私が信様の屋敷にやって来てから少し経った頃。
つららちゃんや紅葉くん、他のあやかしの子達に支えられたお陰で私は回復する事ができた。
まだ心のどこかで裏切られてしまうのではないかという恐怖が湧いてくる時がある。
だけど、怯える私な信様はいつも寄り添ってくれた。

「陽子。何かあったらすぐに飛んでくるからね」
「ふふ。ありがとうございます。その言葉だけで充分嬉しいですわ」

実家にいる頃には考えられなかった穏やかな日々。こんなに誰かに大事にされるなんて久しぶりだった。
お母様が亡くなりお継母様と玲奈がやってきてからお父様は私に関心を無くした。家族を支えるただの道具としか見ていなかった。龍神の巫女になってからも、和正と結婚してからもそれは変わらなかった。
玲奈の我儘は何でも聞くのに、私には叱責し手が出る時もあった。
玲奈の様に着物なんて新しい物を買って貰ったこともない。婚姻の儀もお継母様が「玲奈の為の金を使うな」等と反対されてしまいあげる事ができなかった。

(あの頃からおかしかった。それでも和正のそばに居られれば良かった。でも、そのせいで簪を奪われてしまった…)

もう私を裏切った和正にも家族にも未練も何もなかったが、やはり気がかりなのは、形見の簪のことはもちろん、玲奈がしっかりと龍神の巫女としての務めを果たしているのか、まだいろいろ思うところがあって悩みは尽きない。
そして、一番の悩みは本当に私なんかが龍神様の花嫁になってもいいのかということだ。

「確かに承諾したけど、癒しの異能を失った私が本当に信様の花嫁になっていいのかしら…」
「大丈夫ですって!!ご主人様は、巫女だとか異能持ちとか関係なく陽子様自身を愛してくれているのですよ。だって…前者だったらアタシ達きっと陽子様に会えなかった…」
「だから自信を持ってください陽子様。大丈夫。ご主人様は貴女を身勝手な理由で手放す様な神様じゃない」
「つららちゃん…紅葉くん…」

龍神である信様を心から尊敬し支えているつららちゃん達。
つららちゃんと紅葉くんも私の様に住処を追われ傷ついていたところを信様に助けられていた。他のあやかし達も同じ様な境遇の子が多いらしい。

(少しでもいいから異能が残っていたら…)

もし、私があやかし達の守り手である彼の手助けが少しでもできたらと考えるが足手纏いになってしまわないか不安になってしまう。
本当に私は龍神の花嫁として務まるのか、その不安が日に日に膨らんでいった。


そんなある日、信様から見せたいものがあるから出かけようと申し出があった。断る理由はないからすぐに承諾した。
つららちゃんや紅葉くん、他のあやかし達はとても張り切りながら準備をしてくれていた。
あの衣桁にかけられていた花柄の着物に腕を通す。姿見に映る私を見てつららちゃんは息を呑んでいた。

「美し過ぎます…陽子様…」
「そ、そうかな?なんか恥ずかしい…」

こんなに立派な着物を着たのは久し振りなせいかどこか恥ずかしくて長く見ていられない。
髪も綺麗に櫛で梳かしてもらい、一本の三つ編みに結ってくれた。肩にかかった三つ編みとそっと撫でる。

(こんなに御洒落をしたのなんていつぶりだろう)

信様もここの屋敷に支えるあやかし達も、私をとても大事にしてくれる。けれど、慣れないせいか今まで玲奈が手に入れていた物を私が身に付けていることに戸惑ってしまう。
この着物が私に似合っているかどうかよく分からなかった。
準備を終えて信様の元に向かおうとした時、丁度彼が部屋にやって来てくれた。

「陽子。待たせてすまな…」
「あ、信様。こちらこそ遅くなってしまって…?」

着飾った私を見て言葉を失った信様はボソッと「嫌いだ」と呟いていた。無意識からくる言葉だろう。
呆気に取られている信様に紅葉くんが慌てて話しかけた。

「ちょ、ご主人様!しっかり」
「……へ?あ、あぁ、ごめん。陽子があまりにも素敵で美しかったもんだから…」

紅葉くんに話しかけられてようやく我に帰った信様は顔を赤らめながらあたふたしていた。相変わらず可愛い人だなって思ってしまった。
信様だってとても素敵だ。龍神の証である銀髪が太陽に照らされて初めて見た時より美しく見えた。

「それじゃ行こうか」
「はい」

私は差し出された信様の手を握り玄関へ向かう。

「それじゃいってくる。そんな遅くはならんと思うから」
「分かりました。いってらっしゃいませ」
「ご主人様〜!陽子様〜!!いってらっしゃい!!」
「フフ。いってきます」

使用人のあやかし達に「いってらっしゃいませ」と暖かく見送られながら出発した。
私は歩きながらこれから見せてくれるであろうものがどんなものなのか信様に質問してみた。とても素敵なものだと思うがやはり気になってしまう。

「あの…見せたいものってなんですか?」
「すぐに分かるよ。ずっと陽子に見せたかった秘密の場所なんだ。きっと気に入ってくれる」
(秘密の場所…どんなところかしら?)
「ごめん。ちょっといいかな?」
「え?きゃ」

突然抱き抱えられて思わず小さく悲鳴を上げてしまった。顔が熱くなってくる。

(私を助けてくれた時もこんな感じだったのかな?)

信様の顔が近くて恥ずかしい。直視できない。絶対顔が真っ赤になっている。
恥ずかしさを隠す為に私は慌てて信様の肩に手を回した。

「行くよ。しっかりつかまってて」
「は、はい!」

勢いよく私を抱き抱えた信様は空へ飛び立つ。
私は怖くなってぎゅっと目を瞑ってしまった。
空へ飛び立つなんて想像もしていなかったが、よくよく考えたら龍神は空は浮上するなんて容易いことだ。

(こ、怖い…!!)

すごく怖かった。でも…。

「大丈夫。怖がらなくていい。僕がそばにいる」

耳に囁かれた信様の声で少し恐怖心が和らぐ。とても信用できる声と言葉に私は信様に身を任せた。
つい、信様につかまる腕に力がこもってしまう。
冷たい朝の風が私達に吹き当たる。

「陽子。目を開けてみて」
「ん…」

言われた通りそっと目を開けると、視界に広がっているのは言葉に言い表せない美し過ぎる光景だった。

「すごい…」

地上では見ることのできない空から見る外の世界。村に居た頃には考えられなかったものばかりだった。
朝の澄んだ青空と太陽、綺麗な緑色(そび)えた山や木木(きぎ)、穏やかに流れる川、そして、宝石みたいな海面に映る太陽の輝かしい光。
久々に見た海がこんなにも美しかったなんて。

「ありがとうございます。とても素敵です」
「よかった。この素晴らしい自然をどうしても陽子に見せてあげたかった。きっと気に入ってくれるって」

この人に会わなければ見られなかった。この人の言葉を信じて良かったと心の底から思った。
龍神の巫女になった者は一生村から出ることはできない。だから外の世界を知ることを許されなかった。
けれど、こんなに素晴らしい光景を見て巫女でなくなったことを少しだけ感謝した。

「こんなに綺麗な光景は初めて。次は夕焼けも見てみたいです」
「僕も陽子とこうしてまた空が見たい。夕焼けも夜空も」
「私も信様と一緒がいいです」

お互い恥ずかしげに話したのが少しおかしくて思わず笑ってしまった。

「よし。次は、秘密の場所だ。まだ誰にも教えていない、春にしか現れない素晴らしい所だ」
「どんな所ですか?」
「僕と陽子の婚姻の儀を行うのに最適な場所さ。もう一度目を瞑って」

次はどんな所に連れて行ってくれるのだろうとドキドキしながら私は再度目を瞑る。きっと、この光景を同じくらい素敵な場所なんだろうと想像してしまう。
こんな風に誰かの側に居て楽しいと思ったことは久しぶりでとても幸せだった。
心地良い春の風が吹く。まるで私達を今から向かう場所へと(いざな)っている様な気がした。