の光りが、ぼおっと遠くに浮かぶ。

 朧は焦って、木々に身を隠しながら、荒い呼吸を整える。

 見つかるのも、時間の問題だった。

「いたぞ、あそこだ!」

 背後から野太い声が追いかけてきて、疲労が溜まり、動かなくなった足を引きずりながら走り出す。

 追い立てられるように逃げ回っていた朧は、敷地を取り囲む林に逃げ込んでいた。

 黒い影に染まった林を抜けると、突然景色が開けた。

 飛び込んできた光景に、朧は慌てて足を止めた。

 目の前に、断崖絶壁が広がっていた。

 行き止まりだった。

 逃げ場はない。

 数十メートルの眼下には、真っ黒な海が広がり、岸壁に打ちつける波しぶきが静寂を打ち破る。

 引き返そうとした、そのときだった。

「初めまして、あなたが朧さんね?」

 林から姿を現したのは、見知らぬ女性だった。

 暗がりでもわかるほどに整った顔立ちに、均整のとれた細身の身体を、ワンピースに包んでいる。

 着物姿の朧より動きやすいせいか、朧を見つけてすぐに追いついてきたようだ。

「あなたは……?」

 女性は薄く笑みを唇に形作る。

「私は小花。
 湊斗さんの妻よ」

 新しい湊斗の妻。

 湊斗から、まだ会ったことがないと聞かされている、今の湊斗の正式な妻。

 小花の登場に、朧は現実を突きつけられた思いがして、少なからず衝撃を受ける。


 今の自分には何の肩書もない、何者でもない存在なのだと改めて思い知らされる。

「わかる?
 今の湊斗さんの妻は私なのよ。
 これ以上、私と湊斗さんの邪魔はしないでちょうだい、迷惑だわ。
 すぐにここから出て行くことね。
 従わないというのなら、力づくであなたを排除する必要があるけれど、どうする?」

 妙に圧力を感じさせる小花の口調に、たじろぎながらも朧は何とか言葉を返す。

「確かに、わたしはもう湊斗さんの妻ではありません。
 けれど……わたしは湊斗さんのことが好きです。
 湊斗さんもきっと……。
 だから、ここを出て行くことはできません」

 決然と告げた朧を、あざ笑うように見下ろして、小花は「……そう、わかったわ」とだけ呟いて、残虐な笑みを浮かべる。

 一歩、また一歩と近づいてくる小花に圧され、朧は後ずさる。

 小花の手には、湊斗の腹部を貫いた短刀と、同じものが握られていた。

「あなたが……湊斗さんを刺したの?」

「いいえ、私じゃない」

《直接手を下すなんて浅はかなことはしないわ》

 小花の心の声が、彼女が何らかの形で湊斗襲撃に関与したことを裏付けている。

 直接的にではないにしろ、小花が湊斗に危害を加えたのは間違いない。

 朧の中に、経験したことのない怒りの感情が生まれる。

 許せない。

 何の罪もない湊斗を刺し、傷つけるなんて。

 きっと朧が睨みつけると、小花は勝ち誇ったように不敵な笑みを見せた。

 短刀が、きらりと妖しく光る。

 対する朧には、武器といえるものがない。


 形勢は不利だった。

 朧の背中を、冷たいものが流れ落ちる。


 どうする?

 状況を打破する方法は何かないのか?


《今なら誰も見ていない。
 絶好の機会だわ》

 なす術なく立ちすくむ朧へと、小花が突進してくる。

 まずい、と思った瞬間には、朧の身体は宙に投げ出されていた。

 小花の渾身の体当たりで崖から落ちたのだ。

「湊斗さんを誘惑した、あなたが悪いのよ」

 小花のその呟きを聞いたのを最後に、浮遊感に包まれた朧の目に映る景色が目まぐるしく変わった。

 天地がぐるんぐるんと入れ代わり、切り立った崖と朧を迎える、岩をも砕く獰猛(どうもう)な波を立てる黒い海とが交互に映る。

 全ては、スローモーションのようだった。

 身体は生命の危機を訴えているのに、頭は妙に冴えていて、ああ、自分はもうすぐ死ぬんだな、と冷静な判断を下す。

 一目、湊斗に会いたかったな、と考えながら、諦念の境地になり、目を閉じ、迫りくる衝撃に覚悟を決めた。

 長い長い時間をかけて落下する──そう思っていた朧の身体は、次の瞬間、柔らかい何かの上に落ちた。

 海に落ちたのではない。

 では何が……。

 恐る恐る瞳を開くと、強烈な朝陽が朧の目を焼く。

 夜明けだ。

 そして、自分を受け止めたものの正体を確認した朧は、驚きに目を見開いた。 


 黄金に彩られた巨体、真紅に縁取られた、鮮やかなうろこを持つ龍が、朝陽を浴びて、神々しく光り輝いていた。

 龍は身体に朧を乗せ、凄まじい速度で崖を昇り始める。

 強い風が生まれ、朧は龍にぎゅっとしがみつく。

 温かな、龍のぬくもりには、覚えがあった。

──湊斗。

 ものの数秒で、朧は元いた崖の上へと送り届けられる。

 地面に降り立つと、口をあんぐりと開けた小花と、駆けつけてきたみゆきや富子、定国が同じようにぽかんとした間抜けな表情を浮かべて立ち尽くしていた。

「湊斗さん……」

 朧は、龍の頭、ぎょろりと突き出たその瞳を覗き込む。

「湊斗さん、ですよね。
 無事、だったんですね、本当に良かった……。
 助けてくれて、ありがとうございます」

 朧は龍の──湊斗の巨体を可能な限り手を広げて抱きしめる。

 龍ケ崎家の始祖は、伝説上の生き物、龍であるという。

 その血を受け継いできた龍ケ崎の当主には、強い異能が宿るという。

 龍に変身するというのもまた、龍ケ崎家が持つ異能のひとつなのだろう。


 愛おしそうに龍に触れていた朧の手が止まり、眉をひそめる。

 手のひらにべったりと付着した血。

「湊斗さん、まだ怪我が……!」

 あれだけ大量に出血していたのだ。

 不死身ではないのだから、そんなにすぐに傷が癒えるわけがない。

「無茶しないでください!」

 朧が涙声で言うと、龍は甘えるように、朧に頭をこすりつけてきた。

《お前が危険にさらされているのに、黙って見ていられるか。
 それより、お前、俺が怖くないのか?》


 龍の心の声が流れ込んでくる。

「怖い?
 どうしてですか?
 湊斗さんを怖がるわけないじゃないですか」


 朧が心底不思議そうな顔をすると、表情が変わるはずがない龍が、鼻で笑った気がした。

《他の連中は、そうでもなさそうだがな》

 言われて、振り返る。

 小花を始めとした龍ケ崎家の面々は、龍となった湊斗に怯えた眼差しを向けていた。

 言葉を発せないはずの龍と、こともなげに会話する朧を、奇異なものを見るような目つきで眺めながら表情を強張らせている。

 龍は数十メートルはある巨体をくねらせて、鼻先を小花の顔すれすれに寄せる。

《俺を刺したのはお前か?》

 言葉を発さない龍の威圧感に圧されたのか、小花は震える声で、それでも毅然と言い放つ。

「私じゃないわ!
 私はあなたを刺した犯人ではない」

 龍の言わんとしていることが伝わったのか、小花の言葉を聞いたみゆきが、おずおずと手を挙げる。

「わ、私です!
 湊斗さんを刺した犯人は、私なんです!」

《──わかっているわね、みゆき。
 万が一のことがあったら、あなたが罪を被るのよ。
 あなたの家族への経済的支援は、約束するから》

 朧は不快そうに眉をひそめる。

 聞こえてきたのは、みゆきの心の声──ではない。

 みゆきの心の中で再生された、小花の声だ。


《どうしよう、旦那様を、本当に刺してしまった……。
 どう償えばいいの……?》

 次いで、憔悴しきったみゆきの心の声が流れ込んでくる。


 小花はみゆきの弱みを握って、彼女を意のままに操り湊斗を刺すという汚れ仕事をさせたのだ。

「小花さんは関係ありません!
 全て、私がやったことです。
 旦那様が、あまりにも小花さんをないがしろにするから、腹が立って……」
 
 すると、龍がぐるりと頭を巡らせ、みゆきの顔に肉薄した。

 そして、咆哮を上げた。

《そんな低級な嘘が俺に通じるか!
 俺は全て見ていた。
 全てを企てたのは小花だ》

 湊斗の保有する異能、千里眼。

「もしかして、湊斗さん、小花さんが、湊斗さんを刺すよう、みゆきさんに命令していたことに気づいていたんですか?」

 肯定するように、龍が再び唸り声を上げた。

《小花やみゆきの記憶を見るのは、俺にとっては造作もないことだ》

「じゃあ、自分が刺されることも、わかっていて……?」

《そうだ。
 龍は致命傷を負わない限りそう簡単には死なない。
 みゆきも、怖じ気づいたのか、手加減していた。
 小花の企みを暴いて、この家から追放するために、わざと刺されてやった。
 愚鈍な両親も、これで小花の本性を思い知っただろう》
 

 しかし、みゆきは愚直なまでに小花をかばう言葉を止めようとしない。

「私が……やったことです。
 小花さんは、関係ない」

「そ、そうよ!
 みゆき本人がそう言っているんだから、その通りに決まっているじゃない!
 私は悪くないわ!」

《まだ言うか!
 見苦しい!》

 三度(みたび)、龍は咆哮を朝焼けの下に響かせる。


 するすると地上を移動すると、龍は小花の身体に巻き付き、小花の細い身体を、ぎりぎりと締め付け始めた。

「きゃあっ、苦しい、やめて!」

 龍から逃れようと、じたばたと小花はもがくが、龍はぴくりともせずに、小花への締め付けを強くしていく。

「や……やめて……。
 私が、悪かった、わ……。
 だから、もう……」

 息も絶え絶えになりながら弱々しく小花が声を洩らす。

《お前は朧を殺そうとした。
 朧を傷つけるやつは、誰であろうと許さない。
 死んで詫びろ!》

 湊斗が、いっそう強く締め付けようとした矢先、朧が龍の身体にしがみついて叫んだ。


「もうやめてください、湊斗さん!
 小花さんが死んでしまいます!」

《この女はお前を殺そうとしたんだぞ。
 情けをかける義理などないだろう》

 冷徹な湊斗の声に、畏怖の念を抱きながらも、朧は精一杯首を横に振る。

「わたしは小花さんが死ぬことを望んでいません!
 湊斗さんが人を殺してしまうほうが恐ろしいです!
 今の湊斗さんは、わたしが好きな、優しい湊斗さんではありません!
 こんな湊斗さん、(いや)です、(きら)いです!」

 ふと、龍の動きが止まる。

《俺を、好き……?》

「そうです、わたしが大好きな湊斗さんに戻ってください!
 でないと、わたしは湊斗さんを嫌いになってしまいます!」

《それは、嫌だ。
 朧に嫌われるなんて、耐えられない》

 しゅるしゅると音を立てて、龍が小花の身体を解放し、すがるようにその目を朧に向ける。

 叱られた子犬のような、しょんぼりとした瞳だった。

 小花が地面に崩れ落ちる。

《朧、これで俺を嫌いにならないか?》

 朧は、龍の頭に優しく触れると、「はい、これがわたしの大好きな湊斗さんです」と笑顔を見せると、ゆっくりと硬いうろこを撫でる。

 龍は気持ち良さそうに目を細め、朧にされるがままになる。

《好きだ、朧。
 愛してる、ずっと》


 少し照れながら、はにかんだ笑みを浮かべて朧が答える。

「わたしも、愛しています、湊斗さん。
 ずっと、永遠に」

 そして、目を閉じた龍はなんの前触れもなく、いつもの地味な着物を着た湊斗の姿に変わった。

 意識を失い倒れ込んだ湊斗を、朧が慌てて受け止める。

 座り込んだ朧の手の中で、湊斗はすやすやと、穏やかな寝息を立てていた。

 まだ血がこびりついた湊斗の美しい顔を、慈愛に満ちた指先で撫でる。

「ありがとうございます、湊斗さん」

 涙をこらえるように、天を仰いだ朧に、地を温める陽光が祝福するように降り注いだ。

☆☆☆

《相変わらず笑顔が可愛いな、朧は》

 湊斗と正式に離婚した小花が屋敷を去り、湊斗の傷も癒えてしばらくの時間が経った。

 今日も、湊斗の心の中は朧への愛の言葉に溢れていた。 


 騒動のあと、朧は、湊斗と自分の両親に、自分が持つ本当の異能を告げた。

 辛い思いをさせたと、朧の両親は素直に謝り、湊斗の両親はもう一度、湊斗と朧の結婚を認めた。

 ふたりは離れで、新婚生活を始めた。

  毎日顔を合わせているのに、湊斗の朧への愛情は、日に日に膨らむばかりだ。

「湊斗さん」

「何だ」

 身体を密着させてベッドに横たわりながら、朧は不満を口にした。

「そういうの、きちんと言葉で聞きたいです」

「何の話だ」

「だから、心で思ってること、口に出して言ってほしいんです」

「何の話か、さっぱりわからんな」

《恥ずかしい!
 口で言えたら苦労はしない!
 察してくれ、朧》

 朧はがばっと起き上がると、湊斗を見下ろしながら言った。

「察しません。
 恥ずかしくても、言ってください。
 わたしだけが恥ずかしさを我慢して想いを伝えるなんて不公平です。
 湊斗さんの口から、湊斗さんの声で、わたしをどう思っているか、言ってほしいんです」

 そうなのだ。

 両想いになったにも関わらず、湊斗は心の声を口にしないどころか、初めて顔を合わせたときと変わらないぶっきらぼうさで無表情を貫いているのだ。

 それが朧には気に食わない。

 好きだと、愛していると、言葉で伝えてほしい。

 じっとりとした目で湊斗を見下ろしていると、気まずそうに視線を反らした湊斗が、繋いだままの手を一際強く握った。

《今はこれで勘弁してくれ。
 いつか、直接伝えられるようになるまで、気長に待っていてほしい。
 努力はすると、約束するから》


 すると、疑わしそうに湊斗を見つめたあと、朧は溜め息をついて言った。

「本当ですね?
 約束ですよ?
 ずっと覚えてますからね、わたし」

 朧の気迫にたじたじになりながらも、湊斗がこくりと頷く。

 再びベッドに横になった朧を、湊斗が抱き寄せた。

 湊斗の胸に顔を埋め、そのぬくもりに身を委ねながら、朧はくすぐったそうに笑った。

 何度思い返しても、最悪な出会いだった。

 離婚なんて経験までした。

 どん底まで堕ちて、そして手にした。

 欲しくて欲しくてたまらなかった言葉をくれる人を。

 待ってほしいと言うのなら、いつまでだって待とう。

 けれど、そんな思いは口にはしない。

 湊斗を甘やかすことになるし、何より朧は、1分1秒だって早く『愛してる』の一言が欲しいのだ。

 ああ、幸せだ。

 この日々が、一日でも長く続きますように。

 そう願いながら、優しさに包まれて朧は眠りの世界に(いざな)われていった。